| [5133] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第128回 |
- 信徒連合 - 2016年09月19日 (月) 07時56分
谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――
@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』
A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』
★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。
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藤原敏之先生「全てを癒やす道」より(5)信こそすべて
──私の体験から──
絶体絶命のはてに
私は昭和21年月末に中支から復員し、休職中の会社に復職、広島県尾道市の支店(営業所)の管理職で赴任しました。勝つものと信じていた戦争には敗け、食料は無い、何も彼も無いものづくし、三千年の歴史に輝く日本国の前途に対しても何の見通しも立たない。占領軍の意のままに、伝統も習慣も全部変えられていく、日本の進路はもちろん、国民の生きてゆく方針も理想も、すべてを失ったのですから希望も喜びもあるはずもありません。敗戦によって傷ついた心で、ただその日その日を生きているというだけの毎日でした。生きているというよりも棲息と言った方が一番当てはまるかも知れません。まるで、水を失った魚同然です。このように失意の状態にあったとき、はからずも生長の家のみ教えに御縁を頂くことが出来たのです。
この前に出版して頂いた『あなたは必ず救われる』という本に、かなり詳しく書いておきました通りです。私は少年時代から、人生問題に真剣に取り組み“人生とは何か”“人生を如何に生くべきか”“争いのない平和な生活を送るにはどうすればよいかといった問題、また生来身体が弱く、医者と薬なしでは生きて行けないという、実に不安な人生に悩み、何遍か自殺も決意し計画もしました。精神修養になることは片っ端から手掛け、自分に納得いくまで徹底して実行しました。下座行が良いと聞けば直ぐに飛び込んでやりました。宗教という宗教も殆ど関係しないものが無い位一通り経験しました。それも良い加減にというのではなく、徹底してやりました。世間の人は私のことを、少年時代から考え込んでばかりいるので神経衰弱だと言い、青年期にかけて私のことを“気狂(きちが)い”“気狂い”と言っておりました。何でも徹底的に究明し、腹の底から納得出来て結論が得られるまで、食うことも寝ることも忘れるほどやるので、一般の人は気狂い扱いにしてしまいました。
専門的に勉強したのは仏教でしたが、少年時代から親鸞聖人を尊敬し憧れておりましたので、仏教学院で勉強しました。本当の救いとは何か、本当の安心は如何にすれば得られるかに心血を注いだのです。しかしどうしても相対の救いしか教えて貰えるところが無く、多くは死後の救い、未来の極楽往生だけで現実の救いも根本的な救いの道も教えて貰えるところが無く、求道に疲れ果てて、半ば諦めておりました時に、世界最高のみ教えである生長の家に導かれたのです。
自分の力の限界と、努力の限界が解り、絶体絶命どうすることも出来ないという切羽詰まった状態のときに示された真理の一言は理屈ではありません。お腹が減り切っている時に出された一杯の御飯は旨いも旨く無いもありません。ただ呑み込むしかありません。私が初めて生長の家のみ教えを聞いた時の精神状態はまさにその通りであります。人間は神の子だ、そのほかの何ものでもない。肉体は道具であり、容(い)れ物だ、その肉体さえも造り、肉体を使って生きている生命こそは本物の人間であり、その生命が宇宙さえも造り、かくあらしめている不可思議霊妙なる神の生命そのものであり、人間の本体は神そのものであると教えられたときの驚き、全く驚天動地というのはこのことであろうと思います。
今の今まで、人間は肉体である、肉体は生身だから病むこともある、死もあると思い込んでいたのが、人間なるものの本性が神であり永遠の生き通しの生命そのものであると解ったのでありますから、まさに飛び上がらんばかりの転身であります。ただ泣きました。「人間神の子」の一言で新生したのです。世界も変りました。見るものことごとく神の生命であり、神であります。肉の世界から、生命の世界へ、人間の世界から神の世界へ、現象の世界から実相の世界へと超入したのであります。
私だとばかり思っていたのが神様であったのです。神様は病気しない。神様に不可能はない。神様は困らない。この大自覚と絶対的な自信に到達したのでありますから、、それ以来何が起っても困ることはない自分にならせて頂いたのであります。一切合財(いっさいがっさい)神から授かりものであり、神からの賜わりもの以外は無かったと気付かせて頂いたのですから有難くないもの等あるはずがありません。あるのは喜びであり、感謝であり、満足以外になくなったのです。それ以来、三十一年病気で休んだことは一度もありません。一服の薬の御厄介にもなりません。谷口雅春先生のお説き下さる真理が絶対であり、ただの空理空論でなく、単なる理想論でもないことがお解りいただけると思います。
この私の体験を通してみ教えをお取り次ぎさせて頂きますと、これまた不思議に医学や常識では絶対に治らないという難病奇病も次々に姿を消し、癒やされるのであります。これだけは到底解決の方法は無いとせられた難問題もスラスラ解決するのです。啞(おし)がものを言う、何十年の分裂症が全治する、何年も立たなかった足が立つようになる。長年の盲が目が見えるようになる……など奇跡というより仕方のないことが続々と現れるのです。これをみても人間の常識なんて、本当に当てにならぬものだということが解ります。
永久歯が二度はえた!
