| [544] インターネット道場―――入龍宮不可思議境界録 E |
- 信徒連合 - 2015年09月15日 (火) 08時15分
インターネット道場―――
入龍宮不可思議境界録 E
叡智の断片P.189−192
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生長の家に入信して運命の好転した人もあり、好転したと喜んでいると、今は却って悪転して生長の家も<きかぬ>と思っているひともある。三界唯心、その人の運命はその人の心にある。入信当時は神の存在を眼の前に見せつけるために生長の家の守護神たちが、その人の心境の如何にかかわらず、他動的によい念波を集注して、その人の運命を好転せしめられるのである。水泳に先輩が未熟者の腹を水中に支えて浮かしてくれるのと同じである。
かくてその人が入信し切ると、もう生長の家の守護神たちは、其の人自身の向上を目的とするのであるから、他動的には、その人の運命を支えて好転せしめることをしなくなる。謂はば、深みへつれて来て手を離すと、いやでも自分の力で泳ぎを知るようになると同じようなものである。その時、自分を支えてくれるものは、ただ自分の泳ぎ方一つにある。
自分の運命を好転するのはただ自分の心の持ち方一つになる。最初好転していた運命はいつの間にか悪転する。そしてある人は「神も仏もあるものか」と云う。ある人は「これは自分の心の影だ」と反省する。前者は堕落し後者は進歩するのである。
戦争中脊椎カリエスとリチャード氏病に罹って歩行不自由にまでなった有留弘泰講師の手紙はそれを雄弁に語るものである。この運命の逆転にもかかわらず、「神も仏もあるものか」と云はずに、これ皆自分の心の影だと氏は精進して回復したのである。次にその手紙の一節をかかげる。
<< 昭和十八年夏、尼崎防衛部隊長として応召、約二年間の勤務を大過なく勤めさしていただきましたのも全く光明思想の賜でございました。しかしまだ信仰が不徹底であった為、折重なり来る悪条件の一つ一つを一切笑顔で明朗に処理することが出来ず、勿論光明の生活によって或る程度まで相当立派につとめさせては頂きましたが、召集事務の複雑多岐、部隊召集権の脆弱性、市役所兵事課の無能、防衛施設の築設に対する人員資材資金の殆ど皆無、尼崎土質の悪条件等々により種々心労もし、不快の思を重ねざるを得ぬ実情にて、加うるに頻発する警報などにより一時的なりとはいい乍ら心境を掻き乱さるる事多く、浄心の機会少なく、遂に少しづつ超過したる心的毒素(長寿の霊薬の生産量よりも超過したる)の蓄積累加によって遂にリチャード氏病と脊椎カリエスとの二つの難症を併発し、遂に隊長として軍務処理に支障を来たすに至り、故山の篠山に退隠いたしましたのが、四月二十一日(昭和二十年)でした。それまで約半年(昭和十九年十月二十八日発病以来)不自由な身体を駆って、兎も角も陣頭指揮とは行かぬ迄も隊務を処理し得た事は、光明真理の賜でございました。部隊の軍医中尉鎌倉勝夫博士および阪大医学部小沢凱夫(よしお)教授(博士)の診定によるも二カ年間の仰臥静養を宣告せられたる程にて事実一時は一歩も歩めない処まで落ち込みましたが、静に心を養い信仰を深め高め、神と神の子の親子一体の境地に到達(白熱化せる父子一体の妙境に入る)と共に(帰篠後約一ヶ月半位にて)俄然好転し始め、急速に恢復、爾後信仰による「働き療法」「忘病療法」「感謝療法」等によって或いは草むしり、畑作、大工仕事、炎天下の裸体労働、魚釣、荷車曳、山行き(薪作り)一里の道を薪を荷車に積んで運ぶ等の相当強度の労働によって急速に強健となり、戦線復帰を期し居る折柄、終戦に遭遇し九月八日復員となりました。この体験の記録をつくっています。>> ○
半身不随の重病にかかっていた有留講師でも病気の責任を他に転嫁せず、みずから今までの自分の心を顧みて改むべきを改めたならば立ち直ったのであるから、それより軽い病気が心の更め方で治るのは当然である。病気を実相だと思ってはならない。健全なのが実相である。病中なお健康の実相を観ずるを入龍宮不可思議境界と云う。
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