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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[6274] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第196回
信徒連合 - 2016年12月28日 (水) 09時39分






@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』

A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』

★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。

******************




大聖師御講義『続々甘露の法雨』より(37)





  罪も、迷いも、病いも、
畢竟、「無」なるものの一場の夢に過ぎず。
「因果はめぐる」の法則も
南柯(なんか)の一夢に過ぎざるなり。

因果を超え、
業苦を超えたる
真清浄、真無垢なるものこそ
汝の生命(せいめい)の円満完全なる実相なり。

 この一節には非常に重大な問題が含まれているのであります。ここには「因果はあるか」の問題に対して、「『因果はめぐる』の法則も南柯の一夢に過ぎざるなり」と断乎として、因果の法則を“夢”として否定しているようでもありますけれども、はたしてそうでしょうか。

それは「因果を超え」「業苦を超え」て、現象界の原因結果以前の「実相の世界」超入し得た者のみが、実相世界に立って実相の面から、現象の移る変る世界を眺めて言い得る言葉であります。

現象の世界をウロチョロしながら、「『因果はめぐる』の法則も南柯の一夢に過ぎない」などと放言して因果を無視した勝手気儘(きまま)な生活をしますと、その放言そのものが一つの業因となって、業因の循環はこのようにあるぞ──と色々の問題が自分の生活にあらわれて来て思い知らされることになるのであります。

『無門関』の公案第二則に“百丈野孤(ひゃくじょうやこ)というのがあります。その概略を申しましょう。

有名な百丈和尚の道場には、毎日多勢の修行者が集って修行していた。その多勢の中に混じってひとりの老人が毎日黙々として修行を続けていたのであります。他の修行者が去るとその老人も黙々として一緒に去って行くのでありましたが、或る日、他の修行者が帰り去って行っても、その老人ひとり道場を去らないで、何か物言いたげな表情で百丈和尚の前に坐っているのでした。

それで百丈和尚が「わが面前に立つ者は是れ何人ぞ」といって訊(き)いたのです。すると、その老人は、
「私は人間でありません。過去の迦葉仏(かしょうぶつ)の時代に、この山に住持(じゅうじ)していましたが、修学の僧が、大修行を徹底するほどの人なら因果を超えることが出来ますか、それともやはり因果の法則に縛られますか」と尋ねるものですから、「因果に落ちず」と答えました。それでその答えが間違っていましたので、私は500回生れ変る間、代々、野狐(やこ)に生まれていました。今も私は野狐に生まれて来ているのですが、唯今は、ちょっと変化身(へんげしん)して老師の前に人間の恰好をしてあらわれて来ていますが、実はまだ野狐なのです。どうぞ此の野狐の境涯から、老師のお力によって、もとの本来の人間に帰ることができますように次の問に答えて真理をお示し下さいませ」

このようにその老人は頼んで、
「大修行底(てい)の人、還って因果に落つるや否や」
と禅問答をしかけたのでした。その時、老師は、「因果は昧(くら)まさず」と答えた。その途端に野狐の境涯に生まれていたこの老人は本来の人間の実相を悟って野狐の境涯を脱したのでした。翌朝、その寺院の裏庭にその野狐の死骸が横たわっていたので、それを火葬に附してやった。彼は野狐の皮袋を脱して、ついに“本来の人間”に還ったというのであります。


これは百丈和尚の、みずからが幻想した物語で人間の実相を悟らしめるための公案でありますが、詳しくは、私の『無門關解釋』*の29頁から46頁までに随分長く説明しておいたのでそれを読んで頂くとよいと思うのであります。

この聖経『続々甘露の法雨』に説かれているところの「罪も、迷いも、病いも、畢竟、『無』」であるというのは野狐の境涯を脱して、“実相の真人”を悟った人に対して言い得ることなのであります。だから罪も迷いも病いも、単に「無」とは書いてないのであって「畢竟、『無』」と書かれているのであります。

畢竟というのは究極のところまで掘り下げていってという様な意味でありまして、「肉体」と称する野狐の毛皮みたいな皮袋を──換言すれば生理的には獣と同じ肉体を──“人間”そのものだと思っている者には、罪も、迷いも、病いも「無」どころか実際にあるのであります。

 だいたい「罪」というものは、人間の「霊的実在」なる実相を「包み」てあらわさないツツミの状態を指すのであるから、人間を肉体だと思っていること其のことが「包み」即ち「罪」なのであります。すなわち「霊的実在」なる人間を間違えてそれを物質的人間だと錯誤して考えていることその事が「迷い」なのであり、そして人間そのものを肉体だと思いちがえている迷いに陥っているものは、物質の法則に支配され、「因果はめぐる」の法則に支配されて、いずれは老い且つ病むより仕方がないのであります。

