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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[550] 早々と馬脚を現した「純粋教理批判=マサノブ総裁」の語録と講評!―――こんな総裁、もう要らない!!
千葉周作 - 2015年09月15日 (火) 17時44分

=== 当掲示板の熱心な読者であるマサノブ君へ贈る ===



「本流」の追求によって、窮地に立たされて旗色が悪くなった「曳馬野=マサノブ」は退散したかに見えたが、今度は『純粋教理批判』といかにも学者ぶって登場しました。とにかく彼・マサノブ君は大閑人なので、このところ「掲示板」については隅から隅まで熱心にチェックして読んでいることは確かである、中でもマサノブ追求の急先鋒である当掲示板は毎日熱心にチェックを入れていると解ったのであります。その昔の『初心者』と同じく、学才のあるところを見せようと「哲学論」で挑みかかったが、哲学論といってもヘボがつくもので、ただ信徒が理解し難いカタカナ羅列のもの・・・その弱点を「本流」から又もや叩かれ、早速馬脚を現し、『純粋教理批判』=『感想』=『尊皇』=『屠蘇地租過疎』=マサノブ君(爺さん)である事が明らかとなってしまったのであります。


イ、4637 :尊王(=マサノブ):2015/09/12(土) 08:22:33 ID:UX9V9c2Y  

生長の家・開祖の『御教え』全相復活を目指す掲示板が改めて、「トキ管理人」氏に対して『純粋教理批判』・『感想』君2名の書込み禁止処置を要請する。実行して頂きたい。と言っているが、それは谷口雅春先生の教えに反する行為です。私には総裁かどうか判断はつかないけれども、総裁ならば尚の事議論をするのが生長の家だと思います。雅春先生は正々堂々を好む方でしたよ。『御教え』全相復活を目指す掲示板なのであれば、相手を書き込み禁止にしないで頂きたい。恥ずべきことです。

⇒ 「書き込み禁止」要請に雅春先生を引っ張り出して抵抗して来た。(信徒の分際でオレ様を侮辱するな!と言いたいところであろう。)


ロ、4660 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/13(日) 11:22:01 ID:DD4jWV6M

「・・・この一信徒によれば・・・この一信徒にとって・・・この信徒にとって・・・」。

⇒ 自分が総裁・マサノブであると自白している。総裁は上位の者、信徒は下位の者だ、という認識である。


ハ、4688 ・4690・4692:屠蘇地租過疎(=マサノブ):2015/09/14(月) 21:41:02 ID:MDvyz5eo

「トンチンカンも≪信仰者≫なら、アジ演説はいい加減にしろよな! トンチンカンは、≪信仰者≫なのか? いや、違うな。ヘイトスピーカーだ。 トンチンカンよ、≪ヘイトスピーカー≫のお前が谷口雅春先生を語るな! あんたの≪ヘイトスピーチ≫、ウザイんだよ。ただ、それだけ。 」

⇒ 自分が腹がたってくると、いきなりヤクザの捨てゼリフ。お通夜の晩のヤクザ言葉と同じ。



********************



さて、『純粋教理批判』と言うHNについてでありますが、この場合の「教理」とは開祖・谷口雅春先生の『御教え』であります。つまり開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判という事であり、「歴史から何を学ぶか」77ページにマサノブ君が書いた「開祖・谷口雅春先生へのタブーへの挑戦」そのものという事なのであります。


そこで先ず、9月8日から9月14日の間(その間、僅か1週間)。に『純粋教理批判・感想・屠蘇地租過疎』のHNで「トキ掲示板」の「部室板」に投稿したマサノブ君の本音の思想を抜き出して<純粋教理批判・マサノブ語録>として書きまとめてみました。そしてそれを講評する事に致します。



<純粋教理批判・マサノブ語録>


1、 実相は独在にあらず。実相を不在にさせた外部が必ず存在する。わたしはこのようにも考えます。真理は内部にではなく外部にある。わたしがいいたいのはこのことです。

2、 実相独在はイデア論です。それは真理を自己の所有物とするイデア論の考え方です。わたしはイデア論に反対いたします。

3、 生長の家の自由な生き方が本当にできるものかの疑問が増えますね。雅春先生が敗戦前に言行一致であったか不一致であったかを聞いているのです。

4、 理念と云う生長の家特異の考えを述べるのは勝手です。・・・大和の理想国、八紘一宇の理想国今どこにありますか。大調和の谷口家が何処にありますか。現象実相などの言葉に関係なく人間は生きているのです。其処に何らの理想の実現がなされないのであれば単なる理屈と云われてしまうでしょう。

5、 植民地支配からの解放が日本国の使命であるのなら、精神の解放に向けて日本国はなぜもっと積極的に取り組まないのでしょう。

6、 古事記日本書紀の造られた時から日本精神は天皇の取り巻きによって隠されてきたのではないかと思っています。雅春先生はホツマツタエの原文の世界はまるで知らなかったのです。ホツマツタエに書かれていたものを脚本して作られたものらしい古事記を基に真理を説かれていることへの疑問であります。

7、 「真理は外部にある」・・・外部の真理は不完全な姿でしかあらわれない。完全円満なる実相としてあらわれることはほとんどない(もちろん例外はあるでしょう)。これが古今東西の真実ではないでしようか。・・・内部の真理とはなにかといえば、それはまず間違いなく左脳自我の産物である。内部の真理はほとんど例外なく、善と悪や、霊と物質といた二項対立をたてる仕方で真理を説明しようとするからです。二項対立をたてるのは左脳自我の特徴です。内部の真理とは左脳自我の真理にほかなりません。霊と物質の二項対立をたてれば、霊を内部に留保し、物質を外部へと放逐しようとするでしょう。外部はマイノリティのたまり場なのですよ。・・・二項対立は言葉の宿命です。

8、 内部の真理とは、人間が左脳自我をもったことで外部の真理を受け取れなくなり、その代替物としてつくりだした真理です。外部の真理はふだんの心がけとは関係なくあらわれてくるものと考えております。

9、 植民地支配からの解放が重要なのではない、あの戦争をいかに正当化するかということが重要なのだ、というのが生長の家の本音である。

10、 曳馬野さんはある事実にもとづいて雅春先生を「変節漢」といっておられるのではないですか 。

11、 わたしは実相独在の排他性を問題にしているところなんですがねえ。実相独在とは「実相しかない」と言っているわけですから、これ以上の排他的表現はなかなかみつからないでしょう。

12、 わたしは、植民地支配にたいする認識が甘い、といっているのですが、戦争を正当化できる部分だけをとりあげて、それを認識のすべてとしているようにもみえます。

13、 教理の排他性、このことを批判したいのですよ。「大調和の包容の精神」といいながら、実際はものすごく排他的な教理なのですよ。教理と異なることをいえば「迷いだ、人間知だ」と排他的な言葉が即座にかえってまいりますが、なぜこうなるのかといえば、教理に排他性がひそんでいるからですよ。教理の排他性が今ある問題を引き起こしている。このことに気づかなければ問題のまともな解決はありえないといっていいでしょう。総裁は排他性の犠牲者です。

14、 本流の排他性は「誤読」ではなく教理がつくりだしたものです。

15、 解放などどうでもよい、戦争を正当化できればよい、これがみなさまの本音だからですよ。本音はこういう形であらわれるものなのですよ。解放が問題なら真の解放に向けてより真剣に語りあうべきであったが、それがいっさいなされてこなかった。本音はみえみえでしょう。

16、 万教は一切を包容する日本精神によってそれぞれが活きる、雅春先生の御教えでいけばそれが、具体策でしょうか。現実を見ましょう、現実を。一切を包容する日本的精神が生長の家のどこにあるのですか。生長の家のなかでさえ実現されていないものをもってして具体策とする。こういうことばかり言いつづけて80年がたってしまいましたねえ。

