| [6191] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第190回 |
- 信徒連合 - 2016年12月22日 (木) 09時08分
谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――
@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』
A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』
★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。
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大聖師御講義『続々甘露の法雨』より(31)
「神の子・人間」には病い無きなり。 「神の子・人間」の上には、 神の法則のみ支配す。 神は愛なるが故に 神罰の法則は汝を支配すること能(あた)わず。 神は生命なるが故に、 死の法則は汝を支配すること能(あた)わず。
世間には、いろいろの宗教がありまして、中には盛んに神罰を説いて人身を恐怖に陥れ自分の宗教に誘い込むような脅迫的宗派もありますけれども、そんな神罰の宗教に誘い込まれるようなことをしてはなりません。
神罰を信仰するようになりますと、何か悪い事件や、不幸な出来事が起ってまいりますと、 “そら又、神罰だ”と思って恐怖しますから、「恐るるものは皆来る」という“心の法則”によって、自分の「恐怖の心境」が具体化して、次から次へと“神罰“みたいに思われる出来事があらわれて来ることになります。併(しか)しそれは神罰ではなく、「恐怖の具象化」であり、自分に神から叱られるような罪があると思うものだから、「自己処罰」を重ねることになるのであります。神は愛であり、無限の赦(ゆる)しでありますから、決して神から罰を与えられるようなことはないのであります。
「神罰はない」ということを知るには「神は無限の愛なり」と知ると同時に、「罪は本来無し」という真理を知らねばなりません。
だいたい人間は“神の子“であり、本来神聖なる存在であって、罪を犯すなどということはないのであります。それゆえに罪を犯したと見える事は、実は一種の夢を見ているに過ぎないのであります。だから聖経『甘露の法雨』には、
汝ら神の造り給わざるものを実在となすなかれ。 在(あ)らざるものを悪夢に描きて恐怖すること勿れ。 罪と病と死とは 神の所造に非(あら)ざるが故に 実在の仮面を被(こうむ)りたれども 非実在なり、虚妄(こもう)なり。 我は此の仮面を剥(は)いで 罪と病と死との非実在を明かにせんが為に来れるなり。 嘗(かつ)て釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)もこの為に来りたまえり。 嘗てイエスキリストもこの為に来りたまえり。 若(も)し罪が実在ならば 十方の諸仏もこれを消滅する事能(あた)わざるなり。 イエスキリストの十字架もこれを消滅する事能わざるなり。
と示されているのであります。 だいたい「罪」というものは神が創造し給うたものではないから、「実在」即ち「本当に存在するもの」ではないのであります。それは人間が“神の子”で完全円満であるという「実相」(本当のすがた)を「包み」てあらわさざる「状態」なのであります。それは「状態」であって、「罪」というものがあるのではないのであります。「罪」と「包み」とは語源が同じであります。
これを何か実物の譬(たと)えを持って来て話せば解り易いと思うのであります。それで、此処に仮に、光明燦然と輝く立派な「宝石」があるといたします。「宝石」は八面玲瓏(れいろう)光輝燦然たる「人間の実相」に譬えたのであります。この「人間の実相」は、実の相(すがた)でありますから永久に変わることなく、その美しい光輝も変ることはないのであります。ところが、そこへ風呂敷をもって来て、その宝石を「包み」て覆い隠してしまいますと、その宝石も、宝石の輝きも「包み」のため見えなくなります。いくら宝石が包み隠されて見えなくなりましても、宝石は実際、今も其処にあるのでありまして、無くなったのではないのであります。そして、その宝石の輝く性質も無くなったのではないのであります。しかし、その風呂敷がそれを包みてある間はその宝石も、宝石の輝きもあれども見えないのであります。
