| [613] 『純粋教理批判=マサノブ』の“タブーへの挑戦”のマチガイを糺す!――― 「カワ(川)」というコトバについて、――― |
- 千葉周作 - 2015年09月21日 (月) 19時52分
自称・総裁のマサノブ君は、平成15年度の「生長の家教修会」(但し、清超先生のご臨席なし)に於いて「これからは今までタブーとされてきた事柄に挑戦していきます」と明言して、開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判を公然とするようになって来たのであります。それも、真正面から『御教え』批判を行うとどうしても講師や信徒の反発が大きいので、「トキ掲示板」に別人の如きハンドルネームで本人直接、時には代理人(影武者)をして、『御教え』批判を遠慮なく展開してきたのであります。
最初のハンドルネームは「初心者」であり、続いて「ももんが」とか「身分卑しき者」、「曳馬野」として登場し、現在は『純粋教理批判』と言う名前を使って、連日(ひねもすパソコンに向かいて)今までに倍する開祖・谷口雅春先生『御教え』批判を集中的になしているのであります。
そのマチガイを三つほど前回指摘したのですが、今回採り上げる「カワ(川)」と言う言葉についてのマチガイ指摘の内容をワザと外しておいたのであります。そうするとマサノブ君は、予想どおりにソコに食いついてきたのであります。以下のごとき投稿文を載せました、―――
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4920 :純粋教理批判:2015/09/20(日) 06:42:54 ID:DD4jWV6M
現代思想では常識とされる、人間は川をみて「カワ」と名づけたのではない、「カワ」と名づけたことで川があらわれた、とする考え方は間違っているとお考えのようです。これについては説明いたしましょう。人間は世界をそのままみているのではない。これはおわかりでしょう。なにをみているのかというとそれは表象です。脳のなかにつくられたイメージのようなものをみているのですよ。川はもちろん表象です。物自体ではなく表象です。この表象をつくりだすために人間は言葉の助けを必要とする。つまり、人間の脳は言葉のたすけによって表象をつくりだしている、言葉のたすけなしには表象をつくれないということです。「人間の脳は言葉のたすけによって表象をつくりだしている」というのはわたしのアイデアであり、ほかにこのようなことを言っている人がいるのかどうか定かではありませんが、現代思想で常識とされる考え方をわたしはこのように解釈するということです。 もちろんソシュールはこのような考え方をかたくなに否定するでありましょうけども。
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@ 一般常識的には、“水の流れ”には渓流もあれば、地下水もある、泉の湧き水、温泉水の噴出、瀑布(滝)、水道水、下水など“水の流れ”には色々な種類がある。そのなかで、地表を上方から下方へ一定の幅と深さを保って流れる水の流れに対して一般的呼称として人々は「川」と言う言葉を使っている。その流れている地名を冠して「○○川」と読んでいる場合が多い。流れている水の分量と大きさによって「谷川」とか「大川」とも呼ぶ。このように私は思っております。
A 『純粋教理批判』=マサノブ君は、『人間は川をみて「カワ」と名づけたのではない。「カワ」と名づけたことで川があらわれた。と云っているのであります。これはソシュールの言語学というものであると云うのです(4813 :純粋教理批判=マサノブ)』。そして、このソシュールという学者の考え方が現代思想で常識的な考え方となっていると云うのです(4920 :純粋教理批判=マサノブ)。そして、自分(『純粋教理批判=マサノブ』は「雅春先生は人間が川をみて「カワ」と名づけたと考えておられたとおもいます」といって現代思想の常識に反しているマチガッタ考え方であると批判しているのであります。このように、私は解釈したのであります。
B 『純粋教理批判=マサノブ』は、その書き方によって判断を行いますと、ソシュールという学者の思想を採用して『「カワ」と名づけたことで川があらわれた、』と云う事を次のように解説しているのだと考えます。これがマサノブ君の考え方であると思われるのであります。