17、 いまだ現象にあらわれざるものをもって具体策となす。世間ではこれをやる気のない証拠とみなしますね。私は植民地問題よりも「我が国の貧困問題」や「失業問題」、あるいは「経済状況」の方にどうしても関心が、いきますね。そんなところでしょうか。かつて日本は身の破滅もかえりみずに、植民地解放のための戦争に突入したのではなかったですか。今は「わが身大事」ということですか。たとえ経済が破たんしようとも植民地問題解決のために身をていして尽くすということは、もうやらないということですね。

18、 他の、本流掲示板のほうも、たまには ご覧になられたほうがいいですよ。すごいことに なってます。http://bbs5.sekkaku.net/bbs/daityouwa.html これが生長の家の信徒の姿なんですね。災害に会った人の事を一つも思いやれない人間の集団。

19、 議論をするのが生長の家だと思います。雅春先生は正々堂々を好む方でしたよ。

20、 強力な薬には強い副作用があるように、強力な教理にも強い副作用があります。その副作用とは、教理を信じるものに尋常ならざる排他性を植えつける、というものです。「真の教え」をたててそれに反する考え方を虚説として排除しようとしていた人がいた。いっぽうを「真の教え」としてたてて他方を「虚説」として排除する。これが副作用としての排他性です。「尋常ならざる排他性」です。

21、言葉とはそもそもが排他的なものです。言葉は他を排除することでしか定義できない。わたしは言葉とはこのようなものだとおもっています。

22、宇宙とはそもそも何かというと、大気圏の外側が宇宙なのですね。大気圏の内側は宇宙ではありません。つまり、大気圏の内側でないものを宇宙と呼んでいるわけです。大気圏の内側がなければ、もちろん宇宙もありません。わたしのいう「実相」とはこういう状態をいいます。自と他の区別がない。したがっていかなる概念も生じえない。それがただある。これが実相です。実相独在とはいっさいの概念が生じえない状態です。概念を生じさせるには外部からの作用を必要とする状態です。その概念はいかにして生じたのか、これが問題になります。

23、 言葉とは他の言葉との関係、言葉は単独で意味をもつことはなく、他の言葉との関係においてのみ意味をもちます。この「関係」をわたしは排他的にたがいを排斥しあう関係とみています。排斥しあう関係がなければ言葉に意味はない。実相と現象の関係もこれとかわりません。たがいに相手を排斥しあう関係でなければ両者ともに意味をもつことない(現象がなければ実相もないということです)。現象なしの実相が考えられますでしょうか。「現象はない」と言葉にすることで現象を不在にさせ、その不在を埋める形でしか実相は語れないはずです。悟りの境地は「万法すすみて」でありますから、ここで書いたこととはおそらく無関係でありましょう。

24、言葉があからさまな二項対立の関係に入るとき、排他性は暴力性をおびた排他性へとさらにパワーアップいたします。このパワーアップした排他性が問題をひきおこしているわけです。「真説」と「虚説」。これがあからさまな二項対立です。こうした二項対立では、片方の項だけが純粋に現前するよう意図されます。「現前」とは「今ここにすでにある」という意味です。片方の項の純粋現前が意図されるかわりに、もう片方の項は暴力的に外部へと排除されます。パワーアップした排他性は、あからさまな二項対立をもちいるものに、片方の項を外部へと排除するよう働きかけます。気に入らないものを排除したい欲望。これは誰にでもあります。この「働きかけ」はこうした欲望を刺激します。欲望を刺激されたこの人が虚説の排除を強硬に主張しはじめるのは、もはや時間の問題です。

25、実相と現象は二項対立の関係にあります。二項対立の優越項である実相は劣位項である現象にたいして十分に排他的です。そして無限判断=外部にたいしては排他的であるばかりでなく、それを隠蔽してさえいます。実相独在とされたことによって、こうした未知なるカテゴリー=外部は隠蔽されてしまいました。

26、「物質は非存在である」といってのける意味などどこにもあるはずがない。真理を語るにおいて二項対立(肯定判断と否定判断)をもちいさえすれば、比較的かんたんに真理は語れるものと考えます。

27、カテゴリーが固定されたことで人間は外部の真理にコンタクトできなくなった。かわりに自前の真理をこしらえた。その真理こそ「内部の真理」とわたしが呼んでいるものです。内部の真理とはイデア論です。イデア論は「真理はわがうちにある」と考えます。わがうちにある真理を現象世界に純粋現前させる。外部の真理はイデア論によってさらに強固に隠蔽されることになります。イデア論をもちいるかぎり、それは人間にとって都合のよい真理にしかならないからです。イデア論では真理は自己の所有物と考えます。所有物である真理を利用することで自分にとって都合のよい現実をつくりあげようとするからです。

28、「実相を観る」とか「実相をあらわす」とかいわれますが、これはいったいなんためですか?自分に都合のよい現実をつくりだすためですか。

29、人類を迷妄(イデア論)から救うといいながら、気づいてみれば生長の家もイデア論であった。イデア論であるがゆえに教団内部も迷妄におおわれた。「すべての人を神の子としておがむ」。なんのためですか。すでにここにあるはずの真理を純粋現前させる。このためですよねえ。「すべての人を神の子としておがむ」も結局はイデア論であったということです。

30、今起きている問題はイデア論が自壊する姿です。環境問題もおなじです。みなさまが理解できる言い方でいえば、イデア論の自壊が環境問題となってあらわれている、というよりほかはありません。「イデア論が自壊するのか」といわれても、それはわたしにはわかりません。

31、 アレーテイアを失ったことで人類はその代替物としての宗教を必要とした。アレーテイアが回復されれば宗教は必要なくなる。これがわたしの考えです。

32、禅は宗教ではない、とわたしは考えます。禅者は宗教を必要としない。なぜなら、禅者はアレーテイアだからです。イデア論が自壊しつつあるということはイデア論の有効期限がきれつつあるということです。アレーテイアをふたたび取り戻す時期がきているということでしょう。

33、万教帰一とはようするに、すべての宗教はイデア論だということでしょう。人類意識がイデア論を欲し、それにもとづいてすべての宗教がつくられた。こういうことでしょう。イデア論によって構築された救済思想、これが宗教の定義でしょう。

34、宗教がなんで環境問題なんだ。イデア論とは「みずからの言葉をもって真理となす」考え方です。「地球の資源は人類のものだ」といえばこれが真理となり、「すべての生き物のなかで人間こそが最高の価値をもつ」といえばこれが真理になります。仮象の世界である地上にイデア界の真実を実現することこそが自分たちの使命であると西洋人は考えたはずです。そのためにはどうすればよいかというと、自分たちのなかにすでにイデアはあるのだからそれを実現していけばよい、ただこれだけのことでありました。イデアの実現であったはずの行為が人類を苦しめる環境破壊へと結びついてしまった。最大のあやまちは人類がイデア論を信じたことにあるはずです。みずからの言葉をもって真理とみなし、自分たちに都合のよいことばかりをやりつづけてきたことにあるはずなのです。すべての宗教はイデア論に帰一いたします。人類が二千年かけておこなってきたイデアの実践はいまや人類に悲惨な結果をもたらしつつあるともいえます。それでも宗教は、なおもイデアの真理実現のための実践をつづけるのか、それともイデア論の間違いをただすための実践へと方向を転換させるのか。多くの宗教がこうした岐路にたたされているのです。総裁は後者の道をお選びになった。宗教も環境破壊をひきおこした物質文明も一蓮托生である。つまりはこういうことです。なおここで述べたことはすべて私見です。このことはいっておきます。