これは風呂敷の「包み」がそのように見えない状態にしているのであります。宝石自身に「包み」があるのではないのであって、「包み」は外からついたものであります。この「包み」を解(ほど)いて、中にある宝石さえ見えるようにしてやれば、宝石に輝く「実相」が明らかになるのであります。
「包み」は外から附いたものであるとわかれば、「包み」(罪・実相の隠蔽(いんぺい))は「宝石」自身にはないとわかるのであります。そしてその風呂敷をほどいて中から「宝石」を出したときには、もう「包み」は存在しないのであります。風呂敷はあっても。包んでいないから、もう「包み」というものはないのであります。
以上は、「宝石」という物体にたとえたので、それを包むものを風呂敷にたとえたのでありますが、人間の実相の完全さを包んでいるのは、風呂敷ではなく「心の迷い」であります。
迷いによって、本当にあるところの「人間の実相の完全さ」を見ないのであります。その「迷い」が人間の実相の完全さを「包み」かくしているのであります。その「包み」ている状態が「ツミ」(罪)なのであります。
そんなら、その「心の迷い」というものはアルのかといいますと、「迷い」という確固不動の固まりがあるのでも、風呂敷があるのでもないのです。それは心の眼がハッキリ目覚めていない状態に過ぎないのであります。
皆さんが、仮りに朝、目が覚めかけて、まだハッキリものが見えない時に、床の間の薄(すすき)の穂(尾花)が活(い)けてあるのを見まちがって、それを幽霊が出たと思って恐怖する──それが所謂(いわゆる)る「迷い」の正体であります。
「迷い」というものが別にそこにあるのではなく、まだ心の眼が充分醒めていない状態に過ぎないのであります。ハッキリ心の眼が覚めたら、もう其処には迷いはないのであります。だから心の眼が覚めて迷いが無くなった人を「覚者」即ち、「覚めた者」というのであります。
すべての不幸、病気、災厄等は、心の眼が完全に覚めてないために生じた一種の幻覚に過ぎないのであります。それは自分ひとりの心の幻覚の場合もあるが、人類全体の共通の幻覚の場合が多いのであります。即ち、それは「人類意識の迷い」なのであります。私たちは、悪が存在し、病気が存在し、災厄が存在するという人類意識の迷いから超越するために、「実相円満完全」の真理を説いたところの『生命の實相』その他の聖典及び『甘露の法雨』や『天使の言葉』や、唯今講義中の聖経『続々甘露の法雨』等を繰り返し精読して、真理に対する心の眼を開くようにつとめなければならないのであります。
「人類意識の迷い」と申しますと,たとえば出産には必ず「産みの苦痛」を生じて、妊婦は大抵七転八倒して苦しまなければならぬというようなのは、人類全体の迷いの念であります。『旧約聖書』の『創世記』には、人類の祖先であるアダムとイブを造って“エデンの楽園”(吾々が実相世界と称するものに当る)に両人を住まわせ、園にある凡ゆるよき物を自由に食したり利用したりする権利を与え給うたが、園の中央部に聳(そび)えている「智慧の木」の果(み)(普通「智慧の樹の果」と称されているが、むしろ唯物論的知識の象徴である)だけは食べてはならぬと禁じられた。ところが、悪賢き蛇に瞞(だま)されて、その「禁断の果実」を食したために、エホバの神は大いに怒り給い、両人(ふたり)を“エデンの楽園」から追放して女のイブに対して、「われ汝の妊娠(はらみ)の苦しみを増すべし、汝は苦しみて子を産まん」と宣告せられた。この事あって以来、アダムとイブの子孫である人間の女はお産の苦しみは免れる事は出来ないということになったのであります。
釈尊も『父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)』の中でお前たちが親に感謝し親孝行をしなければならぬのは、お前たちの母親が、お前たちを此の世に生み出してやるために、どのように激しいお産の苦しみを忍ばねばならなかったを考えて見れば親の恩が重いことがわかる──という風に説いて、親への報恩感謝孝養の必要を説いていられるのであります。
