| [573] インターネット道場―――入龍宮不可思議境界録 G |
- 信徒連合 - 2015年09月17日 (木) 09時28分
インターネット道場―――
入龍宮不可思議境界録 G
叡智の断片P.196−199
○ 龍宮海に入る方法を、塩椎神おしえたまう。目無堅間(めなしかつま)の小船に乗れよと。小船とは如来の願船なり。目無とは時計の目盛なきなり、無時間なり。堅間(かつま)とは空間が堅くつまって空間なきなり。無空間なり。目無堅間(めなしかつま)の小船とは、無時間無空間の時間空間そこより発しそこに帰る時空未発の「今」一点なり。「今」の中に一切時一切空がつつまれてあるなり。
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一切万事、「今」より発し、「今」に還る「今」よりほかに時なしとはこの事なり。
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「今」の中に生死なく、あらはれて生死とあらはる。凡夫をあらはれに捉えられて生死面上に浮沈して悲むと雖も、「今」の一点に生くるもの生死なきなり。生なきゆえ滅なきなり。 人間は不滅なり。 今・此処・神の国不滅なり。 これを悟ることを「目無堅間(めなしかつま)の小船」に乗りて彼岸(龍宮海)にわたると云う。
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「ある日」「一日」の「今」を把握するとき天地ただ、神のみ声のみなり。これを称して「ある日、天の使生長の家に来たりて歌いたまう」と云うなり。
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神とは「示す」なり「申す」なり。「示す」表現なり。「申す」は言葉なり。神とはコトバなり、表現者なり。表現するとは<つくる>ことなり、働くことなり、行(ぎよう)なり主観を客観界にもち出すことなり。
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その言葉の波動(ヒビキ)あらはれて森羅万象となり。コトバのヒビキとは生命なり。神の生命のヒビキなり。万物は神の生命の表現なり。併しすべてのもの神の生命の表現にはあらず。中には「迷い」の表現たるものもあり。それゆえにヨハネ伝には「太初にコトバあり、コトバは神と偕にあり、コトバは神なりき。」と過去のテンスを用う。
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生命は、生きている。生きているから動く。生命の動きが心の波である。心は波動であり生命は実体である。併し波動がなければ其の存在は表現されない。だから無である。無にして實――これが生命である。
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即身成仏とは「無物質の物質」(肉体)と霊的実在(法身如来)との自己同一である。肉体あるがままに無く、無きままに其儘に霊的実在なのである。
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自己を媒介として世界を観ることが出来るのは、自己と世界とが「自己同一」であるからである。自己の中の世界像が世界として展開しその世界を観るのである。
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二つのものが交渉し合うのではなく、主客は本来『一』なのである。主客が同時存在であり、同場処存在である。「今」「此処に」主客が『一』なのである。
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すべてのよき現象は、実相の応現として法爾自然に出て来る。法爾でないものは真に生かす力はない。先づ魂の目覚めが第一である。魂の世界を先づ開拓して根本を整えるのが宗教である。真の宗教家が起上がれば万事が自然に整うのである。然し、時期が来り機縁が熟することが必要である。
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