35、哲学するのはほんとうによいものです。ところで、哲学と宗教のちがいとはなんでしょう。哲学はイデア論を捨てました。形而上学も捨てました。それは贈与と獲得のちがいです。現代の哲学が問題にするのは贈与です。宗教はあいかわらず獲得を問題にしています。宗教にとって真理は自己の所有物です。所有物である真理を利用してなにを獲得するか。これが宗教の中心テーマです。自分にはなにも戻ってこない。これが贈与です。純粋なる贈与です。見返りを期待した贈与は贈与ではありません。アレーテイアは外部からなんの見返りも求めることなく贈られてくる純粋なる贈与です。人間はそれを受け取りみずからのために用立てるだけです。お礼をいう必要はありません。さらなる贈り物を受け取るために媚びる必要もありません。心は関係ありません。見返りを必要とするのであれば、それは贈与ではないからです。哲学の中心テーマのひとつ、なにひとつ自分にもどってこない活動、それが人間にできるのか。この問題を探求することが現代哲学の中心テーマであると、わたしはこのように考えおります。総裁がなさっておられるのは贈与であるのかもしれません。誰にたいするものかはわかりませんが、純粋なる贈与を実現するための活動であるのかもしれません。宗教にとって重要であるのは、なにひとつ自分にもどってくることのない贈与ではなく、多くのものが自分にもどってくる獲得です。総裁にたいする批判とは「総裁は自分にもほかの信徒にも何も獲得させてくれないではないか」というのがほとんどのようにおもわれます。そんな人たちになにかを与えたところで贈与にはならない。総裁はおそらく純粋なる贈与を実現しようとしておられるのです。

36、本流はなにもしてこなかった。「解放は日本国の使命」は戦争を正当化するための口実でしかないことが、これによって示されました。総裁は「あの戦争は侵略戦争であった」といっておられるようですが、「国の使命」をもちだしての反論はもはやできなくなりました。この件にかんしては総裁の勝利が確定いたしました。ポストコロニアルにかんして無関心であることを本流が「やましい」と感じることはないでしょう。「解放とはなにか」を本気で考えるつもりなど、もともとなかったのですから。


37、トンチンカンも≪信仰者≫なら、アジ演説はいい加減にしろよな!

トンチンカンは、≪信仰者≫なのか?いや、違うな。ヘイトスピーカーだ。

トンチンカンよ、≪ヘイトスピーカー≫のお前が谷口雅春先生を語るな!

谷口雅春先生は、≪ヘイトスピーカー≫の道具ではない!

あんたの≪ヘイトスピーチ≫、ウザイんだよ。ただ、それだけ。



*******************



<講評>


@ 上記37項目の『純粋教理批判=マサノブ』語録は、正統・生長の家信徒の目から見れば、マチガイであり、開祖・谷口雅春先生の『御教え』を否定するものばかりであります。何故、このようなマチガイの主張を繰り返すのか? 彼・マサノブ君は「無の関門」以前の「大調和の関門」をすら超えることができないで、仕方なく屁理屈論法で『御教え』批判を展開せずにはいられないからであります。屁理屈論法をカモフラージする為に、殊更に難しいカタカナ文字を使っているだけであります。異才・トンチンカン氏の指摘ににもありますように、信徒の誰でもが解る平易な『御教え』言葉で書くと、直ちに信徒の皆さんから間違っていることを指摘されてしまうので、止むを得ず、自分でも分かっていない難しいカタカナ哲学言葉を使っているに過ぎないのであります。



A マサノブ君は、もはや宗教家でもなければ信仰者でもありません。彼には、真剣な真理への真摯な求道心などコレッポチもありません。それに、彼・マサノブ君は霊性開発度が極めて低く、従って霊的年齢はまだまだ“幼き霊魂”であり、“霊的音痴”であります。従って、宗教の後継者たる資格と適性は皆無であります。トットと宗教家を辞め、哲学者なり、評論家なり、小説家なり、エッセイシストなりに転向すべきであります。このままではマサノブ君を待っているものは、『蜘蛛の糸』でしかないのです。霊的音痴で幼きタマシイの彼・マサノブ君はこの『蜘蛛の糸』と言う子供でも解る事柄すら理解できないでいるのであります。



B 彼・マサノブ君は、『御教え』理解が全然出来ていない重要なところを次に指摘いたします。このことは、彼が霊的音痴者であり、宗教家・信仰者・求道者でないことを証明しているのであります。


1、マサノブ君は、『生命の實相』総説篇<七つの光明宣言の解説>の冒頭の章句『生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなること)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカルヒーリング(神癒)となります』が解説出来ないので講習会でもこの言葉を取り上げないのです。


2、マサノブ君は、真摯な求道者として『生命の實相』を読んではいなのです。真摯な求道者や信仰者ならば、『生命の實相』生命篇(下)の『真理は霊的に理会することが必要です。頭で真理を理会するということは、真理の周囲を堂々巡りして真理の外的な姿を知るに過ぎません。霊的に真理を理会するということは、「生命の実相」そのものに全身全霊をもって貫き入り力の本源をつかむ事、黙読する・朗読する・目で読み・声で読み・声のリズムの中に自分を溶かし込んで読む、そして静かに端坐して「神想観」を行じ、行じ終わって動き出すとき神(愛)の生活を活きる。かくする時、知恵と愛との揃った生活が実現するのであります』と言う重要な教えに反逆して、肉体頭脳の人間知をもとに読んでいるのです。だから、理屈こきの堂々巡りしか出来ていないのであります。


3、マサノブ君は、『生命の實相』教育実践篇(上)に書かれてある『この生命の實相というものは、今までは文字言語のよく説くところではない、言詮不及、不立文字であると云われていた。それを文字を立て、文章を立て、言葉の力によって生命の實相を悟らせるようにさせた所が生長の家の独特なところであります。今迄は真理と言葉とが二つに分かれていて、言葉や文章は真理を完全にあらわすものではないと思われていた。ところが生長の家では言葉と真理、文章と實相とをピッタリと一致させた。古来、直接説法、以心伝心でないと悟ることも出来ない真理を、唯文章を読むだけで悟れるように、文字の中に生命があり、生命の中に文字あり、文字と生命と一体というような域にまで達せしめ得たのだろうとおもいます。さればこそ本を読むだけで、直接参禅しても得られなかったような悟りに到達する人が多勢現われて来て、その影響の及ぼすところ、肉体の病気も治り境遇環境まで変化して来ると云うようになって来たのであります。』この章句もマサノブ君は講習会で話したこともないのであります。その訳は霊的音痴の彼にとっては理会不能な域の言葉であるからです。


4、更に、マサノブ君は、『生命の實相』久遠仏性篇の『<仏典を論ずる>と<仏教を悟る>とは異う―――仏教経典を研究する学者は、著作の年代とか、本当の著者の名前とかを問題にしたがって肝心の問題であるべきその書に、本当に『久遠を流るるいのち』が生きているかどうかを忘れてしまう傾向がある・・・まことにも木村博士の言わるる通り『仏典を論ずる』ためには、サンスクリット語や・・・古代の方言やチベット語などさえも必要であろう。しかし、それは『仏典を論ずる』ためであって『仏教を悟るため』ではないのである。幾千巻の大蔵経の第何頁に如何なる語が書いてあるかと言うようなことは、仏典を論ずるためには、必要であるかも知れない。けれども吾々の<さとり>のためには何の効果もないのである。・・・結局、語学や経典によって釈迦の教えを研究しようなどと言う企ては、暗中模索の靴を隔てて痒きを掻くに類する努力であって、それはいつまでも語学の世界と考証の世界に堂々巡りしていて、その教えの堂奥に飛び込むことは出来ないのである。本当に<さとり>の世界へ飛び込もうと思うものは、語学や考証の世界を一躍して『久遠を流るる<いのち>としての釈迦』そのものの中に飛び込まなければならないのである。』、しかし、マサノブ君は、「悟り」を求めずして「論議」と言う理屈の世界を好んだのであります。だから、彼・マサノブ君は、宗教家でも真摯な求道者でもなく、いわば“学者”であります。議論や理屈や机上の空論の閑人のヒマ遊びに興じていたいのです。だから、独裁者になって大嫌いな衆生救済を権力をもって排除したのであります。


