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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

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[657] インターネット道場―――入龍宮不可思議境界録 P
信徒連合 - 2015年09月26日 (土) 07時52分




インターネット道場―――


入龍宮不可思議境界録 P



「無目堅間の小船」の秘義


「古事記と現代の預言」P.224−231(但し、現在は絶版)


 『古事記』に「无間勝間之小船」(まなしかつまのおぶね)とあるのは『日本書紀』には「無目堅間」(めなしかつま)と書かれてあります。この彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)が無目堅間の小船にお乗りになって龍宮界にお渡りになったというところに、日本天皇の御天職であるところの“絶対無への還帰”ということが象徴されているのであります。天皇といえども、現象界に肉体をもってお生まれあそばした限り、肉体的な生理作用もおありになれば、肉体的な五官の欲求もおありになるのは当然のことであります。しかし国家の重要な問題に関して「海辺に立ちて泣き憂い給う」(『古事記』綿津見宮の段)ような問題に面せられますと、“絶対無”の小船(おぶね)にのって「龍宮海」即ち一切を「ウミ出す本源・実相の世界」に渡られまして、そこからその問題解決の「無限智」を導き出されるのであります。

「無目堅間の小船」の「目無し」ということは、時間の目盛りがないこと、即ち「無時間」を象徴しているのであり「堅間」ということは空間が堅く鎖(とざ)されて無空間であるということであります。「小船」の「小」は無時間・無空間の縦横十字の交叉点の極微「無」の一点であり、未だ時間発せず空間生ぜざる「無」の一点であります。「小船」の船はそれに乗ると彼岸に渡ることができる「如来の願船」であり、それに乗るとは、絶対無の世界に還帰することであります。

 この“絶対無”の小船に乗るということを、ここでは「無目堅間の小船に乗せまつりて」という風に象徴的に表現されておりますが、具体的にかみくだいて解りやすく申しますと、全然「我」というものも「我欲」というものも「我の所有」というものもなくなって「無」になり切ってしまう、あの大東亜戦争の終戦の時に「私の体はどうなってもよい、国民を救けたい、できるだけ多勢国民に生きておって貰いたい」と今上陛下が仰せられたその「天皇の生き方」そのものの中に示されているのであります。こうして国家の重大事に際しては「無」になり切って龍宮海――即ち実相世界の智慧と結合せられる――この事を『古事記』には次の如く書かれているのであります。(『古事記』の中の最も美しき文章――“爾(ここ)に海神(わだ)の女(みむすめ)・・・・・其の国に住み給いき”(綿津見宮の段)――

 こうして天皇は「絶対無」の世界に還帰せられまして、龍宮無限供給の世界と結婚せられること(火遠理命と豊玉姫)になったのであります。無我になることが無限供給を受ける道であります。龍宮海即ち「生ミの底」(創造の本源世界)には、失われたるものは少しもないのでありますから、『古事記』神話には一尾の鯛が喉にその鉤(釣り針)をもっているのを見つけて、それを吐き出させられたことになっているのであります。




住吉大神の御使命について


如意自在の生活365章(P.276−279)

<< 蓮華蔵世界海(蓮華の実相を内に蔵する海の底)にまします竜王とでも譬うべきお方が、塩椎大神であり、綿津身神であり、住吉大神であり三神一体であらせられるのである。水火津霊神(しおつちのかみ)は水(陰)と火(陽)とを繋ぎ結びて一切を創造したまう場合のお名前であり、綿津身神(わだつみのかみ)は「海(わだ)の御身(おんみ)」(すなわち龍宮の御本体)を指す場合の御神名であり、住吉大神は宇宙を浄め給うて、天国浄土の住み吉き実相をあらわし給うお働きの場合の御神名なのである。生長の家に住吉大神として出現せられたのは、今や世界秩序が混沌として乱れ狂うている状態であるから、この世界の混濁を浄化せんがために現われられたのである。それ故吾らその神意を体して住吉本宮に顕斎し奉るのである。>>



曲がれる鉤(はり)で釣ってはならない

<< 今や、この混沌たる世界は、互いに謀略を尽くして駆け引きによって権勢および利益の奪い合いをするのに一所懸命になっている状態である。これが『古事記』には、彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)が釣り針をもって釣りに出かけられたが(相手を引っかけようとしたが)、一尾も得ずして逆に釣り針を失ったという神話で表現されているのである。真直ぐな心で、真直に、正直に自分の心を正し、生命を匡(ただ)して誠をもって外交折衝に来る人々はすくないのである。それは引っかけ合いの世界であり、正直な者が損する世界である。それは波立つ世界であり、変化無常の世界である。そのような世界から去ってわれわれは“常住の世界”・“掛け引きのない世界”・“譎詐(きっさ)のない世界”・“本源世界”・“実相世界(龍宮)”に帰還しなければならないのである。>>



