| [496] インターネット道場―――入龍宮不可思議境界録 A |
- 信徒連合 - 2015年09月11日 (金) 09時41分
インターネット道場―――
入龍宮不可思議境界録(その二) 叡智の断片P.176−179
<< 有てる者が幸福か、有たざる者が幸福か。わかったようで判らぬことばかりが多い世の中である。家庭光明寮の寄宿舎跡が最近本部内の社宅となって、八世帯も入っている。一日、家内と共に本部員たちの御機嫌伺いに参候する。焼け出されたHさんの部屋は六畳の間に食卓兼用に机が一脚置いてあるきりで何もない。それは全く旅館の一室に今到着しましたと云うような簡素さである。『Hさん結構ですねぇ、まるで旅館の特等室ですね。これだけの旅館の部屋に泊めて頂いたら、一日三百円は室料を払わねばなりませんぜ。』
ところが、二十畳の大部屋に入れて貰っているPさんの部屋を覗くと、この人は焼け出されでないので二十畳の大部屋も古道具屋の店先のように足を踏み込む余地もない位に充満している。Pさんは古道具の倉庫にやっと住ませて貰っているような恰好である。
焼け出されないで、持ち物の沢山ある人は古道具の倉庫にやっと膝を入れる位の生活をしているし、焼け出されて何も持たない人は瀟洒な旅館の特等室に毎日お客さまのように住んでいる。
私は、どちらが幸福な生活だろうと考えて見たのである。満更、焼けない屋財家財を棄てる訳にも行かない。物を持ち過ぎている人は「空間」を少なく有っているし、「物」を少なく持っている人は「空間」を広く有っている。「空間」も一つの価値、「物」も一つの価値。
○
甲僧問うて曰く、『「空間」と「物」と、汝の幸福のためにいづれを選ぶか。』
乙僧答えて曰く、『空間』と。
『汝何故に空間を選ぶ』
『物あれば、執して自由を失う』
いずれか是なる、いずれか非なる。明々白裡、一句を道取し来たれ。
○
曰く、無一物中無尽蔵。
曰く、永遠の今、天壌無窮。
久遠は <時の流れ>の中にあらず。久遠は即今にあり。『今』久遠を把握せざるべからず。
『今』天壌無窮を把握せざるべからず。滅即ち不滅なり。前後際断なり。不連続の連続なり。矛盾の自己同一に非ず。
○
いたずらに下語することなかれ。天地無声の声。これ神勅なり。神韻なり。耳あって聴く者は聴くべし。 素直に聴従すべし。
○
『今』を把握せざる者、天壌無窮を永久に知ることなし。
『今』を把握せざる者、『不死の生命』を永久に知ることなし。
○
現象刻々流転。されど流転せざるものあり。『今・即久遠』
『今』を把握すれば人の病癒え、国の病癒ゆ。
○
『今』の中に取越苦労も、持越苦労もなし。
『今』をもって天国浄土となす。
『今』を失えば五鳳龍宮城に舞うも天国浄土瞬時にして消滅せん。
○
入龍宮不可思議境界とは『今』の中に突入するなり。
如何にして突入するや。
前後際断、今即久遠、無一物中無尽蔵。
○
われ『今』無一物なり。而して『今』無尽蔵なり。
無一物から起ち上がるに非ず。
無一物そのままに無尽蔵なるなり。
此の真理を知る者のみ不倒翁たるの資格あり。
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