| [6294] <再掲示> インターネット道場―― 「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 第252回 |
- 信徒連合 - 2016年12月29日 (木) 09時01分
<再掲示>
インターネット道場――
「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか)
第252回
マサノブ君は、「生長の家ってどんな教え?」という本を書いています。これを読んでみますと、「マサノブ教ってどんな教え?」というタイトルが正確であります。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して、マサノブ君の個人的思想、―――サヨク唯物現象論に基づく環境問題が中心のもの、―――が「生長の家」の教えとして書かれているのであります。 最も重要な開祖・谷口雅春先生の大悟徹底(お悟り)や「生命的国家論」や真理の証し「体験談」、霊と霊界に関する事柄については全く書かれてはいないのであります。
「生長の家」の本当の『御教え』を知りたい人や真剣な求道を志す人たちにはマサノブ君の「今の教え」や「生長の家ってどんな教え?」は誤ったメッセージを送ることになっています。
また、本部公式サイトのインターネット講師による「生長の家」の普及宣伝を目的とする「インターネット・ポーサルサイト」では、マサノブ君は、全インターネット講師に『このブログは「生長の家」の真理普及のために開設しましたが、内容や発言は、すべて私本人の責任において書いています。 従って、私は「生長の家」を代表する者でもありませんし、私の発言が「生長の家」の見解ではありませんので、ご了承ください。』という一文を必ず掲載させております。誠に“奇々怪々”な文章であります。その結果として、本部公式サイトでありながら、殆んどのインターネット講師の真理普及のためのインターネット講座が、個人的な“私生活日記”の報告となってしまっています。
インターネットは全世界に公開されているものです。だから、開祖・谷口雅春先生が説かれた「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えしなければならないのでありますが、マサノブ君はその責任を放下してしまっているのであります。
そこで、本当の霊的真理を求めておられる御縁ある未信徒の人たちに正しい「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えする為に、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の根幹である部分を、何回でも何回でも繰り返して掲載して行く必要があります。この様な目的を以って、この「インタイーネット道場」を最初から再び<再掲示>させて頂きます。
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光明思想家とマルキストとの対話
社会主義か資本主義か生長の家か
(『解放への二つの道』P.128−147)
客:
日本の資本主義経済が行き詰まっていると云うのは、どう云う訳でしょうか。
主:
大体、日本の国は人口に比例して国土がせまい。そして資源が乏しいのです。だからその資源を得るために戦前は大陸に進出し南洋に資源を開拓していたのでありますが、戦後はそう云う植民地的なところから資源を持ってくることができないので、外国から材料物資を買わなければならなくなったのです。材料物資だけではなく、米、麦、粉等の主要食料品も海外から買わねばならぬ。買うだけでは借金になるから、何か原料物資に加工して売らなければ、日本の貿易は成り立たない。日本の貿易が成り立たなかったら、日本は外国から食糧を買うことが出来ないので国民は飢えて死ななければならぬ。そこでどうしても輸出をさかんにしなければ仕方がない。
