| [5229] <再掲示> インターネット道場―― 「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 第189回 |
- 信徒連合 - 2016年09月25日 (日) 08時35分
<再掲示>
インターネット道場――
「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか)
第189回
マサノブ君は、「生長の家ってどんな教え?」という本を書いています。これを読んでみますと、「マサノブ教ってどんな教え?」というタイトルが正確であります。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して、マサノブ君の個人的思想、―――サヨク唯物現象論に基づく環境問題が中心のもの、―――が「生長の家」の教えとして書かれているのであります。 最も重要な開祖・谷口雅春先生の大悟徹底(お悟り)や「生命的国家論」や真理の証し「体験談」、霊と霊界に関する事柄については全く書かれてはいないのであります。
「生長の家」の本当の『御教え』を知りたい人や真剣な求道を志す人たちにはマサノブ君の「今の教え」や「生長の家ってどんな教え?」は誤ったメッセージを送ることになっています。
また、本部公式サイトのインターネット講師による「生長の家」の普及宣伝を目的とする「インターネット・ポーサルサイト」では、マサノブ君は、全インターネット講師に『このブログは「生長の家」の真理普及のために開設しましたが、内容や発言は、すべて私本人の責任において書いています。 従って、私は「生長の家」を代表する者でもありませんし、私の発言が「生長の家」の見解ではありませんので、ご了承ください。』という一文を必ず掲載させております。誠に“奇々怪々”な文章であります。その結果として、本部公式サイトでありながら、殆んどのインターネット講師の真理普及のためのインターネット講座が、個人的な“私生活日記”の報告となってしまっています。
インターネットは全世界に公開されているものです。だから、開祖・谷口雅春先生が説かれた「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えしなければならないのでありますが、マサノブ君はその責任を放下してしまっているのであります。
そこで、本当の霊的真理を求めておられる御縁ある未信徒の人たちに正しい「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えする為に、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の根幹である部分を、何回でも何回でも繰り返して掲載して行く必要があります。この様な目的を以って、この「インタイーネット道場」を最初から再び<再掲示>させて頂きます。
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無時間無空間の「久遠の今」について
(『神癒への道』P.134−143)
生長の家の信仰によって病気が治るようになったのは決して病気治療の触手的療法から始まったのではありません。随ってこのメタフィジカル・ヒーリングの原理を深く体得するには、どうしても無時間無空間の世界に存在する永遠不滅の生命というものを自覚しなければならないのであります。
これは非常に高度な哲学的の問題でありますが、深く人間無病の真理、肉体無の真理を知るにはどうしても其の根底に横たわる「無時間・無空間」の真理を理解せねばなりません。
イエス・キリストは「吾は神の子である。永遠に死なないものである」こういう意味を被仰(おっしゃ)っております。そしてそれは単にイエス一人に限られているのではなく「われ行きて汝らに来るなり」と被仰(おっしゃ)って吾々に宿るキリスト――すなわち吾々の本当の生命も「神の子」であって永遠に死なないものであるということを示し給うたのであります。
又「吾は真理なり、道なり、生命なり」というようなことを仰(おっしゃ)いましたし、又「吾はいのちの泉である。吾に汲むものは死すとも死せず」とも被仰(おっしゃ)いました。
ところが、普通の人は人間というものは自分を肉体だと思っておりまして、肉体がなくなったら人間はいなくなる。斯ういうように考えているのでありますけれども、イエスの教えに依りますと、(それは生長の家の教えでもありますが)本当の人間というものは、目に見えないのが本当の人間である。肉体を超えて存在するものが本当の人間だというのであります。
無時間無空間の世界に吾々は住んでいるのでありまして、この縦の線が時間の流れであるとしますと横の線は空間のひろがりであります。時間と空間とがその交叉の一点で合している。その一点のところは時間空間の本であって、時間空間いまだあらわれざる「無」の世界であります。
