| [600] インターネット道場―――入龍宮不可思議境界録 J |
- 信徒連合 - 2015年09月20日 (日) 08時28分
インターネット道場―――
入龍宮不可思議境界録 J
叡智の断片P.206−209
〇
水を電気分解すると酸素と水素とに分かれる。そしてそこにはもう「水」というものは存在しなくなる。水が水としての姿をあらわしているのはある一定の条件下に於いてであってその条件が除去されたとき、水の存在は消えるのである。この様な条件の事を仏教では「因縁」と呼ぶ。我々の肉体もこの「因縁」によってあらわれているのである。即ち、ある条件の下に於いてかくの如き肉体があらわれているにすぎないのである。それ故肉体の中には何ら確乎とした「 “わしだ” 」と称すべきものはない。「我(われ)」の本体となるべきものは肉体の中には見出せないのである。
ある要素(因縁)によって肉体があらはれているという考え方からすれば、つまり色々な具体的条件によって肉体が出来上がっていると考える考え方からすれば、仏教の縁起観は稍々唯物論的な匂いがすると云える。釈迦が開いた第一の悟りは此の様な十二因縁を観じたものであって、そこから第二の悟りにまで飛躍しない限り、此様な小乗では人間を解放し得ないと云える。かかる意味に於て因縁所生の肉体が凡ての凡てであるとするならば「我(われ)」と云うものはどこにも存在しないのであって、水を分解すれば酸素と水素となって消えてしまう如く、肉体を構成する条件(因縁)がなくなれば肉体は滅してあとには何ものものこらない。一切が無に帰するのである。即ち「無我」である。
この様な段階の「無我」の意識にならば、唯物論の方からでも入ることが出来るのである。唯物論は元来それが徹底すれば、「無我」の意識に帰着すべき筈のものなのである。我々の肉体は物質の集合であり、脳髄の物理化学的作用が「自我の意識」を生み出すものであるとするならば、かかる物質的脳髄を形造っている条件が消滅すれば「自我の意識」も無くなる筈である。そこには何等の「我(われ)」なる本体も存在せず、したがって「我(われ)」を主張すべき何らの根拠もない。即ち唯物論の結論は「無我」であるという事になる。しかるに唯物論者はこの当然の帰結である「無我」にさえも徹底する事が出来ずして、いたずらに「我(われ)」の主張を正しいとして通そうとする。自説が正しいと主張する「我(われ)」なるものはどこにも無いはずである。自説を主張する意識はたんなる物理化学的作用であって、そこには何らの善悪、正邪の根拠もあり得ない。かくして唯物論は自己撞着におちいる。私が如何なる名論卓説を吐いたとて、それが私の脳髄の中の米や味噌や野菜などの成分から吸収した物質の物理化学作用であるとしたならば、其処には何らの精神的価値もない。
かくの如くにして小乗仏教は唯物論と共に「無我」を主張し、「我」を否定するのである。金剛経に、悟りを開く仏もなく、悟りというものも無い、と書いてあるが、かかる見解を称して空見外道とか断見とか云うのである。
併し乍らこの様な否定の側面も亦必要である。吾々は一度は否定の門を潜って来なければならない。全ての現象を一応否定し去る事が必要である。その意味に於いては唯物論も人間の魂の進歩の一階梯として必要であるといえるかもしれない。古代に於いて小乗仏教を通過するのが必要であり意義をもっていた如く、現代に於いては吾々は唯物論の関門を通過する事が必要なのである。唯物論に徹し、凡てを否定し去った時、はじめてその奥に止むに止まれぬ心の動きとしての肯定がおこってくるのである。
凡ての自我を否定し去った後に、はじめて本当の自我の意識が浮かび上がる。キリストは「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果(み)を結ぶべし」と云った。否定を通した肯定でなければ本当の肯定ではない。そこに於いてはじめて真実の存在が見出しうるのである。真の実在は因縁所生のものではない。如何なる条件を除き去っても、なお永遠に崩れ去らざるもの、それが実在であり実相である。
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