輸出をさかんにしようと思っても、日本の製品の値段が高すぎたら海外で買い手がない。そこで製品の値段を下げるためには生産費をさげねばならぬ。たいていの高価品の原料は外国から買うから原料費は下がりようがない。加工賃を下げるしか仕方がない。ところが加工賃は、賃上げ闘争でますます上がる一方です。そうしたらどうするかと云う問題が起こるのです。
賃金は上げたが、それでは会社の経営がなりたたないので、ついにつぶれてしまった尼崎製鋼のような会社があります。こう云うように、日本の資本主義経済は行き詰まっているのです。それを行き詰まらせないようにするにはどうしたら好いと思いますか。
客:
会社の機械設備をもっと能率の好いものと取り替えれば好いので、そして外国に負けないようにするとよいでしょう。
主:
もっと能率のよい機械は大抵国内で生産できない。そこで外国から買わなければならぬが、外国から買う金がないのに一人宛ての賃金を増しながら、その会社の会計を成り立たすようにするには、人数を減らすより仕方がないでしょう。そこで今はその人員淘汰ということが、産業合理化の線に沿うことになって行なわれているのです。所謂首切りですね。そうすると又、首切り反対運動闘争という奴が出て来る。そして「首切り、自殺、・一家五人心中、これでよいか、資本家は怪しからぬ。」と言って、責任を資本家にもって行く。
しかし、資本家としては、どうもこうも仕方がない。原料は外国から買うからそれ以下に原料費は下げようはない。賃上げ闘争で働いている行員や社員に要する人件費は、それ以上あげようはない。むしろ定期の賃上げ闘争で上げるより仕方がない。そこで、自分が首切られない社員や工員はそれだけ増賃金を貰って大いに得になるけれども、その一部の人の得は、実は、産業合理化のために首切られた人の「首」を食っているようなものですよ。賃上げ闘争をして、増賃を喜んでいる工員たちは、この首切られた人の「首」を食い、生き血をすすっている鬼みたいなものですよ。
客:
それでは私たちも、その鬼の一人ですかな。
主:
そうですよ。若しあなた達が、労働者たる同胞を愛するために闘争するのだったら、首切り反対闘争をすると共に、その産業が成り立ち得るように、「自分の賃金収入の一部をその産業に献納しよう」即ち、「今より安い賃金で働きましょう」と云うようにならねばならないのです。
それなのに、賃金は上げてくれ、首切りは反対だ、能率を上げる新機械を買う金はない。そして毎年定期の賃上げ闘争と云うことになると、産業はもう両方からの板挟みに陥って、どうもこうも出来ない。これはもう産業を潰すより仕方がない、と云うことになっているんです。
この一国の産業を潰して社会不安を増大し、国内不安と国内分裂を起してソ連の衛星国にしてしまおうと云うのが国際共産党の覘(ねらい)なんですよ。その覘は一寸かくしておいて、「君達の賃金が上がり、待遇が改善される方法を教えてやる」と言われると、実際はそうではないのに、そうかと思って引っ掛かって多くの人が賃上げ闘争に参加する。利をもって誘って実は墓穴をほっているのですよ。
客:
わたしは、どうも、そうは考えません。実際物価は高いし、現在の賃金では生活に困難だから賃上げ闘争するほかに道はないのです。
主:
ところが、その賃上げ闘争をして、そして労働者たる自分たちが果たして本当に幸福になるのであるかということを考えて見たら、実際幸福になれないことがわかるのです。それは現に三井鉱山の、ある例がある。あれは大分永い数ヶ月にわたったところのストライキであったのですが、何でもその一期だけの損失が三十億円にも上ったそうですけれども、そうしていっぺんに会社は無配当に追い込まれた。
「資本家が労働者を搾取して餓死させる」などと左翼の人は言いますけれども、資本を借りて使う以上は、コンペンセーション(償い)の法則と云うものがあって、「借りれば、代は払わねばならぬ」し、「貰うためには与えねばならぬ」のですから、それ相応の株主配当と云うものは、会社が株式会社である限りは当然のことなのです。また会社の株式資金と云う中にも労働者やサラリーマンがコツコツためた清浄な金もある。それなのに、ストを強行して損害をかけ株主配当をゼロにするのは、一部の労働者の間違った行為のために、株主から利益を搾取したと云うことになるのです。