5、マサノブ君は、開祖・谷口雅春先生の自伝篇クライマックス部分である「大悟徹底の瞬間」をも一回たりとも信徒に話をしないのです。話をしないどころか『物質はない、實相がある』と言う悟りのお言葉を、「肉体頭脳知、無の関門透過以前の迷妄の世界」において上記語録の如く批評しているのであります。結果的には、開祖・谷口雅春先生の『御教え』を否定してしまっているのであります。


6、マサノブ君は、“實相日本国”について全く霊的には理会ができていない、生命的に把握が出来ていないのです。だから、天照大御神様の「天孫降臨・天壌無窮の御神勅」を話さないのであります。

 <<大日本国体の尊厳無比、宇宙の実相と同体にして久遠無窮なる事実・・・大日本国家は因縁仮和合の国家ではない・・・私は『無』の門関を超えて、釈尊の指頭にある金波羅華が象徴する「実在」の荘厳無二組織完備の大日本国家を把握したのである>>(『無門関解釈』第六則「世尊拈花」の公案解釈P.70−72)

 << 金剛不壊の世界・蓮華蔵世界・・・私は此の世界を直接見たのである。直接触れたのである。絶対実在の絶対認識である。その絶対実在の世界は決して無常の『空』なる世界ではなく、金剛不壊にして、『実』なる世界なのである。>>(『驀進日本の心と力』P.133)

開祖・谷口雅春先生のこの様な生命的霊的体験がないから、そしてサヨク唯物論者であるから、彼・マサノブ君は開祖・谷口雅春先のお悟りをはなから無視抹殺しようとしているのです。


7、マサノブ君は、「コトバ」と言うことについても、上記語録の如く開祖・谷口雅春先生否定発言をなしているのです。聖経『甘露の法雨』には、<この全能なる神、完全なる神の『心』動き出でてコトバとなれば一切の現象展開して萬物成る。萬物はこれ神の心、萬物はこれ神のコトバ、すべてはこれ霊、すべてはこれ心、物質にて成るもの一つもなし。・・・>と書かれています。更に、『真理』第四巻・青年篇、第15章において、「言霊の神秘について」次のように書かれています。

<< ヨハネ伝には「太始(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき」とあります。そして一切のものが言(ことば)によって造られたと書かれているのであります。それでは言とは一体何であるかといいますと、宇宙の太初(はじめ)には無論肉体人間は存在しませんから、人間の唇から出る言葉でないことは明らかであります。これは宇宙に満つる霊(たましい)の振動であり、生命の活動であります。宇宙大生命が波動を起した(大生命は生きているから動くのであります。)しかし物質はまだ顕われていないから物質の形では動くことが出来ない。そこで心が動くのであります。心で動くというのは「想念の波」を起すということであります。・・・宇宙に満つる大生命の波動が想念すなわちコトバであって、それがやがて形の世界にあらわれて来るのであります。だから事物の本質とは何であるかと云うと、このコトバでありまして、形ではないのであります。・・・人間の自然発声のコトバは、事物の本質を自然に表現していることになります。・・・特に日本の語(コトバ)は自然発声がもとになって出来た言葉でありますから、天地自然の韻(ひび)きを受け容れているのでありまして、その語源又はその語(ことば)の本質的意義を探るのに大変に便利であります。>>

にも拘らず、マサノブ君は『言葉とは他の言葉との関係においてのみ意味をもちます。この「関係」をわたしは排他的にたがいを排斥しあう関係とみています。排斥しあう関係がなければ言葉に意味はないということです。』と言う風に、『御教え』を無視否定し、人間知で考えた“言葉”の定義を下し、この定義はあくまでも自分の考えであると注釈を付けていますが、結局は「生長の家ではコトバについてはこのように考えるのであります」となし崩して「今の教え」に導入して信徒を誑かして行くのであります。


8、最後にもう一つ、マサノブ君は宗教の何たるかが解っていない。

『 真の宗教は”人為“をこえたものである (新講『甘露の法雨』解釈P.310〜315)――― そのころ、私は別に宗教を拵えるというつもりはありませんでした。今でも人為的に宗教を説く積もりはないのであります。宗教というものは、野心をもって人間が拵えるものではないのであります。神の起こしたまえる「人類光明化運動」あるいは「人類救済運動」として、神からもよおされて自然に出て来るのが、本当の宗教であります。ところが大東亜戦争後、野心家が、自分が宗教というものを拵えて教祖様になるとか、或いは宗教というものは政府の束縛がないとか、大変収入があっても税金が要らないから都合がいいとかいうような利己主義的な事を考えて、ある団体を拵えて、それを「宗教」だと名前をつけて届けさえすればよいというので、戦後の日本では終戦後にずいぶん沢山新宗教が出来たのですけれども、このようなのは人造のものであって本当の宗教ではないのであります。それは人造真珠みたいなものであって、本当の真珠より劣ること数倍である。中を割って見れば、ガラスに太刀魚の銀色の鱗が張ってあるというようなのを真珠と言って売り出しているのとおなじように、戦後の宗教には、人間の拵えた擬似宗教がずいぶんあります。本当の宗教というものは、そう言うものではないのでありまして、自然に阿古屋貝の貝の中に真珠の珠が生まれて来るように、自然とそこに光輝燦爛とした教えが生まれて来て、その光によって人々が引き寄せられて来て功徳があらわれ、自然に宗教が生まれて来る、これでなくては本当の宗教ではないと、こういう事になる訳なのであります。 『生命の実相』の教えや『甘露の法雨』の聖経は、人間が、それを宗教にするつもりでないのに、それが宗教に自然になってしまったのであって、そこに神が内面的に働いておられる宗教だといえるのであります。だから『甘露の法雨』を披くだけでそこから光が燦然と出るのを見た人がでて来たりいたします。』



C 『純粋教理批判=マサノブ』の語録は、ヘボ哲学者の屁理屈としてはなりたっても、「正統・生長の家」という宗教や信仰そして求道の世界では何の役にも立たない『御教え』否定のための自己満足の屁理屈論にしか過ぎないのであります。上記語録から抜き出しておきますと、―――

