| [5505] <再掲示> インターネット道場―― 「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 第202回 |
- 信徒連合 - 2016年10月25日 (火) 09時01分
<再掲示>
インターネット道場―― 「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか)
第202回
マサノブ君は、「生長の家ってどんな教え?」という本を書いています。これを読んでみますと、「マサノブ教ってどんな教え?」というタイトルが正確であります。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して、マサノブ君の個人的思想、―――サヨク唯物現象論に基づく環境問題が中心のもの、―――が「生長の家」の教えとして書かれているのであります。 最も重要な開祖・谷口雅春先生の大悟徹底(お悟り)や「生命的国家論」や真理の証し「体験談」、霊と霊界に関する事柄については全く書かれてはいないのであります。
「生長の家」の本当の『御教え』を知りたい人や真剣な求道を志す人たちにはマサノブ君の「今の教え」や「生長の家ってどんな教え?」は誤ったメッセージを送ることになっています。
また、本部公式サイトのインターネット講師による「生長の家」の普及宣伝を目的とする「インターネット・ポーサルサイト」では、マサノブ君は、全インターネット講師に『このブログは「生長の家」の真理普及のために開設しましたが、内容や発言は、すべて私本人の責任において書いています。 従って、私は「生長の家」を代表する者でもありませんし、私の発言が「生長の家」の見解ではありませんので、ご了承ください。』という一文を必ず掲載させております。誠に“奇々怪々”な文章であります。その結果として、本部公式サイトでありながら、殆んどのインターネット講師の真理普及のためのインターネット講座が、個人的な“私生活日記”の報告となってしまっています。
インターネットは全世界に公開されているものです。だから、開祖・谷口雅春先生が説かれた「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えしなければならないのでありますが、マサノブ君はその責任を放下してしまっているのであります。
そこで、本当の霊的真理を求めておられる御縁ある未信徒の人たちに正しい「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えする為に、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の根幹である部分を、何回でも何回でも繰り返して掲載して行く必要があります。この様な目的を以って、この「インタイーネット道場」を最初から再び<再掲示>させて頂きます。
******************
霊界への誕生について
大往生と断末魔の苦痛について
(『人生を支配する先祖供養』P.7−8)
<<霊魂には修行の足りた霊と、修行の未熟な霊とがあり、それに従って、肉体を脱して彼が霊界に往ったときの状態がちがうのである。修行の足りた霊は、ハッキリした意識を持って肉体を脱出し、自分が今しがた脱した肉体という抜け殻を客観的に見る事が出来るのである。肉体を脱するのに何らの苦痛をも感じない。所謂(いわゆる)大往生である。そして霊界に移行してからも意識を持ち続けて周囲の状態を見たり聞いたりすることができるのである。
そうでない未熟な霊魂は、肉体の生前の三業(意業・口業・身業)の不浄なるものを浄めんがために、病気の苦痛を経験する。苦痛は浄化の課程である。しかしある程度以上の苦痛は神の恵み深き摂理によって、“意識を失う”という方法によって回避されることになっている。そして意識を失った状態で、その霊魂は霊界の待合室みたいな所に移行するのである。>>
満中陰と五十日祭について
(『人生を支配する先祖供養』P.6−9)
<< 霊界の待合室は薄暗い世界である。それは“冥界”という語(ことば)がふさわしいかもしれない。そこに肉体を脱した霊魂は、肉体の病臭や屍臭(ししゅう)の“移り香(うつりか)”の不快臭を浄化するために、ある期間滞在せしめられるのである。それを仏教では「中陰(ちゅういん)」と称して、まだ霊界のどの位置に往くべきかが定まらない期間である。
それは大体七週間であり、仏教では四十九日間とせられ、神道では死の直後より数えて五十日目とせられているのは、仏教も神道も根本的に一致していることを示しているのである。四十九日間の中陰の期間を満了すると“満中陰(まんちゅういん)”の法事があって生前の懇親者にお供養(満中陰の志)が配られる習慣(しきたり)になっている。
