| [472] インターネット道場 ―――感激的体験記 ・ 大山昌平先生 「光の行くところ闇はなし」 <その八・最終回> 「道は開ける」より |
- 信徒連合 - 2015年09月08日 (火) 08時08分
インターネット道場 ―――
感激的体験記
大山昌平先生
「光の行くところ闇はなし」
<その八・最終回>
「道は開ける」より
8. 天秤棒一本で旅館ができたか
これもやはり昭和二十七年ごろ、神戸の教化部から、四国・香川県へ出張巡講したときのことである。私は観音寺市の石川相愛会長さんの案内によって、「生得(いけとく)旅館」という立派な旅館の門をくぐった。
前を見ると、玄関の正面に六枚折りの金屏風(きんびょうぶ)を立て、その前に六、七人の女中さんと番頭さんが、ずらりと並んで出迎えている。「どなたか、偉い方がお越しになるのですか」と私は案内の相愛会長さんにたずねた。会長さんは、「さあ、そうらしいが、行きましょう」と、ズカズカ先に玄関前まで行き、番頭さんと何か話していたが、「先生お上がり下さい」と私をまねいた。
私が上にあがると、出迎えの人が最敬礼をする。驚きながら奥に入ると、廊下の横に、長い白木の板に墨(すみ)黒々と大書した看板が目についた。「天皇陛下御宿舎」と書かれている。そうして長い廊下をなお進むと、青々とした簾(すだれ)に緋色(ひいろ)の房がついている、その奥の室に通された。
私は驚きづめでここまで来たとき、心に思った。<人間は神の子だ。私は神の子だ。驚くことはない。神のこの住まいには金、銀、瑠璃(るり)、硨磲(しゃこ)、紅玉、瑪瑙(めのう)等をもってこれを厳飾(ごんじき)せりと経典にもあることを谷口先生に教えられている。金屏風も緋房の簾も、それに比べるとたいした荘厳でもない>と私は心を落ちつけて中にはいった。
床の間の掛軸、棚の飾り、黒檀の机、紫色の座布団等々、高貴の方をお迎えする室であるにちがいない。私はその正座に坐らされた。これからどうなるかと思っていると、五十年配の立派な紳士と、その奥さんらしい婦人を中心にして、番頭さんや女中さんたちが十人ほど、前に並んで坐った。
紳士はていねいに挨拶して、「さて」と話しだした。「私は観音寺の測候所長をしており、またこの生得旅館の主人でもあります。私には八十四歳になる父がまだ健在でおりますが、この旅館は、父が若いとき裸一貫からこれまでに造りあげたのであります。創立は六十余年前になります。
父の生家は貧しい農家でありましたので、父は若いとき立身出世を夢に描いてこの観音寺に出て来まして、街中魚を売り歩く魚売りになりました。天秤棒を肩にして『さかなー------さかな』と売り歩いた父の苦労は察しられます。父は努力した甲斐あって、そのうちに店を持ち、そして小さな宿屋を始めたのがこの『生得旅館』の出発であります。
今日では、観音寺だけではなく、四国四県でも指に折られる立派な旅館になりましたのは、父の努力と腕の結果であるにちがいありません。いま、家には番頭さんをはじめ、料理人、女中さんなど、たくさんの人が働いてくれまして、昨年は天皇陛下四国御巡幸の砌(みぎり)、ありがたく御宿舎の御指定を賜りましたこと、まったく家名の誉(ほま)れ、ながく子々孫々の末までの名誉でございます。
これひとえに老父のおかげと、家族はみな忘れる事ではありません。しかし今日、御多忙の先生をここまでお迎えいたしましたのは、その父のことで困っていることがありまして、御案内いただきました石川先生は私の小学校時代の恩師でありますが、今日先生が観音寺にお越しになるから御指導してもらいなさいとのお話で、お疲れの先生をお憩(いこ)いのいとまもなく私共の方へお迎え申しあげた次第でございます」
ははあ、それであの玄関の金屏風も、番頭さん、女中さんたちの出迎えも、私を迎えるためであったのかと思うと、この指導は相当むずかしい問題だろうと私は思った。
御主人はさらに話を続けた。「父はこの旅館の創業の人であり、家族の大恩人でありますから、私共は子として父の言葉にはどんなことでも背くことはいたしませんが、父はとくに一徹の性分で、それが年とともに頑固になりまして、自分の言ったことは絶対にまげません。
そして、『この生得旅館はオレが天秤棒一本つくり上げた家だ。オレのいうことをきかぬ者は一人も家には置けない、すぐ出て行け』と、気に入らぬ番頭、料理人、女中をどんどん追い出してしまします。四、五日前にも、大事な板前を一人追い出してしまいました。もう番頭、女中など随分たくさん追い出しましてそのあとさがしにホトホト困る始末です。
