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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[5219] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第133回
信徒連合 - 2016年09月24日 (土) 08時45分



谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――


@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』

A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』

★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。

******************




藤原敏之先生「全てを癒やす道」より(9)




 神以外のものは何もない

救いの根本は、神を顕わす以外にありません。生長の家のみ教えの基本となり、根底となるものは数多くの神示であり、聖経であります。谷口雅春先生がお書き下さった『生命の實相』全巻は勿論、神様の声なき声(真理)を私共にわかるようにお示し頂いたものでありますが、特に神示として御発表頂いたものや、御聖経(詩の形式)となったものは神霊のひびきそのものであり、神の直々のお言葉であります。

その聖経『甘露の法雨』の中に、いろいろの真理が示されてあり、いずれも尊いものばかりでありますが、特に「神」の項に、
 「神こそ渾(すべ)ての渾て、神は渾てにましまして絶対なるが故に、神の外にあるものなし。神は実在のすべてを蔽う。散在するものにして 神よって造られざるものなし」 とあります。

 このこと一つが魂の底から納得せられ、自覚出来れば万事解決するのであります。人間が悩むとか苦しむというのは、このお言葉を単なる文章としてだけ受け止め、生命で受け止めていない証拠であります。神以外の自分があり、神以外の人間があり、神以外のものがあり、神以外の出来事があると思い違いしているからであります。神一元に徹し、すべてを神に帰一したとき、一切の悪は、完全に消滅するのであります。

このことは『甘露の法雨』では
「神があらわれれば乃(すなわ)ち、善となり、義となり、慈悲となり、調和おのずから備わり、一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく、病むものなく、乏しきものなし」とお示し下さっております。

 ここにお示し頂いたように、救いが現れないで、悩んだり苦しんだりするということは、取りも直さず、神を押し込めてしまって現さないようにしているということであります。電燈にカバーをかけて、部屋を暗くしているようなものであり、それでは救われようがないのであります。救われるとは、あるかの如く現れている悪いものを、何らかの方法でなくすることではなく、本来無い悪をもとの善なる姿にすることであります。それは無いものを無いと否定する以外にはありません。

 信仰とは虚のもの(現象)の否定の連続であり、否定し切ったとき実相の完全さのみが現われるのであります。谷口雅春先生は、神とは自己否定の極致であり、実相とは現象否定の極致であるとお説き下さいます。ここが最も大切なところであります。こころ処を抜きにして、救われようと願うことは、電源にスイッチを入れないで電燈を明るくしようと願っているようなものであり
ます。電球の力で灯るのではなく、電源から供給されている電力によって灯っているように自分の力で生きているのでも自分の努力でしているのでもなかった。すべて神様からの恵みによるものであったと全面的に神に帰依し、投げ出すとき救いは成就するのであります。




「わかる」より「信じて行ずる」

 私共のところに、「どうしても分りませんが、どうしたら分るでしょうか?」と聞きに来られる方や、また、「長い間生長の家で本も沢山読み、お話を何遍も聞いて、何もかもよく分っているのですが、少しも善くならないのは何故ですか?」と訪ねて来られる方がよくあります。

 こんな方に私は、「分ってどうされるのですか?宗教学者になられるのですか?それとも評論家になられるのですか?」とお尋ねします。「宗教は覚えることでも識(し)ることでもありませんよ。信じることですよ。生活することですよ」と申します。宗教の根本は信であり、信とは実感であって、味のようなものであります。味というものは他人の説明や話では絶対に分ることではありません。自ら食し、自ら体験する以外に方法はありません。身体で行じ、実践する以外にありません。声なき声を聞き姿なき姿を見るのでありますから、他人から教えられただけで体得することは出来ません。お話や文章は、参考にはなりますが、直接の救いとはなりません。真理は絶対でありますから、表現出来るものではないのです。

表現したものは全て方便であります。真理は表現出来ないから教えることも出来ません。結局は自得する以外にありません。味を覚えるには食べる以外に方法がないのと同じであります。

