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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[5506] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第147回
信徒連合 - 2016年10月25日 (火) 09時04分



谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――


@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』

A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』

★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。

******************




藤原敏之先生「全てを癒やす道」より(23)




本当の救いとは


 本当の安心を得るには

信仰とは一口で言えば“私だ”と思っていたのが私でなくて“神であった”と気付くことです。“無我”であり“私”が無くなることであります。私が無いから神様だけとなります。これが生長の家の信仰であります。

神と我とが対立しているようなのは信仰ではありません。救われる自分も救って下さる神様も無い、我も無ければ神もないという絶対の境地を言うのであります。それが信であります。

依頼心ばかりが強くなり、当てにしているのを信仰していると思い違いしている人がありますが、そのような信仰を迷信というのであります。迷信は信ではありませんから、何時まで経っても本当の安心とはなりません。不安がつきまといます。

本物の信は絶対でありますから何が起っても動ずることはありません。即ち不動となり、そこから絶対の自信が生まれて来ます。

昔から信は力なりと申しますが、信がすべての原動力となり、どんな問題でも解決する力となるのです。

解決しないのは信が不足するからです。信が確立しないで病気だけ治そうと思ったり、お金だけ儲かったりすることを願っても無理です。信が確立し、本当のことがわかったらどんな問題でも勝手に解決するのです。それはどうしなくてもどうもないのからです。みんなどうなっているからどうかしなければと焦るのですが、それがそもそもの間違いであります。ありもしないのにあるように思っているだけでありますから、無いと解れば万事解決するわけであります。無明という色眼鏡を掛けて見ているから、色がついて見えるのであって、眼鏡を外すだけで本来の完全さが現れるのです。

それは決して色がついていたのが無くなるのとは違うのであります。もともと色はついていなかったから眼鏡を外すだけで当り前になるのです。

人間というものは誠に困ったものでありまして、無明が苦しみの根源といえば直ぐに無明を無くすことに引っ掛かります。色眼鏡だといえば色眼鏡を無くすことに引っ掛かります。無明とは即ち、無いということでありますから、無明を無くす必要さえないのです。ないないづくしです。あるのは唯神だけです。神の外に何もない、これが生長の家であります。

神のお造りにならない病気や不幸は、もともと無いのでありますから、どんなにある様に見えていても、一切関知せずと相手にしなければよいのであります。

イヤだと思いながら、相手になっている人が多いのですが、こんな馬鹿げたことはありません。本当にイヤなら、相手にならなければ良いのです。“イヤだ、イヤだ”と思いながら相手になる位下らないことはありません。病気でも不幸でもお客のようなものでありますから、やいやい言って相手になっておれば、幾らでも長尻になり、腰を据えてしまいます。お客でもいやな相手なら、折角来られたが私はちょっと忙しいから出てくるといえば、お客は居るわけにはいかぬから、「それでは私も失礼します」と言って腰を上げて帰ります。これが病気や不幸を退散させる秘訣です。何でも心で把んではいけないということであります。把んでいる限り、消えもせず、無くもならないのです。放すことが大切です。

放すといえば、どうしたら放せますかと聞かれますが、どうするもこうするもないのです。本当に嫌なら、止めたらいいのです。
 止められないというのは、奥底の心は好きだからです。表面の心と奥底の心とが食い違っているからです。

 信仰というのは、この奥底の心(潜在意識)を浄めることであり、革命すること、根こそぎ換えることであります。この奥底の心を浄め、かえるには祈るより外に方法が無いのです。祈りとは嫌なものを無いと強く否定し、自分に言い聞かせることであります。完全円満な実相を想念するのです。

悪いものを無くする祈りではなく、悪や不完全は無いとして実相の完全さにお礼をいうことであり感謝することであります。なるべく言葉に出して感謝するのです。それが神想観です。