 だから人間という存在を「物質的存在」だと思っている限り、その人間にとっては、因果の法則は厳然たる存在であって、因果に縛られて、悪因悪果、善因善果をのがれることはできないのであります。

この聖経にある、
「因果を超え、業苦を超えたる真清浄、真無垢なるものこそ汝の生命の円満完全なる実相なり」という実相を悟るには、「白鳩」誌の本号(昭和46年9月)の箴言(しんげん)にある「久遠のいのちを今生きる」というような境地にその人の自覚が躍入することが必要なのであります。

 自分自身を単に肉体的存在だと思っている人は、肉体をいくら磨いても“仏性”は出て来ないのは、瓦をいくらみがいてもダイヤモンドの光は出て来ないのと同じであります。肉体は因縁所生(しょしょう)の存在であるから、因縁所生の存在をいくら修業して磨いても、因果を超えることはできないのです。

 「大修行底(てい)の人」というのは因縁の中にあって修行して行く人であるから、そして大抵の人間はそれに属するのであって、「悟った、悟った」などといっても「不落因果」の境地にはなかなか入っている人はないのです。だから善因善果の結果の法則の中に於いて修行するのがよいのです。

 すなわち聖教読誦や、親孝行や、善行や、愛行や、感謝行というような善因を積み重ねているうちに、善因善果の法則によって、だんだん現象世界の因果を超えた実相の世界の風光がおぼろげながらも見えて来、だんだんそれがハッキリと悟れて来、「因果に落ちず」じゃなくて、因果の法則を眛まさず、「因果の法則」によって、自己の実相が本来“神の子”であり“如来“であり、因果を超えた真清浄真無垢の霊的実在であることがわかる境地に近づいて来るのであります。

それは例えば飛行機が重力の法則を超えて空中高く飛翔できるのは、それは流体力学の法則によるものであって、決して原因結果の法則を無視して空中へ飛翔するのではないのと同じであります。

 次に掲げるのは、子供を堕(おろ)した悪業の循環によって次女が医学上からは原因不明の病気に罹っていたのが、その堕(おろ)した子供の霊魂を生長の家の宇治別格本山の霊宮に祭祀(さいし)して貰い、その霊魂を霊宮聖使命会員にしてあげるという善因を積んだ結果、その善果として、次女の原因不明の病気が治ってしまった実例であります。


 それは昭和45年11月29日、四国の徳島市の文化センターで生長の家の講習会がありました時に、同県小松島市小松島町の高橋悦子さんという39歳になるがまだ若々しい美しい奥さんがこんな体験談をなさったのであります。


皆さん、有難うございます。(拍手) 私は小松島市の高橋でございます。40年の9月に、林先生に初めて素晴らしいこの生長の家のお話を聞かせて頂き、次いで翌月10月の9日、谷口雅春先生のご講話を感激して有難く聞かせて頂きました。

早速、主人を聖使命会員に入会させて頂きましたが、会費を納めるばっかりで誌友会の方は跡絶(とだ)えていたんです。次女の美保子は、小さい時は県の健康優良児として表彰頂き、幼稚園から1日も休んだことがなかったのですが、今年の3月16日、2年生最後の遠足に喜んで出かけたのに、半時間もしない中(うち)に、「お母ちゃん!口が引き攣(つ)って開かん様になった……」って帰って来た時は、私も主人も本当に吃驚(びっくり)して、そのまま徳大へ走りました。

車の中でも、舌は出るし引き攣ってくる小児麻痺になってしもうたのかしら?と心配しましたが、丁度部長さんがお出でになって、脈を見るなり、「あっ、薬が当っている」(薬の中毒か)と言って下さった時は本当に安心したんです。

暫く経ってから、朝「頭が痛い!頭が痛い!!」って頭抱えて転げるようにするので、取り返しのつかないことになってはと、眉山(びざん)の下の田岡病院に入院したんです。私は、遠退(とおの)いていた林先生に無性にお会いしたくなり、林先生の所へ御指導を求めに参りますと、丁度先生御夫婦がおいでになって、
「何か不調和が形として現われているんですよ。子供をおろしていませんか?堕ろした子供の悲しみが、可愛い子供によって知らされるんですよ」と言われました。

私には適中の言葉だったので、ハンマーで殴られた感じがして、「ああ!美保子ちゃん、お母さんを許して、お母さんの罪を許して」と、断腸の思いで泣きました。 私は心から罪を懺悔し、直ぐ両親と、堕ろした子供とを、霊宮聖使命会員にならせて頂き、私も子供達も聖使命会員に入会させて頂きました。林先生は、どんな悪い現象が出ていても、それは過去の心の影(註。過去の原因が結果としてあらわれた事)なんだから、実相円満完全の『甘露の法雨』をしっかり誦(あ)げなさい」とご指導を受け、私は病院に帰りました。