『人間はまず「カワ」と言う言葉を頭の中で考え出した。この「カワ」と言う言葉の助けによって、脳のなかに「川」というイメージ(表象)を作り出した。現象世界の「川」とは、この“イメージ”としての「川」のことである。イメージとしての「川」は、五感の感覚で見えるような実体的存在ではなく、実体性のない空漠とした想定物である。実の所、人間はこの実体性のないイメージ(表象)である「川」という空漠たる想定物を見ているに過ぎないのである。これが哲学という学問分野から見た「川」である。』
C 上記のマサノブ君の考え方は、開祖・谷口雅春先生の『御教え』である「生命の實相哲学・唯神實相哲学」から見ればハッキリと間違っていると私は考えるものであります。
1、 「理念」は現象に先立つ。現象は「理念」の展開である。マサノブ君の思想にはこの「唯神實相哲学」の「理念」という表現が見当たらない。つまり、現象中心の哲学?思想であります。正しくは、實相世界の「理念としての川」が現象世界に投影して来て実体化したものが、現象世界の「川」であります。人間の脳内で作られた「川」という言葉の表象化されたものなどではないのであります。
2、 「實相世界」は無限次元の世界であり、至美至妙、三次元の言葉では表現出来ないくらいの完全円満なる美しさ充ち満つる世界であります。その「實相世界」の「川」が三次元の現象世界に三次元以上の次元を捨象して顕われているのが、現象世界の「川」であります。人間の脳内イメージが元になって出来たのではなく、淵源は「實相世界」にあるのであります。マサノブ君はこの点を考えていない。『生命の實相』をよく読んでいないので、『實相』とか『理念』という高度な谷口哲学の真髄を把握できず、「現象哲学」をもとに『御教え』批判を行なっている霊性開発度の低い未熟なタマシイの人間であります。
3、<復習しましょう!>
『生命の実相』第39巻・佛教篇第3章<寂光を更に超えて>
<< 私の直感し得た「実相の世界」は無色・無聴・無味・無臭・無触の世界には非ずして、無限の妙色・無限の妙香・無限の妙音・無限の妙味・無限の妙触を備えたる無限次元の世界なのであります。おおよそ実在世界の風光は、いままで大抵概念的に「空」とか「寂光土」とか表現してありますので、静寂なる超越的光のみがボンヤリと満ちている空々漠々のエーテル的世界であろうと、直感なき文字だけで解釈する仏教学者は考えているかも知れませんが、実相世界(実在世界)の風光はそんなものではなく、法華経の自我偈の中にその片鱗が示されている通り、現象世界が劫尽きて大火に焼かるると見ゆる時も「わがこの土(実相世界)は安穏にして天人常に充満せり。園林諸々の堂閣、種々の宝もて荘厳せり。宝樹華果多くして衆生の遊楽する所なり、諸天天鼓をうちて常に衆の伎楽を作し、曼荼羅華を雨降らして仏および大衆に散ず」とある通り、真に具体的な浄土こそ金剛不壊の実在世界であり、この実在世界の幸福祥益は永劫に破壊しないのでありますが、「念のレンズ」を透過して現象せる世界は、刻々に無常破壊するが故に自我偈は続いて日っているのです。「我が浄土は毀れざるに而も衆は焼き尽きて,憂怖諸々の苦悩是の如く悉く充満せりと見る」と・・・生長の家の「光明一元の世界観」が多くの人々に理解され難いのは、多くの人々が「現象宇宙」と「実在宇宙」とを混淆し,「現象人間」と「実在人間」とを混同し、釈迦が「久遠常住の霊鷲山」(実在界)を説いているのに衆生は「久遠常住の霊鷲山」を見ることを得ずして「焼き尽きて憂怖諸々の苦悩悉く充満せる現象世界」を見、この世界は「苦悩悉く充満せり」と見ているのです。・・・貴方の言われる通り、貴方の「寂光」と私の「光明」とは異なっています。「寂光」は光明<一元>の一歩手前の世界であり、現象界を投影する「無明のレンズ」を含んだ「現象世界の太源」であり、「光明一元の光明」とはもう一歩「無明のレンズ」を乗り越えた実在世界の光明の風光であります。ですから貴方の言われる通り、貴方の場合では「寂光の宇宙に帰一しても暗黒はあり得る」ことになり、私の場合では「光明一元の宇宙に帰入するとき」暗黒は無論なく、もう寂光さえもなく寂光では表現できない活気臨々乎たる一大光明の世界のみなのです。・・・』 >>
4、 「コトバ」とは? についての相違点
