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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[1200] 完全優位の『正統・生長の家』、そして『マサノブ教』は脛(すね)に傷もつ教え!  <第二部>
塚原卜伝 - 2015年11月21日 (土) 10時38分

「子記事」に、遥かなる追憶<第二部>として、マサ&ジュンの反・『御教え』語録の数々を掲載します。


********************


「掲示板」情報のお蔭で、マサノブ君の生来の實相隠蔽の内容が明らかとなったのであります。そして、マサノブ君の實相隠蔽度合いが最近益々今生では回復不可能となって来たこともわかるのであります。



[ T ] 「掲示板情報」で判った『狂乱総裁』マサノブ君の今に到る思想的生い立ち 


1、 子供の頃、庭の蛙をとらえて“火あぶりの刑”に処して遊んでいた。 (残酷無比)

2、 子供の頃、食卓に零した味噌汁を吸うように叱られた。 (見返したい怨念)

3、 「遂に自分も独裁体制を布く事が出来た」と友人に語ったとか。これも少年時代からの夢?(独裁者志向)

4、 青年の時代に書いたタイトルは『穴グラから』であった。 (光明思想ではなく暗黒思想)。

5、 若き頃の発言は「人生で一番大事なことは、権力を持つこと」 (権力への憧れ)

6、 退職金と権力を手中に収めるための、復職を前提とした「副総裁辞任劇」、(飽くなき金銭欲)

7、 その昔、信徒(宮崎氏)から寄贈された“お山”の住居を教団に買取らせて自己資金化? (飽くなき金銭欲)

8、 「法燈継承劇」を無理矢理に演出挙行、『ニセ法燈継承者』をまかり通させる。(手段を選ばず目標達成)

9、自分もまた死後、「大聖師号」を付けさせたいために、清超先生の御遺言を無視した。(手段を選ばず目標達成)

10、 継承者自らが、継承した教団をつぶす“忘恩的行為”を着々実行。 (破壊と蕩尽)

11、 看板は『生長の家』、中味の実態は換骨奪胎した『ニセ生長の家・マサノブ教』で信徒を欺瞞 (詐欺商法と同じ)


以上、要するに『残酷無比・怨念・独裁・暗黒思想・権力欲・金銭欲・戦略的知力・宗教詐欺』――― これが完全に『神性隠蔽マサノブ狂乱総裁』の正体であります。常識的な意味から言っても、『宗教・信仰』の世界からは考えられないことばかりであります。これがそのまま『非生長の家マサノブ教』のアキレス腱であり、脛の傷となってしまっているのであります。




[ U ]  完全優位の『正統・生長の家』、そして完全劣性のスネに傷持つ『マサノブ教』の比較


   比較項目         「正統・生長の家」  判定     「マサノブ教」  判定


1、 教義について        唯神實相神学    ○      左翼唯物現象論  ●

2、 基本聖典          『生命の實相』   ○      『大閑雑感』   ●

3、 経典            『甘露の法雨』   ○      『大自然惨禍経』 ●

4、 神示            神示集・神示祭   ○       人間知     ●

5、 神想観           完全に実修     ○       不完全実修   ●

6、 礼拝            『實相』      ○      大自然(雑木林) ●

7、 祭式            日本式       ○       西洋式     ●

8、 立教の目的    人類光明化と日本国實相顕現  ○       地球環境保護  ●

9、 国家観           生命的国家観    ○       世界市民思想  ●

10、 國體            天皇国日本     ○      共和制・世界政府 ●

11、 愛国心           中道實相の愛国心  ○     戦争に繋がる・不要 ●

12、 講師のレベル        非常に高い     ○       非常に低い   ●

13、 信徒の質          求道心は旺盛    ○       お孫さま信仰  ●

14、 体験談           真理の証し人    ○     たまたま、非科学的 ●

15、 国防意識          旺盛(七生報告)  ○     マサノブ君にはナシ ●

16、 お金と真理との優先順位   真理        ○       お金・退職金  ●

17、 人生の霊的使命       真理国家の建設   ○    優雅な宗教貴族生活 ●

18、 浄財の使用目的    立教の使命と目的に沿って ○   超高給と利ザヤ稼ぎ ●

19、 教団設立の淵源       實相世界     ○  『狂乱総裁マサノブ』の人造 ●

20、 「天壌無窮の御神勅」    日本国家の淵源   ○     一切認めず無視    ●

<追加>

21、 人間観            神の子     ○    人間至上主義(罪の子) ●

22、 運動方針        個人と国家の實相顕現 ○   趣味と遊びのクラブ活動  ● 


総合点                      100点             零点              





(365)
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[1201] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (1)
遮那王 - 2015年11月21日 (土) 10時49分




● 講習会とは、“用事”を済ます“小旅行”!?

(「小閑雑感」平成22年1月5日)


<<正月休みを妻の実家の伊勢で過ごした。・・・三泊四日の小旅行である。・・・年間に各地を巡る小旅行が多いが、生長の家の講演旅行がほとんどで、用事が済めば東京へトンボ帰りをするのが常である。>>



(講評)

全国各地での講習会に於いて人類光明化運動の真理を法灯継承者として宣布する事を“用事”と表現し、其の“用事”を済まして小旅行を楽しむ、或いは小旅行を楽しむついでに“講習会という用事”を済ませる。この様な感覚の三代目様であったとは、全く唖然とするばかり。将に、“売り家と唐様で書く三代目”であります。

ジュンコ君のブログ“恵美な日々”には「今日は木曜日、休日なので山梨県の私達の山荘(別荘)へいきました。・・・レストランで外食・・・映画を見に・・・」といった“<休日なので>”という表現が多用されています。

開祖・谷口雅春先生は「全人類が救われるまで私には“休日”はありません、“別荘”も必要ではありません。私が欲しいのは“時間”だけであります。」と云われていました。

マサ&ジュン夫婦は、高齢者信徒のそんなに高額ではない年金からの奉納金で自分たちのセレブな生活(年収は五千万以上?と聞きます)が成り立っていることなど少しも意識してはいないのでありましょう。

宗教家のレベルとしては最低であります。





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[1216] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (2)
遮那王 - 2015年11月22日 (日) 10時57分



●  特攻隊は、現世を犠牲にした自殺行為?

(「小閑雑感」平成21年9月27日)

<<(質問者の真意の解釈の中で) 特攻隊の場合も「生命の不死」を信じて「靖国神社で会おう」と誓った若者が現世を犠牲にして自殺行為に進んだのである。>>



(講評)

マサノブ君は、一体全体、開祖・谷口雅春先生の御本を読んでいるのでしょうか? 読んでいても、自分の考え方は正反対である。と云っているのと同じであります。この様な表現は、宗教者の言葉ではなく、左翼評論家・日教組教師・左翼学者の言葉である。

それから、マサノブ君はどこの国の人なのか? 国籍は日本人でしょうが、心・精神に於いては非・日本人であります(この様な人間はジパノフォビアというのです。)“特攻の母”と云われた浜島トメさんは“特攻隊の人たちについては、その<伝え方>を間違えてはいけない”と云われました。

マサノブ君、君は、その<伝え方>を完全に間違えています。英霊の方々に礼を失しているのです。猛省を促す。この意味が解からなければ君は“法灯継承者(自称)・総裁”の資格なく即座に辞去して頂きたい!




