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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[5075] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第124回
信徒連合 - 2016年09月15日 (木) 07時20分


谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――


@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』

A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』

★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。

******************




「生長の家における体験談」についての清超先生の御見解!


(マサノブ君よ、よく拝聴すべし、そして脚下照顧せよ!)




    『生長の家』(昭和48年11月号)
      〜生長の家副総裁 谷口 清超 先生


皆さんは、私の論文の中で、いつも私が体験談をいかに重要視しているかを感受しておられることと思う。

それは、人間の体験には、理論では言い表せない重要な 「教え」 が含まれているからである。

人々はこうして人生を生きている。
 
この事実、そしてその行動や信仰によって或る種の結果を得たという事実は、多くの人々にとって貴重な 「教訓」 とならざるを得ないのである。

しかしここで注意しなければならない点は、その体験は、決して完結したものではないということである。 

人間の体験は、永続する。
 
この人生の生死の1周期を超えてそれは永続すると考えられるのだが、その信仰を抜きにしても、死者の体験ではない以上、
その人の体験はまだこれから死ぬまで続くのである。

ということは 「治った病気」 は再び復活して来るかも知れないということでもあり、生き返った肉体は最後には死ななければならないということでもある。

けれども、ある心から起った結果が、その心の変化によって、
こう変ったという事実は、そんなことは断じて否定されるものではない。

又、人間の心には自由があるから、堕落すること出来る  ―  と一応考えられるのである。

 しかし、ある程度の魂の段階に達すると、悪への堕落は“不可能”となる。
 
それは“自由を失う”という意味に於てではなく、
より一層“真に自由である”ために、堕落ではなくて向上の一途を辿るということである。

このようなとき、かつて救われた人の体験は、非常な安定性をもった教訓を吾々に与えてくれるのである。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




藤原敏之先生「全てを癒やす道」より(1)




真理は啞(おし)をも癒やす



 練成指導に明け暮れた12年

真理は絶対であり、谷口雅春先生のお説き下さるみ教えが素晴しいので、練成会でも大きな悩みや苦しみを抱えて参加する人々が例外なく救われ、悩みは解消し、どんな難病、業病もことごとく癒えるのであります。ただ身体の病気が良くなるばかりではなく、真理を体得せられるので、その喜びは格別で、世界中みな貰ったよりも、もっともっと大きな喜びとなります。生長の家は人間全体を救う教えであり、今、救われる教えであります。

 本部講師を拝命してからの私の過去の12年間は一貫して生長の家の練成による明け暮れでありました。その間ご縁のあった方々の数だけでも何万人であります。また個人指導を申し込まれてお会いした人々の数は何千人になると思います。またそれ以前の地方講師としての18年間に個人指導させて頂いたのを含めますと、優に万を越えるものと思います。

 本書でも、折に触れいくつかご紹介しますが、その間、指導した問題の内容も多種多様であります。涙なしには聞かれないような深刻なものから、笑い出したくなるような面白いものもあります。最近の傾向としては、やはり病気が圧倒的に多いようでありますが、その中でも神経系統の病気に悩んでいる人が一番多く見られます。その次に多いのが、子供さんの問題であります。病弱なお子さんをお持ちの方、知恵遅れ、勉強嫌い、学校へ行くのを嫌がる登校拒否の子供さん、万引きや盗み癖のあるお子さん等々、子供さんのことで泣いておられるお母さんが大変多いのであります。

 つぎに多いのが家庭問題であります。親子や夫婦の不調和、特にこの夫婦間の問題が多く、その次に多いのが経済問題であります。不況の関係で営業の不振や倒産などで苦しんでおられる方が非常に多いのであります。

 その次が交通事故や機械による事故の後遺症で悩んでおられる人が多くなっております。 よくもこんなに悩んだり苦しんだりしている人があるものだと不思議に思う位でありますが、人々の間にどれだけ生長の家の救いの手が待ち望まれているかということを今さらのように感じさせられます。




 母親と祖母が連れて来た啞(おし)の子

聖経『甘露の法雨』にもありますように、
 「神があらわるれば乃(すなわ)ち善となり、義となり、慈悲となり、調和おのずから備わり、一切の生物処を得て争うものなく、相食(あいは)むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし」
 とお教え頂いていますように、悪いものや不完全なものなどは存在しないのであります。

 真理が現成(げんじょう)し、無明(まよい)が無くなれば、啞(おし)でさえも目の前で消えて無くなるのであります。それは地方講師として活動しておりました昭和26年頃、広島県の呉に居た頃のことであります。

 ある朝のこと、玄関の戸が開く音がして、「ごめん下さい、ごめん下さい」という声がしますので出てみますと、年の頃55、6歳位の女の人と26、7歳位の女の人と男の子と3人連れで立っておられます。「どなたさまですか」とお尋ねしますと、「私達は音戸のものでございます。朝早くから誠にすみませんが、先生にお願いがあって参りました」と言われるので座敷に通し改めて聞いてみますと、その2人は男の子の母親と祖母ちゃんであることが判りました。

おばあちゃんの言うには、
 「この子は私の孫でございます。今7つになりますが、どういうものか、ものが言えないのです。本当なら今年小学校に上げなければならないのですが、啞のため普通の学校に入れないので、啞の学校に入れなければなりませんが、なにぶんにも幼いので手放すのも心配で困っておりましたところ、御近所の奥さんが、藤原先生の所に行って相談してみたらと勧めて下さいますので、思い切って連れてまいりました」という訳です。要するにその啞を私に治せと言うのであります。

