| [885] インターネット道場―――体験実話特集・平岡初枝先生「しあわせを見つめて」より(25) |
- 信徒連合 - 2015年10月20日 (火) 09時25分
インターネット道場―――
体験実話特集
平岡初枝先生「しあわせを見つめて」より(25)
<かしこい継母の話>
私がかつて全国を講演して廻ったころ、岐阜県下の一の宮の伊藤さんというお家で泊めてもらったことがあった。伊藤さんのお宅は、ご夫婦と当時大学へ行っておられた息子さんとの三人暮らしであっだ。翌朝、お母さんと私と二人きりになった時、息子さんが貰い子であることについて、次のような話をして下さった。
「私達には子供がないので、生まれたばかりの子を貰って育てました。善い子で、成績もよく喜んでいましたが、一昨年息子が大学へはいって間もなくの曰、『お母さん、家ではお父さんもお母さんも、とても色白なのに、どうして僕だけ色が黒いのでしょう』と言ったのです。いずれ一度は話さねばならないと思っていたので、この際にと思って事情を打ち明けたのです。
すると、大の男が声をあげてワァワァと泣き出したのです。どんな思いで泣くのか、よくわからないので、私もウロウロしました。息子はやっと涙をふいて『僕は、どうしてお母さんのお腹から生まれなかったのか』と言って、またひとしきり泣きました。
そのうちに、カラリとした顔になって『僕はきめた』と大声を出すのです。『何をきめたのですか』と聞くと『僕は、お母さんのお腹から生まれたことにきめた』と言ったのです。二人は手を取りあって、感激の涙にむせびましたが、それっきり、元通りの明るい息子になって、嬉しいばっかりの日を送らせてもらっております」
まことにも、愛こそ全てのすべて。愛のあるところには継母もなければ、継子もないのである。
<幽明の境を越えて>
ところで、孫嫁の光子の生母は、腹膜を病んで長らく床についていられたそうである。ちょうど戦争末期から終戦直後の物資不足や社会混乱のなかで心の安まるいとまもなく30数歳で亡くなったわけである。そのあとに嫁いでこられた信子さんは、まず先妻の霊前に合掌されたのであるが、それから20年を越した現在でも、毎月の命日を誰が忘れても、信子さんが忘れたことはない、これが実状なのである。
9月11日が祥月命日であるが、その日は私の村の秋祭に当たる。毎年お祭りの案内を出すが、今年は先妻さんの17年忌だからとか、20年忌だからなどといって、来てもらえないことが度々あるのである。その代わりといったら変にきこえるかも知れないが、信二さんの先夫に対する現在のご主人の理解も相当のものである。3年前、故安芸盛氏の20年祭が土佐の高知で同志たちによって挙行されることになり、今は故人の河上丈太郎氏他同志多数が、前夜祭は機雷にかかった海上で、次の日は陸上で盛大に行なわれたのであった。故人の妻であった信子さんにも、その案内が来たのであるが、現在の家族のみんなが非常に気持よく理解して、信子さんの数日間の旅行を快く見送って、同志達に深い感銘を与えたものである。
こうしたことなどを思い合わせると、ものごとはまず、目に見えぬ心の世界から始まっていると考えざるを得ないのである。私事を長々と書いたようであるが、その中に一筋通っている真理を掴んでいただければと思ったのである。
<決意が第一です>
昭和21年、私達は富山で平和建設婦人同盟を組織して、私達の手でできる戦後処理にのり出していた。その時の発起人四人の中で最も年の若かったのが、前にもちょっと出てくる浜田由利さんであった。当時、由利さんは28歳だったと思う。女高師を卒業して、富山の高等女学校に教鞭をとっておられた。漁港魚津市の網元で、魚港組合長をしておられたお父さんと妹さんの三人暮らしであった。妹さんはもう結婚しておられたのに、姉の由利さんはまだ独身なので ある日私は尋ねてみたことがある。
「浜田さん、どうして結婚しないの?」 「ええ? 私一人ぐらいが結婚しなくてもいいでしょう」 「なるほど、そりゃそうだね。あんた一人ぐらいが結婚しなくだって、地球が三角になるわけでもなし……」 彼女の返事がふるっていたので、大笑いしたことであった。その由利さんが、29歳の時だった。前の年にお母さんを亡くしたばかりなのに、こんどはお父さんが、腸癌と宣告されて医者にも見放されたのである。そんなお父さんから「お前の結婚しないのが、何よりの心残りだ」と言われた由利さんは「では、お父さんへの親孝行のつもりで結婚します」と約束したのである。