現象を見る目は誰でも持っていて、肉眼の目で見たものは絶対だと信じておりますが、本当(実相)のものを観る目が閉ざされているのです。だからありもしない現象(影の方)だけはしっかり把んでおりますが、肝腎の本物(実相)の方のことは全然解らず、その間違いで苦しむのであります。




 教えの根本をつかむ

仏教やキリスト教で天国や極楽は死んでから行く所で、この世の中に天国も極楽も無いと説くのは、あっても見る目が無ければ無いのと同じであります。昼間は太陽が照っているから、絶対に暗くないのに、目を閉じて光を見なければ暗いのでありますが、このような間違いを宗教では無明というのです。

 現代は、唯物主義の時代であり、科学万能の時代でありますから、何でも科学的に判断して、物事を決定しようとしがちですが、それがそもそもの間違いでありますから、科学が進歩しても文化が向上しても、いっこうに人類は幸福にならず、逆に不幸や心配が増大しているのであります。

 生長の家はこのように現実的立場に立って納得がいくように説かれているのです。他の既成宗教が、死後の天国や極楽を説いているのに、生長の家だけが何故地上天国建設という、現実離れた夢物語のようなことを堂々と掲げて運動が出来るかと申しますと、尊師谷口雅春先生だけが、心の眼をお開きになり、一般の人には見ることが出来ない神の国(実相世界)を発見せられて、その世界を私達に解るようにお教え頂いたからです。

 実相を観る眼をもたない宗教家はお教の本や聖書に書いてあることは読めば解りますがから、天国はある、極楽はあると説きますが、「それは一体どこにありますか?」といえば、見当がつかぬから、西方十万億土の彼方に遠いところだ。従って、今すぐというわけにはいかないから、死んでから……と説くより仕方がないのであります。一般大衆と同じように真理(実相)に対して、めくらでありますから、今此処にある極楽は観られないから一緒になって迷っているのです。

 昼間、盲人ばかりが集って、「暗い、暗い」といっているようなものです。そこに谷口雅春先生のような大聖者が現れて、実相(本当のこと)を発見せられて、「みんな暗い暗いと言っているが、本当は暗くないぞ、今昼で太陽が照っていて、明るいぞ」と教え頂いたのであります。私は尊師のお説き下さる真理に眼を開くことが出来た一人なのであります。

 そして眼を開いたものは、元々暗が無いから、光明を見ることが出来、今まで暗いと思っていたことが間違いであったとわかるから、病気も不幸もいっぺんに解消して、今ここ天国となるのであります。生長の家のみ教えの中で最も大切なのは、教えの根本が何処にあるかを明確につかむことです。現象の悪や不完全をあると認めてそのありもしない悪や、困る事件を処理し、取り除くための努力は生長の家の解決ではありません。生長の家は徹底した実相哲学であり、現象否定に徹し切ることであります。現象に何があっても一切取り合わず、相手にしないことです。現象が気になり、苦になるのは、現象が否定されないで、実相に徹し切れないからであります。

 又、生長の家では「今」の哲学といって、「今」を生きる教えであります。「今」の他に何もない、本当にあるのは「今」だけというのであります。済んだことは記憶にはあっても現実には無い過去の出来事となります。過去は無いのであります。又、未来、即ち未だ来ていないことを思い煩う位、下らないこともありません。どんなに考えても、明日のことは何とも決まっておりませんから、「ああだろうか」「こうだろうか」と想像し、思ってみる以外に一歩も出ません。こんなのを空想といいます。ただ考えているだけで、何の進歩も解決もありません。世の中には、このようなことで尊い人生、貴重な時間を空費し、無駄にしている人達が如何に多いかということです。

 結局、あるのは「今」だけということになりますが、厳密にいえば、その「今」さえも無いということになります。それは「今」を捉えようとしても、捉えることは出来ません。「今」と言っているうちに、過去になり、その瞬間に次の「今」が来ております。永遠に続く「今」であり、「今」「今」の連続であり。現象には、「今」も無いというわけであり、相対時間の中には「今」が無いのです。すると「今」とは永遠であり、絶対であります。このように時間も空間も超越した世界を実相世界といい、その実相の世界に今私達は生きていることになるのです。このことに気付き、目覚めるのが、生長の家であります。