病院に帰ってみると、主人と子供たちが廊下にいて、美保子が、「部屋の中には空気がない、入れん……」と泣いて言うんです。そいで、「お母ちゃん帰って来たけん、ほな入ろう……」って入りかけたんですけれど、とにかく扉を開けてみても入らんのです、「空気がない……」って美保子が言うんです。それで主人が美保子の頭の方を持ち、私が足の方を持ちして廊下を右往左往しておりました。丁度先生が通りかかって、「一人部屋だったら淋しいけん、お友達のいる2人部屋の方へ変りませんか?」本当に先生方も、あの手この手の治療をして下さるんですけれども、病状は悪化するばかりでした。

そして、2人部屋の方へ変えて頂いても暫くすると、「ここにも空気がない……」って言うので屋上へ連れて行ったり、廊下で時を過ごしておりまして、夕方近くになって、部屋に戻りますと、「やっぱり空気がない……」って言って泣くんです。それで私がいろいろ宥(なだ)めておりましたら、もう今度は本当に搾(しぼ)るような声で、この田岡のどこーにも美保子の吸う空気はない、お母ちゃーん……美保子の一生のお願い、美保子を空気のある所へ連れて行って……連れて行って……息さして、息さして……」と言って息を止めて動かなくなってしまったんです。

私は、全身が苦しさで一杯になり、天地一切に詫びました。先生も吃驚して飛んで来て、注射を打ちながら、「こんなに苦しいのに、どこの行く所があるの……そんな無理言うたら治らんでしょう」と宥めてくれましたが、私は“私に出来る事なら、どんなにしてでも、命にかえてでも救ってやりたい!生かしてやりたい!!の一心で、林先生に教えてもらおう!!と必死になって先生宅へ駆け込みました。

その夜は15日でございまして、小松島道場での御先祖様の供養をして下さる日でありまして、大勢の誌友さんが集っておいでになり、直ぐ皆さんで“実相円満完全”を祈って下さいました。丁度その祈って下さる方の中に美保子の病状によく似た方の御家族がおいでになって、田岡病院にない設備が日赤にあることが分り、直ぐ林先生の車で日赤病院へ変わるべく田岡へ引き返しますと、主人が、「いま神様に全托して祈っとったら、死んだお父さんとお母さんがあらわれて、何か光る玉のようなものを合掌の中に入れてくれた」と言うんです。

“ああ御先祖様が守って下さる!!と思って、直ぐ院長先生に訳を言って、救急車で日赤の酸素吸入室に入ったんです。2日目の夜、東京の御本部から神癒祈願の人型も送って下さり、3日目に酸素吸入が除(と)れました。それからは、あれほど重態であった子供が薄皮を剥ぐように良くなって、もうどこも悪くない、薬も服(の)まず注射も打たず、本当に空気だけ頂いて1週間で退院が出来たんでございます。

“人間神の子病気なし”“子供の病気は親の心の影”という真理を身をもって教えてくれた美保子ちゃんこそ観世音菩薩様でございます。この尊い体験で『生命の實相』全巻も備えさせて頂きました。 本当に、こうして真理を知らせて頂きまして、金銭では価(ね)のつけようのない無限の宝でございます。谷口雅春先生、本当に有難うございます。もし、この御教えを知らなかったらと思うと、感謝してもしきれない私一家でございます。この感激を生かしまして、まだこの御教えを知らない私の故郷の山村の方々に、一人でも多くこの尊い御教えをお知らせしたいと思いまして、本日も此の会場に10名ばかりお招きして来て頂いております。

今後ますます愛行させて頂きまして、谷口雅春先生の御恩の百万分の一にでも御報(おむく)いしたい覚悟でございます。谷口先生、本当に有難うございます。御導き下さいました林先生、本当に有難うございます。皆さん、有難うございます。


 霊魂が霊界へ移行した最初の状態は、死の刹那(せつな)の状態を当分の間霊界で継続しているのであります。次女がその舌が痙攣(けいれん)したり、空気がないといって苦しむのは人工中絶手術の最初の一撃で窒息し、舌等に痙攣を起した臨終の状態を、その胎児の霊魂が継続して霊界に往(い)ってからも体験していて、その苦しみの念波を、救われたいと思って念送して来ていたのを次女が受信してその有様を再現した訳であります。この実例を見ても人工中絶がどんなに残酷な行為であるかが判ると思います。



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