| [6128] 共産党工作員・狂乱総裁マサノブの『生長の家』看板横領罪をもっともっと追求すべし!! |
- 四国三郎 - 2016年12月17日 (土) 15時39分
@ 狂乱総裁マサノブは以前から指摘されているように、『生長の家』看板を独裁君主の権限で絶対に放棄する気はない。なぜなら、無知の信徒さんから、上手にカネを巻き上げる「金の成る木、打出の小槌」として利用できるからである。
A 看板は『生長の家』であっても、今のマサノブ教は全く『生長の家』ではない。その訳は、少し考えれば分かるのに、マサノブ洗脳によって一般信徒さんはそこまで考え及ばないのである。
1、 「生長の家教規」(最高規範)第五条(教義)、第六条(本尊)、第八条(儀式の執行)に「マサノブ教」は完全違反している。
2、 開祖・谷口雅春先生の御著書に対すして、国家論・愛国論・古事記講義・憲法論・教団史を中心に絶版という焚書行為を為した。
3、 立教の目的と使命を完全放棄して、「地球環境保護・温暖化防止」を第一優先順位の運動と化した。これは実質的には狂乱総裁マサノブが独裁権によって狂乱総裁の趣味と道楽へ公金(信徒の浄財)を蕩尽して宗教貴族化してしまったことなのである。
4、 愛国団体であった『生長の家』を、反日・新中国路線という開祖・谷口雅春先生の目指された方向とは全く逆の路線を目指し、開祖・谷口雅春先生の『生長の家』を完全解体し、『御教え』の完全抹殺と、信徒の浄財のマサノブ自身の個人的趣味と道楽へ蕩尽し尽くすために完全独裁権を使って推し進めていることなのである。財務的にも『生長の家』を再起不能にして置く必要があるからである。
5、 『生命の實相』と云う根本聖典を放棄して講習会や誌友会のテキストから外して、「日本会議の研究」・「週刊金曜日」・「“人間・神の子”は立憲主義の基礎、、−何故、安倍政治ではダメなのか?」と云った反日・サヨク主義者の本をテキストに指名した。全く創始者である開祖・谷口雅春先生とは逆方向を歩んでいるのである。
よって、狂乱総裁マサノブは『生長の家』という看板を使う資格などは無く、『マサノブ教』とか『環境の家』と云った中味に等しい看板に架け替えるべきである。このまま、狂乱総裁マサノブが『生長の家』の看板を使い続けるならば、明らかに「看板横領罪」、「看板欺瞞罪」、「看板窃盗罪」に当る違法行為である。簡単に言えば、宗教家の顔をして信徒をだます“看板泥棒”である。
B しかし、狡知マサノブは言い逃れの屁理屈だけは用意している。
1、 宗教は、常に時代の制約下にあり、時代の変遷と共に教義の内容も変えていかなければならない。
2、 中心真理は変わらないが、周縁真理は時代即応に変化せしめなければならない。それが、教えの後継者の役割である。
3、 生長の家出は仏経で説く『不立文字』の考え方を採っていて真理の神髄の部分は文字では表現する事が出来ない。したがって文字で表わしたものは皆、不完全なもので真理そのものではない。
このように説教しているが完全な間違いである。宗教は、「古いと新しいとを超えた久遠悠久の真理」を説くものであって、時代の制約下にあるものではない。又、時代と共に変化せしめなければならない真理なんて真理と呼ぶこと自体が間違っているのである。従って、中心真理とか周縁真理とかの区別をつけること自体が間違いで、真理に“今昔なし”、真理は悠久不変にして普遍なるものである。だから、『マサノブ教』の教義は、開祖・谷口雅春先生の『生長の家』の教義を受け継いではいない別宗教で、『生長の家』の看板の不正使用だといえるのである。
C 以上のような正当な考え方に対して、未だにマサノブ教の大勢の信徒さんは、“批判的な考え”だという。このような人たちは「真説」と「虚説」の違い、「批判」と「摧破」の区別が分からずにタダ批判しているに過ぎない。開祖・谷口雅春先生は『生命の實相』のなかで次のように説かれている。
