| [5099] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第126回 |
- 信徒連合 - 2016年09月17日 (土) 08時25分
谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――
@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』
A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』
★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。
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藤原敏之先生「全てを癒やす道」より(3)
最高の幸福を得るには
生長の家は過去・現在・未来を救う
私は若い頃から『人生とは何か?』『人生の目的とは一体何であろうか?』という根本問題について考え抜き、それを発見するためにあらゆる努力を続けたのですが、どうしても解らず、長い間悩み続け解決出来ずにいたのであります。
ところが、今から31年前に、有難い御縁をいただき、この世界最高の教えであり、絶対の真理である「生長の家」のみ教えを体得する機会に恵まれ、救われた一人であります。
「生長の家」のみ教えが、どこがどんなに素晴らしいかと言いますと、その目的とするところが「人生の目的と」一致しているからであります。“人生の目的”と“宗教の目的”とが一致しないようでは、それは人間に縁のない教えとなり、人間社会においては発展しないのであります。
宗教も大きく分けますと、何千年も前から続いている仏教やキリスト教などにみられる既成宗教もあれば、もう一つは明治維新以後に生れた新興宗教もあります。そしてその中には、救いを未来(死後)にかけるものと現世の救い、現世に御利益を求める御利益信仰とがあります。
救いを未来にかける宗教では、「宿世・前世の悪業のために、今世では苦しむほかはない」「今世での救いは叶わない」「信心するものだけが未来・極楽天国に生れることができる」と説いているのであります。
また、一方の現世に於いて利益を求める方では、その宗教で拝む御本尊様をお祀りして、信心し、一心におすがりすれば、おかげを頂き、困ったことや、心配を取り除いてもらえるというような現世利益を種にいろいろの不安や悩みにおののく大衆を魅(ひ)きつけていこうとするものであります。
しかし、このどちらの救いも、相対的な救いでありまして、真実の救いとはならず、本当の安心を得ることは出来ないのであります。
「生長の家」は、未来(死後)の救いが目的でもなく、又現世の幸せだけが得られるというのでもなく、過去も現在も未来も三世を通しての救いであり、根本的な解決法なのであります。部分的な救いでなく、絶対的な救いであります。そこが生長の家の本当に素晴らしいところであり、超宗教といわれるところであります。
どんな高尚な理論であっても、本当の救いを現すことができないような空理空論では、“無用の長物”として、世の中から葬り去られるほかはないのであります。
誰でも幸福になりたいのに……
さて、“人生の目的とは一体何であるか?”とよく考えてみますと、ちょっとわかり難いのであります。毎日三度三度食事をして、その上、間食までするから、人生の目的は食うことにあるかと思うと、どうもそうではないらしいのであります。
毎日7時間も8時間も寝て、その上昼寝までする人があるから、人生の目的は寝ることにあるかと思うと、どうも寝ることでもないらしい。
年頃になると、男女互いに異性が恋しくなり、なんとなく関心が強くなり、だんだん好きになり、ついに結婚し、何人か子供を産み、子供を育てることに追い回され、ついに年老いて死んでいくので、人生の目的は子供をつくることかと考えてみると、どうもそうでもないらしい。
毎日毎日金儲け金儲けと朝から晩まで目の色を変えて、あくせくやっているから、人生の目的は金儲けにあるのかと考えてみると、どうもそうでもないらしい。
