| [963] インターネット道場―――体験実話特集・平岡初枝先生「しあわせを見つめて」より(34) |
- 信徒連合 - 2015年10月29日 (木) 08時31分
インターネット道場―――
体験実話特集
平岡初枝先生「しあわせを見つめて」より(34)
<蒙 古 へ の 旅>
先にも書いたように、当時私達は東区木野町に大衆のための興亜病院を経営していた。儲けるという野心さえ起こさねば、こんなにも安く治療をしてあげられるという見本に作った病院で 診察料無料、1日一剤十銭、入院料1日1円という破格の安価で治療を受けられる施設だったのである。
もっとも、激しい医師会の反対運動にあい、責任者の私などは警察に呼び出され続けたものであった。それで河上丈太郎氏らを顧問弁護士として、新たに無産婦人同盟健康保険会を組織し、加入者から半年五銭の入会金をとって、特別待遇というわけで医師会の嵐をくぐりぬけていたのである。
それでも、病院の経営は実に健全にのび、ゆくゆくは財団法人にしたいと思っていたのである。ところが、あの大東亜戦争である。幸い、当時蒙古軍の最高顧問の陸軍軍医少将の松崎陽先生とは深く知りあった仲であった。
病院はうまくいっているし、病気が治っただけでなく、人間無限力まで知らされた私である。 「あなたの治めていられる蒙古に、興亜病院の分院を開き、日支親善に一役買いたいと思うが……」という手紙を松崎少将に出した。
「大賛成。すぐやって来い。出来るだけの協力応援はする」 という返事をいただくと、蒙古旅行に出かけたのである。 護衛をかねて、大浜さんのご主人に同行してもらい、あとは金田医師と私の一行3人は、大阪港から出発した。郷里へは大阪港を出る時「ちょっと、支那まで行って来ます。すぐ帰るから心配しないで」と葉書を一枚出しただけで、40日の旅を無事に終えて帰ったわけであったが、真理の筋金一本はいっていることは、何と力強くありがたいものかと感じさせられることばかりであった。
<真理の筋金ほど強いものはない>
大阪港を出る時には、みんな平岡は弱いものときめこみ「平岡さんを頼む、平岡さんをたのむ」が合言葉のようになっていた。ところが、出帆3日目頃から位置が変わってきたのである。船は天津行きであったが、戦争最中のことで、天津の港口の白河は遠浅なので、ごく小さな船であった。
玄海灘は大したことはなかったが、黄海にはいってから凄いしけとなり、それが2日間も続いた。船には不慣れな3人には、大事であった。大波が一つ、ぐらりとやって来ると、ゴロゴロゴロゴロと人も物もみんな向こう側へころがる。返す波で こんどは反対側へころがるという状態。みんな、生きた心地もなかった。水夫たちは、吐く時の用意に洗面器を手に手に配って歩いた。
そして、あっちでも、こっちでも、ゲーゲーという音をきいているだけで、胸が変になってくる。私の仲間ではまず金田医師がやり始めた。こんな時は、大男の大浜さんが何とかしてくれるのかと思ったが、大浜さんは向こう側を向いたきり、一向に動く様子もない。結局、大揺れにゆれる船のなかで転げそうになりながら、金田医師に洗面器を与えたり掃除したりしたのは、私であった。そのうちに、大浜さんまでが小間物屋を始めるという騒ぎ。それが3時間や5時間でなく、一昼夜以上も続いたのであるから、大抵ではなかった。
その間、食事の摂れる人はほとんどなく、金田医師などは、丸2日間にちょっと箸をつけたのが2回きりだったのである。そこへいくと、私は不断したことのない労働まで引きうけたので、2日間に4食は美味しく食べたというわけであった。
こうしたことが出来たのも、私には真理がはいっていたからである。最初船がゆれ出した時は、胸のあたりがガャガャとしてきた。若い時には汽車に乗っても酔ったことのある私は「これは、やられるぞ……」と、思ったものである。しかし、間もなく、 「あの時は真理を知らなかったのだ。今は違う。一切は心である、と教えられた私なのだ。心を整えよう。私達が女学校へ行っていた頃は、運動用具といえばブランコだけだったが、私はブランコが好きで良く乗った。長い綱のあるだけ、一直線に揺すったものである。あの時のことを思えば、よいではないか。あの時は、自分で揺すった。今は、波がゆすってくれるのだ。面白い。楽しい。素晴らしい」と、そんなことを考えていたら、波ぐらい何ともなくなったのであった。
それでも、みんな無事に大陸に上陸できた。豪華な北京の紫禁城などを見て、大同についたのが10月22日の朝であった。「大同、大同」という声が、凍りつくように聞こえた。皮衣に顔をうずめた蒙古人たちの吐く白い息を見て「あれは、湯気が立っているのだ。暖かいと思えば良いのだ」と考えてみたが、これはさすがに難しかった。
「人間神の子、病なし。人間神の子、無限力」 この二つの言葉を杖とも柱とも頼んで、この時の旅を終えたのであった。
私の、病気なしの話は、これで終わったわけであるが、ここで是非書き加えたいことが二つある。
それは、私に病気なしを教えて下さった寺田先生の指導方法である。はじめから終わりまで、 「人間神の子、病気なし」 と縦の真理一本槍であった。
そこには、業の世界、因縁の世界は、みじんもない。私が脊椎カリエスと言っても「あんたは親不孝をしているであろう。御先祖のおまつりをしていないであろう」といった因縁の世界から追いつめられたことはなかった。
「人間は神の子だ。不完全はない。悪夢を見ているだけだ。見たように、信じたように、あらわれているのだ」の一本槍であった。先祖の霊のさわりなどと言う人があると「霊など、おもちゃにすな。人間は神の子だ。しっかりしろ! そんな迷いの霊に支配されるような、たわけたものが神の子ではない」と、神の子の尊厳をしっかり掴ませるために、目を輝かし頬を真赤にして一所懸命に説いて下さったのであった。
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