1、<< われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、虚説に対して和解してはならないのであります。虚説に和解したら実相をくらますことになります。虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。「天地一切のものと和解せよ」との生長の家の第一最大の誡命(いましめ)は、「天地一切のものの実相と和解せよ」ということであって、仮想や虚説にたいしては「サタンよ去れ!」と排撃すべきなのであります。釈迦もキリストも同じような態度で虚説を駁撃せられたのであります。虚説に対してはあくまでも戦い、人に対してはどこまでも実相を見て許す。どうか皆さんも虚説に対しては和解することなく、どこまでも「サタンよ去れ!」の態度で進んでいただきたく人間に対してはその表面の<包み>(罪)をみないで、その罪なき完全な実相を見てその罪を赦す(その罪を見て<無い>と見て捨てる)ことにしたいのであります。 >>(『生命の實相』和解の倫理)
2、<< 怒りの内にも善もあれば美もある。戦ひと怒りを否定する境地はなほ初歩である。 普通の怒りを否定し去つたのちに、尚實相が迷ひを消すための戦ひと怒りとのあることを知らねばならぬ。それは聖戦であり神の怒りである。神そのものが怒つているのではない。實相が迷ひの中を厳かに進軍するとき、その顕れが戦ひとなり、神の怒りとなり、天変地妖ともなれば階級闘争ともなるのである。迷ひの方から言へば迷ひの自壊作用であり、實相の方から言へば實相の勝利である。迷ひは『虚』であり、實相は『實』なるが故に、唯勝つほかはないのである。汝らただ恐れず進み行け。>>『秘められたる神示』
3、<< 伏心というのは、邪なるを見て、それを調伏する心であります。和顔でなければならないし、忍辱よくたえしのぶことも必要でありますが、いやしくも真理にそむく邪な説を立てる者に対しては破邪顕正の剣を揮わなければならないのであります。それが又、自分の魂をみがく道場となるのであります。』 >>(『維摩経解釈」』
4、<< (「 無 」 の字、 「 ない 」 という言葉 は ) この織り込み方は わたし独特であって、わたし独特のインスピレーションによって書いてゆくので、誰にも真似(まね)は できないのであります。思想は 真似はできても、言葉の調合は 真似ができないのであります。かくのごとく 「 無 」 の字は 竣効(しゅんこう)を有(ゆう)するので、生長の家では、それが人間に働きかけて、生命を生かすので、有効無害の働きをするように、文章中に巧(たく)みに 他の言葉と混ぜて 調合(ちょうごう)してあるのであります。「 無 」 の字、 「 ない 」 という言葉は、生長の家の発明でも発見でもありません。゚ 釈迦の昔からある言葉ですが、生長の家の独創的なところは、 「 無 」 の字、「 ない 」 という言葉を、文章全体の中に織り込んである その織り込み方にあるのであります。この織り込み方は わたし独特であって、わたし独特のインスピレーションによって書いてゆくので、誰にも真似(まね)は できないのであります。思想は 真似はできても、言葉の調合は 真似ができないのであります。だから、今まで お経を読んでも 聖書を読んでも 治らなかった病気でも、その同じ真理が説いてある生長の家では、聖典を読んだり 話を聴いただけで 病気が治るのであります。 (『 生命の實相 』 参考篇 / 質疑篇 )
『マサノブ教』はあくまでも“虚説”であります。“非・生長の家”であります。狂乱総裁マサノブは、二代目・清超先生から「法燈継承者」の正式認可や公式発表を受けては居ないのである。『ニセモノの法燈継承者・マサノブ』である。そして自己のサヨク的唯物現象論を「現代の生長の家」として、虚説を振りまき言葉巧みに大勢の信徒さんをたぶらかして居る。洗脳している。信徒から上手に奉納金を巻き上げる手段として『生長の家』看板を使っているに過ぎないのである。
狂乱マサノブは信徒に対してはウソをつくな!と大上段から居丈高に説教しているが、彼自身は「法燈継承の詐称罪」を犯し、「看板横領罪」を犯して、信徒を欺瞞し続けているトンデモナイ狂乱ウソつき総裁である。宗教家にあらざるウソツキ狂乱総裁の『生長の家』看板の不正使用をもっともっと追及していかなければならないのである!!
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