このように『旧約聖書』以来,また以前の言い伝えに遡(さかのぼ)っても、女はお産するときには苦しまねばならない。仏教では「女は業が深いもの」とされているから、その業の報いで苦しまねばならぬとされ、ユダヤ教やキリスト教では「アダムの原罪」(アダムとイブとが神意に背(そむ)いて「禁断の果実」を食した罪)に対する神罰として、今も尚、女性はお産するときくるしまねばならぬとされており、このように女の受くべき“出産苦”というものは、太古の時代から洋の東西を問わず、人類全体が信じていたので、これは「人類意識の迷い」だと言い得るのであります。
しかし生長の家では「神は決して神罰を与え給わない」と真理を教え、また「神の子」なる人類の祖先は決して罪を犯したこともないのであって、そんなことは「迷い」だから「迷い」から覚めよと教える。そして素直に、その教えを信じて、心が覚めて真理を悟った人には「お産は苦しい」という「人類意識の迷い」から超出することができるのであります。次のような実例があります。
昭和45年4月25日、私は香川県丸亀市の市民会館で講習会を催しました。その時、香川県三豊郡豊中町399の1に住んでいられる石田カメノさん(当時50歳)が次のような体験談を発表されたのであります。──
皆様、有難うございます。(拍手) 私は、豊中町の石田カメノでございます。入信の動機は私の主人が戦死しまして、当時子供 が難聴でございました。そして、この御教えを知りませんでしたから、本当に私ほど不幸な者はない。苦しい者はない、現在の主人とも無理に結婚をさせられた!と思って、その父母を恨むような気持、毎日過していましたところ、佐野いと様という誌友の方から、生長の家を教えて頂きましたが、それは昭和18年頃でございますから、どこにも講演会などなく、御本の一冊もなく、何もない生長の家はどんなものだろう?と思うような当時でございました。
たまたま「東山半之助先生が、四国新聞の社長様でいらっしゃるから、あちらへ個人指導を受けに行くように」という御言葉を承りましたが、家族の人に伝えても誰も相手にしてくれません。「そんな所へ行く必要はない」「生長の家とは何か?」というような状態だったのですが、私は家の者に黙って、東山先生をお訪ね致しました。
その日は、大勢の方がいらっしゃいまして少しの間ではございましたが、「人間は神の子なんですよ。不幸も病気も神の子にはないんですよ。本当に今あなたの心が変れば、その家庭で、そのまま極楽浄土、喜びの生活が出来るんですよ。本当にその通りなんですよ。詳しく言えば、一日中話しても尽きないのですけれども、どこかで古本を探して、そして御本を読んで下さい。」と言われました。
その時の先生の尊い御言葉の一句一句が、そして御人格のその雰囲気が、家庭の人に遮(さえぎ)られても、あの素晴らしい先生がお続けになっていることであればと本当に思って、生長の家は分りませなんだですが、御本を捜し求めました。
そして、古本屋さんで与えられましたら、本当に今までの自分の思いが、全部間違っていて、相手が悪い、人が悪いという毎日、不平不満な私でありましたが、本当に御先祖様に感謝し、生れて初めて、お父さん、お母さんに感謝させて頂くことが出来ました。そして、亡くなった父に対しましても、本当に私に尊敬と愛の心があれば、そうした運命にならなかったものと、深く懺悔の気持で一杯でございました。
そうした私の心にも、本当に人様に喜びを与えることが、自分の本当の喜びであるとの生き甲斐が感じられまして、もう自分の環境とか運命とかいうものに支配されずに、本当に喜びの毎日を過させて頂くことが出来るように少しずつなりました。その当時、戦死した主人の弟に当ります現在の主人との再婚の話が出ました。私は、はじめに2つ年下の主人に嫁ぎ、次に8つも年下の現在の主人に、子供を連れての再婚でございます。本当に只今の主人に感謝することが出来ませずに、苦しみ悩みましたけれども、本当に、この御教えによりまして、必ず幸せになれる!という信念の下(もと)に、全ての人々の祝福を受けて再婚しましたところ、その思い通りに、本当に素晴らしい主人や子供に4人も恵まれまして、その4人の子供がみな次々と、有難い無痛分娩をさせて頂くことが出来ました。ここにその体験談をさせて頂きます。
