| [782] インターネット道場―――体験実話特集・平岡初枝先生「しあわせを見つめて」より N |
- 信徒連合 - 2015年10月09日 (金) 06時40分
インターネット道場―――
体験実話特集
平岡初枝先生
「しあわせを見つめて」より N
<愛念は一切を解決するーーーなぜなぜ問答・どこを見るか>
芦刈先生は大分県で僻地教育に挺身していられる。私の『こどもを見つめて』を読んで感激し、たてつづけに三度も読み返してくださったという方であるが、去る昭和41年10月に全国僻地教育研究大会が富山県で行なわれたときに、はからずもお話をする機会を得た。
お互いの都合で、わずか1時間に満たない時間ではあったが、教えられることが沢山あった。芦刈先生は、当年42歳の働き盛り、堂々とした素晴らしい身体の持ち主で、黒々とした髪と愛情に輝く深い目が印象的で愛と迫力の権化のようなものが感じられる。
最初に拝命された中学校で4年間教鞭を執られたが、本当の教育をわかるためには小学校からだと気がついたので、小学校に転勤させてもらった。そこでも数年間働いて見たが、もっと肌のふれ合う僻地教育をと思うようになったのであるといわれた。
「家族の方がよく賛成されましたね」 「実は、私は3歳で母を失い、翌年には父を失ったので、祖父母の手で育てられて、両親については何の記憶もないのです。こんなわけで妻の賛成は案外楽に得ることができましたが、祖父母の賛成を得るには相当の時日を要しました」
こんなわけで、当局に希望実現をたのんで、大分市の僻地にある分校へ赴任されてから満2年になるが、全校児童63人中の3分の1の21人が、芦刈先生の受持で、5年と6年の複式授業だという。
「中学校から小学校へ、そして僻地教育へ、これはなかなか変わったケースですね」 「子供を本当に知りたいからです。そして、もっともっと子供達と深くふれ合いたいのです。もっとも、僻地の分校へ転勤の辞令を受けてノイローゼになる人もあります。私はそうした友人には、人間の生きる意義から説いて、考えを変えてもらって、勇躍僻地教育に赴かせた例も幾人かあります。
私の子供とふれ合うために、その曰あったこと、思ったこと等について毎日反省録のようなものを書かせて、子供を知るとともに、ものの考え方を深めるよう導いております。たとえば先日も、子供の綴り方の中に、お父さんがお酒を飲んで来て、お母さんや僕達につらく当たるというのがありました。
それで、私はその綴り方の終わりに『なぜお父さんはそんなにお酒を飲まねばならないのか、飲まずにいられないのかということについて考えて見よう』と、書いておいたのです。
ところが、その間に少しの曲折はありましたが、結論として子供は『お父さんの仕事は土方で、なかなかえらい。お父さんはひどく疲れるのに違いない。その疲れをなおすために、どうしてもお酒を飲まずにいられないのだろう』というふうに書いていました。
私はその子供の善意にみちた言葉と考え方を激賞してやりました。ところが、この記録を、お父さんが読んだらしい。『おれも飲み過ぎたなあ』と頭をかかえ、お父さんの言行が変わってきたのです。
教育というものは楽しいものです。このたび会議のために四日間をあけてくるについても、私は子供達と良く話しあい、納得してもらって、出てきたのです。帰ったら、その間の記録を読むことが楽しみです。私もこれから子供たちへの手紙を書くつもりです」
夜も更けてきたので、私達の主張している『生命の教育』の梗概を説明して、『新教育通信』を4、5冊差しあげて、お別れしたのであった。
それにしても、環境が子供をつくる。よくない子供があるのではなくて、良くない家庭があるのだ、善くない社会があるのだ、ということは事実である。だから、子供を善導するためには、家庭や社会をよくしなければならないといわれているのである。しかし、芦刈先生は逆に、子供を通して家庭環境を善くするのが願いなのである。その願いを成就するために、深く子供の心にくい入って、ものの考え方を指導される。そこには深い智慧と愛とが働いている。
「お父さんの仕事がつらいから、お酒を飲まずにいられないのに違いない」と、自分の間違いを善意にとられた時、人間は深い悔恨に導かれるのである。激しい繊悔の心に導かれるのである。
私達は世の奥さま達から、「どうしたら、主人の酒量が減るであろう。どうしたら息子の酒をやめさせることができるであろう」という質問を受けるのであるが、芦刈先生の指導を学びたいものである。
何が、酒をのまずにいられない気持にさせるのか、何故、競馬や競輪にうつつをぬかさずにはいられないのか。どうして、勉強することが嫌なのか。現われた形の奥底に潜んでいる心理的な問題の解決にとりくむことが大切だと思うのである。
<おばあちゃんをかくさねばならん>
亡くなった私の主人の、23年目の祥月命日に、心ばかりのお供物をした日のことである。今年(昭和41年)3年10ヵ月の曽孫明子が、曽祖父の話をきくのであった。
「ひいおじいさんはね、まだ明子が生まれない時、戦争で亡くなられたのだよ」 「戦争って、なあに?」 「戦のことだよ」 「いくさって、なあに?」 「いくさってねえ……」 どう答えようかと迷っていろと…… 「喧嘩け?」 「そうよ、国と国との喧嘩なの」 三つの児ながらも、何か身体で感じとるものらしい。こうして、明子の亡き人たちへの質問に答えているうちに、私はふと口をすべらした。
「おばあちゃんも死ぬんだよ」 「おばあちゃんも?」 明子はびっくりしたように問いかえした。 「そうだよ。おばあちゃんも、いつか死ぬるんだよ」
一瞬、瞳をひらいて私をみつめた明子は、叫ぶように言った。 「そんなら、おばあちゃんを、かくさねばならん」 「おばあちゃんをかくすの?」 「そうよ、おばあちゃん可哀そうだもん」
明子の表情は、真剣であった。そこへ、伏木の松吉さんが訪ねてみえた。雑談になってから、明子の話に及んだ。松吉さんは言われた。
「何と深い愛情でしょう。死とは、おばあちゃんに何か強い力をもって不意におそいかかるもの、と解るのでしょうね。それから守るために、おばあちゃんをかくさねば可哀そうだなんて……」 「子供の精いっぱいの愛情の表現だね……」 松吉さんと私は顔を見合わせたことであった。
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