| [955] インターネット道場―――体験実話特集・平岡初枝先生「しあわせを見つめて」より(33) |
- 信徒連合 - 2015年10月28日 (水) 07時11分
インターネット道場―――
体験実話特集
平岡初枝先生「しあわせを見つめて」より(33)
<病気はなかった>
3月28日の冷えびえとした寒い日であった。唐金の大火鉢をはさんで、私は寺田先生にお尋ねした。 「先生、私は脊椎カリエスで3年間床についておりますが、どうしても治りません。どうすれば、よろしゅうございましょうか?」
寺田先生は黒い大きな目で 私の腹の底までも見抜くように見つめながら、右人差指をグイと前につき出された。
「あんた、素直になりなさいや。病気はないんですよ」 これが寺田先生の第一声であった。その一言をきくと、私は何の抵抗もなく思った。
「はあ、病気はないのか」 本来理屈言いの私が、どうしてあんなふうに思わせてもらえたのか、未だにわからないのである。
つぎに、寺田先生は、私に問われた。 「あんた、目の近くに、まつ毛のあるのが邪魔になるかね?」 「いいえ、邪魔になりません」 「そうだろう。目の一番近くに、まつ毛はある。しかし認めなかったら、邪魔にはならない。ところが倉田百三という文士はね、ある時、目の近くにまつ毛があると気づいた。それからというものは、目の近くにまつ毛があることが気になってたまらない。まつ毛のことを思うまいと思えば思うほど気になった。とうとう物凄い神経衰弱になり、目を閉じても開けても、目がまわる、家がまわるという有様で、1年間生死の境を彷徨したそうな。これは、目の近くにまつ毛があると、認めたからですよ。あんたも、脊椎カリエスだというから、どの骨が悪いと認めたのですよ。認めた時に存在に入るのですよ」
ここまで言われた時、私は心の中で、「わかった」と横手を打ったものである。「そうだ! この3年間、私は寝ても覚めても、第三第四胸椎のことばかり思い続けてきた。絶対安静一つをたよりにしていた私は、ちょっと起き上がって食事をすると、すぐに、骨はどうだろうと思い、便所へ行ってくると、大丈夫かしら、と骨のことばかり思いつめてきた。認めたものが存在に入るのなら、もう骨のことは考えないことにしよう」と深く心に思い定めた。
「そうだ、骨のことは、生命の営みにまかせれば、良いのだ。私が干渉しなくても良いのだ」と、わかったのである。
そして、骨のことはもう考えずにおこうと思いながら、ではどこのことを考えたらよいのかと、愚かにも他愛ないことを思い、白隠禅師の「臍下丹田に力を入れて万病治せずということなし」という言葉を思い出した。お腹に力を入れるようにしていたら、しばらくしてお腹がグーグー音をたてた。
「ああ、これは困った。私は若い時に腹膜をわずらったことがある。今、脊椎カリエスを克服して、かわりに腹膜を招待するということになってもつまらない」などと考えているうちに、寺田先生の御指導が終わり、帰宅することになった。
ことばの力は、えらいものである。「病気はない、病気はない」というお話を聞かされて、病気の骨のことを思わないで、心を他に転じていただけで、帰りにはフラフラしながらも電車に乗ることができたのである。 まるで、朝のさわぎは夢のようであった。
『甘露の法雨』には「汝ら悪夢を見ること勿れ」と書いてあるがが全くその通り。私は、長い長い悪夢を見ていたのであった。
「慢性病をやっている人は、時折下手に夢の続きを見たがるものである。そんな時は下腹部に軽く力を入れ、『私は神の子だ、病気はない。私は神の子だ、病気はない』と、断々乎として20回ぐらい唱えなさい。朝目をさました時は勿論のこと」
寺田先生が帰り際に教えて下さった言葉一つをたよりに「病気はない」を言い続けて、夜を迎えた。その晩の7時頃であった。私の家へ送り届けてから、病院へ行かれた金田先生が帰ってこられた。私は、その顔をみるなり、尋ねた。
「金田先生は、自分の身体のなかで、どこのことを考えていますか?」 金田先生は、ガッカリした顔で言われた。 「まあ、この忙しいのに、自分の身体のことなど考えている暇ないわよ」
