| [98] インターネット道場――開祖・谷口雅春先生の説かれた先祖供養および個別霊供養を学ぶ<第三回> |
- 信徒連合 - 2015年07月28日 (火) 08時06分
先祖供養、および個別霊の供養
<第三回>
霊による現実界への影響――<憑依(ひょうい)について>(『霊供養入門』P.231−234)
<<聖経『甘露の法雨』に次にような一説があります。「霊姿に甲乙あり、病める霊あり、苦しめる霊あり、胃袋もあらざるに胃病に苦しめる霊あり、心臓も有(も)たざるに心臓病にて苦しめる霊あり、」霊眼でみると「霊姿に甲乙あり」――即ち、霊の姿にも色々の状態がある。病んでいる霊がある。苦しんでいる霊がある。「胃袋もあらざるに胃病に苦しめる霊」もあるというのである。日本では死骸(しがい)を焼いてしまう。だから肉体の胃袋も一緒にやけてしまって、灰になっているから、胃袋は無い。それでも、胃病になって苦しんでいる霊がある。「心臓も有(も)たざるに心臓病にて苦しめる霊」もある。死骸は焼場へ行って焼いてしまったから、その肉体の心臓は無くなってしまっているのに、霊魂だけが、心臓病の続きをして苦しんでいるということがある。
「これすべて迷いなり。斯(か)くの如き霊、人に憑(よ)れば憑られたる人あるいは胃病を顕わし、或いは心臓病を顕わす。」そこで、このように霊界において迷っていたり、あるいは病気で苦しんでいる霊がいると、「なんとか救われたい」と思って、その霊が“頼みの心”を起す。この“頼みの心”は、親子とか孫とか親類の人とか、そういう親しい人や、感じやすい人に感ずることになる。つまり霊界を“放送局”とすると、現実界の人間が“受信機”になって感応するわけである。そして、胃病でくるしんでいる霊が「たすけてほしーい」という念波を孫娘にでも送ると、その孫娘が胃病になる。
あるいは心臓病で苦しんでいる霊魂が「救われたーい」と思って、その念波を送ると、それを受けた人が心臓病のような状態になるということになるのである。
続いて『甘露の法雨』は、次のように説いている。「されど霊覚に映ずるさまざまの苦しめる霊は、第一義的実在にあらず、彼らは誤れる信念によりて流転せる迷いの影なり。」そのように霊眼によると、苦しんでいる霊があることが見えるけれども、その「霊覚」に見える苦しんでいる状態の霊魂は「第一義的実在にあらず」――つまり、本当は病気ではないけれども、迷いによって病気の状態を顕わしているだけである。従って、そういう霊魂に『甘露の法雨』を読んであげたら、その霊魂が救われて悟りを開き、病気の念波を送らなくなるから、それによって現実界の人間も救われるということになるのである。>>(P.231−234)
霊による現実界への影響――<憑依(ひょうい)について>(『霊供養入門』P.234−239)
肉体は現実世界での“作業服”
<<われわれは「死ぬ」というけれども、実際は、霊魂は生き通しであるから第一義的には「死」はないのである。ところが、「現象的」にいうと、われわれの霊魂は「肉体」という、一種の“地上生活の作業服”を着て地上へ天降って来る。そして地上生活の“任期”を終えると、この「肉体」という作業服を脱いで、そして霊界へ行く。そこで、われわれが「死ぬ」という時期は、霊界から観ると、ちょうど“誕生予定日”に当るわけで、祖先の霊魂は、われわれが地上で子供の誕生を待つように霊界で待ち構えているのである。現実界からいうと「いよいよ御臨終でございます。お別れでございます」といって悲しむことになるが、本人が「人間は肉体ではなく、霊である」という悟りを開いていると、「死」は、「肉体」みたいな窮屈なものから脱出することであるから、「私は霊界へ行ったら、もっと自由自在になれるんだ」と喜び、霊魂が肉体に執着してしがみつくことはなくなるので、肉体からやすやすと脱(ぬ)ける。これは霊界における“無痛分娩”ともいえる。