『維摩経』の中にありますが、或るお坊さんが托鉢をしていると、托鉢というと供養をされた食物を受ける鉢を差し出すことで、行乞(ぎょうこつ)のことであります。維摩が「お前はどの時間で此の供養された食事を食べるのであるか、此の時間に食べるのか、どの時間に食べるのか、そういう過去の時間はもう過ぎ去ったから食べることは出来ない。それでは現在の時間に食べるのか、現在と思っている時間はその瞬間もう過去になってしまっている。そうすれば現在でも食べられはしないじゃないか。未来はまだ来はしない。そうすると時間的流れの中で供養された御飯を食べようと思っても、食べる時間というものがないじゃないか。」斯ういうような問題が提出されております。
これは吾々が考えている常識的な時間とは全然別物であるが「本当の時間」であるということを示しているのであります。
「本当の時間」というものは、常識的な過去・現在・未来を超えたところにあるのであります。
すなわちそれは「無」又は「無時間」ともいうべき世界で吾々は御飯をたべるのであります。御飯を食べるだけじゃないのでありまして、何をするにしても吾々は<どこで>何時しているかというと、過去とか現在とか未来とかいって、流れているところの現象時間の中では吾々は生活をしていないのであります。
その過去・現在・未来のどの時間に御飯を食べようと思ってもどうしても食べられないのですから、吾々は結局現象的時間の流れを超えて、そして過去・現在・未来を超えた時間――即ち無時間時間――で吾々は食べなければならないのであります。
これは御飯を食べるときの問題だけではないのでありまして吾々のいのちは何時も時間のない時間――無時間――の世界に生活しているのであります。
此の無時間の時間を久遠の今とか、絶対時間とか、過去、現在、未来を超えた時間とか、永遠の今とかいうのであります。
この絶対時間はわれわれの「生命の本質」そのものであります。
吾々が過去現在未来などといっている時間は、絶対時間ではなくて相対時間であります。相対時間というものは太陽の出没に比例して、即ち地球が太陽の周囲を回転する回転数や、地球が自転する回転数に比例して、吾々は何日とか何時間とかいう事を称(とな)えるのであります。それは他のものの運動との比較の上に相対的に成り立つ時間であります。
相対時間は決して不変のものではありません。若し、地球の自転、公転の速度が変化すれば結局それは変化してしまいます。又時計を標準にしていては常に代わってまいります。電気時計などは此の頃は電力が乏しくなってサイクルが落ちて来ると、時計の廻りがおそくなり、一時間だと思っておっても、一時間十分位経っておったりするのであります。
しかしこれは一地域の電力だけの変化であって地球の自転・公転の速度が変わるのではありませんので、他の比較標準になるものが変化しないものですから、一時間はやはり一時間であって、此の電気時計だけが遅れていると考えるのですけれども、ところが若し世界中の電流の流れが変わってしまいそして地球の公転・自転数もすっかり変わってしまったら、そしたら吾々は今まで一時間だと思っていたその同じ時間が二時間にも三時間にも感じられるようになるかも知れないのでありまして、結局、相対時間というものは決して一定不変のものでないことがわかって来るのであります。
そういう変わりやすいものが相対時間でありましてそれは決して本当の時間ではないのであります。過去・現在・未来に属する相対時間というものは要するにこうしたものであります。
吾々は吾々の相対的活動を、地球の公転・自転の運動の何分の一だけ働いたという様な標準を求めるために、こういう相対時間を使いますが、それは結局「目盛り」に過ぎないのであって、本当の時間「実在の時間」というものは、過去、現在、未来というものの流れを超えたところの存在、「永遠の今」「久遠の今」「今此処の生命」であって、この今此処一点の生命が「久遠の今」に生きているのであります。
さて此の絶対時間――換言すれば、「久遠の今」というものは一体何であるかというと、生命そのものである。
「今此処の一点」の生命が振動する。生命の振動の持続が時間なのであります。生命の振動が止まったら時間がなくなってしまう。生命振動の意識が時間であります。
しかし、その生命振動はそれが白熱的に振動すると、他との比較する隙(すき)がなくなってしまいますので、相対時間では何時間勉強したかわからないことになります。また生命の振動が止まっている間に時計が何億回回転してその間に相対時間が何百年経っておろうが、それは判らないのであります。
アメリカに『リップ・ヴァン・ウィンクル』という、日本の浦島太郎に比べられるような、物語があります。この人は南北戦争の前に生まれておったのが、それがどっか行って山の中で眠っている内に、南北戦争が起こって、そして終った。世界に革命が起こってすっかり世界が変わってしまっているのにそれを知らずに寝ておったのです。さて目が覚めて故郷に帰って来ると世界中が変わっている。自分がその間に何十年間眠っておったか意識がないのですから、昨日出かけて行って、今日帰ったつもりでいる。故郷に帰って来るとすっかり街々の様子が変わっているのであります。住んでいる人がすっかり変わっている。リップ・ヴァン・ウィンクルと同年輩で生き残っていた人も皆老人になっていてその幼なじみの顔もすっかり容貌がかわっているのでわかりません。