神道では“五十日祭”という祭典が行なわれて、冥界の薄暗い前室から解放されて、受け持ちの高級霊の案内によって、その霊魂が割り当てられた幽界の位置に伴われて行き、そこで修行することになっているのである。
現実世界も、幽界及び霊界も、いづれも霊魂がその本来の“神の子”の実相を研(みが)き出すための修行の“場”であることに変わりはない。>>
冥界の照魔鏡について
(『人生を支配する先祖供養』P.9−10)
<<四十九日間の浄化の期間が終わった霊魂は高級霊が霊波によって作ったスクリーンの前まで伴われていくのである。彼はその浄化されて透明になった心で、そのスクリーンに向かうと、そのスクリーンに、彼自身が生前の一生涯に閲(けみ)して来た全ての生活が、天然色映画の如くカラーテレビの如く映し出される。幽界の此の前室は、もう現実世界とは時間のサイクルが異なるのであるから、極めて短時間ともいうべき間に、彼自身の生涯の生活の実情を、第三者的立場に於いて、それを眼(ま)のあたり見るのである。
現実世界に於いては、彼は第三者ではなく、第一者として自分自身が主人公として生活して来たので、「これ位のことは別に悪でも不浄でもない」と厳重には批判することなしにわがまま勝手次第に生活して来たのであるが、今、こうして霊的スクリーンの前に立って自分の一生涯の生活を第三者として客観的に見せられると、善悪判断の基準が公正になって、「この位のことは悪くない」と思って生前に行為した事柄でも、「ああ、これも悪かった。あれも悪かった。あんな汚い行為をするのでなかった」と懺悔の心が起こるのである。
懺悔というのは心を洗い浄めるという意味である。その懺悔の程度は、それぞれの霊魂によって反応が異なって、必ずしも完全に悔い改めが完了する訳ではない。過去に色々犯しきたった悪業でも「わるかった!」と否定し、「再び罪を犯すまい」と反省決意すれば、その蓄積された“業”が着物を脱ぐように一枚一枚剥落(はくらく)して空中に消えて行くのである。
この過去の行為の一切を照らし出す霊的スクリーンを、擬人的に閻魔(えんま)大王と称し、または神話的に“閻魔の庁”の照魔鏡(しょうまきょう)と称するのである。そして「悪かった、二度と再び犯すまい」という決意と共に、悪業の蓄積が一枚一枚、剥落して行く課程を、三塗(さんず)の川の手前に“脱衣婆”がいて、亡者の着ている着衣を脱がせるというような寓話(ぐうわ)が仏教ではつくられているのである。
いづれも死者の霊がそこで過去の業が自己審判され、消える業は消え、消えない業はそのままに、その業の種類の善悪軽重にしたがって三塗(さんず)のうちの、どれかに行く事が定められて、その霊魂は霊界での落ち着く修業場が決定せられるのである。それを三塗の川を渡るというのである。>>
三途の川を渡って我らは何処へ行くか
(『人生を支配する先祖供養』P.10−11)
<<三塗(さんず)というのは“三途”とも書く、肉体死後の霊魂の行くべき“三つの途”であるからである。それは普通、地獄道、餓鬼(がき)道、畜生道の三つの道のこと、即ち“三悪道”のことだと解せられているが、私はそのようには解しないのである。
欲界(よくかい)、色界(しきかい)、無色界(むしきかい)の三界だと解したい。何故なら人間はみんな三途の川を渡って、地獄道か、餓鬼道か、畜生道に堕(お)ちて行くより仕方がないのだったら救われようがないからである。もっと立派な天国的な浄土に落ち着く霊魂もあって好い筈である。>>
幽界と現実界との境(
『人生を支配する先祖供養』P.11−12)
<<ここで私は、こんな素晴らしい霊魂もあるのだということを『生命の實相』第十巻・霊界篇にある高級霊からその子に寄越した“霊界通信”の一節を諸君に紹介したいと思うのである。この高級霊は其の子に向かって、 「お前はわたしの語ろうとするところの真義を捉(とら)え得るであろうかね。この真義をすべての人類が捉え得たならば、全世界は相(すがた)を変えてしまうということがお前には解るだろうか-----」 と言っているのである。
そんなに重大な真理がこの霊界通信には盛り込まれているのである。彼(父の霊魂)はその子の手を借りて、自動書記現象によって次の如く自分自身の臨終を書くのである。
「わたしは、街路で突然病気に襲われて病床に運ばれて、そしてそこで死んだのだった。家族のうちでお前だけが、父の意識の最後の残りが、微(かす)かに漂っている臨終に間に合って来てくれたのだった。愛するわが子よ。私はお前を感じたよ。お前というものが、わたしの最後に浮かんだ『念』だったのだ。お前は私の手が力なくお前の方へ垂れ下がったのを思い出すであろう。それはわたしの現実界における最後の運動であり、最後の力であった。そしてわたしは現実界から没し去って死んだのだ」(これで、彼の肉体を通しての意識は消滅し、その次は肉体を脱した霊魂が、現実界をのぞき込んでいる意識に換(かわ)るのである。――(谷口註)>>
思いやりある死者の霊の力
(『人生を支配する先祖供養』P.12−13)