先日板前を追い出したのは、父がこの室の前の庭を掃除せよと板前に言ったとき、板前は料理の支度で多忙でしたので、『いま忙しいからだれか別の人に掃除させてください』と言ったら、『オレに口答するか』と言って追い出してしまったのです。旅館では料理人は大事な人で、客に出す料理の出来、不出来はすぐ経営に影響します。番頭も女中も客商売には大切な存在で、長年客扱いを心得た人がいるかいないかで商売の盛衰がきまるものです。
それで私は、料理人、番頭、女中さんなどを家族の者同様に思っておりますが、それを、父は気に入らないと容赦なく追い出してしまいます。それに対して父に一言でも意見を言いますと、『この家はオレが天秤棒一本で築いた家だ、文句いうなら出て行け』と、だれの言葉も聞きません。先生のお越しを首を長くしてお待ちしておりました。どうか、助けると思って父を指導して下さい」
これはなかなか大変な指導だと私は思った。その老人にまず私の話を聞かせねばならないが、そんな頑固な老人に私の話を聞く気にさせることが大変だ。八十四歳というと、私を子供ぐらいにしか見ないだろう。老人に少しでも信仰心があればよいが、もし信仰心がなければ、神様仏様と言ったらかえって席をけって立ってしまうかもしれない。それでは話もできないが、まず話を聞く気にせねばならぬ――と私は考えた。
いつの間にかお昼になったとみえて、女中さんが食事を運んで来た。山海の珍味が並べられた、立派な二の膳付きである。よし、腹が空いてはいくさができぬ。兵糧をつめようと思って箸を取った。ふと簾の外を見ると、奥まった室が仏間らしい。かすかに灯明が燃えているのが見える。
<ハァー、老人は如来様を信心>しているなと思うと、少々安心した。そうして食事をしながら指導の戦法を考えていたら、横の襖(ふすま)をあけて、女中さんに案内させて老人が入って来た。オヤ、と思って老人を見ると、白髪ではあるが赤ら顔の小太りで丈(たけ)の高い老人が、昔風の煙草盆(たばこぼん)を片手にし、一方の手に「なた豆煙管(キセル)」を握って、ヌーと私の横に入って来て坐った。
なるほど、頑固一徹らしい。歌舞伎「神霊矢口ノ渡」で見た「お船頓兵衛」の頓兵衛とはこのような老人か――と思いながら老人の顔を見た。老人は一言も言わない。私も一言も言わず、ゆっくり食事を終った。
老人は煙管(キセル)で煙草(たばこ)を吸い出した。ときどき私の方をにらむようにして、煙をプーと私の方へ吹いてよこす。<無言の宣戦布告だな>私は腹ごしらえもできて、戦法もきまった。老人は、観音寺で自分をしるほどの人が話しかけるときは、「御隠居様」と呼んで頭を下げるものと思っているらしい。
ここでもし私が「御隠居様」と話しかけたら、「小僧、なんだ」と高飛車に出るにちがいない。まず、先手をとって王手、王手と打ち込むことだと思った。
私は茶を飲んでから、横も向かずに、「爺さん、何歳(いくつ)だね」と言って、やおら顔を向けた。老人は私をにらみつけて、八十四だと答えた。居ならぶ御主人はじめ十人ほどの人が、これは大変なことになりそうだと、私と老人を真剣に見つめ、またお互いに顔を見合っている。
戦法は図に当った。老人の手がブルブル震え出して、煙管に煙草がつまらない。灰吹きを、大きな音を立ててタンタンと叩きだした。しばらく叩いてやっと煙草をつめ、火をつけたが、吸わずにまた灰吹きを叩いた。昔、宮本武蔵が佐々木巌流と戦うとき、巌流が刀の鞘(さや)を捨てたのを見て、「勝つ者が鞘を捨てるはずはない。巌流敗れたり」と大音声に叫んで機先を制したことを思った。
私は老人の傲慢心を打ったのだ。老人は震えながら私を見た。私は簾の外を指しながら、声をはげまして、「あんたはあの仏様を拝むらしいが、いくら拝んでも仏様は知らぬ顔で横を向いていらっしゃるよ。私にはよくわかる。感謝もできず、情(なさけ)も知らぬ因業者(いんごうもの)の手前勝手の言うことなど、仏様はお聞きにならないよ。
爺さんは先日も大事な板前さんを、自分のいうことを聞かんといって追い出されたそうね。番頭さん、女中さんなども、少しでも気に入らないと追い出してしまわれるそうだが、もし皆がいなくなって、あんた一人で、その白髪頭の爺さん一人で宿屋商売ができるならやってみなさい。