月満ちて、お産の床に着きました時に、ああここがお産の寝床である。ここが神様の愛の寝床である。今からお産させて頂くのだ! 自分の力にはあらず、神様のお力である!と全托する気持ちになって、産婆さんの傍(そば)で休みました。
そうした時に、谷口先生の御講習の御言葉が、「本当にお産なんて楽しいものなんですよ。本当に無痛分娩、むしろ快感によって生まれるんだから、快感分娩なんですよ」と優しい愛なる御言葉が、耳許(みみもと)に囁かされましたのではっと我に返って、ああそうだ、神様有難うございます。それから招神歌を一所懸命に唱えている中に、本当にお水と共に思いがけない無痛分娩をさせて頂くことが出来まして、聞いてはおりましたが、体験させて頂きました時の女としての喜びは、これ以上につきるものはございませんでした。
谷口先生、有難うございます。(拍手)そして、2人目の子供を頂きました時も、初めての子供は妊娠しても、その喜びに感謝することは出来ませんでしたが、2人目の子供からは、本当に妊娠を感謝し、夫婦生活は神ながらの行事である尊いものだということをお知らせ下さいました当時から、本当に夫婦生活にも心の中で合掌して頂く私となっていました。
そして、2人目のお産の時も産婆さんがおいでまして、朝の午前7時頃でございます。「後3人お産の人が続いているから、そこへ行ってみとらねばならんから、石田さん分娩促進剤を打たせて下さい。あんたはお産んが軽いんだから」と言われましたからわたしは「はい」と答えました。そして「1本ではまだ陣痛がおそいから、2本続けてうちますよ。けれども2本うてば、陣痛が早いから物凄く痛みますが宜しいですか」と言われた時、私はああ人間は肉体ではないんだ!霊なるものから霊なるものは生まれるんだ!「後にお産が支(つか)えているなら、それで結構です」と申しましたら、続けて2本うちました。それでも私は、なんのこともありませんでしたのでじっとしていましたら、産婆さんが、「陣痛がこんなに早くてもどうもないんですか?いらってみて下さい」と言って、お腹に手を当ててみましたら、陣痛が物凄く早いんでございますが、自分には何にも感じませんせした。
少しばかり経ちますと、お水と同時に、「まあこんなに綺麗な赤ちゃんが、出血も少なく生まれました。本当に不思議なことなんですね」と言って産婆さんが迚も喜んで下さいました。それから3人4人とこうして無痛分娩をさして頂きまして、真に有難うございました。
神は無限の愛でいらっしゃいます。智慧でいらっしゃいます。本当に私の心が変り、神の御愛念によりまして、こうしたお蔭を頂きましたことを、ここに発表させて頂きまして、やがて優生保護法も改正され、妊娠も続々とすることでございましょうが、多くの人が一人でも、無痛分娩なさるようお祈りいたしております。 そして、この御恩返しを、人類光明化のために、一所懸命尽させて頂きます。有難うございます。
このように真理を知って人類意識を超越すれば、陣痛促進の注射を打ってさえも、何らの苦痛なく無痛分娩するのであります。
次に治験例として挙げるのは、中風の半身不随が『生命の實相』を必読して、真理を潜在意識の底までさとるために神想観を日夜実修したために速やかに恢復した実例であり、その奥さんは胃潰瘍で、手術しなければ到底だめだと医師から言われていた重症が、神想観にて「実相」の世界に超入し、『生命の實相』を日夜、拝読し続けているうちにレントゲン診断では指が3本入る孔(あな)が胃に出来ていたのが消えたというまことに霊験あらたかな体験談であります。
それは、昭和45年9月13日、島根県出雲市体育館で、生長の家の講習会がありました時、島根県隠岐郡西ノ島町別府の前田悦男さん(当時59歳)が発表された実話です。録音から筆記してお目にかけます。
有難うございます。(拍手) 私は、去年の11月、突然中風になりまして、半身不随になり、こっちゃの手を火傷しましても、ぜんぜん生きながらにして熱さを感じんですわ。そうした中に、『生命の實相』を心読致しまして、それから神想観を日夜実行します中に、かくも早く体を恢復しまして、今日ここに谷口先生に御礼ながらに、この壇上に上らせて頂きました。