労働者同士がストライキによって労働者を首切り状態に追い込んだり、労働者が貯めた株金の利子を搾取するというのは間違いではありませんか。実際ストライキによって得るところは何もない。
何故なら、それは「与えずに得よう」「労働を停止して賃金を沢山得よう」と云う働きであるからです。こうして、労働を停止し石炭を掘り出さなかった結果はどうなったかと云うと、今まで顧客であったところの石炭を使う工場が、重油に転換したのです。そしてボイラーの設備を、石炭を使わずに重油のボイラーに置き換えたのですから、今度、ストライキを止めて石炭を掘り出しても、殆どの工場でそれを使って呉れない。使って呉れないから炭価は暴落することになって、今や石炭業界の大変な問題になっている。それで配給米も買えないで、欠食児童なども沢山でて、いろいろの方面からの同情で辛うじて恵を貰って“おかゆ”をすすっていると云うような、悲惨なる状態が到る所の炭鉱地帯に見られるということになってきたのであります。
これが労働者の希望する状態と言うはずはない。こう云う状態は労働者としても望んだことではない。労働者は“煽(あお)られて”いるのです。組合の幹部から煽動されているのです。そして組合員は全部幹部の指令に従わねばならぬ。
その従った結果がこれである。これは数名の幹部に操られているファッショである。その背後には何があるかと言うと、日本の社会不安というものを激成して行って、大衆をして現代の社会制度を詛(のろ)はしめるための計画である。自分がストライキをして自分で石炭の買い手をなくして、原因を資本家に皺(しわ)寄せる。「資本家が悪い、政府が悪い、資本主義制度が悪いからこんなことになるんだ、お前たちは我々を搾取して餓死させようと言うのか」と云う風にもって行き、民衆を暴動に駆り立てて行って一挙に現在の社会秩序を覆(くつがえ)してしまおうと云うのですよ。そういう一部の組合幹部のファッショに操られてはなりませんよ。
客:
それでは貴方は現在の資本主義制度でよいとお考えですか。
主:
私は決して資本主義制度が良いというのではありません。生長の家は資本主義でなりたってはいない。決して私は資本主義に見方するというのではない。実際上我々の団体は既に資本主義ではない。我々の団体は人類光明化の使命を感じた聖使命菩薩たちが集まって来て、それが人類光明化運動の資金を奉納金という形によって出す、是は共産党でも資金カンパとか、シンパサイザーとか云うものがあって運動資金を献納するのとおなじなのです。
私を金持ちで資本家だ、と思っている人もあるけれども、真っ赤な嘘だ。私は一個の労働者だ。私位長時間労働せんならん者はない。私には一週一日の休暇もない。一年中一日の休暇もない。サラリーマンが勤務時間が終った午後五時頃から後もやはり仕事を継続している。何しろ五冊の雑誌に書かなければならぬ。これはちゃんと教文社の編集部から、こう云う題で何枚書け、と命令がでてくる。否でも応でもそれを書かなかったら、其の月の雑誌が出ない。雑誌が出なかったら数十名の教文社の社員及び聖典普及協会の従業員が飢えてしまう。これらの人々の生活を支えるためにも、私は労働しなければならぬ。
こうして私は原稿紙一枚いくらの賃金労働者ですよ。それも諸方へ毎月平均半月くらいは講習会に巡行してその合間に書かねばならぬ忙しい労働者です。
私はあのチャップリンの、『モダン・タイムス』とか云う映画をみたのでありますが、チャップリンが主役で、軍需工場の流れ作業でスパナ(捻子まわし)を握って、ズーッと流れるように、自分の前に出て来る機械を、次から次へと「捻(ねじ)」を廻さねばならぬ。そしてその忙しさに気が変になってしまう。私はあの映画を観ている時に、「僕はあの通りだなあ」と思った。私は流れ作業の労働者なんです。労働者だけれども賃金を余計要求しようとは思ってやしない。