*  実相は独在にあらず。 * 実相独在はイデア論です。 * 大和の理想国、八紘一宇の理想国今どこにありますか。 * 真理は外部にある。内部の真理とは左脳自我の産物である。 * あの戦争をいかに正当化するかということが重要なのだ、というのが生長の家の本音である。 * 曳馬野さんはある事実にもとづいて雅春先生を「変節漢」といっておられる。 * 実相独在とは「実相しかない」と言っているわけですから、これ以上の排他的表現はなかなかみつからないでしょう。  * 教理の排他性、総裁は排他性の犠牲者。 * 本流の排他性は教理がつくりだしたもの。 * 一切を包容する日本的精神が生長の家のどこにあるのですか。こういうことばかり言いつづけて80年がたってしまいましたねえ。 * 議論をするのが生長の家。 * 強力な教理にも強い副作用があります。その副作用とは、教理を信じるものに尋常ならざる排他性を植えつける。「真の教え」をたててそれに反する考え方を虚説として排除しようとしていた人がいた。いっぽうを「真の教え」としてたてて他方を「虚説」として排除する。これが副作用としての排他性です。「尋常ならざる排他性」です。 * 言葉とはそもそもが排他的なものです。言葉は他を排除することでしか定義できない。 * それがただある。これが実相です。実相独在とはいっさいの概念が生じえない状態です。概念を生じさせるには外部からの作用を必要とする。 * 言葉とは他の言葉との関係、言葉は単独で意味をもつことはなく、他の言葉との関係においてのみ意味をもちます。この「関係」をわたしは排他的にたがいを排斥しあう関係とみています。排斥しあう関係がなければ言葉に意味はないということです。 * 現象がなければ実相もない。現象なしの実相が考えられますでしょうか。 * 言葉があからさまな二項対立の関係に入るとき、排他性は暴力性をおびた排他性へとさらにパワーアップいたします。 * 「真説」と「虚説」。これがあからさまな二項対立です。片方の項を外部へと排除するよう働きかけます。気に入らないものを排除したい欲望。この「働きかけ」はこうした欲望を刺激します。欲望を刺激されたこの人が虚説の排除を強硬に主張しはじめる。 * 「物質は非存在である」といってのける意味などどこにもあるはずがない。真理を語るにおいて二項対立(肯定判断と否定判断)をもちいさえすれば、比較的かんたんに真理は語れる。 * イデア論をもちいるかぎり、それは人間にとって都合のよい真理にしかならない。 * 「実相を観る」とか「実相をあらわす」、自分に都合のよい現実をつくりだすため。 * 人類を迷妄(イデア論)から救うといいながら、気づいてみれば生長の家もイデア論であった。 * 「すべての人を神の子としておがむ」も結局はイデア論であった。 * イデア論の自壊が環境問題となってあらわれている。 * アレーテイアを失ったことで人類はその代替物としての宗教を必要とした。アレーテイアが回復されれば宗教は必要なくなる。 * 万教帰一とはようするに、すべての宗教はイデア論だということ。 * イデア論によって構築された救済思想、これが宗教の定義。 * 最大のあやまちは人類がイデア論を信じたことにある。すべての宗教はイデア論に帰一。イデア論の間違いをただすための実践へと方向を転換させる総裁はこの道をお選びになった。 * 現代の哲学が問題にするのは贈与です。宗教はあいかわらず獲得を問題にしています。 * 宗教にとって真理は自己の所有物。所有物である真理を利用してなにを獲得するか。これが宗教の中心テーマです。 * 哲学の中心テーマのひとつ、なにひとつ自分にもどってこない活動、それが人間にできるのか。この問題を探求することが現代哲学の中心テーマである。 * 総裁がなさっておられるのは贈与である。 * 総裁はおそらく純粋なる贈与を実現しようとしておられるのです。 * 「解放は日本国の使命」は戦争を正当化するための口実でしかないことが、これによって示されました。総裁は「あの戦争は侵略戦争であった」といっておられるようですが、「国の使命」をもちだしての反論はもはやできなくなりました。この件に関しては総裁の勝利が確定いたしました。



<総括>


@ 「イデア」とはどういう意味かを調べて見ますと、「イデアとは、プラトン哲学の中心概念で、理性によってのみ認識される実在。感覚的世界の個物の本質・原型。また価値判断の基準となる、永遠不変の価値。近世以降、観念また理念の意となる。実在とは、観念、想像、幻覚など主観的なものに対し、客観的に存在するもの、またはその在り方。」と書かれていました。これは、象牙の塔に籠もって物事を思索する際に用いる言葉であると解せられます。一般信徒にとってはいとも難解な概念の言葉です。


A マサノブ君は、自称にしろ、教えの後継者でありながら、この難解な「イデア論」なる言葉を手段として本来の『御教え』を非難否定せんとしているのであります。


B マサノブ君は、「哲学は報いを求めぬ純粋の“贈与”を求める。宗教は、真理を利用して“獲得”見返りを獲得するもの」といっている。このことは、掲示板で追及の激しい浄財の使い方に対しての自己防御であり、「信徒よ、浄財の奉納は報いを求めてはいけない。純粋な贈与であると認識せよ。故に、浄財の使い方について文句をつけるのは報いをもとめていることである。だから、浄財はいったん出したら後は忘れてしまうのが本来の信仰者であるのだ」と言いたいのであります。


C 我々は、開祖・谷口雅春先生の『生長の家』の信徒であり、真理の求道者であり、『正統・生長の家』の信仰者であります。人間知を駆使して思索する哲学者であるマサノブ君は必要ではない。ましてや、マサノブ君は屁理屈の達人であるが故、「無の関門」の前にある「大調和の関門」すらこのままでは永久に超えることが出来ない。彼は、逆立ちしても求道心のカケラも出てこない人間であるのです。しかし、本人は、禅的修行には関心を示しているのです。それならば、八ヶ岳の山中に草の庵を結んで一汁一菜のお粥で坐禅に徹すればよいのであるがそれを実行に移す勇気もない。戦々恐々と自分を狙うテロリストと熊を恐れているのです。それよりも、まだまだ優雅この上なき宗教貴族生活の方の誘惑が強いのであります。彼にとっての禅的修業は興味半分であって真剣な求道ではないのであります。


D とにかく、宗教家本来の使命である衆生救済を捨てた、こんな哲学者もどきの理屈こきの浄財蕩尽の総裁なんて存在価値は何もありません。一日も早く辞表を出してカナダ湖畔へ豪華別荘を立てて引き篭もる方が人類の幸せに資することになるのであります。




(7)
Pass

[551] 『純粋教理批判』=『マサノブ・ニセ総裁』の9月8日〜14日の「投稿トキ掲示板・部室板他」への“語録”原文(抄)
千葉周作 - 2015年09月15日 (火) 17時54分



4427 :純粋教理批判(身元の詮索は無用=マサノブ) :2015/09/08(火) 23:26:36 ID:DD4jWV6M

実相は独在にあらず。実相を不在にさせた外部が必ず存在する。わたしはこのようにも考えます。真理は内部にではなく外部にある。わたしがいいたいのはこのことです。


4428 :純粋教理批判(身元の詮索は無用=マサノブ) :2015/09/08(火) 23:44:01 ID:DD4jWV6M

実相独在はイデア論です。それは真理を自己の所有物とするイデア論の考え方です。わたしはイデア論に反対いたします。


197 :感想男(=マサノブ):2015/09/10(木) 10:03:43 ID:JPiKJZkg

・・・生長の家の自由な生き方が本当にできるものかの疑問が増えますね。・・・その敗戦前の雅春先生の言への疑問なんです。知的誠実さがあり宗教家としての正しい道を歩んでいたかそれを疑問としているのです。云うことと行動が相反するという話が喧しい時がら、敗戦前に雅春先生がどんなことを言い国民を先導したかを知りたいのです。戦後に何云っても詮無いことです。雅春先生が敗戦前に言行一致であったか不一致であったかを聞いているのですから。


200 :感想男(=マサノブ):2015/09/10(木) 13:29:22 ID:JPiKJZkg

会話するもしないも自由、単に自分のブログでそれぞれが意見を述べていると思えばなんてことないでしょう。


204 :感想(=マサノブ):2015/09/10(木) 15:02:42 ID:JPiKJZkg

●理念と云う生長の家特異の考えを述べるのは勝手です。・・・大和の理想国、八紘一宇の理想国今どこにありますか。大調和の谷口家が何処にありますか。現象実相などの言葉に関係なく人間は生きているのです。其処に何らの理想の実現がなされないのであれば単なる理屈と云われてしまうでしょう。


210 :純粋教理批判(身元の詮索は無用=マサノブ):2015/09/10(木) 17:15:05 ID:DD4jWV6M

西欧の支配下にあった国々は政治的には独立できたかもしれませんが、民族の精神は失ったままなのですよ。精神はいまだに西欧列強の支配下にあるのですよ。植民地支配からの解放が日本国の使命であるのなら、精神の解放に向けて日本国はなぜもっと積極的に取り組まないのでしょう。