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[1228] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (3)
遮那王 - 2015年11月23日 (月) 13時55分




● 世界平和と日本の発展

(「小閑雑感」平成21年8月15日)

<<世界平和がなければ日本の発展はない。日本の発展だけを目指すのは間違いである。>>



(講評)

最近どこかで聞いた調子の発言内容であります。そうです。鳩ポッポ首相の語録「日本の国土は日本人だけのものではありません。世界の人々に広く解放されなければなりません。」と同じ基調をもっています。

マサノブ君の思想・思考と鳩山由紀夫(元)首相の思想・思考とは本当によく似ております。まるで、日教組の戦後教育を受けている小学生の答案レベルの幼稚な仲良し遊び感覚の発言であります。

正しくは、先ず日本自体が“心主物従・霊主肉従”という形而上的価値観で以って世界のモデル国家となること、そしてその達成されたモデル国家を世界に敷衍(ふえん)して行って初めて世界平和が達成できるのであります。

“物主心従・肉主霊従”という形而下的唯物価値観での発展ではなく、“心主物従・霊主肉従”という形而上的霊的価値観での国づくりとその発展を先ず“隗(かい)より始めよ”であります。

自分の一族を治めずして世界平和を説く資格は無いのと同じく、“毛利元就の三本の矢”の故事に反して自分の兄弟たちを教団から追放したマサノブ君には元々この様な世界平和や大調和の世界を説く資格などはありません。

先ずご自分の足元から見詰めなおし、且つ、「世尊拈花」の公案や神武天皇の「日本建国の詔(みことのり)」そして「大調和の神示」をシッカリとマサノブ君は学び直さねばならない。それが出来なければ、トットと「生長の家」から去っていくべきであります。




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[1237] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (4)
遮那王 - 2015年11月24日 (火) 09時00分





● 人間と“死”について

(「小閑雑感」平成21年6月9日)


<<生長の家では“脳死は人の死”とは認めないどころか“心臓死は人の死”ともみとめない。・・・“人間は不死である”というのが生長の家の教えである。・・・つまり、“肉体の死”は“人間の死”を意味しない。>>



(講評)

三代目・雅宣総裁の上記の文章の中には、論理の混濁があるのであります。即ち實相と現象との混同であります。

現代医学で論議されている“死”とは肉体の機能の全体的停止である“死”を判定するのに<脳機能の停止>の時とするのか、<心臓活動の機能停止>の時とするのか、と云う問題であります。

生長の家では(=宗教では)脳死・心臓死のいずれをも認めない。しからば生長の家では(=宗教では)何を以って“肉体人間(現象生命)の死”とするのか? 此の答えをマサノブ君は提示していない。正確な宗教上の答えを出さないで、一足飛びに實相人間は不死であります。と云う。


開祖・谷口雅春先生はその御著書の中で、肉体人間の死について心霊学上から明確に説いて頂いております。即ち、肉体人間が死ぬ時には、霊魂が肉体から抜け出し霊魂と肉体とを繋いでいる“霊線”(霊視可能)が完全に切れて、霊魂が肉体に再び帰還できる可能性がゼロになった時が“肉体人間の死”であるのであります。

そして、肉体を離れた本当の自分である霊魂は、無限の實相顕現を目指して次なる霊魂進化の世界へと進んでゆくのであります。

マサノブ君は宗教者としての此の部分の大切な説明を落としているのであります。




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[1251] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (5)
遮那王 - 2015年11月25日 (水) 14時20分



● 天皇・皇后両陛下は「伝統墨守」のお考えではない?!

(「小閑雑感」平成21年4月10日)


<<天皇・皇后両陛下は「伝統墨守」のお考えではないことを、我々はしっかり理解しておこう。>>



(講評)

マサノブ君は、“天皇・皇后両陛下は「伝統墨守」のお考えではない”から、男系男子天皇による皇位継承という歴史伝統に対しても両陛下は必ずしも「伝統墨守」のお考えはなく「女系天皇」も容認されていると“しっかり”という言葉を添えて自分の「女系天皇容認論」に百万の味方を得たかのごとく強調して利用しているのであります

マサノブ君は、此処に於いても自身の思考力の浅はかさを露呈したのであります。マサノブ君の見落としている三つの重要な点があります。

その一つは、天皇陛下はおん自らは宮中の祭祀行事等についてしっかりと伝統を墨守されておられるということ

二つ目は、両陛下がお言葉を発せられるときには、常に御謙虚に無私の心で発言されておられるということ。

そして三番目には、「伝統」にも色々あって、實相の真理が顕われている伝統と現象の歴史の中で人・時・処の三相応に応じて一定期間現われてきた慣習的伝統とがあるということであります。

開祖・谷口雅春先生の御著書をしっかり読めば、男系男子天皇の皇位継承という伝統は實相(真理)に根ざした伝統であることが判るのであります。

マサノブ君は、日本の天皇制は国家主義・民族主義の温床であり、世界平和のためには将来的には失くすべきものと考えていると読み取れるのであります。

だから、陛下の御発言を一方的・断定的に・自己の持つ左翼価値観から出来得る限り自己に有利なように解釈してしまうのであります。




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[1258] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (6)
遮那王 - 2015年11月26日 (木) 07時18分


<注目・この傲慢!> 

ーーー 滅びへの道をマッシグラのマサノブ君!!



● 『わたしの立場は“仰ぎ見られる”立場である!』

(生長の家代表者会議・平成20年2月29日)

<<代表者会議というのは以前は運動方針を「決定する」場でしたけれど、今は「すでに決まった運動方針を理解していただく」・・・内規に一つである「生長の家代表者会議開催要領」によりますと・・・私の立場は・・・規則の第四条・・・代表者会議は総裁・副総裁の出席を仰ぎ助言を受ける・・・私の助言を採用するかどうかは別のところで決める・・・>>



(講評)


上記の内容を判りやすく表現しますと、ーーー

<< この代表者会議は決定権を持つ会議ではなく、私の主宰する上部会議で決定した事を伝達し受け容れて頂く性質の会議に性格変更を致しました。

それに伴い私は、今まで勤めていた代表者会議の議長を参議長に委任して、今後は“臨席を乞われ仰がれる立場”となりました。

そして必要な時には助言もしますが、その助言は後日に私の方針として決定し通知します。

皆さんはその効果ある実行内容を素直に受け入れ、そのまま実施して下さい。>>

ーーー は、“傲慢は滅びに先立ち、謙遜は栄誉に先立つ”(三千年前のソロモン王の言葉)の一言に尽きます。




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[1274] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (7)
遮那王 - 2015年11月27日 (金) 07時17分



● ウソをつかない生き方を実践しよう!

(建国記念祝賀式典・平成20年2月11日)

<<簡単に云えば「ウソをつかない」という倫理が廃れているのが現代日本ではないでしょうか・・・日本建国の神話の中には、「正直に還り、神意に随って事をなすべし」という教えが説かれていることは明白です。・・・ウソをつかない生き方を実践していきたい。ウソのない運動を展開して参りましょう>>



(講評)

(1)法灯継承に関するウソ?