吾々生長の家の組織は、結局、人類救済の組織であるから利潤機関ではない。それでもお前は著書を売って儲けているじゃないかと言う人があるかも知れないが生長の家の教えの書物なる『生命の實相』や『真理』は著作権が社会事業団にあって、そのほうへ印税が入るということになっています。これで遺児孤児が養はれたり、色々文化的な仕事をする費用に寄付されているのです。私が講習会で声を枯らして喋ると、講習費が先生に随分入るので一千名も受講生があって、一人の奉納金が三百円だったら随分儲かる。素晴らしいなあと思う人があるかも知れぬけれども、私は何も貰っておらぬ。これは皆光明化の費用になる。大体、この生長の家教団では一番上位の人は何の報酬も貰わぬ。唯勤労奉仕をしているだけである。
生長の家は決して資本主義組織ではない。教主は無料奉仕で、その次の上役である社長とか理事長とかいうものは、去年の暮れのボーナスでも、毎月の月給の二割に過ぎない。その次の位置にいる人が三割、五割と、ずっと下ほどボーナスが上がって行って、平社員と云うような人がまあ十割のボーナスをもらっている。こうして下の人ほど優遇されている所のそういう不思議なる形態になっているのです。
これは一つの社会主義である。能力は少なくとも扶養家族の多い人には、その生活に差し支えぬようにしてあり、能力があって長年月つとめている人でも、独身であるとか、他から恩給とか扶助料が入って生活に差し支えぬ人には僅かな給料で我慢して貰っている。こうした社会主義的政策を現実にやっているのが生長の家なんですけれども、共産主義者の奉ずる社会主義とくらべてどこが異(ちが)うかと言うと、イデオロギーの根本が唯物論ではないのであります。
客:
こうして生活の楽な人は上役でも月給が少なく、家族の多い人は下役でも生活の立つようにしてある、と云うのは人類は平等に神の子であると云う立場からですか?
主:
人類は本質に於いて、神の生命を宿しているから平等なのです。しかし現象に於いて人類は平等であるとはいえない。生まれた時からすでに能力に於いても、境遇に於いても平等ではない。人類は平等で、経済的に平等にしてやるぞとマルキストは言うかも知れませんが、それは大衆の歓心を得るために、そういう風に宣伝されているだけであって、左翼の人が書いている文献にも、決して共産諸国では人類は平等になっているとは書いていないのであります。
ここにあるのは、嘗て神山進という共産党の幹部だった人が『評論』という雑誌にソ連の実情を書いていたものでありますが、それにはこう書いてある。「ソ連の男女青年には、あらゆる門戸が解放されるということは、教育だけに限られたことではない。社会生活の全般にわたって、青年にはあらゆる機会が与えられている。ソ連は社会主義国家である。社会主義国家は黴(かび)の生えた因習には捉われない。能力のある者は年齢や男女の区別を無視してどしどし抜擢される。その点でも、我々の場合とは全く対処的だ。
ソ連では頭の禿げた男が上席にひかえている場合には若い者にとって出世の道が閉ざされるというようなことは絶えてない。日本では“年寄りの言うことを良く聞け”という言葉を良く耳にするが、ソ連の合言葉は“若い者の言うことを聞け”というのである。断って置くが、このことは、ソ連が年寄りを粗末にするということではない。問題は能力であって、それ以外には何物もないのである。」
これがソ連の実情であって、能力ある者が優遇せられる。昭和二十九年十一月か十二月かの『文芸春秋』に終戦以来中共に捕らえられておって、中共の重工業の技師をして居た人で、現在東大の教授をしている人が中共事情を書いておりましたが、その中に「自分はそういう工業生産の技師をしておったから、非常に優遇されておった。生産能力の高い者は、中共に於いては、非常に優遇される。ある考案をして能率を上げ得るというようなものを発明したら、ぐっと地位が上がり、報酬がふえる。こうして、人類を幸福にする程度が高い者ほど優遇を受けるということを、中共における実情として報告していたのです。
だからソ連でも中共でも、高い能力の者も低い能力の者も、皆一緒に裕福にしてやるというような、決してそういう悪平等を説いているのではない。尤も彼らの国は広くて資源がおおいので、働く人が足りないので捕虜でも出来るだけひきとめて働かせるようにした位ですから、働きたい者に働く口がないと云うことはない。これは社会主義国家だからと云う訳ではなく、土地の広さと資源の多さによるのです。土地の広大と埋蔵資源の多さとによって、これに労働力を加えれば、いくらでも富を生産することが出来る国に於いては働きたければ誰でも職業が与えられるが、日本のように土地が狭くて、埋蔵資源が乏しい国では、労力を加えても富を生産するのに限度がある。
