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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[5047] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第122回
信徒連合 - 2016年09月13日 (火) 07時30分




谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――


@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』

A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』

★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。

******************




平岡初枝先生「子供を見つめて」より(33)





  真宗王国のお母さんたち



人間の本質は仏性である

人間の本質は肉体でなく、いのちである。生命は霊的実在であり、無限の善であり完全であり、神と同根であり、如来と同体であるというのが私たち「生命の教育」を主張するものの人間観であり、生長の家によって導かれた世界観であります。同時に児童観であります。しかし、私はここで難しい哲学的ないしは倫理的論拠について述べようとするのではなく、あくまでも日常の生活の指導によって変わる事実によって、皆さんに納得していただきたいとおもうのです。



<本当のあなたは神の子>

数年前、福井県へ巡講した時のことです。2月の実に寒い日でしたが、坂井郡の何とかいう部落で、村のお母さんたちを相手に2日間お話をしました。最初の日、それはたしか2月の12日でした。40歳前後と思われる一婦人が、綿をあつく入れた綿入着物を二枚も重ねた上に、上っぱりと襟巻をして、そのまた上にマントを頭からかぶって、はいって来たのです。私の前へ来られた時はマントだけは脱がれたが、あらわれ出でた髪はいつ櫛の歯を入れたのか、いつ顔をあらったのかさえうたがわれる姿でした。

そして、その婦人のおっしゃるには、
「先生、私は10日ばかり前に風邪を引きましたが、どうしても治りません。実は私の方は2月正月で今月が正月なのです。それで1月31日の晩、年越しだというので、家で風呂を沸かしてはいったのです。その時に風邪をひいたらしく、元旦の朝起きようとしてもどうしても起きられないのです。
しかし、それとも知らない私の母が……私を生んでくれた母です。私は養子取りなのです……私の枕元で『さあ、おきて宮詣りに行こう』といいました。私は『頭が痛くて行けない』といったので、母は一人で出かけました。そこまではよかったのですが、宮詣りから帰ってきたとたんに母が『ほんにまぁ正月の元旦というに宮詣り一つしないで……』と、つぶやいたのです。これをきいた私は、いつものくせが出て、カッとなったのです。そして飛び起きて『それじゃ、お寺へまいって来ます。お寶銭おくれ』といったのです。すると母は1円の硬貨を二枚くれました。私はもう一ぺんカッとなって、その二枚の硬貨を『こんなもん、これっぽっち』といって、母にぶつつけたのです。それ以来、私はどうにも気持がわるく、どうしても床を離れることができないのです。先生、私はこんなに悪い人間です。正月の元旦から母にお金をなげつけたり、ふだんでも直ぐに夫に口答えしたり、本当に悪いわるい人間なのです。先生、どうしたらこの悪い人間がよくなれるでしょうか。それを教えていただきたくて、今日は無理に床から起きてまいりました。どうぞ、教えて下さい、お願いいたします」

こんな言葉とともに涙さえうかべて、実に真剣なのです。私は、すばらしいと思ったのですが、その時私の口は思わずえらいことをいってしまったのです。

「そりゃ、あんた治らんわ、アホやで治りやしない。そのアホのことを親鶯聖人も『罪悪深重の凡夫じゃ』といわれたのです。そのアホは、なおらないね」

こう言ったので、彼女はもうガッカリ。気の毒なほどしょげてしまったのです。そこで私は、彼女をはげまして次のように話しました。

「奥さん、今いったように、そのアホはなおらないのです。しかし、あんたの中に、今話された言葉の中に、実に実に素晴らしいものがあるではありませんか。あんたは、その罪悪深重の凡夫をにくみいやがり、どうしたらこの我儘な自分をなおすことができるだろうと、風邪をひいて頭が痛くてたまらないあんたに打ちかって、この寒い風の中を、このつめたい雪の中を起きてくる素晴らしいあんたが、もう一人、いるではありませんか。
『罪悪深重の凡夫』の他に、もう一人、どうしたらよくなれるであろう、ああどうかして親にさからったり、夫に口答えするこのわるい自分をよくしたいと思う深い深い生命の底なる願いがあるではありませんか。

