| [522] インターネット道場―――個人を救い国家を救う『甘露の法雨』とその奇蹟 C |
- 信徒連合 - 2015年09月13日 (日) 08時04分
インターネット道場―――
個人を救い国家を救う『甘露の法雨』とその奇蹟 C
“原子の火”も焼く能はざる聖経の奇蹟( 神秘面より観たる『生長の家』四十年史(p.45−48)
<<「生命の実相を悟る者は火に焼けず、水に溺れず」と言う事に連関して、『甘露の法雨』の聖経が、「第三の火」と言われる“原子の火”(原子爆弾)に対して如何に対抗する事ができたかを書いて置く事は『生長の家四十年史』上に是非看のがしてはならないことだと思うのである。
それは昭和二十年八月九日、アメリカ空軍機B29が長崎を「原子の火」をもって攻撃した時のことであった。B29機は長崎市の中央にあらわれて、そこに落下傘にぶらさげた原子爆弾(それは後に明らかにされた所によると、広島を襲った原子爆弾よりも二倍の爆発力をもったプルトニューム爆弾であった)を投下すると、そのまま西の空に消え去ったのであった。
丁度その時、長崎の東端にある町、浦上にある有名なカトリック教会では、その信者の九十パーセントの人々が集まって熱心な祈りを捧げていたのである。それはカトリックのことであるから「主イエス・キリストの受け給いし苦しみを我にも受けせしめ給いて、自分たちを代贖者としてこの戦争を終結せしめ給へ」というような意味の敬虔な祈りであったと思われる。そのとき落下傘によって空中に浮かんでいた原子爆弾は恰もその祈りに応えるかの如く、風に吹かれて、その熱禱を捧げている最中の、教会の真上まで来ると、ピカドンと爆発したのであった。そしてその熱禱を捧げている最も敬虔なキリスト信者たちは一瞬のうちに霊界に移行したのである。
その教会の隣に、長崎医大及びその付属病院があった。病院勤務の臨床を担任している博士たちは一瞬のうち全部息の根が絶えた。病院全部を暖房するための煙突は“く”の字にひんまがり、付近の山王神社の御影石の鳥居はその一方の柱が無残にもへし折れて飛んだ。
それは八月の事であったから大学は休暇であったから学生には被害がなかったが、学科を担任している教授たちは、頻々として長崎を襲ってくる空襲のために、もしか大学校舎に爆弾が命中して火を発したら、防火に従事する必要のために出勤して、泊り込んで当直する事になっていたのであった。当直に当たっていた教授は皆無慚な死をとげた。その日出勤していなかった教授だけが救かったのである。精神科の科長をしていられた高瀬清博士は(その夫人が長崎の生長の家白鳩会長であった)その休暇を無駄に過ごさないで有益に利用しょうと思って八月一日から七日までの一週間、歯科医を集めて精神医学の講座を開いて、毎日数時間の連続講義をすることにせられたのであった。
一週間連続の講座が終わると、教授の一人が、高瀬博士に「先生は御老体でもあるのに一週間も連続の御講義では、お疲れでしょうから、三日間位は公休をお貰いになって自宅で静養して下さい」と勧めるものであるから、八月八日、九日、十日と三日間、長崎市から汽車で一時間半の距離にある疎開先の自宅に帰って休養しておられたのであった。そのために八月九日に長崎市を襲った原爆から自然に身をかわして無事なるを得たのであった。
当時の生長の家幹部の人たちは、あの原爆の当日、あの時間に、不思議にも何かの用向きで長崎市にいないで、原爆とスレ違って救かっているのである。どんな災害も、心がそれに波長があわねば近づくことが出来ないと言う真理の実証と見ることが出来るのである。
ところが、まだ生長の家の幹部役員ではなかったが、熱心な生長の家信者で、毎日、祖先霊に供養のために聖経『甘露の法雨』を怠らず誦している天辰静雄さんという誌友があった。この人は、原爆をB29が携えて空を飛んで来たとき、空襲のサイレンを聞いたので防空壕の中に身をひそめていたのであるが、日本の軍は原子爆弾の事は知らないので、襲って来たB29が東の空に姿を消し去ると、空襲は終わったものと見て「空襲解除」のサイレンを鳴らした。
そのサイレンを聞いた天辰静雄さんは防空壕の外に出て「敵機はどこへ往っただろう?」と思いながら上空に眼をやると、落下傘にぶらさがって何か黒いものがフラフラしているのである。
「てっきり、あれは、敵の飛行機が日本の高射砲でやられたので、その飛行士が落下傘で逃げて降りるんだろう」と思って見ていると、そのぶらさがっている物は、敵の飛行士ではなくて原子爆弾であったのである。それは至近の距離で(四百メートルとも八百メートルともいう)突如ピカドンと爆発した。その一瞬、天辰さんは気を失って倒れた。・・・
それから何時間経ったかよく分からないが、氏は眼を覚ましたのであった。意識を恢復して顔をさすり、全身を眺めてみるけれども、何処にもかすり傷も火傷もない。その付近には、黒焦げの屍体が五つ六つ転がっていた。
当時、近い距離で原子爆発の洗礼を受けた「黒い物体」はみな火を発して燃えたので、全市が殆ど火事になったのも、そのためだそうだが、それは、天辰静雄氏同様に、爆発のショックで意識を失ったまま、黒い衣服を着ていた通行人が火を発して焼けて黒焦げの死体となっていたのであった。
しかし、天辰氏自身はどんな被害も受けていなかった。彼が意識を恢復した時、聖経『甘露の法雨』の中身の経文の部分の紙がひらいて、氏の胸の上に斜めに、覆うようにかぶさっていたという。まったく氏が、そのような至近の距離で、裸の顔を上空に向けて原子爆弾を眺めながら、その爆発の直撃を受けながら、聖経が胸を覆うていたために何の被害も受けなかったのは、観世音菩薩(住吉大神)の降ろしたまえる『甘露の法雨』に護られていた功徳だというほかはないのである。
その翌年、長崎市に講習があった際、天辰静雄さんは、私にお礼を言いたいと言って、帰りの汽車に私に同乗して来られて、その時の実情を詳しく話されたのであった。右に書いたのは、そのとき天辰氏自身から聞いた実話であるのである。
その時、私は、「そのあなたの胸に懸かっていた『甘露の法雨』は何処から来たのですか」と訊いた。すると、天辰さんは、「それは私の家の聖経です。私は毎夜、お仏壇の前で『甘露の法雨』を誦んで祖先を礼拝することにしているのです。その前の晩わたしは、誦み終わると、聖経をサックに入れないで、どうせまた披いて読むんだからと、ふと思ってサックの上に聖経の折本を重ねて置いたのでした。すると、それが原爆の爆風でわたしの胸の上に飛んで来てわたしを覆ってくれたのでした。」
もし天辰さんが、先祖供養を怠って『甘露の法雨』を毎夜読まないでいたとしたら、氏の運命はどうなっていたか分からないのである。天辰さんはその後、十五年間以上も健康で生きておられた。何でも愛知県の方に移転して来ておられたが、亡くなる時も原子関係の病気ではなかった。原子の“第三の火”も聖経に宿るところの“真理”につながる人々を傷つける事は出来ないのである。・・・>>
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