そして自分の容貌も年老い、着ていた服はボロボロになっているのですから、乞食がやって来たというように疑われたという物語であります。詰まりリップ・ヴァン・ウィンクルにとっては山の中で眠っていた間は、生命の振動がなかったのでありますから、その人にとっては時間というものがないのであります。その間に、他の存在は動いていたので、こういう食い違いが起こったのであります。
それは兎に角、吾々が現象界に於いて物を考える場合には取扱いに便利なように、動いているものを静止しているとして考えるのであります。
運動でも連続的に運動しているものを、一分間に又は一秒間に幾何(いくら)の速度として考え、それだけを静止単位の如く考え、何時間動いたら、一秒間の速度にその何時間の数字を掛ければ好いなどと考えます。
併(しか)し決して人間の生命の運動は一秒間毎に区切りをして静止しては又動くというものではありません。人間の生命の運動はベルグソンの言ったように連続している運動でありますけれども、それは動いているそのままでは現象的には取扱うことが出来ない、少なくとも取扱うことが不便であります。
そこで、一秒二秒三秒四秒と「点」が連続して一つの全体をなしているのだという風に考えて行くのであります。尤(もっと)も時計などは歯車で動くのですからチクタクチクタク、チクタクチクタクと小刻みに動いてゆくのですけれど時間そのものは一秒毎に動いているのではないのであって、ずっと連続して動いていて、それは分割して考える事は出来ないものなのです。
連続しているものは分割することはできないのです。しかし連続しているものを連続しているままに取扱うことは不便ですから、それを平面的に静止させて分割し、分割した断片を再びつなぎ合わせた形で考える事が五官の知恵であります。五官で見て取り扱う取り扱い方は、みんな動かないものを単位としてそれの集まったものとして取扱うのであります。
だから生命の生々流動を、静止せる物(即ち物質)の集合体、又は連続体として考えます。写真撮影などでは被写体を動かないものとして写すのであります。被写体によりまして、夫々(それぞれ)二百分の一秒では動いていないもの、千分の一秒では全然動いていないものとして写すのであります。走っている馬でも人間でもみんなある瞬間には静止しているとして、写真に写すのであります。映画などでは大抵、二十五分の一秒では動いていないと仮定して撮します。その二十五分の一秒では全然静止した様に映っている、それが此処で止まり、次に止まり、その次に止まる。
斯うして止まっている姿の一コマ一コマを連続的に纏めると動いているように見えるのだというので、映画は撮影され映写されているのであります。写真に映るように或る時間的単位では動いていないものは、結局、いくらつなぎ合わせても動いていないとして全ての運動を否定したものが、ギリシャのエレア学派のツェノンという大哲学者であります。
彼は「運動というものは存在しない。」「或るところから或るところへ行くのには無数の点がある。無数の点というものは、無限であるから何時まで経っても無限の点を越えることは出来ないから、或るところからあるところへ行くということは不可能である。即ち運動は不可能である。運動があるように見えるというのは錯覚に過ぎない」といって全ての運動を否定してしまったのであります。
これは「生命の運動の本来の動き」を考える事なしに、すべてを唯物論的に分割してしまったからそういう結論になったのであります。しかしツェノンは唯物論者ではなかったのです。ツェノンは空間の実在を否定しました。従って空間的存在だと考えられる物質の存在も間接に否定しているのであります。
そして彼は「動いているものは、それがあるところの場所の中にもまたそれがあらぬところの場所の中をも動いていない」と言って、運動する物がその中にある空間の実在性を否定しているのであります。
ここにツェノンは「動かずして動いているもの」空間の中にあって動かず空間そのものを投射し出すところの生々流動の生命の存在を暗示する<あるもの>を持っているのですが、彼はそこまで到達することは出来なかったのであります。かれの運動の否定の哲学は現象運動の否定の原理を含んでおり、生長の家の「現象無し」の哲学を理解する上に幾分のたすけとなるものですから、も少し詳しく申しますと、アキレスと亀との競争の譬(たとえ)をいって、「アキレスも亀に追いつくことが出来ない」といいます。
アキレスというのは韋駄天(いだてん)のように健脚で走る神様であります。それが亀を追っかけるところが幾ら追っかけても追っつくことが出来ない。亀が如何にのろまであっても、如何にアキレスが駿足(しゅんそく)で走っても結局はどうしても追っつく事が出来ない。何故追いつくことが出来ないかというと、亀は如何に遅くとも亀の元いた所までアキレスが追いついた時には、少なくともその時には亀は一寸(ちょっと)でも前に出ている。その代わり又アキレスがその亀のいる所まで追いついた時には、亀はもう一寸でも前にでている。それはいつまでも繰り返されるに過ぎないから結局は運動はないというのであります。
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