この尊い清い心を親鶯様は、
『仏性』
とおっしゃったのです。すなわち仏心です。神性とも言います。人間のいのちの底には、誰にもこの尊い仏心が植えつけられているのです。素晴らしい素晴らしい心が、植えつけられているのです。この心こそ神にも通じ、仏にも通ずるもの、普通には簡単に良心と呼ばれているもので、私たちがこの良心の命ずるところに従って行為した時、何となき魂の歓喜を感ずるし、その反対に良心のささやきを無視した行為をした場合、誰も知らなくとも、おもしろくない気持が心の底からわいてくるのです。すなわちこの良心は、誰の心の底にも深く植えつけられていて、常に私達の行為の批判というよりは指導者の役割をつとめているのです……」




<ほんものはどっちか>

「さて、ここまで来て問題となるのは、それでは人間には罪悪深重の凡夫と、仏心との二つの心が植えつけられているのか、それとも二つのうちどっちかがニセモノで、どっちかが本ものかということになるのであります。しかし、奥さん、心配は要りません。実はこの罪悪深重の凡夫がニセのあなたであり(私であって)、この仏心こそ本当の(私であり)あんたであるのだから、うれしいではありませんか。

では、どうしてニセと本当との区別ができるのか。あなたは、あなたの中の罪悪深重の凡夫の姿をいやがっていられる。正月の元旦から親にお金をなげつけたり、すぐにカッと腹を立てて、夫に口答えしたりする罪悪深重の凡夫の姿をいやがって、この寒空の中を風邪をひいているのもいとわずに来て下さったのです。それほど、ニセの自分をきらっていられるのです。

それほどいやでいやでたまらないのは、本来神からというか、大自然から、本当に人間に植えつけられているものではないからです。本当に植えつけられているものではなく、あとからまぎれ込んだものなのです。それを迷いというのです。本真物ではなく、迷いなのです。迷いですから、人によって、その迷いに深い浅いがあるわけです。すなわちあなたと同じ立場になっても、必ずみんなが腹たてたり、口答えするとはかぎっていません。

しかし深い浅いは別として、迷いにとらわれた時は必ず、あとであなたのように良心の批判を受け、悔む心を起こしたり、不愉快な気持におそわれたりするのです。神さまから植えつけられた本当の気持だけで生きることができたら、つまり迷い心を起こさなかったら、私たちは絶対、悔む心とか不愉快な気持とかに襲われることはないのです……」




<迷いはどこからくるのでしょう>

「もっとも、先日ある方にそんな話をしていたら、その方が『なるほど、それで仏性こそ神性こそ、本当のあなたであり私である、とおっしゃる先生の言葉がわかったようです。しかしそうなると、もう一つ私にはわからないことが出てきました。それは、神様というか、大自然というか、ともかく人間にそうした素晴らしい仏心を植えつけたものが、なぜにニセ者の迷い心が忍び込むすき、すなわち罪悪深重の凡夫の心を起こすすきを与えたのかと思われるのですが、この点いかがでしょうか』と問い詰めてきた方があったのです。

奥さん、おもしろいですね。あなたは話がよくわかるので、ついでに、この点も、お話いたしましょう……」




<あなたは完全な自由人>

「神様は、人間に素晴らしい仏心を植えつけて下さったが、それと同時に選択の絶対自由も植えつけて下さったのです。今日半日暇がある、勉強してもよいし映画を見に行ってもよい。同じ遊ぶにしても海へ行くのも山へ行くのも、どっちでもよい。遊びだけでない。食べ物でも、洋食でも和食でも、辛いものでも甘いものでも勝手に選べる。着るものも同じです。和服でも洋服でも、同じ和服でも、色や柄の好きなものを選ぶ絶対の自由が与えられているのです。

大体人間が裸で生まれたのは、この自由の上に立っての裸だから素晴らしいではありませんか。猫や犬やすべての動物は、みんな毛皮その他をまとって生まれてくるのです。それも白猫は白一色で黒猫は黒一色で彼らの一代は終りです。白を着たり、黒をつけたりする面白さも自由もありません。人間に自由が与えられているというのは、人間は最高につくられているということです。聖書には、人間は神に似せて創られた、と書いてあります。

つまり、神と同じであり最高につくられているというのは、この絶対の自由が与えられているということなのです。この自由は、もちろん単に衣食住の問題だけではありません。私たちの言葉や行為のすべてが、この自由に任せられているところに素晴らしさがあるのです。