ではいったい人生の目的は何か?とよくよく考えていくと、それは幸福の追求にあるということがわかるのであります。なぜかと言いますと、“幸福の追求”こそは万人共通であり、一人の異論を唱える人もいないからです。
私は色々な人に、「あなたは幸福になりたいですか?」と聞きますと、みんな「当り前だよ」と言って怒られます。「ははあ、やっぱり幸福になりたいのだナー」と思って、今度は、「あなたはさぞかし幸福でしょうねー」と聞きますと、また怒られます。「冗談じゃない。私ほど不幸な者がまたとこの世にあるかね」と。
また、別の人に「あなたは幸福でしょうね」と聞くと、たまに「まあまあですわ」と言う人があります。またほんの少しの方が、「ハイ幸福です」と言われるから“それは良かったナー」と思っていると、後から、「けれども」と言われます。けれどもが付く時は“幸福とは申しましたけれども、ほんの少し困ったことが……”という時に付けることばであります。
この様に、全ての人が幸福を切に求め、願っているにもかかわらず、大部分の人が不幸であり、ほんの少しの人が、“まあまあ“付きや“けれども“付き位しかないということは一体何故でしょうか。ここに問題があるのです。
不足を満たすだけでは幸福になれない
それは、幸福を求め、願いながらも“幸福”なるものの実体、本当の幸福とはどういうものかを知らないからであります。それは“幸福なるもの”の影、言い換えると幸福になるための条件を追い求めているだけだからであります。
大抵の人は“幸福とは条件である”と思い違いをしているのであります。病弱の人は“健康”を願い、経済的に貧しい人は“物質的な豊かさ”を追い求め、地位のない人は“地位を……”という具合に何か不足しているものを探しては“これではまだ不幸だ”と不足した条件を満たすことのみに、汲々として、足ることを知らず、“不幸だ”“不幸だ”と嘆くのであります。これでは幸福になりようがないのであります。
人間が宗教や信仰を求めるのは、その根底に“幸福”を願うからでありますが、宗教ではこの幸福な生活が出来る世界を、極楽とか、天国とか言っております。仏教信者は極楽行きを願って信心し、キリスト教徒は天国行きを願って信仰するのであります。
極楽とか、天国とかいうところは、どんなところかと言いますと、困るものや苦しむものがぜんぜん無いところの理想世界をいうのであります。楽しみだけの世界であります。一般の人は“一体そんな世界があるのだろうか?”と納得ゆかない方も多いだろうと思いますが、生長の家のみ教えは、地上天国建設が目的であり、単に理想として掲げただけの夢のようなものではなく、実現せずにはおかないという絶対的な悲願であり、また事実、着々と実現しているのであります。
理想として掲げ、心に描くだけなら簡単で、言うだけなら何でもありませんが、そんなものには何の価値もありません。本当の救いが実現し、証明せられ、裏付けがあってこそ、本当の値打ちがあります。
生長の家の素晴らしさは、このようなところにもあります。死んでから極楽、天国では、気休めになり、無いよりはましですが、あまり現実的な価値はありません。
それでは、一見実現不可能と思われることがどうして可能となり、救いが実証されるのであるかということを、谷口雅春先生のお説き下さる「生命の実相」の真理に従って、述べてみたいと思うのであります。
ホンモノの幸福とは何か
幸福を願い求める以上は,いったい“幸福とは何か”ということから究(きわ)めていくことが第一であります。“幸福”が何であるかも解らず、ただ漠然と捜し求めていても、“幸福”になりようがないのです。
私は、よく例えていうのですが、東京の伯母さんが居るということだけ聞いて、それではその伯母さんに会ってみようと思い立って東京に行って、東京中をうろつき回ってみても、所詮伯母さんに会うことは出来ないでしょう。伯母さんは何処に住んでいるかという“在り所(か)”を知らなければ、第一探しようもありません。居場所を知らない、顔も知らない、判っているのは“東京に居るそうだ“だけでは絶対に探し当てることは出来ないのです。第一顔を知らなければ、仮に会っていたとしても“どこのどなたかナー」で終りです。せめて住所だけでもわかれば、探し当てられましょうし、また、顔を知っておれば、偶然に出会っても、「叔母さんじゃありませんか?」と名乗ることもできるのです。