ところが「この肉体が人間だ」と思っている人は、霊魂が肉体に執着して、しがみついている。しがみついていたら、「この洋服脱がしてやろう」と思っても、なかなか脱ぎにくい。しかし、もう霊界へ誕生する時期が来ているから、いやでもこの“作業服”を引きむしらなければならない。このように肉体と霊魂の分離が難しい場合は、霊魂は“断末魔の苦しみ”というものを味わうことになる。しかし、その苦しみがあまりひどいと、神様の摂理で、ある程度以上の苦しみは感じなくなるようになっているので、霊魂は気が遠くなって無意識状態になり、その無意識状態のまま霊界へ誕生することになるのである。そこで、霊界で無意識で眠っているような状態にある間に、現実界では坊さんが来て戒名(かいみょう)をつけたり、死骸を焼場へもっていって焼いたり、土にうずめたりしても、霊魂はそういうことは一向に知らないということになる。
ところが、ある日、目を覚ますと、霊魂には何でも見える。それは外套(がいとう)を脱いでいても目が見えるのと同じで、その脱いでいる外套を誰かが焼いたとしても、どこかへうずめたとしても、自分は見える。そして「私は生きておった」と思うのである。「生きておった」と思うと、今まで眠っていた間の「時間」というものは感じない。本当に熟睡していたら何日眠っていても、その間の時間は感じないのと同じで、起きると、寝る前の直前のことを思い出す。そして、気を失う前に「あ、肺炎だった」と思い出すと、肺炎の状態が、そこに“夢のように”顕われるわけである。現実界からいうと“夢のように”という表現になるけれども、霊界は「思う通りに顕われる世界」であるから、霊魂本人にとっては“現実に”肺炎に罹(かか)っているわけである。それで苦しみながら「今日はお医者さん来てくれないか。ドクターは来ないか」と思って待っていても、ドクターは来ない。そこで「仕方がない。家族でも呼ぶより仕方がない」というわけで、霊魂は一心に家族や親族を呼ぶのである。その“呼び声”は、霊には声帯がないから耳に聞こえる声ではないけれども、これは一種の“心の波”である。この“心の波”が、近親の親とか孫などにひっかかって、そこで近親者が病気の状態になるということになるわけである。(P.234−237)
『甘露の法雨』の功徳
<<このような迷っている霊魂に対して『甘露の法雨』を読んであげると、そこには「肉体も物質も、そんなものは無い。罪も病も無い」ということが書いてあるので、霊魂は「おやっ?」と気がつく。そして霊界では“現実に”自分には“肉体”がないのであるから、「肉体も何もないのに、病気の姿を顕わしていた」ということを聞かされると、催眠術をかけられてビッコを引いていた人が、術者に「さ、もう足は治った」と言われると、ちゃんと立ち上がるのと同じように、病気が治ってしまうということになるわけである。そうすると、霊界から病的な心の波を送っていた放送局が送信しなくなるので、こちらの現実界でもその病念の波の放送を受信していた人が癒されてしまうということになるのである。
祖先の霊魂たちは、いろいろの種類の病気に罹(かか)ったままで霊界へ移転したのであるから、霊界からの影響による病気は「何病だけ」と特定するわけにはいかない。祖先が「何々病で死んだ」という病気の数だけ、霊界の病人たちから病念の放送が来ているわけである。>>(P.237−238)
霊界での時間のサイクル
<<ところで、霊界へ行った霊魂は、すぐに目がさめるわけではないのであり、中には二十年も三十年もねむっているものもある。霊界の時間のサイクルは、この現実界の時間のサイクルとは違う。だから、現実界で「三十年」というと、随分長いように感じられるけれども、霊界では「一分間のごとし」であって、大した長さではないのである。霊魂は、眠っている間は苦しみを感じないものであるから、心臓病で死んだ人の霊魂でも、この眠っているあいだは心臓病の念波をおくらない。ところが、現実界のサイクルで二十年なり三十年なりの時間がたって目を覚ましたら、まえの心臓病の状態を思い出して「ああ心臓が苦しい誰か助けてほしい」と思って、その病気の念波を放送するようになる。そして現実界の人間がその念波を受けたら、心臓病に罹(かか)るということになるのである。
死ぬと同時に病気の念波を送るのではないのであって、目が覚めてから病念を送る。ところがいつになったら霊魂の目が覚めるかは決まっていないから、祖先の霊魂の中に病気で死んだ人がある場合には、現実界では、その放送を受けた時に、「突然に」病気が顕われるということにもなるわけである。>>(P.238−239)
(註・コメント)