『歴史から何を学ぶか』P178−179によればマサノブ君への法灯継承は第二代目・谷口清超先生の公式免授を受け、生長の家教規第十条の規定に従って副総裁就任時に法灯を継承し、公表されていると書かれています。しかし、事実としては、清超先生による免授完了の公式発表も無く、教規にも法灯継承に関する規定はどこにもなく、副総裁就任時および以降に於いても清超先生による現・雅宣(自称)総裁への法灯継承の公式発表は、遂になかったのであります。マサノブ君は教規に書いてあると確言していながら「私も完全な自身があったわけではないので、清超先生のところへ確認しに行った。」と矛盾した経緯(いきさつ)を書いています。

以上からハッキリと判る事は
第二代目・谷口清超先生から三代目・マサノブ君への公式の法灯継承はなかった。すべてマサノブ君自身による自作自演即ち“ウソ”であり、三代目・マサノブ君は総裁ではあるが正式な法灯継承者ではない、ということになります。


(2)講習会参加者人数発表のウソ?!

 マサノブ君が、かつて「小(大)閑雑感」で発表し、「聖使命」新聞で発表されている講習会参加人数、「唐松(枯れ松)模様」や「著名人???総裁フェースブック」で発表の人数は、見かけだけの作られたウソの数字であります。


(3)「森のオフィス」に関するウソ

“自然との共生”と“自然から奪わない生活”という運動方針をマサノブ君は発案し、鳴りもの入りで計画を遂行したが、「森のオフィス」は高級リゾート地に建設され、近代建築技術と現代科学文明の成果をお金に糸目もつけず利用した建て物であります。

“自然との共生”と言っても自給自足の原始生活に後戻りをするという意味ではないとマサノブ君は説明する。“自然から奪わない”と言っても、結局は<自分の手は汚さず他人には手を汚す役をしてもらう>という事であります。要するに、お金持ちの高級リゾート地での生活というだけのこと、当初のイメージとはかけ離れたウソといえないでしょうか?


(4)「ノーミート」運動のウソ

教団挙げての「ノーミート」運動の実施を進めていながら、マサノブ君誕生パーティーでは、豪華な鶏の丸焼き(ローストチキン)料理をパクツイテいた?事実が判明! これが独裁専制教主・マサノブ君のウラの顔であったのである。もはや、総裁の権威は何処にもなくなった。辞職あるのみ!!




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[1291] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (8)
遮那王 - 2015年11月28日 (土) 08時47分




● 日本神話は一種の文学作品?(建国記念祝賀式典・平成20年2月11日)

<<“建国の精神”とか“建国の理想”というものは・・・日本のように“神話”という一種の文学作品に物語の形で描かれている場合は、解釈の違い・・・色々な意見が出ている。>>



(講評)

「古事記」・「日本書紀」という日本の神話は、文学的才能に勝れたある古代人が、大和朝廷の権威付けのために、その肉体頭脳知で想像力を働かせて書き上げた今日でいう一種の文学作品などではない。従って、三代目・雅宣総裁の神話解説は点数をつければゼロ点に近い。自称でも法灯継承者でありながら開祖・谷口雅春先生の御著書を読んでいない事がよく判るのであります。

神話とは何か。『古事記と現代の預言』(現在は絶版)には次の様に書かれております。

@ 古事記や日本書紀にあらはれたる日本建国の神話は、単に一個の人間の創作ではない。
それは、民族神話である。

A 古代の日本民族が、いつの間にか、そのような神話を想像力によって創作して代々伝承して来たのであった。

B 天地開闢の時の記録と言うものは、人間が見ておってその状態を書いたものではない。
それは、直感(存在の実相をそのものズバリと直接認識する)によったのである。  
 
C 文書以前に出発し、やがて「古事記」や「日本書紀」によって伝承されたる日本民族の神話が日本建国となり、そこに独自の日本文化を形成し日本独特の天皇中心国家を形成して今日に至ったのである。

D 「天皇国日本」は、日本民族が創作した世界最大の文化的創作であってこれ以上大なる大芸術は他のどこにもない。

E 「古事記」には、<一即多・多即一>の真理が象徴的に書かれており、従って「古事記」は古代日本民族が自覚した<天地創造の原理>と<結びの哲学>が書かれているので尊いのであります。




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[1302] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (9)
遮那王 - 2015年11月29日 (日) 10時51分




● この師にしてこの弟子あり!(阿吽の呼吸!?)



師曰く

<< わたしの立場は、臨席を乞われ“仰ぎ見られる”立場である! >>
(生長の家代表者会議・平成20年2月29日)



弟子曰く(かつては開祖・谷口雅春先生の高弟・本部講師・教化部長)

<< 壇上に生長の家総裁谷口雅宣先生・生長の家白鳩会総裁谷口純子先生お立ち遊ばされ、全身より黄金色燦然たる霊光を放ち給い、住吉の大神の御出御となり、その金口より真理の大獅子吼はじまる! >>



(講評)

今は昔、嘗ての宗教界の大学院の御教えも、遂にカルト宗教になり下がりしか!開祖・谷口雅春先生の講習会は満杯で壇上まで聴講の人あふれ、中途退場者も少なかりしが、今は遅刻者も多くお弁当を食べるとゾロゾロと帰り始める。これ一重に“真理の大獅子吼”に非ず、世間常識を欠くボンボン大学教授の教養的ワカリヤスキ机上空論のヘリクツ講義内容なるが故なり。



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[1325] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (10)
遮那王 - 2015年11月30日 (月) 07時10分




● “迷い”は自由から来る!?

(『小閑雑感』・平成19年7月21−29日)



<<迷いは自由から来ている。自由の裏側に迷いがある。現実世界に善を実現するために自由が与えられている。迷いと云う経験を通して自由を行使する中で現象に善悪を実現する。そのために迷いがある。以上をまとめると、「迷いは欲望追求のために自由を行使しようするところから来る」。(大要)>>



(講評)

マサノブ君は「確かに聖経・『甘露の法雨』には<無明(まよい)は、あらざるものをありと想像するが故に無明(まよい)なり>と書いている。開祖・谷口雅春先生は『迷いは、何処からもきませんよ、本来、無いんだからね!』と説かれたが、そんな難しい悟りの話をしても現代人には解からない。だから、食堂のメニューの選択に思案する場面で説明して“迷いは選択の自由から来る”と説いた方が現代人には解かりやすい」という。

併し、三代目・雅宣総裁のこの学者的説明では誰も自分の持つ迷いからは救われないのであります。

開祖・谷口雅春先生の『無明(まよい)本来なし!』の実相直視の一喝で迷いが消え、病気が消え、境遇が良くなり、問題が解決した人々が実に多いのであります。

教養と悟りとは比例しない。反比例のケースの場合の方が多いのであります。

マサノブ君の説法?は“学者と金持ちが先”で“無学者と貧乏人は後回し”(天理教組とは逆)であります。故に、悟りの世界に於ける評価は完全に落第点!!




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[1336] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (11)
遮那王 - 2015年12月01日 (火) 10時39分




● 肉体は“炎”、川とは“水の流れ”?


