| [488] インターネット道場―――個人を救い国家を救う聖経『甘露の法雨』とその奇蹟@ |
- 信徒連合 - 2015年09月10日 (木) 08時17分
聖経『甘露の法雨』の由来
神秘面より観たる『生長の家』四十年史(P.38―39)
<< 『甘露の法雨』は、生長の家発祥当時、しきりに霊感的に私の脳裡にひらめいて来たのを書きつづった自由詩の一つであった。その頃出てきた私の自由詩は全部『生命の実相』の“聖詩篇”に収められているが、別に『ひかりの語録』という携帯型の袖珍本(しゅうもんぼん)に、やはり霊感的短箴言の輯録である“智慧の言葉”と共に収められているのである。これは私がまだ東京へ出ない前の数年間、ただ一般に“生長の家の歌”叉は“自由詩”として取り扱われていたのであるが、私が東京へ移転してから後、京都電燈社長の石川芳次郎氏の外舅(しゅうと)・工学博士・小木虎次郎氏が、その自由詩の中の一篇『甘露の法雨』を読誦すると、医界難治の奇病・難病が治癒することがあり、霊界の祖先の霊が救われると見えるような奇瑞が屢々あるので、それを単に”詩“として詩集の中にのみ収めておいては功徳を知らない人が多いから、ハッキリとこれは聖経であると明示して折り本型の経本として発行すれば、功徳を受ける人が多いであろうと、生長の家京都教化部で経本式折本として発行されたのであった。折本の紫色の表紙には単に「聖経」という表題が貼り付けてあり、経文の本文を印刷した紙は、尾本輝三氏のお世話で福井県若狭ですいた純粋の和紙で作られたものであった。果たせるかな、それが経本になって頒布されると、陸続として功徳を受ける人々が殺到して、其れを携帯するだけで、交通事故に遭いながら微傷も負わなかった人が出て来たりしたのであった。京都の教化部では、これは京都で独占すべきものでないと、その出版権を本部に返還されたのであった。
どうして『甘露の法雨』にこのような偉大な功徳が生ずるのであろうか。私は、それをただ霊感で詩作する時に、ふと感じてその詩の題を『甘露の法雨』としたに過ぎないのであって、別に『法華経』の観世音菩薩の普門の功徳を説いた“普門品”に連関して詩の題を『甘露の法雨』と題したのでもなかったし、観世音菩薩が教えの本尊として門脇観次郎氏の霊眼に見(あらわ)れるなどと言う事も全然予想もしなかった。ところが私の著書や執筆の雑誌を読んで功徳を得た人に顕れる色々の霊顕や現象が次第に観世音菩薩が生長の家の本尊であり、その観世音菩薩が『法華経』の“普門品第二十五”にある通り「甘露の法雨を注ぎ給うて煩悩の炎を滅除し給う」のである事を証明するようになったのである。聖経『甘露の法雨』の功徳はそれをお説きになった観世音菩薩の妙智力と引き離して考えてはならないのである。>>
右の手に七つの星を持ち給うキリスト
神秘面より観たる『生長の家』四十年史(P.36―38)
<< 「ヨハネ黙示録」第一章にあらわれている白髪久遠のキリストは「その右の手に七つの星を持ち」とあるのであるが、戦後、その翌年、高知市で講習会のあったとき、藤林千代子さんが、次の様な体験を話されたのであった。―――
千代子さんの良人は戦争たけなはだった昭和十九年の頃、第一生命保険会社の外交員をしていられたのであった。そしてその頃の成績が優良であったので、抜擢されて終戦直後、同社の高知支部長に任ぜられていたのであるが、その奥さんの千代子さんの語る話は、戦争末期に山口県下関全市が、アメリカ軍の焼夷弾による絨毯爆撃で火の海になった時の体験に関してであった。
千代子さんは、その爆撃の前日、神想観をしていると、神の“声なき声”が聞こえた。その声は“明日の夕方、敵の空襲があって、此の町全部火の海になる。空襲があっても、観音山にのがれたらいかぬ。観音山に逃れたら死ぬ、家に止まれ”というように聞こえた。観音山というのは、観世音菩薩がまつってある下関市内の小高い山であって、焼夷弾爆撃が始まって、隣家一円炎の海になりそうになったら、観音山には家屋がないから延焼して来るおそれがないので、炎の災害を免れるためにそこへ逃れよという指令が当時、隣組という隣保組織から出ていて観音山への避難訓練まで行われていたのであった。
翌日の夕食後、千代子さんが鏡台の前に座っていると、「そら空襲だ」という霊の声をきくと同時にアメリカ軍の焼夷弾爆撃がはじまった。千代子さんは屋財家財を井戸の中にほり込みはじめた。全市が火の海になる予告であるから、家財を避難させる安全な場所とてはないのである。井戸の水の中だけが炎をまぬかれる唯一の場所である。しかし、妻が茶碗まで井戸の中へ投げ込むのを見た千代子さんの良人は、「そんなことをしたら、明日の朝たべる茶碗がないじゃないか」といった。すると、千代子さんは、「あす朝は、御飯どころの話じゃありませんよ」といっているうちに、周囲が火の海になって来た。
隣家の人たちは避難訓練の通りに観音山に避難して蟻の行列のように密集している処へ更に空襲が集中的に、その密集避難民に向けて焼夷弾攻撃を加えた。そして観音山へ逃れた人はひとり残らず無残な焼死をとげたのであった。
ところが藤林一家の人たちは、前夜に神の予告を得ていたので観音山へのぼらなかったので、救かったが、周囲の隣家は悉く炎となって、藤林邸を包んでしまった。八方炎の海であって逃げ場はないのである。その時、突然、千代子さんの霊眼に、白髪の老翁の神姿が見えたのである。裾まで垂れた白い衣を召し、顎髯は胸まで垂れ、黄金の冠をかぶっていられる。その神様の冠には七つの金色燦然たる星が輝いていた。
その白髪の翁の神姿が、爆音や建物の燃える騒音で神様の声はきこえなかったが、手招きで、自分の行く方へ従い来たれと言っておられる風に感じられた。しかし周囲は炎の海である。しかし炎は上へ上へと燃え上がって、炎の下の地に面するところは燃えていないのである。藤林一家は、大きな座布団を水でビショ濡れに浸し、それを背に被って炎の熱を避け、亀のように地面を匍匐して、火熱を防ぎながら、下関の海岸まで、やっと辿り着いた。
振り返ってみると下関全市が火の海である。背を覆って来た座布団をとってみると、水は殆ど全部乾いてしまって、真ん中が焦げかかっている。もう少し海岸まで出るのに暇どったら、背中の肉が焼け爛れたであろうに、それは無事であった。千代子さんは和服にしめた昼夜帯の間、胸の下のところに、お護り用の聖経『甘露の法雨』を挟んでいたので、腹這いになって逃れて来たので、丁度そこは土に面しているので、聖経のサックも表紙も焦げていなかったが、その本文を開いてみると、経文が書かれてあるページが、チョコレート色に焦げて、もう少し焦げればボロボロにくだける直前のような姿になっていた。サックも、表紙も、焦げていないのに、その中にある経文の本文の紙が焦げているのは、これは全く不思議で、千代子さんは、「普通ならば、自分たちが焼け焦げて死ぬ筈であったのに、この聖経のお守りが身代わりになって焦げて下さったのだとおもう」と感激した語調で話されたのであった。>>
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