214 :感想(=マサノブ):2015/09/10(木) 18:05:13 ID:JPiKJZkg

古事記日本書紀の造られた時から日本精神は天皇の取り巻きによって隠されてきたのではないかと思っています。・・・雅春先生は自覚に基づいて真理を説かれたのかも知れませんが、言葉の上では古事記から出発しているのです。ホツマツタエの原文の世界はまるで知らなかったのです。・・・ホツマツタエに書かれていたものをかゃくほんして作られたものらしい古事記を基に真理を説かれていることへの疑問であります。


215 :純粋教理批判(身元の詮索は無用=マサノブ):2015/09/10(木) 18:20:31 ID:DD4jWV6M

生長の家は逆に日本的精神を高らかにうたいあげているようにおもえますが、アフリカや南米の国々がいまだに抱え込んでいる問題をおもいやるのであれば、こういうことはできないはずです。こうした無神経ぶりがどこからくるのか、教えていただきたいとおもいます。


4576 :純粋教理批判(身元の詮索は無用=マサノブ):2015/09/10(木) 13:34:02 ID:DD4jWV6M

「真理は外部にある」・・・外部の真理は不完全な姿でしかあらわれない。完全円満なる実相としてあらわれることはほとんどない(もちろん例外はあるでしょう)。これが古今東西の真実ではないでしようか。・・・内部の真理とはなにかといえば、それはまず間違いなく左脳自我の産物である。内部の真理はほとんど例外なく、善と悪や、霊と物質といた二項対立をたてる仕方で真理を説明しようとするからです。二項対立をたてるのは左脳自我の特徴です。内部の真理とは左脳自我の真理にほかなりません。霊と物質の二項対立をたてれば、霊を内部に留保し、物質を外部へと放逐しようとするでしょう。外部はマイノリティのたまり場なのですよ。・・・二項対立は言葉の宿命です。・・・内部の真理はつねに自己(左脳自我)をはこびてなされるもののようにおもわれます。万法すすみてあらわれてくるのが外部の真理であるといえます。


216 :純粋教理批判(身元の詮索は無用=マサノブ) :2015/09/10(木) 22:23:13 ID:DD4jWV6M

言葉を奪われるということは自国の文化や伝統から完全に切り離されるということですよ。精神をも奪われるということですよ。日本人の英語化がすすんで5世代、10世代とたてば、いまある文化や伝統など跡形もなく消え去っていることでありましょう。植民地支配はまだおわっていない。これは厳然たる事実です。日本の使命とはいったいなんだったのですか?文化から切り離されて生きなければならない人々の苦悩を共有する。これも使命なのではないですか。「イエス・キリストのような役割を果たした」というのであれば、こちらのほうがよりいっそう重要な使命のようにおもわれますが、それを「どこ吹く風」でいられるとは、いったいどうした風の吹き回しなのでしよう。


4583 :純粋教理批判(身元の詮索は無用=マサノブ):2015/09/10(木) 22:17:25 ID:DD4jWV6M

内部の真理とは、人間が左脳自我をもったことで外部の真理を受け取れなくなり、その代替物としてつくりだした真理です。外部の真理はふだんの心がけとは関係なくあらわれてくるものと考えております。


4592 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/11(金) 11:25:00 ID:DD4jWV6M

植民地支配からの解放が重要なのではない、あの戦争をいかに正当化するかということが重要なのだ、というのが生長の家の本音であるととられかねませんよ。


4593 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/11(金) 11:43:59 ID:DD4jWV6M

曳馬野さんはある事実にもとづいて雅春先生を「変節漢」といっておられるのではないですか


4597 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/11(金) 12:58:43 ID:DD4jWV6M

わたしは実相独在の排他性を問題にしているところなんですがねえ。実相独在とは「実相しかない」と言っているわけですから、これ以上の排他的表現はなかなかみつからないでしょう。


4598 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/11(金) 13:11:35 ID:DD4jWV6M

わたしは、植民地支配にたいする認識が甘い、といっているのですが、戦争を正当化できる部分だけをとりあげて、それを認識のすべてとしているようにもみえます。


4600 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/11(金) 13:26:12 ID:DD4jWV6M

教理の排他性、このことを批判したいのですよ。「大調和の包容の精神」といいながら、実際はものすごく排他的な教理なのですよ。教理と異なることをいえば「迷いだ、人間知だ」と排他的な言葉が即座にかえってまいりますが、なぜこうなるのかといえば、教理に排他性がひそんでいるからですよ。教理の排他性が今ある問題を引き起こしている。このことに気づかなければ問題のまともな解決はありえないといっていいでしょう。総裁は排他性の犠牲者です。


4601 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/11(金) 13:31:01 ID:DD4jWV6M

本流の排他性は「誤読」ではなく教理がつくりだしたものです。


4602 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/11(金) 13:49:16 ID:DD4jWV6M

解放などどうでもよい、戦争を正当化できればよい、これがみなさまの本音だからですよ。本音はこういう形であらわれるものなのですよ。解放が問題なら真の解放に向けてより真剣に語りあうべきであったが、それがいっさいなされてこなかった。本音はみえみえでしょう。


4605 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/11(金) 14:55:43 ID:DD4jWV6M

万教は一切を包容する日本精神によってそれぞれが活きる、雅春先生の御教えでいけばそれが、具体策でしょうか。現実を見ましょう、現実を。一切を包容する日本的精神が生長の家のどこにあるのですか。生長の家のなかでさえ実現されていないものをもってして具体策とする。こういうことばかり言いつづけて80年がたってしまいましたねえ。


4608 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/11(金) 15:48:22 ID:DD4jWV6M

いまだ現象にあらわれざるものをもって具体策となす。世間ではこれをやる気のない証拠とみなしますね。私は植民地問題よりも「我が国の貧困問題」や「失業問題」、あるいは「経済状況」の方にどうしても関心が、いきますね。そんなところでしょうか。かつて日本は身の破滅もかえりみずに、植民地解放のための戦争に突入したのではなかったですか。今は「わが身大事」ということですか。たとえ経済が破たんしようとも植民地問題解決のために身をていして尽くすということは、もうやらないということですね。


4621 :感想(=マサノブ):2015/09/11(金) 18:27:23 ID:JPiKJZkg

他の、本流掲示板のほうも、たまには ご覧になられたほうがいいですよ。すごいことに なってます。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/daityouwa.html これが生長の家の信徒の姿なんですね。災害に会った人の事を一つも思いやれない人間の集団。


4637 :尊王(=マサノブ):2015/09/12(土) 08:22:33 ID:UX9V9c2Y

生長の家・開祖の『御教え』全相復活を目指す掲示板が改めて、「トキ管理人」氏に対して『純粋教理批判』・『感想』君2名の書込み禁止処置を要請する。実行して頂きたい。と言っているが、それは谷口雅春先生の教えに反する行為です。私には総裁かどうか判断はつかないけれども、総裁ならば尚の事議論をするのが生長の家だと思います。雅春先生は正々堂々を好む方でしたよ。『御教え』全相復活を目指す掲示板なのであれば、相手を書き込み禁止にしないで頂きたい。恥ずべきことです。


4647 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/12(土) 14:35:02 ID:DD4jWV6M

強力な薬には強い副作用があるように、強力な教理にも強い副作用があります。その副作用とは、教理を信じるものに尋常ならざる排他性を植えつける、というものです。「真の教え」をたててそれに反する考え方を虚説として排除しようとしていた人がいた。いっぽうを「真の教え」としてたてて他方を「虚説」として排除する。これが副作用としての排他性です。「尋常ならざる排他性」です。