(『小閑雑感』・平成19年11月4−5日)


<<(要約)“炎”とは?――肉眼に見える「炎」は、確固不動の塊ではない。その実態は可燃性の物質分子が高速度で酸化反応を起こして行く「流れ」であって、ある温度以上に達した化学反応部分がそれ以下の温度空間と区別され、人間の肉眼に「光」として認識されるのである。この化学反応は、次の段階では「無」に帰して無くなる。この一連のプロセスが高速度に繰り返えされている。プロセスの行き先は「無の世界」である。つまり、物質的な炎という塊はなく、在るのは高速度の化学反応現象だけである。 “川”とは?――「川」という物質が存在するのではなく、存在するものは常に一方から下方へと流れて行っている一定量以上の水だけで、この水の流れを人間は川と呼んでいる。つまり、「川」とは水の流れの一つの呼称に過ぎない。 “肉体”とは?――「肉体」という実体はない。在るのは肉体を構成している物質分子の新陳代謝現象、つまり、物質分子の高速度の入れ替え現象を人間は肉体と呼んでいるに過ぎない。食物が消化酵素によって分解され吸収され肉体細胞となったり生命現象エネルギーに変化して行く。この高速度のプロセスが人生という一定の期間繰り返され、やがてプロセスの繰り返しが遮断される。これが生命現象の終わり、つまり肉体人間の死である。肉体は物質分子の流れの一つの「呼称」にすぎないのであって、「肉体」という実体はない。すなわち「肉体はナイ」のである。>>



(講評)

マサノブ君は此処で説明を終わってしまっている。科学分析面からの内容はその通りであるが、宗教的には全く不完全そのものの解説であって、小乗の空仏教の解説であると共に虚無の哲学であり、人間は「無」になる為、「無の世界」へ消えて行くのみ、と云うことになり、人生無意義となってしまうのであります。<引き寄せて、結べば柴の庵なり。解くれば、元の薪なりけり>(空仏教の教歌)。

マサノブ君は、この空仏教の教えを博学と自負する唯物科学の知識を披露して長々とムツカシク説明しているに過ぎないのであります。

 開祖・谷口雅春先生の「生命の實相哲学」は、「虚無の厭世哲学」ではないのであります。「肉体は無い」・「物質は無い」と云う教えは、「実相(理念)が在る」、「実相(理念)のみ独在」を最大限に肯定し明らかにするためにのみ必要なのであります。大肯定の前提としての大否定であり、大肯定を示さずして大否定だけで終わっては光明思想ではありません。(日時計主義ではありません。)

 変化無常の現象の流れの姿の奥に、その現象を顕している「理念」がある。「實相」がある。これが開祖・谷口雅春先生が説かれた本来の御教えの根本であります。

現象としての炎・川・肉体の奥に、「理念の炎」・「理念の川」・「理念の人間」が厳然として確固・不動・常住に“実在”している。実相世界に実在している此の理念が、一定の環境と条件が整った時、すなわち、因縁が熟した時に現象化してくる。そして、目的と使命を終えれば現象は消えて無くなる。しかし、理念(実相)は久遠不滅であるから無くならず、環境・条件がまた整うと「理念(実相)」は現象化して来る。故に、神様(創造神)の自己実現としての個生命(霊魂としての人間)は、仮存在としての本来ナイ肉体を乗馬として地上に生まれ出て来て、無限価値の創造と問題の解決という人生努力(修行)を積み重ねて霊魂進化(実相顕現)の無限の階梯を着実に登っていく。聖経・『甘露の法雨』にある<物質の奥に肉体の奥に霊妙きわまりなき。存在あり。・・・汝自身の生命の實相を自覚せよ>!!

 どうしてマサノブ君はこの様な生長の家の御教えの真骨頂を説かず、空仏教の世界の説明だけで終らせて居るのでありましょうか? 察するにマサノブ君は「理念」という言葉の霊的意味が判らないからでありましょう!

開祖・谷口雅春先生の御著書を肉体頭脳知による『今の教え』に活用する目的でのみ拾い読みするだけで深く霊読していないからであると思わざるを得ないのであります。



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[1352] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (12)
遮那王 - 2015年12月02日 (水) 07時36分




● 地震は自然現象のひとつ?

(『小閑雑感』・平成20年2月13日)


<<日本列島では地震が起こるのは、地質学上では「当たり前」で「自然なこと」である。それなのに「起こらない」>と考えている人間が「災い」と呼ぶ。<地震は来ない>と考えて耐震設計をしない事は「人災」で、ある場所へ「危険」を承知で行くのも「人災」を求めている。>>



(講評)

これは、講習会での質問に対する回答でありますが、マサノブ君は、地震は自然現象というがその自然現象がなぜ起き、そしてその地震に出会う人と出遭わない人、さらに地震にであっても被害を受ける人と被害を全く受けない人とそうでない人の違いについて、形而上的検地から宗教家として明確に答えねばならないのにそれが出来ていないのであります。と同時に心の方面からの対処法を示さなければならないのにそれも出来ず、評論家然とした見方しか示していないのであります。


 明確な回答は、『生命の實相』第一巻・第4章「心の世界に於ける運命の形成」にあります。要点のみを抜粋いたしますと、――

・ すべての事件は、<物質の世界>に現れてくる以前に<念の世界>で出来上がるのでありまして、<念の世界>で出来た通りが<物質世界>に映って来るのであります。

・<念の世界>で出来上がる事件も、宇宙に満ちている色々の生物の心の働きの組み合わせに従って時々刻々に作られて行くのであります。大きなあらすじの事件は、多くの「念」の働きを成立要素として細かい事件よりも早く多数の「念」の多数決で決まって行く。

・<念の世界>にまだ事件があるうちに修正しておいたら災難が災難にならないで<物質世界>に現れてくる。

. 多くの人々の「念の総合的力」で強く決まってしまった事件・災難は、我々がその反対の思念をしても、その事件を起こらなくならせる事は出来ないが、その災難に引きつけられない健全な信念を持っていれば、「類でないものは、反発する」という心の法則によってその災難の渦の外へ放り出される。

(マサノブ君は自ら宗教家と称しておりますが、生来の資質として霊的思考が出来ない人であるとしか思われません。信徒にとっては誠に不幸なことであります。)




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[1382] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (13)
遮那王 - 2015年12月03日 (木) 07時29分



● 神想観「如意宝珠観」は現象観ですか?

(『聖使命』新聞・平成21年1月1日号)


<<「如意宝受珠観」を何十年ずっと行って来たのです。・・・このお祈りの言葉をよく考えてみますと「身健やかに」という事は肉体のことですし、「相形美しく」というのも肉体のことです。だから、この言葉はふさわしくないと云う事にきがつきました。・・・このお祭りを区切りにして唱える言葉を工夫したいと思います。>>



(講評)

もはや何おか云わんや!であります。マサノブ君は(自称)法灯継承者でありながら、自分自身の何十年(?)続けてきた神想観が「實相観」ではなく「現象観」であったことを信徒の前に披露したのであります。神想観に関する最も基礎的なことすらも理解しておらなかったのであります。

 神想観を実修する時の最も大切な事柄は「吾れ、今、五官の世界を去って實相の世界に入る。」であります。つまり不完全な物質・肉体ありと肉眼に映じていた現象世界を「無し」と観じて「無の関門」を透過して、完全円満・至美至妙なる實相世界に入ってなすのであります。實相の我れが只々、實相を観ずるのであり、肉体の我れが観ずるのではありません。

したがって、「身健やかに」の「身」は「實相身」そのものであり、「相形美しく」も現象世界の相形の無限相倍にも美しい完全円満・至美至妙なる實相世界の實相身のありさまを讃えているのであります。故に、唱える言葉の工夫(修正)など少しも必要ではないのであります。マサノブ君は最高位の指導者として『詳説・神想観』を果たして精読しているのでしょうか?