しかもわりあい、埋蔵量のある石炭でも、賃上げ闘争によって、人件費が昂騰し、生産費が増えるので、外国の石炭を買う方が利益になる位だから、その上、ストの影響で国内の石炭の需要が重油に転換したので、石炭の国内需要はない、外国へは売れない――となるとどうすればよいかと云うことになる。ソ連や中共に労働者に都合のよい世界が出来たのは、労働力が足りないからで、日本のように労働力が余っており、一方で賃金を上げれば一方で労働者を首切らねば産業が成り立たぬ世界に於いては、ソ連そのまま、中共そのままのような社会主義国家が出来る素地が備わっていないのだとおもいます。
客:
しかし社会主義国家になったら、そのしわ寄せを労働者に持って行かないで、資本家の収入を減らして労働者を保護します。
主:
資本主義の世界に於いても、社会主義の世界に於いても、能力の高い者が上へ上がる。これは当たり前のことであり、之は資本主義世界だけがそうぢゃない事を貴方も認めるでしょう。ソ連や中共の社会でもそうなんです。米国で資本家になっている人でもその半分以上は無一物の労働者から立ち上がったひとである。資本主義の世界には「労働者には機会がない」と云うのはウソの宣伝である。能力のある人なら、労働者からでもグングン伸びてゆくことが出来る。
吉川英治も小学校しか出ていない。長谷川伸も何処かで丁稚奉公(でっちぼうこう)をしていた。僕も紡績におりまして、たった日給五十銭、月に僅か十五円の労働者であった。そこに四年か五年おって、やめた時には日給六十二銭になっていた。五年間に十二銭だけ給料があがっていたのです。私はその間にも勉強した。その頃の勉強がついに実って生長の家を創始するようになっているのです。資本主義の世界に於いても能力を増進しさえすれば機会はいくらでもあるのです。ヘンリー・フォードも無一物の職工から自動車王となったのは自分の能力を磨いたからなんです。 客:そういわれれば、別に社会主義の世界にならなくとも、労働者が伸びる機会は多いのですね。資本主義の世界では下済みの労働者が伸びる道が閉ざされていると云うのは宣伝に過ぎないですね。
主:
そうですよ。人間は自分が行き詰まれば、それを自分の努力や能力のたりないためにしないで、環境とか、周囲とか、制度とかいうものに罪を着せようとするのです。そう云う気持のある間は他を責めるに急であって、自分の能力をみがくひまがない、つまり富める人を憎んで、餓鬼道の心境にいなければならぬ。私もその時分、紡績に於いて労働者として働いてそして資本家を憎んだ。そして資本主義経済組織の矛盾を感じて、その会社を飛び出したのです。
そして如何にこの世界を改造しようかと考えたけれども、その頃は日本共産党はまだ組織されていないし、そんな運動も何もない。人間でどうしたらこの世界機構を革命出来るかと考えている丁度その時に、大本教が「神がこの世の中を改造する」という宣伝をしていたので気を引かれて、そこへ身を投ずるということになったのです。其の時に今まで工場にいながらでも勉強して来た勉強がはじめて役に立った。そして『綾部新聞』や『神霊界』の編集部長になり『皇道霊学講話』という単項本を書いて大本教の教えを、はじめて系統だったものに組織した。
ところが私の組織した「皇道霊学」と大本教の当時の実際とが食いちがったところがあり、出口王仁三郎がキリストの再臨だとして世界を治めると言いだしたので、私は大本教をやめたのである。そんなことは、今私が話そうとする主要な問題ではないが、能力のある者は資本主義制度でも、幾らでも昇進の道があると云うことだけ分かって頂けばよいのです。
