| [715] インターネット道場―――体験実話特集・平岡初枝先生「しあわせを見つめて」より G |
- 信徒連合 - 2015年10月02日 (金) 09時19分
インターネット道場―――
体験実話特集
平岡初枝先生「しあわせを見つめて」より G
<当り前がありがたい>
八橋さんが、月曜日ではなく、何かの用事で富山へ出た帰りに、立寄って話していかれたこともある。
「平岡先生、私は愚かなので 神様にお詫びしなければならないことを始終おこすのです。先日も朝のご飯をいただきながら、3人の女の子達の顔をしげしげと見ながら『もうちょっと、別續だったら……』と、チラッと思ったのであります。その日は会社の用事で富山へ行くために、電車に乗りましだ。小学校4、5年生くらいの男女7、8人の子供が乗り合わせましたが、それが可哀そうに、聾唖学校の生徒たちだったのです。手まね足まね、目むき鼻むきして、正視できない光景でした。私は思わず、朝のおもい上がった気持をおもい出して、しみじみ神さまにお詫びしたことでした。
そして、夕食の時に5人の子供を見廻して、『うちにはあんたたち5人の子供がいるけれど、だれ一人も手足の不自由なものもいないし、目鼻の揃わない者もいないのは、ありがたいことですね』と言ったことでした。
すると、2番目の男の子が、『お母さん、そんなことは当たり前のことですよ』と言いましたから『その当たり前が、ありがたいことだと、お母さんは今頃になって、やっと気がついたんですよ。ただ、もう少し、あんた達に不自由なく学用品などを買ってあげられたら良いのにと思うのだけれど、お母さんの甲斐性がなくて……』と言いましたら、下から2番目の女の子が『だって、お母さん、食べずにいるわけでもないし』と言ってくれましたので みんなが何となしに、暖かい心でふれ合ったことでした」
八橋さんの体験は、思い出せば限りがないので、一応ここらで切り上げることにするが、あれからもう10数年も経ち、現在は東京に住んでいられる。前述の息子さん2人は報道人として、ますます才能を発揮していられるし、娘さん2人も結婚して、実に幸福な生活を営んでいられるのである。
「ただ善のみ、ただ豊富のみ」の言葉一つを杖とも柱ともして、経済苦を乗り切った八幡さんの実証談の一部である。「言葉は神秘なるかな」である。
<聖句・有難うございます>
全国巡演の途中に、若狭路にはいった時のことである。ある地方講師さんが、こんな話をされた。
「私の友人に、小浜中学の校長をしている人がいます。一人息子を、大切に大切に育てていましたが、その子が20歳近くになって肺結核にかかり、いろいろ手を尽くしたが、とうとう医者から『あと1ヵ月の生命であるから、あきらめてもらいたい』と宣告されたのです。
病人は六畳の室に寝ていましたが、もう肩で息をしている。39度何分の熱で顔は紅潮し、小鼻がピクピクと動いている有様でした。その姿を見ていると、どう言ってあげたらよいのか、いろいろ考えて来たことも言葉にはならないのです。やっと私は気持をおちつけて、『高志君、生長の家では、どんな重い病気でも、“ありがとうございます“を一日に一万遍言ったら治るというのです。高志君、言って見る気はないか……』と言いました。すると、高志君は、
『僕は、そんなことは信じられない』と答えたのです。まだ20歳にもならぬ戦後の青年に、急にそんなことを納得させることは無理なことだと思いました。しかし、その他になす術もないので、『高志君、言うだけいってみて、治らなくとも、元もとや。少しでも快くなり、少しでも楽になれば儲けものだから、やるだけやって見たらどうだ』と一所懸命にすすめました。
ともかく、やって見ようという気持にさせるのに、半日がかりでした。何しろ仰向きに寝たきりの身体だから、48枚の天井板を算盤代りにして、『ありがとうございます』を一回唱える毎に、天井板を一枚ずつ眼で追いながら一通りおわると48回。そこで 大豆一粒を箱に入れる。こうして、高志君の『ありがとうございます』が、その日の午後からはじまったのです。そのうちに眠ったのが何時か、ともかくもグーッと熟睡して、目が覚めたのは翌朝8時すぎだったのです。
毎晩の不眠症に悩まされていたのですから、嬉しかったに違いない。『8時までも寝てしまって、今日は一万遍唱えられるだろうか』と気にするほどの気持になったというのです。
こうして、2日目の『ありがとうございます』を続けているうちに高志君は『こんなことを言っていたとて、僕はいずれ死ぬのであろう。いずれ死ぬときまっているものなら、せめて今までいろいろお世話になった人達をおもい出しながら、その人達への感謝のために“ありがとうございます”を唱えましょう』と考えたのだそうです。
まず思い出したのは、やっぱりお母さんだったというのです。『お母さん、ありがとうございます。ありがとうございます。そうだ! お母さんは僕が赤ん坊の頃から、飲むものや着るものをはじめ細かいところに気をくばって一番手をかけて育ててくださったのだ。その僕が20歳にもならずに死んでしまおうとしている。お母さんは、どんなに悲しむことであろう……』と思うと、たまらなくなって涙が止まらない。『お母さん、ありがとう、お母さん、ありがとう』と、泣き泣き唱えたというのです。