私は入信2年目に幹部のお勧めによって、地方講師試験を受け講師を拝命致しました。講師になって間もない頃の体験ですが、現在34歳になる次男が小学校1年生のころの出来事であります。この子は生れた時から大きな体格をしておりまして、体重が1貫100匁(4100c)もあり、その後も順調に発達致しまして、1年生の時3年生といっても通る位の体格をしておりました。
乳歯から永久歯にはえ換わるのも早く、1年生の時には上の門歯が2本ともはえ換わっていました。ある日、学校から口を押えて泣きながら帰って来たのです。びっくりして、どうしたのかと訊くと、学校の運動場で遊んでいて授業が始まるので教室に入るとき、校舎の入口の近くにある手洗い場の水道の蛇口から水を口飲みしているところを、友達が後から思いっきり頭を突いたので生えたばかりの向う歯(門歯)が2本内側に折れ込んでしまったのです。見れば2本ともグラグラになり血が出ているではありませんか。いろいろ手を尽しましたが、結局2本とも抜けてしまい、大きな隙間が出来てしまったのです。
家内に「この歯はこの間抜けて生え換わった歯ではないか」と尋ねますと「そうです」と言います。私も確かに乳歯がグラグラになって、すぐにも取れそうになっているのに「痛い痛い」と言っているので「どれちょっと見てあげよう」と言って歯にちょっと触ったら、ポロッと取れてしまい抜いてやったのを覚えていましたので、“それでは今抜けた前歯は永久歯ではないか。永久歯が抜けたら二度と生えないだろう。これは入れ歯(義歯)をしてやらなければいけないな”と思ったのであります。これが常識です。
ところが信仰の世界では、この常識の世界を超越するのです。随分無茶だと思われるかも知れませんが、私はその頃生長の家のみ教えにふれて真理を体得させて頂いて2年目であり、地方講師という尊い使命を拝命した直後で、感激そのもののような毎日でしたので、その瞬間にハッと常識を否定したのです。
「イヤイヤそんなはずはない、神様は何もない所からこの脳髄を初め、心臓も肺臓もその他ことごとくの内臓器官をお造りになり、眼も耳も鼻も口もこの歯までもちゃんとお造りになったのではないか。この子には歯は絶対必要なのだ。神様は必要なものなら必ずお造りになられるのだ。歯の1本や2本ぐらい必ず下さるーッ」と強く心に念じて“ありがとうございます。ありがとうございます。歯は既に頂きました。ありがとうございます。ありがとうございます”と一心に念じて、それ以来歯のことなど一切心配しないでいたのであります。
ところがそれから約1年経って左の方の1本が生えたのであります。その間一切気にしないで忘れていたのであります。 それから更に1年余りたって3年目です。ちょうど11月22日谷口雅春先生の御生誕記念日で当時私の家の2階を道場として早朝神想観や日曜誌友会、青年会等の集まりをやっておりましたので、当日も私の家に呉市の信徒が集まって祝賀講演会、引続いて御祝いの行事もあり、信徒の方々がかわるがわる立って、歌う者、踊る者、それぞれ余興に打ち興じておりました。
その時当時小学校の3年生になっていた私の子供も余興に出ました。ところが前歯が1本抜けているのでそこから息が漏れて、話す言葉が幾分聞きとり難いところがあります。それで私は“あれからもう3年も経ったのに、未だ歯が生えない。これでは学校で本を読むにしても歌を歌うにしても困るのではないかな”と思い“思い切って義歯を入れてやらなければならないかなー”と思ったのであります。がまた、その後から、“いやいや神様に不可能はない。必要なものは必ず下さる。1本生えたのだもの、後の1本は必ず生える”と私の心配と疑いの念(思い)を打ち消し、“必ず下さる。既に頂いている”と強く念じて、またそのまま忘れていたのであります。
それから約一ヶ月位経ったでしょうか。子供が「上の歯茎が痛い」と言い出しましたので、私は「何か堅いものでもかじったのではないか」と訊くと「そんなことはない」という。 「なに大丈夫ほっとけ、治る。治る」と言っておりましたところ、痛いはずです。3年も固まった歯茎を破って白い歯が見え出し、ついに立派な歯が生えたのであります。大人でも“親知らず”が生えるときは発熱して寝込む人さえある位ですから、さぞかし痛かったのであろうと後で思ったことでした。