そういうわけで一労働者だった私が、今どこにでも到る所に別荘がある。日本中、いくらあるかハッキリしたことは判らぬけれども、八十幾つ位別荘があるのです。と云って、それらの別荘をいちいち私の名前にしているわけではない。それは実際に共産主義ですね。そこに済んでいる人の名前にしてあるから、その人のものであり、私がその家に行く時は、その家の私の泊まる部屋は自分のものである。私が留守の間留守番を置かねばならんですから、その家の名義をその留守を守ってくれる人の名前にして預けてある。そうすると、名前即ちコトバの力によってその人がその家を自分のものだと思って、毎日一所懸命に掃除をして呉れているのであります。そして取得税でも家屋税でも皆払っていて呉れるのであります。
一年に一回位その家に私が行きますと、たった二日しか泊まらぬ御主人がおいでなさいましたという訳で、一番良い蒲団を出して、一番良い食器を出して、一番良い御馳走を下さるというようなことになっているのでありまして、私の別荘であってその人の所有である。こう云うのは資本主義制度の中にありながら共産主義でもあり、無所有主義でもあり持ちながら持たない自由自在の境地なのであります。
宗教的生活と云うのはこういう一面がある。資本主義制度の中でも、ソ連の社会主義国家の中にも貧乏人はあるが、宗教的生活というものは、貧しくありながら富んでおり、富んでおりながら有っていないというようなところのあるものであります。私は五十銭の日給の労働者から上がってこのように日本全国到る処に別荘をもつような、又もたないような無限億萬長者になったのであります。
資本主義の世界に於いては、労働者は永久に虐げられていて上にあがれないというようなことはないのであって、それは自由競争の世界であるから到る処に常に機会がある。そのうちの或る人々が上に昇られないのは能力がない。能力がないのは、本当は能力がないのじゃない。自らの内に宿る能力を自己発見しないだけなのです。自らの内に宿る力を自己発見したならば、どんな制度の中におってでも、上昇の機会はある。尤も私は今の資本主義制度が良いというのじゃない。併し、社会主義国家でも能力の高い者は能力の低い者より優遇されていることは前に言った通りです。
我々の団体でも資本主義社会にいながら既に資本主義の制度ではない。資本主義の中におってでも自分で自分のうちにあるところの、無限の能力を自己発見したならば、その人はぐうっと伸びて、一介の労働者から、ヘンリー・フォードも出てくれば、吉川栄治も出て来る。そう云う自由に自分の運命を努力で開拓することが出来る世界が、この自由主義の社会であり資本主義の世界である。
だから、その社会制度を倒さなければ、人間は幸福になれないというようなものではない。ただ自由競争の世界では、弱肉強食的な面があるから、どんな人間でも其の最低限度の文化生活は保障されるような社会政策を加味すれば、この欠点は是正される。急激に社会革命を実行して、その過渡時代に悲惨な犠牲を出す必要はないのです。
客:
ところが我々の考え方は違うのであって、今の資本主義の機構を壊さなかったならば、人類はどうしても資本家に搾取されて幸福にはなれないと考えるのです。資本家はあなたの考えているように善人ではない。個人個人としては善人であっても、ひとたび資本主義機構の中に入って経営者になると搾取を考えるようになる。だから、労働者を幸福にするためには、これを倒さなければならない。資本家は利潤の多きを考える。これは賃金の上昇とは両立しない。そこで資本家は我々を搾取するほかに道はなくなる。これは資本主義経済組織の必然なのです。
主:
だから資本家は敵だ、その敵に対して対抗運動をするためには、どうしても「憎む」という感情を湧き立たさなければならないと言うのでしょう。
客:
そうです。敵対感情を起した時に、人間に宿る力が猛烈に働いて来るのであるから「資本家は敵だ、敵を憎め、資本家を憎め、我々を餓死させたのは資本家だ。我々は復讐するのだ」と云うように指導して、資本家に対して、始終敵対感情を無理矢理に激発するように努めている訳なんです。これがマルキシズムの戦術なのです。
主:
