| [1039] 「マサノブ教」の教祖と信徒さんたち |
- 板東太郎 - 2015年11月07日 (土) 15時33分
現教団は、表面上は『生長の家』という看板を掲げているが、その内容は『マサノブ教』という完全な“別派”となってしまっている。このところ大分に信徒数の激減が進んではいるが、金太郎飴の「マサノブ教・環境講習会」には、決して旺盛な求道心からではなく、義理と人情で刈り出されたところの、大部分はまことの信仰者などとは言えないそれなりの人数が集まってきているのであります。
しかし、宗教界においては、「非生長の家・マサノブ教」は、かつての如き“秀逸なる宗教”という評価はなくなった。さらに、社会一般からは「生長の家?聞いたことありませんよ!」という答が非常に多く帰って来る。歯牙にもかけられない無名の存在に成り下がってしまっているのであります。
開祖・谷口雅春先生の本当の『御教え』によって、救われてその偉大なる『御教え』をば人生のバックボーンとして過ごし、更に子孫へもその『御教え』を伝え、更に日本国實相顕現の基礎的思想として、より広く多くの日本人の自覚が高まることを望んできた信徒達から見れば、現今の教団の姿は全く予想だにしなかったほどの惨憺たる残念至極といえる状態であります。そこで、完全な“別派”と見えるまでに変貌を遂げて衰退していく『別派・マサノブ教』のマサノブ教主とその信徒さんたちの姿(相)について考えたのであります。
[ T ] 『マサノブ教』の『マサノブ教主』について、―――
@ 世間一般的に見て、自分が継承した宗教団体を、自らの手で解体消滅させていく教えの継承者は、健全な常識を全く持っていない“異常性格者”であると判断されるのであります。会社であれ、学校であれ、その他の団体であれ、前任者から後継者として指名され受け継いだ人は、更に充実発展させていくのが当たり前であります。しかし、まことに奇妙な事ながら、「生長の家」の三代目のマサノブと言う名前の継承者は、逆に「生長の家」をつぶしていこうと次々に手を打っていっているのであります。
A この三代目・マサノブという継承者は、宗教界でも多くの識者達から人類史上最高クラスの教えとされてきた開祖・谷口雅春先生の「唯神實相神学」を、在ろうことか最低の「左翼唯物現象教」へと学者・評論家的理屈をつけて換骨奪胎して恣意的に捻じ曲げ、世間の耳目を集めている「地球環境保護」ということばでカモフラージュして反日的サヨクの内容へと巧みに変更してきたのであります。即ち、史上最高の開祖・谷口雅春先生の『御教え』をこの地上から抹殺しようとしたのであります。この行為は、明かに「開祖への反逆行為」であります。最近とみにこの「開祖反逆」の行為がスピードアップして常識の許容限度を大きく逸脱した観が強くなって来たのでありまして、『狂乱ニセ総裁・マサノブ』と称せられるに至ったことは仕方のないことであります。
B 仮に、『狂乱総裁・マサノブ』君の主張するところが本当に正しければ、現在見るような信徒脱落現象は起きず、逆に更に教勢は拡大発展して行って然るべきであります。しかし、実態は逆で教勢は衰退していっているのであります。その結果、教団財政の中心であった「聖使命会員」は激減、「聖使命会費(奉納金)も毎年減少、退職者の増加、人財の流出、これらの結果、現教団「マサノブ教団」は、毎年毎年赤字に転落しております。回復の見通しは全くありません。世間の一般常識に従えば、経営者は責任を感じて全員辞職、役員総入れ替えであります。併しながら、『別派・マサノブ教団』にあっては、教勢衰退、教団赤字の累積責任を『狂乱総裁・マサノブ』君も、最高責任役員のイソベ理事長・ユキシマ副理事長・オオツカ参議長、誰一人として自ら反省する者もなければ、責任を感じて辞職する者もおりません。逆に、八ヶ岳の山麓に豪華な邸宅を信徒の浄財を使って建ててもらい、マイホームの意識で優雅な宗教貴族生活を平気で送っているのです。これが「人の道」を説く宗教団体の腐った役員のスガタであります。彼らには宗教家の自覚も使命も無く、超高給と地位と権力を第一に考える宗教家の風上にも置けない最低の人間となってしまっているのであります。
以上が、常識以下の特異思想団体『狂乱総裁・マサノブ』君が率いる『非生長の家・マサノブ教』の根本的な大問題でありますが、その別派『マサノブ教』の信徒さんとはどういう信徒さん達でありましょうか?