4648 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/12(土) 15:09:28 ID:DD4jWV6M

言葉とはそもそもが排他的なものです。日本国とは何か、定義できますでしょうか。「日本人が住む国」といったところで定義にはなりません。なぜなら日本人とは「日本国籍をもつもの」だからです。地図をみせて「これが日本です」と示すことはできます。しかし日本国という概念がなければ地図をもって示すことはできないはずです。「これが日本です」と示せる人は日本国という概念をすでにもっているにきまっています。その概念をその人はどうやって得たのか、これが問題になります。もしも地球に日本しかなければ、日本という概念がうまれるはずがありません。日本という概念をもつためには、日本ではないほかの国がかならず必要になります。イギリスやインドや中国という国があって、はじめて日本という概念をもつことができるということです。日本国とは、イギリスでもない、インドでもない、中国でもない、その他の国でもない、こういう仕方でしか定義できないはずなのです。地球上に日本しかなければこういう仕方での定義は不可能です。したがって日本という概念はうまれようがない、ということになるはずなのです。言葉は他を排除することでしか定義できない。わたしは言葉とはこのようなものだとおもっています。じっさいの言語活動はきわめて複雑であるので、どの言葉が何を排除しているのかを決めつけることはできません。しかし、いかに複雑であろうともあらゆる言葉が他のあらゆる言葉を排除していると、わたしはこのように考えています。言葉とはそもそもが排他的である。これがわたしの考えです。


4650 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/12(土) 16:49:02 ID:DD4jWV6M

宇宙とはそもそも何かというと、大気圏の外側が宇宙なのですね。大気圏の内側は宇宙ではありません。つまり、大気圏の内側でないものを宇宙と呼んでいるわけです。大気圏の内側がなければ、もちろん宇宙もありません。もしも人間がひとりで宇宙をただよっていたとしたならどうでしょう。自分以外はすべて宇宙です。しかしその人が生まれてからずっとそういう状態であったとすれば、自分という概念が生まれるはずがないので、宇宙という概念をもつこともないでありましょう。わたしのいう「実相」とはこういう状態をいいます。自と他の区別がない。したがっていかなる概念も生じえない。それがただある。これが実相です。実相独在とはいっさいの概念が生じえない状態です。概念を生じさせるには外部からの作用を必要とする状態です。その概念はいかにして生じたのか、これが問題になります。


4652 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/12(土) 17:57:49 ID:DD4jWV6M

「言葉とは何か」が簡単にわかるはずがありません。言葉とは何かを言葉で説明しなければならないのですから、これは至難のわざです。言葉とは何かを知らなくても言葉をつかうことができるわけです。たいていの人は言葉とは何かを考えることもせずに言葉をつかっているわけです。このことが問題をひきおこします。生長の家では、運転の仕方を知らずにクルマを運転する人のたとえがもちいられていたとおもいますが、言葉とは何かを知らずに言葉をつかっている人とは、運転の仕方は知っているがどういう運転をしたら危ないのかを知らずに運転している人といえます。

4657 :純粋教理批判 (=マサノブ):2015/09/12(土) 21:35:02 ID:DD4jWV6M

言葉とは他の言葉との関係、言葉は単独で意味をもつことはなく、他の言葉との関係においてのみ意味をもちます。この「関係」をわたしは排他的にたがいを排斥しあう関係とみています。排斥しあう関係がなければ言葉に意味はないということです。実相と現象の関係もこれとかわりません。たがいに相手を排斥しあう関係でなければ両者ともに意味をもつことないということです(現象がなければ実相もないということです)。現象なしの実相が考えられますでしょうか。「現象はない」と言葉にすることで現象を不在にさせ、その不在を埋める形でしか実相は語れないはずです。悟りの境地は「万法すすみて」でありますから、ここで書いたこととはおそらく無関係でありましょう。


4659 :純粋教理批判 (=マサノブ):2015/09/13(日) 00:57:47 ID:DD4jWV6M

言葉があからさまな二項対立の関係に入るとき、排他性は暴力性をおびた排他性へとさらにパワーアップいたします。このパワーアップした排他性が問題をひきおこしているわけです。「真説」と「虚説」。これがあからさまな二項対立です。こうした二項対立では、片方の項だけが純粋に現前するよう意図されます。「現前」とは「今ここにすでにある」という意味です。片方の項の純粋現前が意図されるかわりに、もう片方の項は暴力的に外部へと排除されます。パワーアップした排他性は、あからさまな二項対立をもちいるものに、片方の項を外部へと排除するよう働きかけます。気に入らないものを排除したい欲望。これは誰にでもあります。この「働きかけ」はこうした欲望を刺激します。欲望を刺激されたこの人が虚説の排除を強硬に主張しはじめるのは、もはや時間の問題です。


4660 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/13(日) 11:22:01 ID:DD4jWV6M

真説と虚説の二項対立について、さらにつっこんで考えてみます。この一信徒によれば「物質なし」とするのが真説であり、「物質あり」とするのが虚説となるようです。「物質なし」とは「物質は存在しない」とする否定判断です。「物質あり」とは「物質は存在する」とする肯定判断です。この未知の領域をわたしは「外部」と呼びたいとおもいます。この一信徒にとって、ものごとの判断は否定判断と肯定判断しかありません。この二つの判断だけでことたりているということです。内部の真理とはこういうものです。内部の真理には肯定判断と否定判断のふたつしかありません。この信徒にとって「外部」は存在しません。どちらかひとつが真でありあとのひとつのが偽である。これがすべてなのです。


4661 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/13(日) 13:12:44 ID:DD4jWV6M

二項対立がはらむ問題点は、暴力的ともいえる排他性だけでなく、無限判断を隠蔽するという点にもあります。実相と現象は二項対立の関係にあります。二項対立の優越項である実相は劣位項である現象にたいして十分に排他的です。そして無限判断=外部にたいしては排他的であるばかりでなく、それを隠蔽してさえいます。実相独在とされたことによって、こうした未知なるカテゴリー=外部は隠蔽されてしまいました。


4662 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/13(日) 15:17:22 ID:DD4jWV6M

「物質は非存在である」といってのける意味などどこにもあるはずがないからです。無限判断にもそれに意味をあたえるカテゴリーが必要、それはその都度あらわれては消えるという仕方であらわれてくるカテゴリーです。カテゴリーは皆無なのではなく無限に存在するということです。無限に存在するカテゴリーのなかからその都度ごとの必要におうじてひとつのカテゴリーがあたえられる。それは自分でつくりだすのでもなく、選びだすのでもない。必要におうじて外部からあたえられる。真理を語るにおいて二項対立(肯定判断と否定判断)をもちいさえすれば、比較的かんたんに真理は語れるものと考えます。


4666 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/13(日) 17:46:46 ID:DD4jWV6M

すべてのカテゴリーは外部からやってくる。これがひとつの仮説です。人間はその都度、外部からやってくるカテゴリーにもとづいて判断していた。人間は自分たちが理解できる言葉に置き換えた。そうやっていくつかのカテゴリーが言語化された。いつしか人間は、言語化できたカテゴリーだけをもちいて物事を判断するようになった。結果的になにがおこったのかといえば、無限にあるはずのカテゴリーのほぼすべてが隠蔽されてしまった、という出来事がおこりました。


4667 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/13(日) 18:08:51 ID:DD4jWV6M

カテゴリーが固定されたことで人間は外部の真理にコンタクトできなくなった。かわりに自前の真理をこしらえた。その真理こそ「内部の真理」とわたしが呼んでいるものです。内部の真理とはイデア論です。イデア論は「真理はわがうちにある」と考えます。わがうちにある真理を現象世界に純粋現前させる。外部の真理はイデア論によってさらに強固に隠蔽されることになります。イデア論をもちいるかぎり、それは人間にとって都合のよい真理にしかならないからです。イデア論では真理は自己の所有物と考えます。所有物である真理を利用することで自分にとって都合のよい現実をつくりあげようとするからです。