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[1393] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (14)
遮那王 - 2015年12月04日 (金) 09時18分





● 本部会館玄関上の御神像は、偶像崇拝!?


(『小閑雑感』・平成20年11月25日)



<<この神像は生長の家大神そのものではなく、ひとつのイメージ「象徴」・「表現」であって、はっきり言えばこの神像は人間の創作である。・・・「神姿」や「神像」や「聖者」を具体的な形に表現することは、危険を伴う。・・・イスラムでは、神を具体的な形に表現してはならない事になっている。これは思慮深い方針である。特に生長の家は「万教帰一」を教義の中心に据える宗教であるから、生長の家の大神の姿は具体的には表現しない。神は一つの像の中に押し込められるものではない。・・・しかし、人間の創作は自由である。ゆえに本部会館上の神像は、作者の表現物つまり心の作品に過ぎない。>>



(講評)


マサノブ君は本部会館玄関上の御神像は熱心な信徒・服部仁郎氏の心の中の個人的イメージを具体的な彫刻像として作られたもので、信徒がこれを敬虔な気持で拝むのは偶像崇拝であり間違いである。と云う。マサノブ君のこの見解も開祖・谷口雅春先生の御著書を真剣な心をもって読んでいない事を物語るものであります。

『万教帰一の神示』(昭和6年4月5日)、『生長の家四十年史』P18−19、『生命の實相』第二巻・實相篇下巻P.135−137、に御神像の事が書かれています。決して偶像崇拝ではないことが判ります。逆に、これらの御本を読んだ上でも尚、マサノブ君がこの御神像を偶像崇拝として忌み嫌うのは、開祖・谷口雅春先生から幼少時に厳しく叱責された潜在意識内の怨恨感情の然らしめるものでありましょう。マサノブ君に大いなる反省を求めるものであります。




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[1414] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (15)
遮那王 - 2015年12月05日 (土) 11時38分



● 真理の“目玉焼き論”と絶版問題

(『信仰による平和の道』P.112)


<<生長の家は宗教であり、政治思想やイデオロギーではないので、“焚書坑儒”みたいなことはしません。・・・変化の時代には、まず一貫して変わらない真理の“中心部分”を、つまり基本的な教義を、人々にしっかりと伝えることが最も重要である。時代の流れに応じて説かれる教義の“周縁部分”は変化して行くのです。そういう訳で今日、この周縁部分に関する出版物があまり出なくなっていると理解していただくと宜しいと思います>>

(註・“真理の目玉焼き論”とは、真理には“中心部分”(黄味)と“周縁部分”(白味)があると云うマサノブ君の見解を云う。)



(講評)

*『真理』を“中心部分”(黄味)と“周縁部分”(白味)に分別することは、一見合理的な説明に見えるが、それは逆に『真理』というものを霊的に正しく理解していない者のすることで、肉体頭脳知による分析だけである。

*『真理』は普遍にして不変そして一つである。『真理』は“一即多”に展開しており、同時に“多即一”に収斂している。

*『真理』の實相は「無の門関」を超え、絶対実在を絶対認識した者でしか会得できない。

*『真理』の實相は肉体頭脳知による分析では判らず、却って『真理』の霊的理解から遠ざかる。マサノブ君はこの過ちを敢えて犯しているのである。

*“真理の目玉焼き論”は、時代即応を旗印とする“今の教え”を正当化し、開祖・谷口雅春先生の御著書を絶版化してゆくための合理的詭弁である。絶版本の内容が、日本国實相顕現と教団史の分野に集中していることで証明されている。

*民主党政権と同じく、<“焚書坑儒”をせず>という“表のマニフェスト”を掲げながら、“裏のマニフェスト”として左翼側から見てどうしても葬り去りたい開祖・谷口雅春先生の書籍を“周縁部分の真理で現代には不必要”として<“焚書坑儒”の強行>をなしているのがマサノブ君の現在の姿であります。



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[1427] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (16)
遮那王 - 2015年12月06日 (日) 09時24分



●  生長の家=開祖・谷口雅春先生ではない!?

(『小閑雑感』平成16年8月12日)


<<谷口雅春先生の著作を深く研究すればするほど見えてくるものは、<谷口雅春>という歴史上稀有な人物の人となりが分かるのであって、<生長の家>が見えてくるのではありません。生長の家=谷口雅春という安易な方程式は、雅春先生ご自身が否定しておられるのを忘れないでください。>>



(講評)

マサノブ君は<谷口雅春先生の著作を深く研究>、と書かれています。信仰とは、<信じて、実行すること>であって<研究する>ことではないのであります。研究だけして実行・実践しない人は信徒とは云えないのであります。研究する人は教団を辞して外部で学者として、評論家として独立すべきであります。

<歴史上稀有な人物のひととなり>が判ったからと云って、それで自己の悟り(霊的境涯)のレベルが上がるわけでもありません。自己の当面している深刻な人生問題が解決出来る訳でもありません。

開祖・谷口雅春先生が<自分は教組ではない。一人の求道者だ。神界から降ろされる神示の取次ぎ者であり、神様のラッパである。>と自らを謙遜しておられたのを、逆利用して<生長の家=谷口雅春という安易な方程式は、雅春先生ご自身が否定しておられるのを忘れないでください。>と傲慢・不遜にも開祖否定へ持って行っているのであります。

マサノブ君の次のような発言の話もあります。ブラジル青年大会の時の発言と聞いております。曰く、―――
「谷口雅春は僕の祖父でありますが、彼は彼なりの説き方をされたが、やはり<神>ではないので、(僕は)各所にその欠点を見出し、それを訂正したり廃刊にした書物もあります。私は私なりに現代人を<救済する義務>があるので不要なものは処理したのです。」と。

 二千年前にイエス・キリストが語られた言葉 <<「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの(サタンの働きによる)『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)そのときは、ユダヤに居る人々は山へ逃げなさい」(『マタイ福音書』24・15・16)>>(註・この言葉の部分は、或る聖書研究家の著書より引用)が、現代生長の家教団・三代目・マサノブ君にそのまま重なって視えてくるのであります。将に、開祖・谷口雅春先生の御教えを換骨奪胎したマサノブ君は失礼ながら(サタンの働きによる)『荒らす憎むべき者』であり、<聖なる所に立つ>とは、法灯継承・総裁就任そして“森の中のオフィス”の総裁室に座ることを表し、<山へ逃げなさい>とは、日本の国の為にならなくなった生長の家教団は一時的に潰(つぶ)れても良いから脱退しなさいとの開祖・谷口雅春先生の御命令とも置き換えられるのであります。



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[1437] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (17)
遮那王 - 2015年12月07日 (月) 07時43分


 

● 妃殿下の犠牲のもとに日本の皇室は存在する!?(普及月刊誌『白鳩』平成16年12月号)


<<男子出産―――たった一人、次の世代の男の子が皇室に誕生されたからと云って、お世継ぎ問題は何も解決していない。・・・・皇室に嫁いだ女性は、男の子を産まなくてはならないプレッシャーに苦しむ。・・・皇室に嫁ごうとは思わないだろう。・・・妃殿下の犠牲のもとに日本の皇室は存在する・・・>>



(講評)

この文章の筆者はジュンコ君であります。『歴史から何を学ぶか』P.299に於いて「それまではどちらかといえば、私は日本だけが素晴らしい国で、「私は、日本人は特別に高級な人種だというような、人種差別的な考え方をしていました。そのような考えを持っていて『人類光明化運動』などできるはずがないのですが、そんな簡単なことがそれまではよくわかりませんでした。」と、自身のの青年時代を振り返って書いているのであります。ジュンコ君が老境になられたとき「その頃は、私は<妃殿下の犠牲のもとに日本の皇室は存在する>という当時のジェンダーフリー論者と同じ考え方をしていました。そのような考え方をもっていて「歴史上最高の開祖・谷口雅春先生の御教えを正しく伝える第三代目・白鳩会総裁の職責を果たす」お役目など出来る筈がないのですが、そんな簡単なことが当時はまだまだ未熟であったため、よくわかりませんでした。」と、はたして言うでしょうか?