[ U ] 『別派・マサノブ教』の『信徒さん達』について、―――
@ マサノブ教の信徒さん達は大きく分けて3通りの信徒さんがいるのであります。
1、 所謂、「お孫さま信仰信徒」の人たちであります。 この「お孫さま信仰信徒」さんたちは、元々過去の徳積みや求道心のレベルの高さから今生では史上最高の開祖・谷口雅春先生の『御教え』に触れる霊的機縁が熟してこの世に誕生して来た人たちであります。そして偉大なる開祖・谷口雅春先生の『御教え』に触れ、病悩苦や人生問題を癒され『御教え』に対して絶対的信仰が育まれたのでありましょう。しかし、頓得の悟りは得られて救われたが、漸得の悟りの方へは向かうことなく、「生長の家」の雰囲気の善さにひきつけられ、信仰仲間も多く出来、それらの人たちとの付き合いも深くなるにつれ、お互いに「お孫さまのマサノブさんは立派に教えを継がれている」、「お孫さまの仰ることに間違いはない」、「マサノブさんは宗教界で初めて地球環境の問題に気付き改善の先頭に立っておられる勝れた指導者です」。このように考えて盲目的に追随していっている、世間常識から見れば、常識的理解力を持たない人たちの部類に入る信徒さん達であります。
2、次は、 自己顕示欲の強い人、謙りよりもプライドの感情の強い人、大勢で“群れ”ていたい人であります。これ等の信徒さん達は『生命の實相』やその他の開祖・谷口雅春先生の御著書の熟読はあまりされていないようであります。「○○長」という肩書きを誇示する人、○○先生と呼ばれたい人、先生病や先生ごっこを楽しんでいたい人は大きな組織に属することを好むわけであります。信仰面から言えば、『生長の家』の『御教え』の更に深い所への求道心が中途半端なところで留まっており、それよりも、組織内での肩書き、処遇、仲間付き合いを優先して考える心的性向の強い人たちであります。
3、 日教組の反日的唯物論教育の影響を強く受けて、三代目のマサノブ時代に入信された信徒さん達。これ等の信徒さん達は、マサノブ君の「宗教の教えも時代と共に変化しなければ時代に取り残される」という説明を聞いてなるほどそうだと納得し、「人間の病悩苦を幾ら救っても地球がなくなれば意味はなくなる」といわれれば、そうだと納得し、「日本は侵略戦争を仕掛けた悪い国だ」と言われても納得し、「戦争法案には反対する」とマサノブ君が言えばナルホドと思う。これらの信徒さんたちは開祖・谷口雅春先生の所謂「愛国」の御著書を全然読んでいないし『生命の實相』も十分に読んでいないか、全く読んでいないためであります。これ等のあたらしい層の信徒さん達は、吾々の『本流復活』の意義も、「真説と虚説」の違いも分からないし、『正統・生長の家』の何たるかは全く理解できず、批判感情を持つだけなのであります。
A このように別派『マサノブ教』の信徒さん達は、マサノブ君の巧みな洗脳術に誑かされて、健全な常識が麻痺してしまっているのであります。しかし、目覚めていく信徒さん達も次第に多くなって行き、全体として、入信者よりも脱退者の方が多くなり、教団財務の赤字は積みかさねられ衰退化が加速されていっているわけであります。現『マサノブ教団』の信徒さん達の志向レベルは常識的には理解できぬことが多すぎるわけです。
1、 教団が赤字なのに、マサノブ君以下理事参議が超高給を食み続けていることに関して、信徒側からは質問が出ないこと。赤字経営の責任を何故追及する声が出て来ないのか、という事。
2、 パートやアルバイトで得たささやかな収入から寄付した浄財が、本来の光明化資金としては使われず、 高額の環境のISSO資格継続費用や株式投資(投機)による利ザヤ稼ぎの莫大な資金に運用されていることに対して質問をする人がいないこと。