言われてみれば、その通り。金田先生が主任の耳鼻咽喉科は、いつも患者が多く、3人の看護婦の他に助手をふやそうと考えていた矢先きなのである。
金田先生の顔をみているうちに、私は寺田先生から訓えられてきた言葉を思い出していた。 「病気はないんですよ。働きなさい。働くということは、ハタをラクにするという愛行です」
寺田先生には、3年の病人もなければ5年の病人もない。すぐに働けとおっしゃったのである。
「そうだ! 働きましょう」と思ったが、働くといっても、いま直ぐに何をしていいかわからない。 しかし、働く気になれば、働く仕事も出てくるものなのである。
<働けば働らくほど元気になった>
翌朝、目を覚ますと床の上に正坐して、教えられた「病気はない」を唱えていると、藤吉さんがきて言われるのだった。
「平岡さん、起きていたの、よかった、よかった。実はね、先日石切神社へお百度参りしたとき、『1週間の間に治してやって下さい。そしたら千本旗を作ってお礼詣りをいたします』と約束してきたから、これからその千本旗を作ってちょうだい」
働こうと思ったら、早速ふさわしい仕事が出て来たのである。半紙と割竹で作った小旗千本に「46歳卯年の女、満願成就」と書くのが、私の初仕事になったわけである。
昨日まで、生ける屍だった私が、机の前にキチンと正坐して「46歳卯年の女、満願成就」と午前中に5百枚を書きあげ、午後は友人1人についてもらって、四ッ橋道場へ行ったのである。
翌日も、午前中に5百枚を書きあげて、午後は1人で四ッ橋道場へ行くことができた。翌3月3日は、3人の友人が石切神社へ願かけをしてくれてからちょうど1週間目である。千本旗も出来上がり、お天気も上々だった。数人の友人たちが集まって、お礼詣りに行くというので、私も是非連れて行って欲しいと頼んだ。友人たちの強い反対を「人間神の子、病気なし」で押し切って、同行したのであった。
3月5日は日曜であった。病気のないことを知った私は、嬉しくて、じっとしていられない気持である。ちょうど、京都には友人の竹田直平氏が立命館大学の予科部長をしておられた。郷里をともにしていたので、若い頃から親しくしていたが、奥さんの悦子さんが結核性の腫物を三度も手術されたが快癒せず、手術のたびに傷が大きくなるので悩んでおられたのである。
5日の朝、目がさめると、「そうだ、悦子さんに病気のないことを知らせてあげねばならない」と思った。金田先生の同行を願って、大阪から京都まで、大奮発で出かけたものである。
京都では、「青い顔をして、どうした。それ床を敷いて、それ寝なさい」と大騒ぎであった。「もう治った、病気はない」といくら言っても、夫妻とも信じてくれないのである。
私も「人間神の子、病気はない」という言葉を知っているだけで、この二人の唯物論者を説き伏せるすべもなかった。ただ「何やら知らねど、病気はないワイ」で終わったことであった。
大阪へ帰ったら、故郷の母から「病気は、どうじや」という葉書がきていた。「そうだ、故郷の母に病気のないことを知らせねばならぬ。手紙では、とても及ばぬこと。この身体をもって行って、見てもらうほかはない」と、明けの3月6日、富山行の急行に一人で乗った。郷里では、4、5日の間、家族はもちろん、友人、親戚を訪ねて「人間は神の子、病気はない」と、嵐のように言い廻って大阪に帰ったのであった。これが、私の病気なしを識った第一幕である。
まことにも、人間は物質でなく、肉体ではなかった。肉体は、心の容れ物でしかなかったのである。幸いにも、私は友人の愛によって神を知り、導かれて生長の家の教えにふれ「われ神の子、本来罪なく病なく老なく死なし」の真理を知ることができた。半年後には体重も4キロふえた。そして、同じ年の10月には当時の内蒙古への旅をすることになったのであった。
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