当時、ジュンコ君のこの文章を読んだある教区の白鳩会連合会長が、怒り心頭に達して、スグに教化部長のところへ行き、机の上にこの白鳩誌を叩きつけ、本部へ訂正を求められましたが、結局のところ有耶無耶に済まされ、現在でもジュンコ・マサノブの考え方は<皇室の歴史は女性の犠牲の上に成り立っている。これが天皇制の内幕だ! 皇室典範も女系天皇制導入に改め、男女機会均等の時代の趨勢に従い、女性の権利も皇室に於いても広く認められるべき!>という公式見解は変更してはいないのであります。この考え方は、開祖・谷口雅春先生の『御教え』に真っ向から反対するものであり、「総裁更迭」を我々信徒の力を結集しては成し遂げねばならないのであります。  




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[1450] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (18)
遮那王 - 2015年12月08日 (火) 08時45分



● 愛国は美しいがその先にあるのは“殺し合いの世界”!?

(普及月刊誌『理想世界』平成19年8月号)

<< 戦争という特殊な状況で、命を懸けて国や人々を守ろうとする生き方は一見“美しく”思えるかもしれないが、その先にあるのは殺し合いの世界なのだ>>



(講評)

 これもジュンコ君の書いたものであります。
この様な、特攻隊の文章を書くときには、映画監督や主演女優の思いを紹介することも必要ですが、それ以上に<特攻の母>といわれた「鳥浜とめ」さんの言葉を紹介することを忘れてはなりません。なにしろ、隊員の傍で、夫々の人柄に接し、肌で感じてきた人ですから、その語られた言葉は正鵠を射ており、映画監督や主演女優以上の真実性があるのです。

「特攻隊で行かれた方は、将にこの時代に生まれて来ることを分かって生まれて来て、すべてを投げ打って日本の国の為に捧げて、将に神さまだった。だから優しかった。伝え方を間違えずに、あの子達のことを伝えて行かなくてはいけない。」

       < ちるために 咲いてくれたか 桜花 
                散るほど ものの 見事なりけり >

と、詠み観音像を知覧平和公園にある記念館に建立されたのであります。


 鳥浜とめさんの言葉の中で非常に大切なところは、

 ・ まさにこの時代に生まれて来ることを分かって生まれて
 ・ まさに神さまだった
 ・ 伝え方を間違えずに、あの子達のことを伝えて行かなくてはいけない

という部分であり、この部分は将に『実相直視』の言葉であり、特攻の英霊の人達も鳥浜とめさんもいづれも高級霊の方々であったと拝察されるのであります。

< 『伝え方を間違えずに、あの子達のことを伝えて行かなくてはいけない』 >

この千金の重さのある言葉は、特に社会的影響力の大きな立場にある人々、即ちマサノブ君、ジュンコ君は申すまでもなく、マスコミを始めとする各種のメディア、映画やドラマの製作者、歴史作家および各界の指導的立場にある人達は、常に心がけねばならない事であります。その為には、本当の<実相の叡智>が必要とされるのであります。個人的な浅はかな形而下的唯物的価値観を基準にして伝えてはならないのであります。




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[1501] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (19)
遮那王 - 2015年12月19日 (土) 09時56分




● 大東亜戦争は日本が起こした侵略戦争だった!?(『理想世界』平成4年3月号・『信仰による平和の道』)

<<・生長の家としては、日本で「大東亜戦争」と呼んでいた戦争を<正しい戦争>とは考えていないのであります。(「信仰による平和の道」P.204)

・大東亜戦争は<迷い>であると自覚されたならば、あれは誤りであった・間違いであったと否定する(明らかに<侵略>であったと肯定する意)ことに躊躇してはならない。(「理想世界誌」・平成4年3月号)

・大東亜戦争がその悲惨極まりない人間同士の極限的争いの過程で「人間同士が殺し合う事は、如何なる理由によっても正しくない」と教えてくれたからと言っても、それは神が大東亜戦争を起こして人類にその事を教え給うたのではない。人間の自らの<迷い>が引き起こした愚かなる行為を、人間の中にある神性・仏性が「偽りなり、偽りなり」と否定しているのである。(「理想世界誌」・平成4年3月号)>>



(講評)


<大東亜戦争は日本が起こした侵略戦争であってアメリカ(連合国)がこれを阻止して打ち破った。>これがマサノブ君の説く「今の教え」であります。


しかし、戦争には正しい戦争とか正しくない戦争とか考えるのはおかしのであります。開祖・谷口雅春先生は、次のように説かれていることを私達は心に銘記すべきであります。―――

* 第二次世界大戦において、多くの自己処罰も行われたが、多くは滅私奉公の尊い犠牲精神で神去りまして、高級天体へ移行した夥しい霊魂もあるのである。戦争はこうして人為と摂理と両方から起こるのであるから、人間がいくら努力して警戒して平和論を唱えても無くなるものではないのである。大東亜戦争は一方においては、<高級霊>が最後の滅私奉公の行動を通して、急激に霊魂の地上進化の最後の過程を終えて高級天体に移住する契機をつくったのである。(「神・真理を告げ給う」P.64−65)


* 戦争は、一人一人の自己処罰では足りない集団的自己処罰として起こる場合と、高級霊が「自己」を滅して「公」に殉ずるところの自己犠牲の行為を通して普通の生活状態では到底達し得ない急速度の霊魂の浄化を得んがために起こる場合があるが、たいていはその二つの原因が重複して起こるのである。従って、戦争には<低い霊魂>が互いに処罰し合う残虐な悲惨な所業が各地で行われるのであるが、また他方には、純潔な<高級霊>が理想のために「公」のために自己を犠牲にして「私」を顧みない崇高な精神の発露が行われるのである。前者の残虐な悲惨な面だけを説く人もあるが、高級崇高な自己犠牲を行う<場>として戦場が選ばれたということを看過ごすのは片手落ちである。(「神・真理を告げ給う」)


*日本の国難を救わんとして献身を行った特攻隊その他の兵士達をすべて侵略に協力した者として攻撃する人もあるけれども、<結果>ばかりによって論ずべきではない。一粒の麦となって同胞愛のために生命を捨てんと挺身した兵士達をば十字架にかかったキリストのように傷ましくも仰ぎ見るのである。(「新生の書」)