<霊界での時間のサイクル>のことは非常に大切な事でありまして、毎日の日課として心を込めて先祖供養をしていながら不都合な病気等が家族に起こって来る場合があるのは、遡れば多勢の御先祖様の霊魂の中には非常に長年月のあいだ霊界で昏睡状態でいてその霊魂が時期が来て覚醒されるケースがあるわけです。
この間の実際の事情は各家庭によって千差万別であります。したがって、先祖供養はこれで充分だと考えずに継続してゆく事が極めて大切であります。ここまで行き届いて先祖供養のことを説かれている宗教家は開祖・谷口雅春先生のほかには中々見当たらないと思われます。
迷霊の存在についての考察(『人生を支配する先祖供養』)
人間の脳髄は精神電波の受信機
<<人間の脳髄というものが一種の精神電波の受信機であり、高級霊界からの放送霊波をインスピレーションとして受け取る事もできるし、迷界からの怨念(おんねん)や呪詛(じゅそ)の霊波をも受信して、それによって行動することもあり得るからである。>>(P.132)
ヴィールスの背後にあるもの
<<黴菌(ばいきん)とかヴィールスとかいう微生物が如何にして発生したかという問題になると、「生命の起源論」というよりも「生物の起源論」として重大な問題になるのである。これは人間を構成している細胞がいかにして発生したかの問題とつながって考えられる問題である。
人間の細胞が発生し増殖して行くのは人間の「生命」という霊的実在がその背後にあって物質の分子・原子をその適当な相(すがた)にならべて「細胞」をつくり出すのである。「生命」が去ったらもう細胞をつくり出さない。霊的実在が細胞を或る一定の形につくりならべる事に或る影響を与えるのは当然である。同じ土壌や肥料成分を、朝顔の「生命」は朝顔の細胞の形にならべ、ダリヤの「生命」はダリヤの細胞の形に物質の原子分子をならべる。
それなら小児マヒ病原体ヴィールスの形に物質の分子原子をならべる霊的影響者がなければならない。私はその霊的影響者を霊界に於ける迷霊だと説いたのである。>>(P.109−110)
何故先祖を祀らない人でも小児麻痺にかからぬか
<<祖先の霊魂を祀らない人が必ずしも小児麻痺になるのではない。幼児が小児マヒになるといっても、幼児は「霊魂を祀る」というような意識が発達していないのであるから、幼児に責任がある訳ではない。
従って迷っている霊が現実界の人々にその病的精神波動を送るのも、別にその幼児に特定の恨みがある訳でも、その責任を追及する訳でもない。自分自身が救われたいから、誰か親類縁者に救われたいと思ってその悲痛な「想念」を放送するだけである。
その放送の「想念」の波が全部現実界の人々に感受する訳ではない。放送局が無数にあっても波長の合わぬラジオ・セットには感受しないようなものである。だから軒並みに「祖先の霊魂を祀らない人」が小児マヒにかかる訳ではない。ただその悲痛の念波を感受し易い状態にある人だけが、その念波を感受し、その念波と同じような形を肉体に顕して病気に罹るのである。併し、放送がなければ受信機はあっても感受しないように、霊界の迷える霊を聖経の読誦によって悟らしめることができれば、病念の放送はなくなり、従って病念感受のためにおこる病気もなくなるのである。>>(P.109−111)
祀られない霊魂は悉く苦しんでいるか
<<霊界に於ける霊魂の生活状態や、その苦痛や悦びの状態は必ずしも一様ではない。祀って貰わない霊魂でも、生前、人々を救う為に無数に慈善や愛他行を実行した人々の霊魂はその慈悲愛他行の報いとして自由自在の境涯にいるし、幾度も生まれ変って修行を積んだ霊魂は高き悟りに達していて、実相無礙の境涯にいるのである。
だから祀らない霊魂が悉く迷っていて、その迷いの精神波動が現実界の子供に病気を起す訳ではない。またそれほど最高の悟りに達していないでも普通の高さにある霊魂は、現世と相似た生活を送っていて現実界に救いをもとめて、悲痛な念波を送っている訳ではない。霊界は大別すれば七階層にわかれていて、その各々の状態がどんな有様であるかは、私の別の著書『人間死んでもしなぬ』をお読み下さい。>>(P.111)
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