こうして3回目の歯が2本とも生えて、現在もその歯で健在で健在であります。この体験は副総裁谷口清超先生の『愛は凡てを癒す』(谷口清超人生論集2・日本教文社刊)という御本の中に、私の体験談として紹介して頂いております。
昨年の秋、大阪の阿倍野道場での講演で、この話を致しましたところ、講演が終って控え室でお茶を頂いておりましたら、40歳余りの男の方が入って来られて、「さっきの話、あれは本当ですか?」と訊かれるので、「本当も嘘もありますか。今、現に西宮市の仁川に本人がおりますよ」と言いましたら「ヘェ―」と目を丸くなさって「ぼくは歯医者ですよ、専門ですよ。今世界中で、3回目の歯が生えたという例はありませんよ。石灰質の固まりが出来たというくらいはたまにありますが、永久歯が抜けて生え換わったという例は絶対にない」と言われたのであります。
私は今でも別段不思議な出来事であるとは思っていません。キリストは「芥子種(からしだね)ほどの信仰だにあらばこの山に動いて海に入れと言わば即ち入らん」と教えています。谷口雅春先生は「神において能(あた)わざるはなし」とお教え頂きます。“これはちょっと難しいであろう”などと思うときは既に神を離れ、神を忘れて自分の考えや常識に照らして観ている時です。本当の神を観ないで心に空想し、心に描いただけの神を思っている時です。
これは神がすべてのすべてであり、神は一切の根源であり、神以外の何ものも存在しないという超実在としての神を観ていない証拠であります。相対の神を心に描き、客観的な神を認めようとし、神様を自分に都合のよい生活をするための利用機関か、困ったときに頼みに行く協力機関くらいに考えている人が沢山あります。それで「私は神を信じております」と言われますが、それは信じているのではありません。内容を良く分析してみると、信頼する心であり、強くあてにしているだけの心であります。
宗教が気休めであってはならない
信とは絶対であり、自分の都合が全然皆無になることです。これを無我全托と申します。また帰命ともいいます。帰命とは、字の通り“命を帰す”ことであります。自分の生命がなくなり神の生命のみがあると自覚したとき、全部神からの賜わりものとなるから、善いも悪いもない絶対善の世界を発見します。ですから一切都合がなくなる。都合がなくなれば困ることもない。不足もない。不足がないものを満足といい、満足のみの世界を極楽とか天国というのです。このような世界に住む人を自由人といいます。
宗教の目的は、あらゆる人間の苦しみや悩みから完全に解放して、完全自由を与えることにあるのです。悪い条件を良い条件に変えて都合のよい生活をさせるためにあるのではありません。目先だけの、見せかけの、やがて失うような一時的な幸福を与えることではなく、永遠に変わることのない幸福(満足感)を与え、悩みや苦しみの根元を絶つことにあるのです。ここにおいて人生の根本目的と宗教の究極の目的とする所が一致するのであります。
そうでなければ別段宗教なんかなくても普通に生活するくらいは誰でも出来ますから、宗教に耳を貸そうとする人が少ないのです。 一般に宗教に関心のある人が少ないのは、大衆が悪いのではなく、どうでもよいような、いわゆる気休め的な教えを説いている宗教家の方に責任があると私は思います。宗教が真にすべての人間の願望を成就するものと解り、そのことを実証したならば、おのずから集って来るはずであります。それはちょうど砂糖や蜜が有れば、呼ばなくても蟻が群り集まる如く、花が咲いていれば、それがたとえどんな山の奥にひっそり咲いていても必ず蝶々や蜂が飛んで行くように、宗教が真に人間を幸福に導く力を発揮するとき、必ず発展するのであります。
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