● マサノブ君曰く、――― 言葉は単独では意味を持たない。言葉は排他的であり、かならず他のなにかを暴力的に排除する。言葉が意味をもつとすれば、それはかならず他の言葉を排除している。(4839 :純粋教理批判=マサノブ)、さらに「言葉で真理を語るのは不可能」という。(4852 :純粋教理批判=マサノブ)
○ 開祖・谷口雅春先生の「コトバ」についての『御教え』、――― 聖経『甘露の法雨』には、<この全能なる神、完全なる神の『心』動き出でてコトバとなれば一切の現象展開して萬物成る。萬物はこれ神の心、萬物はこれ神のコトバ、すべてはこれ霊、すべてはこれ心、物質にて成るもの一つもなし。>、
そして、マサノブ君の「言葉で真理を語るのは不可能」に関して言えば、――
『生命の實相』教育実践篇(上)
『この生命の實相というものは、今までは文字言語のよく説くところではない、言詮不及、不立文字であると云われていた。それを文字を立て、文章を立て、言葉の力によって生命の實相を悟らせるようにさせた所が生長の家の独特なところであります。今迄は真理と言葉とが二つに分かれていて、言葉や文章は真理を完全にあらわすものではないと思われていた。ところが生長の家では言葉と真理、文章と實相とをピッタリと一致させた。古来、直接説法、以心伝心でないと悟ることも出来ない真理を、唯文章を読むだけで悟れるように、文字の中に生命があり、生命の中に文字あり、文字と生命と一体というような域にまで達せしめ得たのだろうとおもいます。さればこそ本を読むだけで、直接参禅しても得られなかったような悟りに到達する人が多勢現われて来て、その影響の及ぼすところ、肉体の病気も治り境遇環境まで変化して来ると云うようになって来たのであります。』
更に、「言霊の神秘について」―――
<< 宇宙には普遍的叡智心(神)が充ち満ちており、その普遍心が想念を起したのがコトバであり、コトバ即ち想念が萬物を創造したのであります。・・・ ヨハネ伝には「太始(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき」とあります。そして一切のものが言(ことば)によって造られたと書かれているのであります。それでは言とは一体何であるかといいますと、宇宙の太初(はじめ)には無論肉体人間は存在しませんから、人間の唇から出る言葉でないことは明らかであります。これは宇宙に満つる霊(たましい)の振動であり、生命の活動であります。宇宙大生命が波動を起した(大生命は生きているから動くのであります。)しかし物質はまだ顕われていないから物質の形では動くことが出来ない。そこで心が動くのであります。心で動くというのは「想念の波」を起すということであります。・・・宇宙に満つる大生命の波動が想念すなわちコトバであって、それがやがて形の世界にあらわれて来るのであります。だから事物の本質とは何であるかと云うと、このコトバでありまして、形ではないのであります。・・・人間の自然発声のコトバは、事物の本質を自然に表現していることになります。・・・特に日本の語(コトバ)は自然発声がもとになって出来た言葉でありますから、天地自然の韻(ひび)きを受け容れているのでありまして、その語源又はその語(ことば)の本質的意義を探るのに大変に便利であります。>>(『真理』第四巻・青年篇)
D マサノブ君の言説についてのマチガイに関して最も大切な点は、脳内イメージとしての「川」は表象であると仮に彼の考えを認めたにせよ、その「川」という名称は一体どこから出て来たのかの説明がないのであります。人間は上方から下方へ流れる水の流れをみて「川」と名づけたのは、肉体構造としての脳の思考力からではありません。「川」という言葉は霊的直観によるものであります。
『真理』第四巻・青年篇、第13章 「言霊の神秘について」
「<< ヨハネ伝には「太始(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき」とあります。そして一切のものが言(ことば)によって造られたと書かれているのであります。それでは言とは一体何であるかといいますと、宇宙の太初(はじめ)には無論肉体人間は存在しませんから、人間の唇から出る言葉でないことは明らかであります。これは宇宙に満つる霊(たましい)の振動であり、生命の活動であります。宇宙大生命が波動を起した(大生命は生きているから動くのであります。)しかし物質はまだ顕われていないから物質の形では動くことが出来ない。そこで心が動くのであります。心で動くというのは「想念の波」を起すということであります。・・・宇宙に満つる大生命の波動が想念すなわちコトバであって、それがやがて形の世界にあらわれて来るのであります。だから事物の本質とは何であるかと云うと、このコトバでありまして、形ではないのであります。・・・人間の自然発声のコトバは、事物の本質を自然に表現していることになります。・・・特に日本の語(コトバ)は自然発声がもとになって出来た言葉でありますから、天地自然の韻(ひび)きを受け容れているのでありまして、その語源又はその語(ことば)の本質的意義を探るのに大変に便利であります。>>