それは運動戦術としてはなかなか上手なんですけれどもね。そうして煽られた人が実際に幸福であるか、というと幸福でない。この間も神戸で講習会がありました時に、共産党の何とかの委員長をしておった人が、生長の家に触れて転向して、体験談をいっておられましたが、自分が常に「資本家を憎め、憎め、憎め」とこう言っておった間は、その憎しみの感情がやっぱり家庭の中に帰ったからと云って、急には消えてなくならない。
その「憎む」という心が自分のうちにありますと、「類を以って集まる」という法則で、感情が険しいものになる。家庭の何を見ても腹立たしい。直ぐ家族を叱りつける。本当に楽しい家庭というものを少しも味わったことがなかったと言うんです。
客:
そう云うことは実際に我々も経験しております。
主:
しかもですね。個人の、家庭の、そうした幸福を犠牲にして闘争して、何時人類が幸福になるかと云うと、真宗などの宗教家が「死んだら極楽浄土にいける」と云うが、そのように早いものではない。何十年先のことかわからない。
客:
中共は六、七年の間に理想世界をつくりましたよ。
主:
支那(シナ)大陸は毛澤東が社会主義国家をつくるまでは中国の人民は、軍閥や馬賊に搾取されていて、その財産を地下に埋めたり、壁に塗り込んだりして隠し廻っていなければならなかった。そう云う世界にくらべると現在の中華人民共和国は雲泥の相違がある立派な国になっている。
しかし現在の中共が現在の日本の社会と比べてどちらに人間の自由が一層多くあり、どちらが自由に文化的生活が楽しめるかは問題だと思うのです。中共から帰った人の話をきいても、ひどい服装をしてあまり化粧もしていない。理想的世界を建設するためには今は個人の自由を犠牲にしなければならぬというような恰好に見られます。その萬人悉く自由な豊かな理想的な社会主義的世界というものが本当に出て来るのは、二十年や三十年じゃなかなか出て来ないらしい。
客:
しかし、中共には一家五人心中や、失業のために首をくくる人間などはいない。働く意欲さえあれば、職業がえられないなどと云うことはない。
主:
しかし、失業者救済などと云うことは社会政策を資本主義機構の中に政府が加味することに努力すれば、無血でそれを成就することが出来るのですよ。しかし、制度だけよくなっても、人間そのものが善くならねば、その人の人生は善くならないですよ。上野公園で露宿しているルンペンを社会救済設備につれて往ってやっても、そこから逃げ出して上野駅付近で寝ている者もある。社会主義的政策が労働党内閣以来行きとどいている英国にも、乞食はいる。
制度をかえるだけでは貧乏は絶滅できない。人間の心を変える運動をひろげなければ駄目である。生長の家では、人間の心を変えることによって、今此処に極楽浄土を建設する。今、心を変えることによって今現実世界で人間を貧乏から解放する。
客:
そんなことが本当に出来ますか。ダマサレナイゾと云う気がするのです。
主:
たしかにそれが出来る。理論だけでなく実際に出来ている人々の実例を挙げて、こう云う心を持てば斯うなり得る、というところの証拠を生長の家は挙げている。その証拠が即ち「体験談」というものですよ。体験談というのは、科学的事実である。マルキシズム科学的社会主義とも言われておりますが、生長の家は精神科学的社会主義ですね。体験談をズラリと並べて、かくの如くして、今此処に極楽浄土を実現することが出来るのであると云うことを証明するのであります。
生長の家は何十年闘争を続けて、多くの人々が血をながして暴力革命を起してから後でないと極楽浄土が出来ないというような、そんなまだるっこいマルキシズムでもなければ、「死んでから魂が救われる」と云うような死後を幻想するような幻想的宗教でもない。心を転ずれば、いち早く今此処に天国浄土が出来るのである、ということが実証できるのであります。
客:
それでは、どう云う風に心を転ずるのでありますか。
主:
その問題は、『生命の實相』の本に到る処に書かれておりますが、今度、中嶋逸平君がハードマン博士の『心で繁栄を実現するには』と云う本を訳して下さったので、それなども一つの参考になると思います。それを最後の章に加えましたから、それを読んで、あの心持を数ヶ月間実際にやって見て下さい。
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