3、 このままでは、開祖・谷口雅春先生御創始の『生長の家』はマサノブによって完全に解体されることが明白なのに、組織内から誰もこの危険について声を挙げないこと。
4、 「大調和の神示」を説きながら、義兄の宮澤先生や実弟の貴康先生を教団から追放し、実母の恵美子先生の軟禁問題の緘口令?に対して誰もオカシイとの声を上げないこと。
5、 「今の教え」はオカシイと感じながらも、依然として「聖使命会費」を納め続け、月刊誌を取り続け、講習会へ出席を続ける。この中途半端な信仰態度、真剣な求道心の無さ。
6、 古参の信徒さん達は、自分達の病悩苦を救われたのに、なぜマサノブ君の「生長の家」解体をそのまま腕をこまねいたまま眺めているのか? 自分の孫子の代までこの『御教え』の存続を何故願わないのか? 組織内から何故、マサノブ君はじめ、現執行部の総入れ替えの声を上げないのか? それは出来ないと云うなれば、どうして現「マサノブ教団」から脱退しないのか、ということであります。
B ここまで考えてくると、宗教と信仰に関しての根本的な問題に突き当たるのであります。それは、昔から言われている「宗教はアヘンである」、「狂信的信仰」という言葉であります。この言葉を逆利用して「本流復活を推進するということは、開祖・谷口雅春先生原理主義者であり、それこそ時代錯誤の狂信的信仰ではないか、宗教・信仰といえども理性的判断が必要で『生命の實相』も理性をもって読まなければ行動判断を誤ることになる」と逆襲してくる「マサノブ教」信徒の人もあると思われるのであります。
『真理』というものは恒久不変なものであります。恒久不変であるからこそ『真理』というのであります。その『真理』と言う絶対実在を絶対認識された覚者が書かれた書籍を読むときは、自分の価値判断の基準を出さずに、海綿が水を吸う如き素直な心境で読まなければ『真理』は自分のものとはならないのであります。言葉を代えれば、實相の自分が現象の自分を無にして實相の真理に相対するわけでありまして、これを以って「狂信的信仰」と評するは誤りであって、一知半解の評論的な真の求道心無き人たちの言にしか過ぎないのであります。實相の自分の正しい求道心での信仰ならば「宗教はアヘン」という現象的危険性はないのであります。
C むしろ、『狂乱総裁・マサノブ』君に導かれてそれを是としている現「マサノブ教」の信徒さんこそ、言行不一致・悪霊憑依の『マサノブ狂乱総裁』に誑かされ、洗脳されていないかを自省していただかねばならないのであります。
D そこで、重要な問題が生じてくるのであります。ジュンコ白鳩総は「聖典・経典類は、理性を以って読まねばならない」と月刊誌に載せました。しかし、その文章の中で一言も『理性』とは何ぞや?の解説はなかったのであります。マサノブ君もよく『理性』という言葉を使いますが、彼もその言葉の解説はしていないのであります。この二人の使う『理性』とは、「科学的合理性」、「科学的証明」のことを言っていると思います。しかし、『理性』とは『叡智』だと思うのであります。では『叡智』はどこから出てくるのか?それは『生命の實相』をそのままの心で素直に読むということであります。言葉を代えれば現象の自分を無にして、實相の自分が實相の真理を海綿が水を吸うが如く読むことであります。そうすると『叡智』というものを把握できるのであります。
E だから、神の叡智で書かれてある『生命の實相』と人間知で書かれた一般図書(マサノブ君の著作を含む)の読書優先順位に関しては、『生命の實相』が最優先であります。『生命の實相』で思想や思索の基礎作りをしてからその他の一般著作物を読むのが順序であると思うのであります。これを逆に致しますと『真理』の把握には大回りの道を歩むことになると思うのであります。
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