<<この父の霊魂は高級霊であるから、肉体を脱した直後、すぐ現実界を見ることができるのである。それで次のように自動書記現象で綴るのである。―― 「わたしの愛する児よ、お前は立ちながら父親の肉体の上に覗きこんでいた。しかし、その時お前の心に浮かんだのは、お前の不幸な母親のことであって、私のことではなかった。お前の魂は意識していなかったが、その考えはわたしの魂の中に織り込まれていてわたしと同じことを考えていたのだ。『どうして此の憐(あわ)れな母を助け、慰めてあげようか』と。--------彼女よりも先にわたしが他界するということは、彼女にとって太陽が没したことになる。
絶望と悲歎とのきわみが彼女を襲うであろう。(註・肉体を脱した父の霊は、その息子が何を考えているかを霊的知覚によって知っていたのである)わが児よ。その時、お前の母親がやって来たのだ--------その時お前は自分の手で母親の手を握りしめ、彼女の腕を抱き上げた――そうしたのは本当はお前ではなく、わたしだったのだ。お前は眼の前に横たわっている父親を忘れて母親に囁(ささや)きかけた――そうしたのは、本当はわたしだったのだ。わたしはお前に力を与え、お前の母親に内から力を与えていた。母がその夜お前が心配したようには悶絶(もんぜつ)もせず悲しみに耐えることが出来たのはそのためだったのだ」 (『生命の實相』第十巻・霊界篇下巻P.102−103)>>
祖先霊を祀ること
(『人生を支配する先祖供養』P.13)
<<死者の霊はこのように現実界の人々にも力を及ぼすことができるのである。諸君は祖先の霊の祭祀(さいし)のことを思い浮かべることがあったり気にかかったりするならば、それは祖先(亡父母を含む)自身の祭祀して貰いたい意識があなたの意識の中に織り込まれているからなのである。だから、そういう考えが起こってきたときにはお仏壇のない家庭ならお仏壇を買ってきて祀(まつ)ってあげるがよい。
霊界への移行と死後の霊魂の状態
(『人生を支配する先祖供養』P.13−14)
<<このような高級霊の特殊の状態は別として、一般普通人の霊魂の、肉体死後間もなくの状態は、現実世界の臨終の状態のつづきの状態を経験するのである。心境が急激に変わることはないからである。霊魂が肉体を脱皮して新たなる境涯に入る課程は、毛虫が蛹(さなぎ)の状態から脱皮して翅(はね)の生えた蝶の状態に移行する課程にも似ている。それは“霊界への出産”ともいうべき状態で、出産の陣痛ともいうべき断末魔の苦しみを経験する。(もっとも悟境に入っている霊魂は既に述べたように無痛分娩とでも謂(い)うべき安楽の状態で、意識を持続しながら霊界へ移行する)
断末魔の苦しみを味わう霊魂は、神の慈悲によって、ある程度以上の苦痛を免除して、ある期間人事不省の無意識状態に入る。(人により長短があり、間もなく意識を回復する者もあるが、長きは数十年にわたり人事不省のまま継続するのもある)それは各自の過去の業因の相異によって業果(ごうか)が異なるのである。
その人事不省の無意識状態が長きにせよ、短きにせよ、いずれにせよ、霊界に於いて意識を回復したときには、(その人にとって無意識中のことは心の中に存在しないからである)生前、臨終の際の状態が、記憶の世界に蘇生(よみがえ)って来て、癌で死んだ人は心に癌の苦痛が復活して来て、霊界でその癌の症状をその幽体に継続する状態を仮作(けさ)し苦しむようになるのである。>>
病念を持ち越して霊界で苦しむ霊を救うために
(『人生を支配する先祖供養』P.14−15)
<<病念を霊界まで持ち越して、病気の記憶のままに病気を霊界で体験しつつ苦しんでいる霊魂の救われる道は、病気や肉体はないということと、死後の生命の継続を説いて聞かせてあげ「死」というものは<ない>、それは現実界から霊界への転任である。その転任の時機は神の御手にあるのだという真理を悟らせてあげることが第一である。
それには祖霊を招霊して『甘露の法雨』を毎日一定時間を約束して読誦してあげるがよい。一人の迷える霊魂を導くだけで、原因不明の病気や不治の病気、それに家庭不和などが改善される場合があるのである。だから、先祖とか親類縁者の祭祀(まつり)というものを決しておろそかにしてはならないのである。>>
わが生命は祖先の生命の連続である
(『人生を支配する先祖供養』P.15)
<<祖先または自分に関心ある縁者の霊魂の想念は、その子供に影響を与えるので祖先が好まないところを子孫が行えば、祖先または縁者の霊魂の反対観念を受けてその人の運命が妨げられ、順調に進まなくなる事もある。
また祖先または自分に関心ある縁者の霊魂が迷いにとらわれ、信ずべからざるを信じ、妄執にとらわれていると、現実界の子孫たるわれらがその念を受けて、正しいことを行いながらも、それがおもしろくゆかなくなることになるから祖先の霊魂にはすみやかに真理を悟らせてあげる必要がある。(『生命の實相』第四巻、第五巻、第十六巻参照)>>
|
|