このことが伝わると、親戚も知人も、由利さんのお婿さん探しにはり切ったものである。そして、勤務先の女学校の校長先生が、富山師範学校の校長さんに協力を求めて探された中に、素晴らしい人があった。南方戦線から復員して、師範学校の絵の先生として就職された方であった。年は36歳で、人物優秀であったから、話はまとまり、両校長を仲人役としてめでたく結婚されたのであった。
話は、これだけである。平凡と言えば平凡である。しかし、一見平凡に見える中から、深い真理を見つけてほしいのである。まず第一に、当の由利さんが結婚を決意したから、お婿さんが現われたのである。由利さんの縁談については、それまでにも、いろいろ心配したり、世話をした人達もあったであろうが、当の本人が決意しない限りは、本当の半身は現われないということである。
神が如何に相手をきめておいて下さろうと、神は人間に絶対の自由を与えていられるから、強制はなさらないのである。そして、由利さんの結婚の決意は、親孝行のためであった。親の思いを立ててあげたいという愛の決意である。感謝の決意であった。だから、たまたま南方から復員された立派な紳士にめぐり逢えたのは当然である。私はその時、言ったものである。
「その方があなたに『僕が36歳になるまで待っていてくれ』と言っておられたので、あなたに結婚の気持が出なかったのですよ……」 子供が結婚する気にならないといって、大騒ぎしている親御さんがあるが、参考になるのではないでしょうか。半身は、必ずいるのである。そして、信じた通りにあらわれるのが、真理なのである。
<神さまとの縁結びが大切です>
月曜会の集まりの席で「息子の縁談がなかなかまとまりにくいのです。話は、いくつもあるのですが、もう一寸というところでまとまらないのですが、どうしたらよいのでしょう」という質問が出た。すると、その席にいられた浅尾花さんが、「平岡先生、私の息子の話をして上げて下さい」と言われた。その話というのはこうである。
ある年、私が東京の生長の家本部から富山へ帰った時であった。浅尾さんが「うちの息子の縁談が、どうしてもまとまりません」と言われた。「祈りなきいよ」「祈っているのですが、うまくいかないのです」「正しい祈りなら、必ずきかれるはずです。それがきかれない? はあ、わかった。あんたは、素手で祈っているな。そうでしょう?」「その通りです」こんな問答のあとで、私は話し出したのである。
「息子さんは、もうお勤めしていられるね。毎月月給をいただいているでしょう。そのいただいている月給から、最低2百円ずつを生長の家本部へ納めきせて『聖使命会員』にさせてもらいなさい。つまり毎月それだけを、神様の御仕事に奉仕させていただく、いわば生長の家の神様の氏子にさせてもらう約束をするのです。つまり、生長の家の神様と縁故つづきにさせていただくのです。それをすると、何かしら『守っていただいている。お願いすることはきき入れていただける』という確信が、あんたの心の中に湧いてくる。この確信が大切なのです。
神様や仏様は。素手で祈ったから、おかげはやれない』とか『たくさん献げものをしたから、お蔭もたくさん与えてやろう』などというような存在では絶対ないのです。祈りの結果は、受ける心如何にあるのです。祈りは必ずきかれるという信念の大小によるのです。その信をつよめるために、それに応じて精いっぱいのまことを捧げるのです。
息子さんを聖使命会員になさいと言いましたが、『一日に“甘露の法雨”を三回あげなさい』ということもあるし、隣人への愛他行をすすめることもあります。それぞれの実行に応じて、答が出るものなんですよ」
2ヵ月後に、また富山へ帰った時、浅尾さんは大喜びで飛んで来て下さった。 「平岡先生、おかげ様で息子の縁談がまとまりました。それに、一つ違いの弟も聖使命会員にさせていただきましたところ、弟の方にも縁談がきて、兄弟揃って良縁にめぐまれたのでございます」
私達は「守られている、善くなるほかない世界である」という確信を得るために、精いっぱいのまことを神様に捧げねばならない。それは、神様の心を動かすためではなくて、自分の信を深めるためである。
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