 信、行、そして感謝

前にも書きましたが、私どもに悩みを訴えて相談に来られる人々の中に、次のような方がよくおられます。このみ教えを戴いていて随分長くなります。『生命の實相』も何遍も読みました。谷口雅春先生の御講習も何回も受講しました。現象が、ただの現われであって、実在でないことをよく解っております。人間が肉体でなく、生命であることもよく解かっております。なのにどうしても実感にならず、従って病気もちっとも快くなりません。どうしたら実感が湧いて来るのでございましょうかとお尋ねになる方が沢山あります。

 こんな人達は大抵『生命の實相』“研究会”の会員というべき方々であります。宗教と学問の違いは、実践が伴うか伴わないかで決るのです。宗教の根本が信であることも既に述べましたが、信は実感から生れるものであって、考えたりわかって生れるものではありません。

行を通さない信など絶対にありません。ごちそうはどんなに上手に眺めてみても絶対においしくなりません。又料理の作り方は食べ方や、栄養学まで研究し尽しても、いっこうにお腹は膨れません。「美味しいだろうな」というところまでで止ってしまいます。

世の中には、ここで止っておられる信徒が大変多いようです。ここにも、光明化運動が遅々として進まない根本原因があるようであります。ごちそうを勧める場合でも、「食べてみて美味しかったから、あなたも是非食べてみてごらん」というのと、「ごちそうを見て来たが、大変おいしそうだから、あなたも食べてみませんか」というのでは同じような表現でも、その言葉の持つ権威が異なり、言葉の迫力が違うのであります。相手の魂を打つ力や程度が違ってくるのです。信がすべてであり、信のみが解決する力であります。

 さて、それでは「信は行から生れる」と申しますと、又行に引っ掛かりますが、行にも色々ありまして、自力と他力があります。

 生長の家は仏教で説く大乗の教えでありまして、絶対他力であり、自我的努力を絶対に必要としないのであります。徹底した他力行であり、他力行とは感謝一点張りであり、すべて感謝から出発するのです。自分でやる行ではなく、させて頂く行であります。生活全体が感謝となるのです。

 生活でも大体二通りあります。一つは奪う生活であり、取る生活であります。何でも取る、取るといって暮している人があります。「月給取り」などといって「お前は給料幾ら取っているのか」などといいます。又お米や大根でも「お米はなんぼ取れたか」「大根幾ら取れたか」といいます。これらも明らかに取る生活であります。

 ひどいのになると、他人のお世話をしながら「してやっとるのに……」と申します。他人のお世話をすることは誠に尊いことであり、善行であるのに、まだ取っている人があります。信仰生活はすべて戴く生活になります。「給料は幾ら頂戴しております。お米は幾ら収穫させて頂きました」という具合になり、すべて「頂きました」となるのであります。

 このように感謝から生れた行は、すべて頂く行であります。「させて頂く」となれば、心が高ぶらず、常に謙虚となり、不平や不満が無く、明るい心で行動出来、楽しく行動出来るのです。自力の行には苦痛が伴い、他力の行には苦痛は伴わず、楽行となります。このように大乗と小乗、自力と他力とには大きな開きが出来るのであります。生長の家は唯感謝し、ただ行ずるのです。
 安心と喜び、感謝の生活からは断じて、不安も苦痛も生れません。内在無限の力は、そこからのみ生れます。“どうしなければ”も“どうせねばならぬ”という力みも一切無くなり、外部から強制されて動くのではなく、自発的に動き出す力となるのであります。このような信徒が増大することによって、生長の家の人類光明化運動も飛躍的な発展を遂げることになると信じます。御教えの理解者や共鳴者の段階から一転して、本当の信者となり、命がけで伝道せずにおられない同士が、一人でも多く誕生して下さることを祈念しつつ筆を止めます。
                                     合掌


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