*開祖・谷口雅春先生は「古事記と日本国の世界的使命」において・・・・

「歴史というものは一体何であるかといいますと、現象世界に実相が如何に投影し表現されて来るかという事のその現れ方、即ち実相が現れる場合の作用・反作用という風なものを追うて並べてゆくことによって、その民族に如何ように実相が現れ、実相が現れんとするに当たって、如何に反作用を起こし自壊作用を起こしたかを知り、それをずっと時間内に貫いて観て、そこに実相が如何なる相を以って現れるかを知る事によって大宇宙における日本国の位置およびその将来性を知り、現在自分が国家構成の一員として及び個人として如何に生くべきか、将来この世界は如何に発展して行くべきものであるかと言うことをはっきりさせるためのものが歴史の研究であります。」(『古事記と日本国の世界的使命』P4−5)


とにかく、マサノブ君は開祖・谷口雅春先生の御著書を読んでいない。読んでも自分の価値観に合わないところは絶対に採り上げないのであります。このことは信徒に本来の開祖・谷口雅春先生の正しい御教えを伝えないと云う事になるのであります。しかし、それがマサノブ君の元々の目的なのであります。マサノブ君は<後世の者が後世の価値観で以って過去の歴史を一方的に批判するのは誤り。実相顕現の課程として観、其処から将来への学びをすること>と云う事、および<霊的方面の事が判らないこと>、故に、現象的な左翼的な上っ面な考察の狭い範囲でしか思考できないのであります。




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[1513] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (20)
遮那王 - 2015年12月20日 (日) 08時49分




● 精神病(統合失調症)は、薬でなおる?(平成16年11月和歌山県講習会)


<<憑依現象とは、正確な科学的用語では統合失調症つまり神経症の一種であって、以前は精神分裂病と言っておりました。自分には色々な自分がある。それを一つの自己が統合している。この機能がうまく行かなくなる人が多い。こういう人は自分の声を他人の声として聞くのであります。この統合失調症は薬で治るのです。憑依霊なんて誰も判らない。中絶児のある家庭ではこの統合失調症が出る場合があります。宇治別格本山では、中絶児供養をしておりますが、効果のある場合もあるがすべてのケースで中絶児供養が効果があるかどうかは判らないのです。中絶児供養は、一部の対策にはなるが根本対策にはならないのです。>>


(講評)

精神分裂病や癲癇(てんかん)、これらは現代では総括して“統合失調症”と云っておりますが、その正確な根本原因は現代医学では不明であります。精神分裂病や癲癇は一人の肉体を複数の霊魂が占有して起こる肉体の症状であります。薬では治りません。非常に強力な薬を飲ませるために、患者は脱力してグッタリとなり外見上は薬が効いて治ったように見えるだけなのであります。

不登校や引きこもりの場合には、中絶児供養は根本的に必要な事柄であります。マサノブ君は宗教家と称しながら、霊的な方面のことには完全に無知であり、関心を持たず、理解しようとすらしません。霊のことが判らずして宗教家とは称せないのであります。

マサノブ君には霊的理解力が生来的に欠落しており、失礼ながら今生での回復はとうてい無理だと考えられるのであります。そして、ますます「生長の家」解体に向かって驀進していく姿は、マサノブ君自身が重度の「統合失調症」に罹っている、つまり分かり易く表現すれば、マサノブ君は完全な精神分裂症なのであります。






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[1522] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (21)
遮那王 - 2015年12月21日 (月) 07時19分




● 教典・聖典は“理性”を働かせて読むべし!?

(普及月刊誌『理想世界』平成21年2月号)


<<教典・聖典の言葉の“奥”あるいは“背後”にある意味を“理性”を働かせて読み取らなくてはならない。これが「教典・聖典を解釈する」ということである。>>



(講評)

マサノブ&ジュンコ君は、二人共に「理性」と云う言葉を多用しておりますが、一向に「理性」とは?についての説明がありません。人によって理解している内容が色々違います。ある人は“現代科学の合理性”を理性とし、ある人は“深い教養”を理性だと思い、又“深き叡智”を理性という言葉で表現している人もいます。

<教典・聖典の言葉の“奥”あるいは“背後”にある意味>を解釈する場合の“理性”なるものは、特に“深き霊的叡智”すなわち「絶対実在の絶対認識」の境涯に達した人の“悟り”のことを意味しており、この超ハイレベルの“悟り”の鍵でのみ<言葉の“奥”あるいは“背後”にある真実の意味>が判るのであります。

開祖・谷口雅春先生は「霊感で以って書かれたもの(特に宗教の教典・聖典)は、霊感で以ってのみ能(よ)く解釈し得る」と説かれています。

マサノブ&ジュンコ君ともに未だ『無の関門』を超えてはおらないのですから、ハイレベルの正しい霊的解釈は不可能であります。従って、開祖・谷口雅春先生が深き霊感で書かれた御著書をそのまま信仰する信徒たちを“原理主義者”として排斥するのは傲慢・不遜な態度そのものであります。強き反省を望むものであります。



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[1533] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (22)
遮那王 - 2015年12月22日 (火) 08時50分




● 大東亜戦争か? 太平洋戦争か? 

(『信仰による平和の道』P.204)

<<生長の家としては、日本で「大東亜戦争」と呼んでいた戦争を<正しい戦争>とは考えていない。>>



(講評)

「大東亜戦争」と<呼んでいた>のではなく当時の日本政府の正式決定呼称であり、戦後の「太平洋戦争」という呼称は占領軍層司令部(GHQ)による日本弱体化の言論統制による強制使用が今日の一般呼称となったものであります。日本国民としてはこの事は是非知っておかねばなりません。これは極めて重要な事であります。マサノブ君の本心は“太平洋戦争”の方が適切な呼称であると思っているのであります。その訳は、日本=侵略国=悪、連合国=日本の侵略を阻止=善、そして“大東亜戦争”=人種平等・欧米植民地解放戦争と云うイメージを与える事になってしまうからであります。<・・・と、呼んでいた・・・>という第三者的評論家の言葉使いにそれが表れているのであります。これもマサノブ君の巧みな自虐史観的ジパノフォビア(日本を貶め、蔑む似非日本人)の証拠であります。



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[1543] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (23)
遮那王 - 2015年12月23日 (水) 06時59分




● 「天壌無窮の御神勅」は、“王権神授説”である。
従って、天皇は国民に対し“支配権”をもつ!? 

(『小閑雑感』平成22年2月11日)


<<日本では記紀に書かれた日をそのまま「建国の日」ではなく「建国記念の日」として祝う・・・これは極めて合理的なのであります。・・・「王権神授説」これと同じ考えが、日本の建国神話の中には埋め込まれているのです。・・・神の御心にしたがうことで人間社会の支配権を得るのが正当である。― これが日本の建国神話の中に埋め込まれたメッセージである・・・「建国の理想」や「建国の理念」は現代においても大いに通用するものであり、追及すべきものです。・・・「神の御心にしたがった生き方」、自然界を大切にした生き方・・・この理想に少しでも近い政策を掲げ、実行する政治家を選挙によって選ぶのです。・・・「人類は自然と共に伸びるべし」ということが日本建国の理想の中にも含まれる・・・>>



(講評)

上記は今年(平成22年)の本部・「建国記念祝賀式典」に於けるマサノブ君の挨拶です。今年、昨年、一昨年と毎回の祝賀の挨拶で三代目・雅宣総裁は「建国の理念・理想」と云う言葉を使いながらも、最も肝心な天照大御神さまの「天壌無窮の御神勅」には全く触れず、神武天皇の「即位建都の大詔」のみを採り上げています。