開祖・谷口雅春先生の「言霊(ことだま)学」によって、「カワ」を解釈しますと以下のようになるのであります。(同書222〜294頁で『ア』から『ヲ』までの言霊の解釈あり)
『カ』の音霊 ――― 「カ」という音霊(おとだま)はどういう意味を含むかといいますと、「カ」はカスカ(幽)という意味であります。「低く幽(かす)かなもの」についても「カ」の名称がついているのであります。働きの方から言っても、目立たないカスカなる働き、縁の下のちからもちのような働きをするという風な意味で「カ」という言葉を使うのであります。「陰」の音霊(おとだま)。
『ワ』の音霊 ――― 「ワ」というには「輪」であり、「和」であり、丸味をもった意味を持っています。ですから、円く「うねうね」したようなものに「ワ」がついております。
上記のような開祖・谷口雅春先生の言霊解釈によって、『カワ』を解釈いたしますと、『「カワ」とは、周囲よりも一段低い下をうねうねとしている水の流れ』というものを霊的直観で捉えた言葉というものであるという事が解るのであります。日本民族は此の霊的直感力にことのほかすぐれている民族ですから、物事や事物の本質を霊的に直感把握できるのであります。
<総括>
マサノブ君の『川』についての考えは、―――
肉体の脳髄で「川」という言葉を作った ⇒ この「川」という言葉を助けとして「川」のイメージを想像した ⇒ この脳内イメージとしての「川」の表象をわれわれは地上を流れる「川」とした。――― これが『川をみて「カワ」と名づけたのではない、「カワ」と名づけたことで川があらわれた、』という文章の意味である、と解釈出来ると私は思うのであります。
一方、開祖・谷口雅春先生の實相哲学から考えて見ますと、――
「實相世界」に存在する「川」なる理念 ⇒ 三次元世界の「川」として現象化した ⇒ 人間は、理念の現象化したその「川」なるものの本質を霊的に直観して「カワ」と名づけた、このように私は解釈するものであります。
このように、「マサノブ君」は、ことごとく開祖・谷口雅春先生の『御教え』を非難するのであります。「生命の實相哲学・唯神實相哲学」に対して反旗をひるがえして、外国の現象中心の哲学者の主張を是として批判を続けるのであります。コレを彼は「タブーへの挑戦」としているのです。マサノブ君の根本的マチガイは、われわれ生長の家信徒が開祖・谷口雅春先生の『御教え』(谷口哲学)を各人の霊的直感力で正しいと信じ、至上最高のものであるとしている信徒の信仰心(これが“信仰”というものなのであります)を批難していることであるのであります。「谷口哲学」をどうしても受け入れられない人は、黙って「生長の家」を去っていくのですが、唯一人マサノブ君だけがこのわれわれが信仰している『御教え』にケチをつけて屁理屈を言い続けているのでります。まことに卑怯なる生き方であります。この様な人物は、信仰者でもなければ、求道者でもなく、総裁でもない、ただ、教団資産を狙う宗教家の風上にも置けない宗教的詐欺犯であります。偉そうに、『学』のあるところを披露しているつもりでも、彼の言質たるや、史上最高の「谷口哲学」から見れば、本当に霊的開発度の低い“幼きタマシイ”でありますが、彼の傲慢さの故に彼は全然気付くことなく、「掲示板」という電波に乗せてこの“霊的未熟さ”を自ら全世界に向けて拡散しており、開祖・谷口雅春先生の真実の「生長の家」の品位を傷つけ、貶め、評価を下げて行っているのであります。マサノブ君はまさに獅子身中の虫、この上なき害毒物であります。追放される前に潔く辞職を! 急がなければ「蜘蛛の糸」の業果は二乗倍されていくばかりですぞ!!
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