同じく飢えたるものに食を与えるという善事でも、それをせずにいられない機械のように既に作られている人間だったら、その行為は善い行為ではあるが、たいして立派なものということはできません。しかし、その時与えてもよく、与えなくともよいという場合、さて与えようか与えまいかと、二者いずれを選ぶかという巌頭に立って、自己一身の立場からは相当の犠牲を払っても断然彼を救うというような善事は、彼の自由によって選ばれたものだけに実に尊い行為ということになるのです。

つまり、人間に迷い心が与えられたのではなく、人格の自由、行為の尊厳のために、神様からの贈りものです。どっちを選ぶか、それはあなたの自由であり、それが多彩な人間の運命をつくって行くのだから、おもしろいではありませんか」

私は、こんな話をしたのですが、これが「生命の教育」を主張する私たちの人間観、児童観の根本思想であることがおわかりになったと思うのです。

ついでに 迷いはニセの自分であり、仏心こそ本当の自分であることを、もっとはっきりわかってもらうために、病気の場合を考えてみることにしましょう。

普通私たちは、私たちの肉体について健康とともに病気もあるもの、つまり健康と病気が二つともあるもののように考えています。しかし、本当は健康だけが神さまから与えられた本物で 病気はニセモノなのです。その証拠には誰でも病気になると、病気をいやがり、早く治そうとして医者にかかったり、温泉に行ったり、ハリだ灸だと騒いだりします。すべての人が病気をいやがるのです。それは、病気が本来の姿ではないからです。本来の姿でなければ何なのか。それは、迷い心が形にあらわれたものなのです。

こう考えてゆくと、この世に嫌なものがたくさんあります。家庭内には、不幸不調和があって……夫婦がいがみ合ったり、親と子で争ったり、嫁と姑と合わなくて悩んだりしていますが、これらはみな、大自然からの贈りものではなくて、人間の迷い心のしわざなのです。たとえば、月の光が雲にさえぎられて一時的に見えなくなっているようなものです。

ですから、こうした不幸不調和は、すべての人が忌み嫌うのです。しかし、それはニセモノの雲に覆われて、月の光が現われていない消極的状態にすぎないのです。月さえあらわれれば、消えるほかない姿です。社会に闘争があり、世界に戦争があり、その他の忌まわしいことのあるのも同じです。これらもニセモノの心がのさばって、人間の本性が覆われている姿にすぎないのです。ホンモノは、どこまでも平和であり、幸福で健康で、仏心そのままの拝み合いの世界である、という徹底した明るい思想……これが、私たちの導かれた人生観、世界観なのです。

ところで、先の福井の一婦人のために、どんな結論を与えたのかも書かねばなりません。




<ざんげすれば清まる>

私はその婦人に言いました。
「あなたは、自分自身素晴らしい仏心の持ち主であることが、お分かりになりました。そして罪悪深重の凡夫と見えるものは、迷いのあなた、ニセのあなたであったことを、はっきりわかって下さったとおもいます。事実、罪悪深重の凡夫という言葉は、親鶯聖人様のお言葉には違いありませんが、それは本物の自分ではないと、次のような有名な文句を残していられるのです。

超世の悲願ききしより
吾等は生死の凡夫かは
有漏の微身はかわらねど
心は浄土にあそぶなり

これは、ひと口に言えば、人間の本体は仏のいのちであり、生死ものりこえた永遠の如来と同根であることを説いていられるのです。ところが後世、親鶯聖人のこの本心を知らずに、小慈小悲もない、つまらんつまらん人間が、南無阿弥陀仏の六字の名号を唱えたら、極楽の真ん中へ救いとってもらえるというような安易な説き方をする人さえ出てきたのです。

真宗王国といわれる、この北陸地方では私というものは罪悪深重の凡夫と、自らを低くいやしく評価している人もありますが、それは親鶯の本心を知らない人のいうことで、極楽へ救いとってもらえるのは、本来の私、つまり仏心だけです。否、この仏心は、もう既に誰でも救われている実体なのです。

しかし、そんな難しいことは、ここでは止めましょう。それよりは、今あなたが、ないはずの迷い心である罪悪深重の凡夫ととっくんで、苦しんでいられる。吾と吾が心を始末しかねて憂苦し慎悩していられる。つまり、地獄の責め苦にあえいでいられる。それをどうするか、ということです。しかし、今あなたは、それらがニセの自分だったとお分かりになったのです。ニセだとわかったらば放せばそれでよいのです。ニセの心ととっくんでいた心を解けば、よいのです。