もったいなくも天皇陛下がこの生得旅館にお憩いいただけたのも、家の人々はもとより、たくさんの人々のお働きのおかげではないかね。爺さんは、二言目には『オレが天秤棒一本でこの生得旅館をつくった』と言うそうだが、面白い事を言う。私に、天秤棒一本でこんな立派な旅館が造れるか、見せてもらいたい」と言って、私は居並ぶばんとうの一人に、「天秤棒を一本持って来て下さい。爺さんに旅館を造って見せてもらうから」と言った。
一同は笑うに笑えず、うつむいて笑いをこらえている。老人を見ると、いつの間にか両手を膝に置いて、頭を下げている。私は言葉を続けた。「爺さんは若い時に、魚市場から魚を仕入れて観音寺の町を売り歩いたそうだね。ずいぶん苦労しただろう。しかし、いくら魚を売って商売したくとも、一ぴきの魚もいなかったら商売はできなかったろう。商売できたのは魚のおかげではないかね。
その魚に『ありがとうさん』とお礼のひとことでも言ったかね。生長の家の信者でシャツを製造している人がある。シャツが出来上がると、それを一枚一枚ひろげて、『シャツさんありがとう。どうかあなたを着る人を暖かく幸福にしてあげて下さい』とお礼を言って卸屋へ持って行く人がある。また、魚を売り歩いても買ってくださる人が一人もいなかったら、商売はできない。『お客様ありがとうございます』とお礼をいったかね。
生長の家の教えは、天地一切のものに、すべてのひとに、感謝せよとの教えなんだ。爺さんは家族の人々に、『ありがとうございます』と感謝がなぜできないのかね。八十四歳では、これから百歳まで生きたとしてもあと十六年だ。お宅には立派な御子息がおられるし、生得旅館は繁栄する。爺さんは天秤棒をかつぐ必要はないのだから、朝から晩まで皆さんに「ありがとう、ありがとう」と言っているだけでいいんだ。
十年でも、十五年でも、“ありがとう爺さん”といわれて死になさい。そら、あちらで仏様がニコニコ笑っていらっしゃるのが見えないかね」
私がここまで話すと、もう講演に行かねばならない時間だった。最後にこの老人は神経痛で足が不自由だと聞いていたので、「爺さん、その足をなでて、足さんありがとうよ、八十四年もの長い間、足さんのおかげで、幾万里も歩かせていただいて来た、ありがとうございますとお礼を言いなさい。そしたら足の痛いのも治るよ。もし治らなかったら、私は神戸の生長の家の教化部にいるから、使いをよこして私を呼びなさい。私は観音寺まで謝罪に来ます」と言って頭を下げたままの老人を残して座を立った。
それから私は香川県の各地を巡講して神戸の教化部へ帰った。一週間ほどすると、石川相愛会長から手紙をもらった。生得旅館の御隠居は、それ以来一転して生まれ変わったように“ありがとう爺さん”になり、一家が喜びに満ちあふれ、感謝している。老人の神経痛の足の痛みも治ってしまった。
相愛会長は毎日のように生得旅館に招かれて、生長の家の御教えを、老人はじめ家族のみんなに話している――という報告であった。
終わりに
この教えによって私ども一家が救われてから三十余年。長男は瀕死の重病から立ち上がり、次男も立派にその使命を全うすることができました。また、本文中には書きまませんでしたが、二人の娘はそれぞれ良縁を得て結婚し、幸せな人生を送っております。
入信前は不調和な家庭で夫婦は喧嘩のたえまがなく、子供の病気、生活難と惨憺たる人生苦でありましたが、この教えに救われて以来すべてが円満に調和し、六人の孫からおじいちゃんおばあちゃんとなつかれ、あと三年で金婚式ということになりました。
私自身は悦びにみちて伝道ひとすじに働かせていただいてまいりました。三十余年間、何と大きなみのりを得てきたことでしょう。この御教えなかりせばどんなことになっていたかと思いますと、身ぶるいさえ覚えます。
生長の家の式典行事には、大事な司会を幾十度かつとめさせていただきましたが、昭和四十二年三月一日、生長の家立教三十八周年記念の晴れの祝賀式の司会をさいごの思い出に残して、この六月で私は定年を迎え、第三の人生出発をいたします。
あのこと、このことと思えば感無量のものがあります。社会はますます多事多難であります。われわれの使命はいよいよ大きいことを思い、初心に返って勇往邁進、光明化運動に終生を捧げて使命を全うしたいと決意いたしております。
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