次は、私の妻であります。妻は2年程前に胃潰瘍になりまして、舶来の注射を3ヶ月いたしましたが、「これ以上したんでは体のために悪い、手術をせよ……」とのことで、松井病院へ行きまして手術することになりました。お医者さんは「もう手術せにゃ駄目だ……」、私は神の信念一元に生きる!病気はない!!私は、生長の家の、それはそれは、かたまりでありますから、妻と共に手術を断って家に帰り、日夜、神想観を致しまして、そして『生命の實相』を日夜読みまして、その結果、私の妻は、医者が、「手術をしなければ駄目だ……」と言った1ヶ月後に御飯が美味しくなって、そうして、レントゲンを見ましたところが、指が3本入る孔が綺麗に消えていたのでございます。そういうように、不思議な不思議な、医者も驚くほどの、生長の家は恐るべき、現代医学などは、とうてい追い付かん素晴らしい御教えであります。
次に、私の母であります。今から4年前、車に撥(は)ねられまして、空中を数回回転しまして、舗装道路に真っ逆様に落ちたのでございます。頭が小皿のように、ぽこっとへこみまして、死んでいたのでございます。お医者さんが、「もう駄目だ……」と言うので、私の弟に、(まあ母の子供ですがね)大阪の方にも居れば松井の方にも2人いたんですが、「母、危篤直ぐ帰れ!」と言うような電話をした。それから私の弟が、「兄や、お母ちゃんが危篤やそうだがどうかいの?」「ええ……生長も家をやっているんじゃ、神の子無限力だ!!お母ちゃんは今眠っているんだから心配するな……」そうこうする中に、親類の者が沢山来まして、ああ死んでは困るけんのう──と咆(ほ)えるですわ。私は、面会謝絶の札をこしらえまして、私は妻と共に一所懸命で『生命の實相』にあります“相手を癒すには自分の心を直さなければ”と病気の真只中にも病気を見ず、「生命の実相」の円満完全さを眼底の中にありありと浮かべ、そして一心に神想観をしたところが、息を吹き返したのであります、そうして、医学的にも不思議な頭の骨が、へっこんで、こうなっておるのが、内出血もしとらんのです、頭の中へ。そうして、今日77歳の母は、もとよりもっと元気になりまして、矍鑠(かくしゃく)として私を見送ってくれたのであります。(拍手)
まだまだ畏(おそ)るべき体験がありますけれど、時間の都合もありますものですから、それはまあちょっと控えまして、私の生長の家に対する熱心さというものはどういうものか?私程熱心なものはこの中にないと思いますわ、それはどういうことかと言うと、『生命の實相』を今10万頁読んでいるのでございます。
つまり、そうして私の祈願とするところは『生命の實相』100万頁読みたい気持であります。そうして、私の手許には、『生命の實相』が400冊あります。その400冊の本を、私は必要な人には売り、また私の気の向いた人には無料で差し上げております。
そういうように、不幸災難などちゅういやなことは私には通用せんですな、天がひっくり返っても私には通用しない、如何日、如何なる時も私は、神の子無限力を実証して、私について来る者は、悉くこれを救って実相の国土に住するところの信念があるのでございます。(拍手)まだ時間がありますからもう少し(本人・笑い)、時間が来ました。有難うございます。(拍手)
このように、77歳の御母堂が4年前交通事故で、撥ね飛ばされ空中で1回転して頭部を石だたみの上に叩きつけられ、頭蓋骨陥没の重症で人事不省というような重篤状態になっていたら人類意識の判断では到底蘇生することが出来ず、また、たとい蘇生しても、鞭打ち症とか何とか後遺症に悩まねばならぬ筈なのが、神想観を一心に修して、完全円満な御母堂の実相を一念不動に観じたら、息を吹き返し、今は後遺症も何もなく、老いて益々矍鑠(かくしゃく)としていられるというのですから、まことに愉快な体験談ではありませんか。このような実話によって、人間は“神の子“であり、その実相を観ずれば、罪も病も老衰も不幸も遭難も、悪い出来事は本来存在しない。もしそんなものがあらわれれば、実相の完全さがまだ現れるに至っていないからだと解釈できるのであります。
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