もっとわかりよくいえば『ニセの自分をのさばらせていてわるかった、すまなかった』と深くざんげし、お母さんに対して犯した間違いはお母さんに 夫に対して犯した間違いは夫に、真に腹の底からお詫びすればよいのです。それを実際にやってごらんなさい。畳の上に両手をついて、頭を畳にすりつけて、詫びてごらんなさい。そのあとのすがすがしい気持ったらないのですから。それこそ、わるい夢からさめた時のあの心地です。月を覆うていたむら雲が、さっと晴れたあとのさわやかに光る月のように、明るい気持になるのですから……。ともかく、今日帰って実行して、本物のあなたになってから、明日もう一度、結果を報告にきて下さい」




<わかっていても>

翌日、再び訪ずれてくれた彼女は、もう素晴らしいものでした。風邪はどこへやら、髪もすっきりと梳きあげて、顔から襟にもかみそりまで当てて、年も十ばかりは若く見えるほどの変わりようです。私は思わず、賞讃しました。

「奥さん、やりましたね、えらい、えらい」
彼女は、うれしそうにして、話し出しました。
「先生、昨日はありがとうございました。お話をうかがっているうちに、仏心こそ本当の私だということが分かり、みにくい私はニセであり、その時の迷いであるということがわかったら、うれしくて嬉しくて、たまらなくなりました。『ああうれしい、ああうれしい。ほんに、このみぐるしい自分を嫌だと思う心が仏心だったのか。そして、その仏心こそ本当の自分であって、そのほかのものは、みんなニセの自分、ほっぺたについている墨のようなものであったのか。わかった、わかった』とおもったら、家に帰る時の足のかるかったこと。本当にたとえようのない悦びでした。

でも、家の敷居をまたいだとたんに、そうだった、過去の間違いを……あの正月元旦の迷いのおこないについて、お母さんにお詫びをしなければならなかったのだ。先生は『畳に手をついて、こうべを畳にすりつけてお詫びしなさい』と言われたのだった。お話をきいていた時は、仏心こそ本当の私であるとわからせてもらえた嬉しさで、そんなことぐらいは、ものの数ではないように思えたのに、家へ帰って、さあ、それを実行しなければならないのだと思った時は、何とも言えない大きな壁にぶっつかったような気持になったのです。そして、お詫びする機会をつかもうと思いながら……もう寝ましょうという時間になってしまったのです。

私の心は、あせりに焦りました。今夜中にお詫びしておいたら、今夜は楽に眠られるであろうに、と思うのです。ところが、どうにも実行する勇気が出ないのです。身もだえしながらも『今夜はできない』とあきらめて、電燈のスイッチを切りました。スイッチはパチンと私をあざけるような大きな音をたてました。私はくやしくて、蒲団の襟で涙をふきました。その時、平岡先生の顔が大きく私の目の前にひろがって『奥さん、仏心こそは本当のあんたであり、私なのですよ。それを私たちは、人間は神の子といい、仏の子ともいっているのですよ。植えつけられたそのままを生きたら、中から無限のよいもの素晴らしいものが出てくるのですよ』と言われたあの時の顔が、あの時の目が、じっとみつめていられるではありませんか。

私はぱっと起き上がって、電燈をつけました。すると隣室で床にもぐり込んでいたらしい母が声を出して、『お前、電燈をつけたり消したり何をしとるのや』と声をかけたのです。私は母の言葉をチャンスに『お母さん、正月の元旦から、すぐ腹立てたり、お母さんにお金をなげつけたりしたことが気持わるくて、何日たっても床を離れる気になれなかったが、今日、平岡という先生に相談したら“悪いとおもったら、お詫びしたらいいんですよ”と教えられて来たんです。それで帰る道から今までお詫びしよう、しようと思ったけれど、それがなかなかできなくて困っていたんです。お母さん、本当に私がわるかった、かんにんして下さい』とお詫びしました。

すると母は、いかにも気軽に、『なにをお前、親と子の仲や、わしはもう、とうにそんなこと忘れていたよ』といってくれました。そのとたんに、私の胸はスーツとして、風邪もどこへやらフッ飛んでしまったのであります。アハ……アハ……」いかにもうれしそうに笑われたのです。

これで、この話は終わったのですが、この婦人の話を通じて、私は皆さんに次の二点をはっきりとわかってもらいたいと思います。

一つは、人間の本質についてはっきりと識るということが、いかに大事なことであり、尊いことであるかということ。

もう一つは、どんな小さな善事でも、実行にうつすということは、いかに勇気の要るものかということです。




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