 求道において最も大切なのは、礼拝行であり、拝み切ることであります。神に見えるまで拝み切る行であります。真剣に生命がけで拝み切ったとき、拝むことさえ出来ない自分を発見します。その絶体絶命の境地の中から、神を見ることが出来るのです。生長の家はただ合掌し、ただ感謝する教えであります。拝まなければならないのではなく、拝まずにはいられなくなる教えであります。それは人間なるものの正体が明らかになり、本当の自分を発見するからであります。

真の我を発見し、自覚するとき、拝まずにはいられなくなり、拝まずにはいられなくなったとき、腹の底から満足感が湧き、喜びが生まれるのであります。そこが天国であり、極楽であります。救われることを願う必要さえなくなるのであります。

 人間は本来神の子であり、神でありますから、願う自由は与えられているのであります。悪や不完全なものから逃れて、完全な姿にかえりたいと願う心が起るのは、自我や欲望ではなく内在の神性が顕現しようとする働きでありまして、この願いがそのまま尊いのであります。私達は常に神想観を怠らず、素直にその内なる願いに耳を傾け、その声に従うことが大切であります。自我から出発したものは、欲望であり、欲求でありますから、必ず苦痛を伴います。

苦痛を伴うものは、無明でありますから、そのようなものは極力否定し、相手にならないように努め、常に真実の願いに向って前進することが最も肝腎であります。苦痛や後悔を伴なうことは、無明でありますから、断じて妥協してはなりません。真剣な願いは神意の顕現でありますから、例えどのような結果になっても後悔などありません。一時悪い結果が現れたように見えても、それはより完全へと進む過程でありますから、そんなものに動揺せず、確固不動の信念をもって一途に邁進すれば素晴しいのであります。




 正信は自信 迷信は依頼心

 神意を生きるものには都合はありません。都合がないから不安はありません。常に安心と自信に満ちて、生活することを信仰生活というのであります。昔から“信は力なり”と申します。信が救いの根本であり、信がすべてであります。“一所懸命やっているけど救われない、よく分っているのに救われない“と歎き苦しんでおられている人達は、この救いの根本を取り違えておられているようであります。

宗教の基本は祈りであり、信仰の中心は行でありますが、この「信」を抜きにした祈りや行は知らず知らずのうちに迷信に陥り易いのであります。迷信は迷信であって、本当の信仰ではないから、無力信仰となり、救いも安心も得られないのであります。祈りや行は、根本であり、大切でありますが、一つ間違えると逆に
不安を増大し、焦るばかりとなります。

 信仰とは自信であり、迷信とは自信を失い、他の何ものかに頼ろうとする依頼心でありますから、まるっきり反対であります。正信は絶対力を生み、迷信は無力信仰になりますから、不安の増大以外にありません。迷信は自力を捨て切れず、自力と他力の混合となり、あるときは救われた様でもあり、又あるときは救われていないようでもあり、安心半分心配半分で、ある時は極楽のようであり、又あるときは地獄のようでもあり、地獄と極楽を往復している様な生活となります。

生長の家はこのような生活法ではありません。皆善の思想であり、善一元に徹するのであります。善悪二元は光明思想ではなく、暗黒思想となります。暗黒思想から地上天国は絶対に生れません。天国建設は徹底した光明思想からのみ生れます。

 谷口雅春先生は、「生長の家は大乗の極致である」と御教え下さいます。大乗とは絶対他力ということであります。相対他力「迷信」はちょっと見ると他力信仰に似ていますが、本当の信仰ではありません。本物の信仰に至る過程であります。段々と自力の空しさが判明し間違いであることが明確になるに従って、本物が表面に現れて来るのであります。

 ここで大切なことは、偽ものの自分とは一切妥協せず、ごまかさないことであります。安易な道を選ばず、徹底的に解決に挑むことです。 誰かに頼んで祈ってもらって、苦難から逃れようとするくらい卑怯なことはありません。生長の家は世間一般にあるような祈祷宗教ではありません。「拝み屋」と間違えてはなりま
せん。谷口雅春先生は、「神は私たちに真剣を要求したまう」とも御教え下さり、「価を払わずして受け取ることだけを求めてはならない」とお示し頂きます。お金だけ払って、代わって祈ってもらうことによって、幸せになろうなどと考えることは楽で、よいではありましょうが、そんなところから自信も安心も絶対に生れません。正しい信仰が生まれる道理がありません。



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