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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

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[647] インターネット道場―――入龍宮不可思議境界録 O
信徒連合 - 2015年09月25日 (金) 09時12分




インターネット道場―――


入龍宮不可思議境界録 O



浦島太郎の龍宮と玉手箱の秘義


神の真義とその理解P.134−136(但し、現在は絶版)



<< 大体、生長の家の大神――生長の家の本尊――は、如何なる神であるかといいますと、本来は宇宙創造の神であります。――宇宙創造の神で塩椎の神ともいわれている。「シ」というのは「水」であり「ホ」というのは「火」であり「水」は陰であり「火」は陽であり、「ツ」は「繋ぐ」「続く」の「ツ」であって、「シホツチ」とは陰陽がつながりつづき、結ばれて一切のものを生み出すところの「チ」即ち霊をいうのであります。

ウマシアシカビヒコチの神の「チ」意富斗能地神(おおとのちのかみ)の「ち」は霊と云う意味の接尾語であります。吾々の肉体を「チ」がめぐっているというのも、霊が具体化して肉体となり、その肉体に於いて「血」としてめぐっているので、「霊」がめぐっていることを「血」がめぐるというのであります。だから「霊」がぬけたら「地」がめぐらなくなるし「血」があまり出て、出血多量であれば人間は死んでしまうのです。

 此のように解釈しますと、「シホツチ」という名称は、陰陽結び合わされて一切のものを生み出す「創造の霊」なる本源の神であるということがわかるのであります。

 このシオツチの神様は龍宮界の神様であります。塩釜大神(しおがまのおおかみ)とも謂われます。塩釜とは水火交(シホカ)み即ち陰陽交合により一切のものを生み出す意味であります。だから安産の神ともあがめられています。この神は住吉の大神とも謂われ『古事記』では「すみのえの大神」と読むようなことになっているのであります。

イザナギの大神とイザナミの大神の他に、『古事記』に於いて「大神」と書かれているのはこの「すみのえの大神」即ち住吉の大神だけでありまして、これを見ましても、「すみのえの大神」――住吉の大神が如何に偉大なる神であるかと云うことがわかるのであります。すなわち住吉大神は宇宙本源の神があらわれて宇宙を浄化し住み吉き世界にせられるお働きのときの名称であります。

 「実相の世界は創造の本源世界」であって、そこには一切の宝が充満しているのであります。だから象徴的神話には、龍宮界には七宝充満している世界だという風に物語られているのであります。この創造の本源世界なるところの実相の世界は時間空間以前の世界でありますから龍宮界へ行くと年が寄らないのであります。ですから象徴的物語には浦島太郎が龍宮界へ行っている間は年が寄らないで、いつまでも若かった。そして玉手箱を持って地上へ上がって来たとき始めて白髪になっているのであります。

 玉手箱というなは魂が現象界に出て来る箱であります。「箱」というのはなにかといいますと、縦、横、厚みの寸法によって限られているものが「箱」であります。

即ち箱というのは
縦、横、厚みの三次元空間の現象世界のことである。魂が現象世界へ出て来た。そして現象世界の蓋を「開いて見れば煙が立ち浦島太郎が老人になった」というわけは、「煙」というのは迷いの暗幕であります。現象世界に出てみると迷いの暗幕がかかって、本来永遠不死なるところの(人間浦島太郎)の生命が老い果てて「白髪爺」となって死ぬような姿にあらわれて来る――という物語になっているのであります。>>




即身成仏の真理(P.98−111)


 << 龍宮海というのは、創造の根底世界を神話的に象徴化してなずけた語であって、これは「久遠の実在」の世界であります。浦島太郎の寓話を皆さんは御存知だと思うのですが、浦島太郎が亀をいじめている漁師の子供たちを戒めて、その亀を海中へ逃してやると、亀は無量寿を保つ龍宮の神様の化身であったのであって、それが現象界に出て神通力を失って子供たちにいじめられているのを救けて貰ったお礼のために、浦島太郎を龍宮海に案内するという物語でありますが、これは一般に童話の如くお伽噺の如く考えられていますけれども、実は、これは「神話」であります。

 「神話」というのはお伽噺とは違うのであります。「神話」というのは、未だ科学的頭脳知識が発達していない古代の民族が、科学的な分析精神が発達していないものですから、そういう時には、却って直感の智慧というのが発達していまして、直観叉は直感によって、モノを知るのであります。

「直観の智慧」というのは、真理の“直接認識”といってもよいのであります。直接認識というのは、直接に存在の実相に直下に自分の < いのち > がカチカチと、譬えば音が出るほどに、触れてその < 対象そのもの > 全体をズバリと把握することであります。これが直接認識の智慧であります。< これ > を、仏教では「般若の智慧」と称うのであります。・・・

 「生長の家の歌」の第三番目“古事記讃歌”には
< 天津日子  火遠理の命  現象の 罠にかかりて  海幸を  我の力にて  釣りたまう
されど釣り針 失いて  まがれる鉤に 迷うとき  しおづちの神 あらわれて     めなしかつまの み船にて  龍宮海に導きぬ  龍宮城はいま此処ぞ  龍宮城はいま此処ぞ >
 と謳われているのであります。

この創生(うみ)の底なる龍宮城こそ創造の本源世界を象徴したのであります。皆さんは、『古事記』をお読みになってその神話の説く深い意味を知らなければなりません。『古事記』の“神代の神話”には日本古代の民族が如何に日本人を、日本民族を、そして日本国を、さらに宇宙の真理を、理解したのであるかということが書かれているのであります。神話はその表面は童話のような装いをつけていますが実に深い真理が蔵されているのであります。>>




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