幸福でも同じことです。幸福の正体を知らなければ、幸福のど真中に居ても気が付かないで見逃してしまうことになるのであります。
多くの人が“幸福”“幸福”と切実に求めながら、いっこうに幸福にならないで、“不幸だ”“不幸だ”と嘆いておられるのは、このようなとこからも来ているのであります。
そこで、その“本物の幸福とは一体何か・”ということですが、多くの人の求めている幸福は、幸福の影である条件を“幸福”と間違えておられることが多いのであります。果たして皆様が考えておられるような条件が幸福だとすれば、条件の整っている人はみんな幸福であるはずです。
私は練成会にご参加下さる方に、よくお尋ねするのですが、「あなたは今何が一番欲しいですか?」と訊くと、身体の弱い人や、御病気に人はきまって、「ハイ、身体さえ丈夫になれば何も要りません」と答えられます。
それでは身体の健康な方は何も必用なしで満足しておられるかと思って、「あなたはお身体が丈夫なようですから、何も要らないでしょうね?」と申しますと、「冗談言うな。これがうんと欲しいわい」と言って、手の指を丸くして差し出されます。どうも“お金がほしい”ということらしい。それでは身体も健康で、お金にも不自由していない方に、「あなたこそ、身体はお丈夫だし、財産もおありだから、もう何も要らないでしょう?」と尋ねると、「いえいえ私も一辺位市会議員ぐらいにはなりたいですわ」とか、また「せめて課長まで位はなりたいわな」と言われる。または、「女房がもっと優しい気の付く女になってくれたら……」とか「主人が思いやりのある、温かい主人であったら……」とか、「子供がもっと素直で、よく勉強してくれたら……」と必ずと言っていいほど、「どうなったら──」「こうなれば──」と次から次と出て来るのであります。
皆様、お金や財産が沢山あって、豊かな生活が幸福なのであれば、世の中のお金持ちはみんな幸福であるはずであります。ところが問題があり、不幸だと泣いて来られる人の中には、経済的には何の不自由もないというような中流以上の、どちらかというと財産家と言われるような人の方が多いのです。ご主人が亡くなり、遺産の相続問題等で話し合いがつかず、裁判まで持ち込んで、親兄弟が“血で血を洗う”といった醜い争いをしているような家庭はみんな財産があり余るほどあるからです。貧乏たれで、死んだら何も残らないというような家に財産のことで揉めることなど絶対にありません。
また三角関係や二号騒ぎで泣いて相談に来られるご家庭でも、みんな裕福な人ばかりです。貧乏で食うや食わずで妾(めかけ)をつくっていたという話を、聞いたことがありません。
健康でもその通りです。健康なために不幸になり、苦しんでいる人は沢山います。誰かと喧嘩して相手に怪我をさせ、暴行傷害罪で訴えられなければならないような人は、みんな人並み外れて健康であり、元気が溢れているような人です。私のようなひ弱な体格では、喧嘩をすれば負けるに決まっているから絶対に手を出しません。相手の方が悪いと思っても、先に謝っておくので喧嘩になりません。やはり体力に自信があり過ぎるため、つい相手が生意気な態度に出れば、我慢出来なくて「やるか、外に出ろ!!」ということになるでしょう。病気で寝ていては喧嘩は出来ません。
三角関係や妾の問題でも、主人が健康で元気が有り余って、精力的で奥様一人では満足出来ない程の人に起きることです。病気で寝たり起きたりしていて、二号も愛人も聞いたことはありません。
また、名誉や地位があれば幸福かと言いますと、収賄罪などで検挙されたり、刑務所に繋がれたりする人なども、地位が有ったために乗ぜられ、取り返しのつかない羽目に陥るのであります。 こうして考え、眺めてみますと、一体何が幸福であるのかと全然分らなくなります。ただ一つハッキリ言えることは、幸福とは条件ではなく、その人、その人の心にあるということが解るのであります。
自動車でも、幾ら優秀なエンジンや部品を取り揃えた高級車であっても、その車を運転する運転者次第ではスピードを出し過ぎたために大きな事故に繋がり不幸な目に遭うことも大いにあります。それは自動車という乗物に幸、不幸があるのではなく、乗るその人にあるのです。
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