| [107] インターネット道場ーーー感動的体験記・ある炭焼き夫の信心 <その一> |
- 信徒連合 - 2015年07月29日 (水) 07時14分
感動的体験記
ある炭焼夫の信
( 前 編 )
深山幽谷の地に・・・
霧の深い水郷のまち、大州を横切って流れる胘川の流れは、どこか京都宇治川のほとりにも似た、奥ゆかしき雅を偲ばせていました。幾重にも重なって連なる山裾を縫って、静かに流れる川面を、河鹿の鳴き声が軽やかに響いていました。水は清く、流れに遊ぶ鮎は白銀の腹を翻して光と戯れ、白い衣をまとって往き交うお遍路の姿を水面に浮かべて、なお白く映していました。夏になると、私たちは一糸もまとわずこの川で泳ぎ廻ったものです。まっ裸で泳ぐことが川に対しても子供達の間でも、それが自然への礼儀でした。
私は二十歳を過ぎるまで、この胘川の流れの奥深い人里離れた深山幽谷の一軒家に育ちました。此処は、電気もなければ、テレビ、ラジオ、新聞等の一切の文明の恩恵から隔絶された所でした。
厭世家や修行僧が自らの意志を以って出家し、修行の為に人里離れた幽谷の僻地を選ぶのとは違って、空襲で焼野原になった東京をあとに、焼け出された一家がここに疎開して来たのです。焼け出されて無一物になった家族九人が、何一つだも持たない山の中の生活は、並大抵ではありませんでした。それは大生命の摂理の眼から見れば、かくあるべくしてこの地に置かれたのでありましょうが、私などには、はかり知れない神の愛、仏の慈悲のおはからいがあったことを、今しみじみと味わいかみしめているのです。
若き炭焼きびととして・・・
私は中学を卒業するとすぐ炭焼きを始めることに致しました。父が病に倒れて再起不能となり、私は五番目の三男でしたが、優秀な二人の兄は上京して大学に学んでいる最中で、二人の姉は、兄の世話もあって早くに上京しておりました。 木炭は愛媛の特産物であっただけに、市場に出される炭は一段と検査が厳しく、丸炭が一つでも欠けていれば、どんなによく焼けていても、それは不合格品とされてしまいます。ですから、一里の山道を運び出すにも慎重で自分より二倍も思い荷を背負って崖につけられた道を何回も往復し、それが一日二日と終わるまで続きます。
身の振り方一つ間違えば炭もろとも谷底へ転落します。私も炭も助かりません。しかし私には、家族全体への責任があります。万一のことなど決して許されません。今踏みおろす一歩一歩の足に、全力が込められていなければなりません。
木を倒すにしても、一抱えもある大木を、険しい急斜面で切り倒すのですから、一瞬たりとも気を緩めることは出来ません。全神経を足の指先から手の指先まで心身の全てに集中し、更に木の全体と地面や周囲の関係にまで心が行き届いていなければ、万一、足一つ踏み損ない、振りかざした鉞の手元が狂いでもすれば、自分の足へ切り込むか、岩にきりつけて、どの道仕事が出来なくなるからです。山師と呼ばれる樵専門の方でさえ切り倒した木の跳ね返しで、谷底に放り出されて重症を負うのですから。
一挙手一投足に、私の全生命、全精神の集中をおのずと要求されるのです。全身全霊の全力投球の毎日が強いられるのです。一片の心の緩みも許されません。いのちがけなのです。伐採された木を一定の長さに切り揃えると、土俵程もある大きな窯に木を詰め込み火をつけます。火は何千度という高熱で、一週間近く燃え続けます。この高熱によって、万一、窯の天井が抜けでもしたら、忽ち火は全山に燃え広がって山火事になります。マッチ一つすって窯に火をつけるにも、真剣そのものでなければなりません。鉞が危ない、崖が恐い、荷が重い、火が恐ろしいなどといって、躊躇逡巡や右顧左眄している隙など片時も許されないのです。山の明け渡しの期限も迫ります。背水の陣を敷くも敷かないもない。ただ前進のみを要求されるのです。私の全生命が其処に賭けられているのです。
祈りながら焼く炭は・・・
「ゴーッ」という音と共に、窯の中に火が吸い込まれて行きますと、やがて私は、ひとりでに窯に向かって合掌して拝んでいるのでした。身も心も張り詰めて人事を尽くした人間の取るべき最後のすがたなのでしょうか。ふと気がついて我に帰ると、どの位の間拝んでいたのでしょうか、合掌して窯に向かって立っている自分に気が付くのでした。もうそのまま神におまかせする以外に、私には手の打ちようがなかったのです。
私の焼いた炭を見て、炭焼きの名人と呼ばれる古老が申しますに、二十年かけてもこれ程の炭を焼くことは出来ないのに、子供の私がどんな焼き方をするのかと不思議がるのでした。
どんな炭が良いかは知らなくとも、唯私は拝んで焼いていればよかったのでした。そうする以外に、私は方法を知らなかったのですから。私の中で窯の火が燃えているのか、窯の火の中に私がいるのか、火と私とが一つになると、空気を送る穴の調節や、煙突の加減など、焼けていくに従って、その時その時に催してくる心の動きに従えばよかったのでした。
月下の黒い人影・・・
そんな或る日、私は一日の仕事を終えて、家路へと山の上の峠に向かって登っておりました。私の家は、この山の上の峠を越えた向こうの谷間にありました。この山の上の峰沿いには、老木の松並木の道が続き、峰の松風は、琵琶法師が琵琶を奏でて物語るが如くに歌い、杖を頼りに鈴を鳴らしてお遍路の通う道でもありました。道のあちこちに野仏が静かに坐して、往きかう人の心を慰め、四国八十八カ所巡礼の道案内でもありました。
東の空には満月のお月様が輝いておりました。ふと見ると、この谷を挟んで、一町ばかり離れている向こう側の山道を、誰か急ぎ足で下りて来る黒い人影がありました。木の間から射し込む月の光に照らされて、その大男の影が誰であるかも分かりました。こんなに遅く彼は何を急ぎ足に下って行くのだろうかと思ったとたんに、彼の行動の全てが私に飛び込んで来たのです。それを打ち消そうにも打ち消せませんでした。私の小さな身体が小刻みに震えていました。彼は、今私が製品に仕上げたばかりの炭を盗む為に、私の仕事場に向かっているのでした。それが分かっていながら、私はどうすればよいのだろう、盗みの現場を押さえたとてそれが何になろう。誰も訪れる者もないこの谷間で、この力強い山男の前には一ひねりにつぶされてしまう-----
盗まれることが分かっていながら、みすみす黙って見ていることも出来ないし、思案にくれながら歩いているうちに、いつしか峠を越えて谷間の我が家に着いてしまっていました。これを病床の父に告げれば心配のあまり、父の病を益々悪化させることになるし、言うに言われず、とうとう進退窮まってしまいました。・・・(つづく)
元・生長の家本部・神癒祈願部勤務 高見文敏氏・記
(今からずっと以前、月刊神誌「生長の家」に掲載せられしもの)
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