 普通の人でありましたら、「冗談言うな」と言うところですが、私は、尊師谷口雅春先生から「人間は神の子であるから不完全な者など一人もいない」という尊い真理をお教え頂いておりますので、そんな啞などは断じておらないと信じております。

 「ああ、そうですか。啞はありませんよ」と言いました。

お祖母ちゃんは、
 「先生、この子は啞なんですよ。私が朝から晩まで『婆(ばば)言え、婆言え』と言っても何にも言わないのです。お菓子を与えては『マンマ言え、マンマ言え』と言っても全然何も言わないのです」と言うのです。

 「それは言えないようにしているものがあるからですよ」と言って諄々と話してあげました。人間は肉体ではない、生命であるということ。その生命が神の生命であり、自分の孫でも子でもない、神様からの授かりものであり、お預かりしている神の子である──ということをよく話してあげ、

 「神さまだから、啞の神さまなんかありませんよ。ちゃんとものを言っているけれども止めているものがあるから、言えないような姿が現れているだけなのですよ」と言って、この世はすべて心に思っていることが形に現れているので、みんな心の影であることを話しました。

 「お子さんがものを言えないのは、言ってはいけないという心の影が啞という姿になっているのです。あなた達、きっと他人にも言えない秘密を持っているのでしょう。この事ばかりは人に言えないという隠し事が原因となって、可哀想に言いたくても言えない啞となってこの子に現れているのです。ですから、私に何でも白状しなさい。打ち明けてしまいなさい。言って良いこと悪いこと位は私はちゃんと心得ていますよ。秘密は絶対に守りますから」
 と申しますと、子供を救いたい一心からボツボツ話し出したのであります。




 20年振りに戻ってきた夫を自殺に追いやる

「実は今から27、8年前になります。私の夫は大工でした。腕の立つ職人で稼ぎも良かったのですが、なにぶんにも大酒呑みで、毎晩のように酒場に通い、呑んでばかりおりましたが、その内に酒場の女とねんごろになり、とうとう二人で駆け落ちしてしまい、行方知れずとなってしまいました。残された私はこの娘が3歳、下の娘がまだ乳呑み児でどうすることも出来ず、それでも生きるためには必死の覚悟で働きました。働くといっても手に職はなく、赤ん坊を負っての日雇い稼ぎで、親子3人お粥をすすって生活しました。それでも幸病気もせず、娘も成長して、手助けもしてくれるようになり、そのうちにこの子には婿養子に来てくれる人があり、下の娘も貰って下さる方があって嫁いで行きました。

 私の方の荷が一遍に下りてやれやれと思っていた、ちょうど終戦の翌年のある日、それも夜中も過ぎて2時頃です。トントン、トントンと雨戸を叩く音にハッと目が覚め、耳を澄ましていると、風のあたる音ではなく、確かに誰かが、叩いているのです。電報なら『電報!電報!』と言って叩くはずですが、黙って叩いています。玄関に出て『どなた?どなた?』と声を掛けますが返事がありません。不審に思いながら戸を開けますと、暗闇の中に一人の老人が立っているではありませんか。驚いて『どなたさんですか』と尋ねますと、その老人は『わしよーッ』と言ったので、ハッとしました。20年前に私達を見捨てて出て行った夫だったのです」……

 その夫の姿を見た時忘れていた恨みが一遍に大波のように湧き起ったのです。「この馬鹿野郎、よくもぬけぬけと今頃帰って来てッ」と20年間の恨み憎しみの感情を思いっきり発散させて、ありったけの言葉で悪口雑言を浴びせ、「よくも帰って来たな、男なら恥を知れ、それでもお前は男か、一歩も家に入るな、絶対に人目につかぬよう今夜の中にこの島(倉橋島)から出て行け」とまるで自分の島のように言って、お茶の一杯も飲ませず追い出したそうであります。夫は痩せ衰え「す**とをしたよ。何と言われても仕方がない。戻れた義理でも何でもないが、何分にも町では食べるものが無くて、とうとう栄養失調になり、身体が動かなくなり、働くに働けず、倒れてしまったら薄情な女は、わしを捨てて逃げてしまった。一人になったわしはどうすることも出来ず、その場でひと思いに死のうと決心したが、その時思い出したのは生れ故郷のことだった。残していったお前達があの戦争でどうなったか、生きていたら一目遭って、ことわりしてから死のうと人目をはばかりながら夜中にこっそり帰って来た。どうか赦しておくれ」と泣いて詫びているのに、薄情にも親子二人で追い出したというのであります。娘さんの方も気が強くお父さんに向って「お前のような奴、親でも子でもない。さっさと出て行け」とののしりながら追い出したのです。夫は泣きながら暗闇の中へ消えて行きました。それっきり雨戸を閉めて寝てしまったというのであります。

 明くる日の新聞の夕刊に、身元不明の老人の水死体が音戸の瀬戸に打ち上げられたという記事が載っていました。それを見て二人は顔を見合わせて、親爺は海に飛び込んで死んだとわかったのですが、名乗り出もせず、死体も引き取りにも行かず、いまだにそのままにしており「大方、共同墓地にでも埋めて貰っているのでしょう」と言っておりました。そのことを知っておりながら一言も他人に言わず“言ってはならん。言ってはならん”と隠し通していると話してくれたのであります。

 仏教の経典にありますように、さすがに因果くらまさずで、法則を曲げることは出来ないのであります。かわいい孫や子供が啞になって親も子も苦しまなければならない結果は、このように明確に現れているのであります。




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