次には、お父さんのことを考えた。『僕が生まれた時に、男の子と聞いたら、どんなにお父さんは喜んだことであったろう。そして、どんなに大切にして、頼りにして僕を育ててくれたことであったろう。それなのに、僕はこんなに早く、お父さんより先きに死んでしまうのだ。お父さんは、どんなに悲しむことであろう。僕が死んでからも、中学校の校長として若い人達の世話をする時、どんなにか僕を思い出して涙することであろう。お父さん、すみません、お父さん、ありがとうございます。お父さん、ありがとう……』と、また泣きながらの感謝を続けたというのです。
それから、あの叔父さんも可愛がって下さった。『ありがとうございます。ありがとうございます』この叔母さんにも愛された。『ありがとうございます……』あの先生にも可愛がられた。この先生にも……あの友だちにも……と、感謝の中に思い出す人達への『ありがとうございます』で一日が終わったというのです。
そして、その日の夕方に奇蹟が起こったのです。どんな医薬も注射も利目がなかった1ヵ月以上も続いていた39度何分の高熱が、その晩に37度何分に下り、明けの日から平熱となり、ついに瀕死の大病が癒えたのです。高志君は現在24歳、人一倍肥って老いた父母を喜ばせているのであります……」
「ありがとうございます」とは、一体何が有難いのであろうか。それは実相の完全円満なことが、ありがたいのである。私は、自分の心が平和でなくなった時、「ありがとうございます」を唱える。百遍,2百遍も。肉体に不安を感じた時も、唱える。家族の健康に問題が起こった時も、やっぱり「ありがとうございます」を百遍、2百遍、3百遍と、心が平静になるまで唱えるのである。生長の家の真理を知っている人にはもちろん、たとえ少しも知らない人にでも、唱えるようにすすめる。
この間は、ある田舎のおばさんが、腰がいたむと訴えたので「腰にお礼が足らぬのや。痛いと言うかわりに、腰さん、ありがとうございます。腰さん、ありがとう……と、お礼を言いなさい」と教えたら治ったとお礼に来たこともあった。 まことに「ありがとうございます」は聖句である。
<自 他 は 一 体>
数年前、私が全国巡講の途中に、福島県を訪ねたときであった。当時の白鳩会福島県連合会長・古賀智子さんのお宅で、数名の幹部さん達と話し合っていると、 玄関で古賀さんに個人指導を求めている客の声が聞こえてきた。
古賀さんは「今日は来客で暇がないから、別の日に来てほしい」と言っていられだ。客は「私は足が悪くて、やっと杖をついて来たのだから、是非お願いします」と頼んでいた。それが、隣室の私の室にまで聞こえたのである。それで、私は気軽に「入れてあげなさいよ」と口を出して、上がってもらったのである。 見ると、20歳前後の若い娘さんで、片足を投げ出しにして挨拶している。
「その足、曲げなさいよ」 私が思わず言うと、彼女は恨めしそうに答えた。 「曲がりません」 「足の膝は、神様が曲がるように作って下さったんですよ。手の指、腕の肘、足の関節、みんな素晴らしく、折畳み式に、神さまが善いようにおつくり下さっているのですよ。それが曲がらないとなると、何か迷いがあるのですね。迷いとは何か?ありがたいものを有難いと思えず、嬉しいことを嬉しいと思わない心ですよ」
事情を聞いてみると、両親を早く亡くして、兄夫婦のお世話になっているという。 「父母が亡くなっても、兄夫婦がいて下さって良かったね」
そんなことが良いことかと、納得のゆかない顔つきである。 「あんたを残して早く亡くなったというので父母を恨んでいるんではないの?」
その通りというように、彼女は黙ってうなずくのだった。 「可愛い幼い子供を残して、この世を去らねばならない父母の心というものが、どんなに切ないものか、思いやったことがありますか。その父母が霊界に生き通して、今も守っておられればこそ、こうして道を求める心を起こさせて下さったのですよ。さあ、お父さん、お母さんに感謝しましょう」
いろいろ説明してから、一緒に感謝の神想観を始めたのである。彼女は片足を投げ出したままであったが、瞑目合掌した。 「お父さん、ありがとうございます。お父さん、ありがとうございます……。お母さん、ありがとうございます。お母さん、ありがとうございます……」
彼女のために祈りながら、いつのまにやら私は自分の母を思い出していた。私の母は、よく働く人であった。そのために、娘を2人待ちながら、その娘を仕込むということができなかった。「お前達のノロノロした仕事が見ていられない」と言って、掃除も洗濯も料理も何も彼も、一人でしてしまった。それを良いことにして、私などは、何にもしないで、本ばかり読んでいたものである。そんな母だったから、指の太くなった手は、いつも暖かだった。そして、時々私の手を握って「お前の手は、いつも冷たいのう、身体を大事にしなければ……」と言ってくれたものであった。
母のごりごりするような太い指の上に、私の細くて冷たい手を重ねていると、何とも言えぬ母のぬくもりが、その手を通して私の全身をつつんでくれるのが嬉しくて懐しくて、たまらなかった……こんな思い出にふけっているうちに、私は涙さえ催してきたのであった。
「ワーッ」 突然、大声で泣きだした娘の声に、驚いて目をあけてみると、娘は両足を曲げて正坐しているのであった。 「先生、膝が曲がりました!」 居あわせた者みな、目をみはったのである。
まことにも自他は一体。いのちは一つ。私が悟れば、それでよかったのである。ありがとうございます。
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