4668 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/13(日) 18:37:23 ID:DD4jWV6M

自分にとって都合のよい現実をつくりだしてくれるのがよい真理である。これがみなさま方の考え方である。都合のよい現実をつくりだせないものは真理としての値打ちがない。みなさま方はまちがいなくこのように考えておられます。「実相を観る」とか「実相をあらわす」とかいわれますが、これはいったいなんためですか?隠蔽された真理や忘却された真理を掘り起こすためですか。自分に都合のよい現実をつくりだすためですか。


4669 :純粋教理批判 (=マサノブ):2015/09/13(日) 21:25:58 ID:DD4jWV6M

人類を迷妄(イデア論)から救うといいながら、気づいてみれば生長の家もイデア論であった。イデア論であるがゆえに教団内部も迷妄におおわれた。「すべての人を神の子としておがむ」。なんのためですか。すでにここにあるはずの真理を純粋現前させる。このためですよねえ。「すべての人を神の子としておがむ」も結局はイデア論であったということです。


4675 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/14(月) 05:58:53 ID:DD4jWV6M

今起きている問題はイデア論が自壊する姿です。環境問題もおなじです。みなさまが理解できる言い方でいえば、イデア論の自壊が環境問題となってあらわれている、というよりほかはありません。「イデア論が自壊するのか」といわれても、それはわたしにはわかりません。


4676 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/14(月) 06:12:43 ID:DD4jWV6M

アレーテイアを失ったことで人類はその代替物としての宗教を必要とした。
アレーテイアが回復されれば宗教は必要なくなる。これがわたしの考えです。


4677 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/14(月) 06:32:10 ID:DD4jWV6M

禅は宗教ではない、とわたしは考えます。禅者は宗教を必要としない。なぜなら、禅者はアレーテイアだからです。イデア論が自壊しつつあるということはイデア論の有効期限がきれつつあるということです。アレーテイアをふたたび取り戻す時期がきているということでしょう。


4678 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/14(月) 07:50:39 ID:DD4jWV6M

万教帰一とはようするに、すべての宗教はイデア論だということでしょう。人類意識がイデア論を欲し、それにもとづいてすべての宗教がつくられた。こういうことでしょう。イデア論によって構築された救済思想、これが宗教の定義でしょう。


4680 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/14(月) 11:23:13 ID:DD4jWV6M

宗教がなんで環境問題なんだ。イデア論とは「みずからの言葉をもって真理となす」考え方です。「地球の資源は人類のものだ」といえばこれが真理となり、「すべての生き物のなかで人間こそが最高の価値をもつ」といえばこれが真理になります。仮象の世界である地上にイデア界の真実を実現することこそが自分たちの使命であると西洋人は考えたはずです。そのためにはどうすればよいかというと、自分たちのなかにすでにイデアはあるのだからそれを実現していけばよい、ただこれだけのことでありました。イデアの実現であったはずの行為が人類を苦しめる環境破壊へと結びついてしまった。最大のあやまちは人類がイデア論を信じたことにあるはずです。みずからの言葉をもって真理とみなし、自分たちに都合のよいことばかりをやりつづけてきたことにあるはずなのです。すべての宗教はイデア論に帰一いたします。人類が二千年かけておこなってきたイデアの実践はいまや人類に悲惨な結果をもたらしつつあるともいえます。それでも宗教は、なおもイデアの真理実現のための実践をつづけるのか、それともイデア論の間違いをただすための実践へと方向を転換させるのか。多くの宗教がこうした岐路にたたされているのです。総裁は後者の道をお選びになった。宗教も環境破壊をひきおこした物質文明も一蓮托生である。つまりはこういうことです。なおここで述べたことはすべて私見です。このことはいっておきます。


4683 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/14(月) 14:24:09 ID:DD4jWV6M

哲学するのはほんとうによいものです。ところで、哲学と宗教のちがいとはなんでしょう。哲学はイデア論を捨てました。形而上学も捨てました。それは贈与と獲得のちがいです。現代の哲学が問題にするのは贈与です。宗教はあいかわらず獲得を問題にしています。宗教にとって真理は自己の所有物です。所有物である真理を利用してなにを獲得するか。これが宗教の中心テーマです。自分にはなにも戻ってこない。これが贈与です。純粋なる贈与です。見返りを期待した贈与は贈与ではありません。アレーテイアは外部からなんの見返りも求めることなく贈られてくる純粋なる贈与です。人間はそれを受け取りみずからのために用立てるだけです。お礼をいう必要はありません。さらなる贈り物を受け取るために媚びる必要もありません。心は関係ありません。見返りを必要とするのであれば、それは贈与ではないからです。哲学の中心テーマのひとつ、なにひとつ自分にもどってこない活動、それが人間にできるのか。この問題を探求することが現代哲学の中心テーマであると、わたしはこのように考えおります。総裁がなさっておられるのは贈与であるのかもしれません。誰にたいするものかはわかりませんが、純粋なる贈与を実現するための活動であるのかもしれません。宗教にとって重要であるのは、なにひとつ自分にもどってくることのない贈与ではなく、多くのものが自分にもどってくる獲得です。総裁にたいする批判とは「総裁は自分にもほかの信徒にも何も獲得させてくれないではないか」というのがほとんどのようにおもわれます。そんな人たちになにかを与えたところで贈与にはならない。総裁はおそらく純粋なる贈与を実現しようとしておられるのです。


4686 :純粋教理批判(=マサノブ):2015/09/14(月) 19:39:16 ID:DD4jWV6M

ここにひとりの罪人がいるとします。この罪人を強制的に罰するのと、本人が気づかぬままに矯正手段を講じて別の人格につくりかえるのとどちらが問題であるか。ミシェル・フーコーは後者のほうが問題であると考えました。気づかぬうちに人格をつくりかえられてしまうくらいなら、強制的に罰せられたほうがまだマシだとフーコーは考えたのですね。ポストコロニアルは後者です。言葉を奪われたことで本人たちが気づかぬままに別の人種に仕立て上げられる。これがポストコロニアルです。フーコーであれば、軍事力による直接支配よりもポストコロニアルをより深刻なものととらえるでしょう。軍事的支配よりもより深刻であるやもしれぬポストコロニアルにかんして、本流はなにもしてこなかった。「解放は日本国の使命」は戦争を正当化するための口実でしかないことが、これによって示されました。総裁は「あの戦争は侵略戦争であった」といっておられるようですが、「国の使命」をもちだしての反論はもはやできなくなりました。この件にかんしては総裁の勝利が確定いたしました。ポストコロニアルにかんして無関心であることを本流が「やましい」と感じることはないでしょう。「解放とはなにか」を本気で考えるつもりなど、もともとなかったのですから。


4688 :屠蘇地租過疎(=マサノブ):2015/09/14(月) 21:41:02 ID:MDvyz5eo

トンチンカンも≪信仰者≫なら、アジ演説はいい加減にしろよな!


4690 :屠蘇地租過疎(=マサノブ):2015/09/14(月) 21:52:23 ID:MDvyz5eo

トンチンカンは、≪信仰者≫なのか?いや、違うな。ヘイトスピーカーだ。


4692 :屠蘇地租過疎(=マサノブ):2015/09/14(月) 22:10:59 ID:LboeUCpg

トンチンカンよ、≪ヘイトスピーカー≫のお前が谷口雅春先生を語るな!
谷口雅春先生は、≪ヘイトスピーカー≫の道具ではない!




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