“迷い”は本来ないのである

 << 龍宮・無限供給・常楽の世界に入るとき、損得の世界を超えるのである。そのためには現象界の事物に対する執着を捨てなければならないのである。「迷いはどこから来たか」の問題は、「迷い」というものが外から訪問して来たというような意味ではないのである。自分が現象界の事物をアリとして引っかかり執着する「心の状態」が“迷い”であり、どこから来るのでも、どこにあるのでもない、ある種の心の状態にすぎないので、「引っかかる念」を棄てたら「迷い」はないのである。現象界の事物をアリとし、それが失われたとして、心が煩労(はんろう)している限りは“迷い”という心の状態は消えないのである。>>



“如来の願船”に乗って彼岸に渡る

 << 現象界の事物に執着する心を、放ち去り棄て去った時、“迷い”は消える。“<消える>”というのは「本来ない」からである。現象界の事物から心の執着を去ることを、神想観の実修の際には、

「われ今、五官の世界を去って-------」と誦えるのである。そして「-------実相世界に入る」というのは、龍宮海に入ることであり、既に“居る”ことでもある。龍宮海とは、時間・空間いまだ生ぜざる超時空の創生(うみ)の本源世界(生ミの底の世界)である。

 その本源世界に入る道(修行)が神想観である。それを古事記神話は「無目堅間の小船に乗る」と表現されているのである。この小船に乗ることが、仏教的にいえば「如来の願船に乗って彼岸にわたる」ことになるのである。「如来の願船にも大乗あり、小乗ありであるが、「信心歓喜、一向専心、至心廻向、唱命念仏、即得往生」となれば、それは「無目堅間の小船」に乗ったことになる。行きつく先は、極楽浄土であり、住吉之世界であり、無量寿の世界であり、龍宮世界であり、それは浦島太郎の神話で年寄らぬ世界として表現されている。無量寿の世界では年寄らぬのは当然である。>>



入龍宮不可思議境涯のこと

<< “年寄らぬ”のは時間を超越している世界であるから、時間がないから年寄らぬのである。それは現象の尺度で“量(はか)”ることができ“ない”から“無量寿の世界”というのである。「即得往生」というのは“そくざ”に<このまま>極楽浄土に“往(ゆ)”いて“生”まれていることである。“即座”であるから“死んでからでない”、従って時間の否定であり、“今<このまま>”である。“今このままで”<極楽に往く>というのは「往かずして往く」である。『維摩経』にあるところの「不来の相にして来たる」であり、「去来なくして去来する」のであり、「場所の否定」であり、「空間の否定」である。「時間の否定」と「空間の否定」という乗り物に乗ることによってのみ、超時空の実相の世界に入ることができるのである。

 「無目堅間の小船」というのは、「目無し」とは「時間の目盛り無し」ということ、「堅間」とは堅く空間が詰まりて、無空間であること、その無時間・無空間の極微の絶対無の一点が「小船」という語で象徴せられているのである。すなわち“無時間無空間の絶対無”(相対の無に非ず)の関門を超えて私たちは龍宮に入るのである。これが入龍宮不可思議境涯である。>>



顚倒夢想を遠離すること

 すべて「迷い」は、執着より生じたる「心の痙攣状態」である。「心の痙攣状態」が消えたら「迷い」はないのである。「心の痙攣状態」は、「ないもの」を「ある」と思い、「本当にある実相」を「ない」と思い、「本来ない現象」に心が執着して引っかかるから起るのである。「ないもの」を「ある」と思い、「本来ある完全な実相」を「ない」と思うのは、それはサカサマであり、「夢」のようなものであるから、『般若心経』では「迷い」のことを「顚動夢想」といっている。わたしはおおむね「顚倒妄想」と称している。この顚動夢想を遠離したとき、三世の諸仏は、阿耨多羅三藐三菩提(無上の悟り)を得たまうたということが心経に書いてあるのである。つまり「本来ない現象」を「あり」と妄想して執着する心を捨離することによって、三世の諸仏は実相の彼岸に到達することができたというのである。



“迷い”を去るためには現象の大否定が必要である

 『般若心経』は、その顚動夢想を遠離するのに、観世音菩薩が深般若波羅密多の行を修せられたことが書かれてあるお経である。深は深遠(じんおん)なる修行であるという意の形容詞である。般若波羅密多とは、仏教では悟りに到る六つの道が示されていてそれを六波羅密多というのである。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、そしてその最後の深遠なるものが“般若”である。般若とは“智慧の悟り”であって、それを瞑想するのが“般若波羅密多”の深遠なる修行である。観世音菩薩はこの深遠なる修行において何を瞑想せられたかというと、「五蘊皆空」と瞑想し、「無 眼耳鼻舌身意」と瞑想せられたと書かかれている。五蘊とは、五つの“蘊”すなわち“波動の集積的存在”である。それは「色・受・想・行・識」の五つであり、「色」は“物質”のこと、あとの四つの「受想行識」は“心の働き”である。それらの五つのものはアルかのごとく感じられるけれども「皆空」すなわち皆、空の空なる空しきものであると観じられたのである。
 さらにこれを人体についていえば、「眼耳鼻舌身」という物質的存在および「意」という精神的存在も、「無」であるとて「無 眼耳鼻舌身意」と観じられたのである。この全的大否定によって「三世の諸仏」は迷いの根因なる現象的存在をアリと見る根本無明を断ち切り、仏陀たる悟りをひらかれたということが『般若心経』の大意である。>>





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