この謎が今年は明かされたのであります。それは、「天壌無窮の御神勅」は西欧の「王権神授」に当り国民に対する“支配権”を認証する者であるからと云う理由なのであります。(もっとも、日本の天皇は「自然を大切にする神の御心に随う人」であり、この点は西欧の専制絶対君主とは微妙に違うという注釈つき)。

この様にマサノブ君は心の奥底(深層意識)では天皇を“絶対権力的支配権者”と考え、「即位建都の大詔」の「然して後に六合を兼ねて都を開き八紘をおおいて宇となさんこと亦可からずや」の部分は侵略戦争に繋がると解釈して、“自然との共生・炭素ゼロの生き方”と解釈し、この神話の精神は21世紀生長の家運動“森の中のオフィス”構想として引き継がれている。と、一見もっともらしいが全て我田引水の解釈を信徒に披露しているのであります。民主党支持も忘れずにその延長線上にある、として巧妙にP.R.・・・・・

法灯継承者・総裁ならば、もっと開祖・谷口雅春先生の御著書をしっかり読んで、世の識者・賢者に笑われないレベルの高い、日本人として霊的歓喜溢れる「日本建国の理念・理想」を解説し、且つ語るべきであります。



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[1551] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (24)
遮那王 - 2015年12月24日 (木) 08時43分




● 腹ごしらえが終れば、いよいよ被災地脱出である!! 

 (新潟中越地震遭遇記・平成16年10月24−25日)



<< 腹ごしらえが終れば、いよいよ被災地脱出である。・・・MAX山彦の先頭車両に飛び乗った。その席で私はこの文章を書き始めた。隣の席で、妻は両親への頼りを書き始めた >>



(講評)

上記の「新潟・中越地震遭遇記」の正式タイトルは“旅人の被災”であります。この文章の一大特徴は、被災した現地の信徒たちへの心配心は何も書かれていず、現地の教化部へも行かず、心配したことは宿泊ホテルへ持って来ていた自分のパソコンがテーブルから落ちて壊れなかったかどうかという事のみ。そして、翌日の講習会を生長の家講習会史上の初中止の決定を自分で下すや、最初に考えたことは、出来るだけ早く被災地を脱出することであった。

民間会社の社長が出張先で大地震に出遭った場合は、現地の社員の被災状況と現地工場、支店、営業所の被災状況をまず把握しその救助と復興に陣頭指揮を執るのが常識であります。然るに、マサノブ・ジュンコ君は自己の安全と東京へ向かって脱出することしか頭になかった。現地の被災信徒への慮(おもんばか)りもない極めて冷淡な学者先生・評論家・ルポライターに徹した著名人??三代目・マサノブ&ジュンコ(自称)両総裁でございました。

現在この夫婦は揃いも揃って信徒の浄財を財源としてセレブ生活に浸っており、旦那は一日9時間以上のパソコンお宅の引きこもり、嫁さんは朝・昼食の写真付き日記の公開と市民強要講座へ通い、月2〜3回の「講習会」出張という名目での“小旅行”を連れ添って楽しんで教勢低下等どこ吹く風と終身雇用の総裁の椅子の保証の下で優雅な人生を茶坊主に取り囲まれて過ごしておられるのであります。

しかし、これは“噴火山上の舞踏”にしか過ぎないのであります。



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[1565] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (25)
遮那王 - 2015年12月25日 (金) 09時57分




● 日時計主義は国際問題を引き起こす?! 

(普及誌『理想世界』平成22年2月号)



<<「自分の国だけが特別に素晴らしい」という考え方は、「他国は劣っている」というメ                               
ッセージに受け取られやすく、国際問題を引き起こす原因にもなる。>>



(講評)

ジュンコ君は、またもや極めて幼稚な左翼日教組型の考えを示している。ジパノフォビア(日本人でありながら日本を蔑み貶める日本人)宣言であります。

この言葉は日本人に対してではなく共産中国・韓国・北朝鮮に対して言うべきことばであります。生長の家は、自国の素晴らしさを胸を張って堂々と誇る、と同時に他国夫々の素晴らしさも認める“相互讃嘆礼拝主義”であります。

ジュンコ君の「日時計主義」は常に他の人や他の国の反応を気にしながら自虐的行動をする日本人を作り出し、ご自身が先頭に立って指導し唱導する『日時計日記』を自己否定していることになります。

又この様な考え方は「お手々つないでみんな一緒にゴールイン」の思想に通じるものであります。開祖・谷口雅春先生が居られたら、即座に三代目更迭、永久追放であります。




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[1580] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (26)
遮那王 - 2015年12月26日 (土) 13時23分




● 私は「大調和の神示」の適用除外者である?! 

(平成22年3月21日・布教功労物故者春季慰霊祭)


<<「大調和の神示」には「われかつて神の祭壇の前に供え物を献ぐるとき、先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である」とも書いてあります。・・・神の創造されたすべてのものと和解することが、神に通じる道であるとの教えが説かれているのです。>>



(講評)

マサノブ君が開祖・谷口雅春先生の御教えを素直に信奉する義兄と実弟を、自分の説く『今の教え』に楯突く者として、教団から追放しました。また、開祖・谷口雅春先生が設立された「新教育者連盟」・「生長の家社会事業団」をも『今の教え』に従わぬとして生長の家教団との絶縁をその独裁権力を以って強行し、資金援助を打ち切り、両法人を財政的窮地に追い込み消滅せんとしております。

この様な人がよくも壇上から大勢の信徒に対して<汝の兄弟と和せよ>と言えたものです。そのクソ度胸は誠に天晴れ!見上げたものであります。将に、『私は、深き悟道に達した皆さんから仰がれる立場の法燈継承者である。故に大調和神示の適用除外者である。信徒諸君は私の悟りの境地には未だ到っていないので、大調和神示をシッカリと守りなさい

 『生長の家大論争掲示板』というブログに次のような“皮肉を込めた”書き込みがありましたのでご紹介しておきます。

**************

☆このご挨拶の心の中はたぶん下記のように皆様に訴えられたかったに違いありません。どうぞ理解してあげて下さい。

<<ですから兄弟が現象的に認め合うこと無く不仲に見えていても、本当は神において一体の存在ですからなんの心配もいらないのです。私の事も兄弟不仲説で揶揄される方が居られますがこの真理をしっかりと知って頂ければ、未来に向かって素晴らしい道が開ける事がお分かり頂けると思います。(総裁先生応援団より)>>

***************

この際、さらに申し上げておきますと、――
マサノブ君は毎朝『神想観』を実修するとき<吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能>と声、高らかに朗誦していると思います。この時、義兄・実弟の教団からの追放や開祖・谷口雅春先生の御著書の絶版といった“吾が業”も“天地を貫きて生くる祖神の権能”と思いながら、確認しながら唱えていると思わざるを得ないのであります。

なぜならば、普通の常識人ならば、兄弟の追放や聖典の絶版や裁判の種を蒔(ま)きながら、シャー・シャーとして神想観など、どうして出来ましょうか?「○○は病気せず!」という言葉があります。自分のしていることは常に正しいと信じている。自己を咎(とが)める意識が全然ないからであります。マサノブ君も自分の所業は“祖神のなせる所業で正しい!”と信じているからこそ「神想観」が何の咎める気持もなく悠々と実修できるのでしょう?!遂に、マサノブ君は“驕慢(きょうまん)の極”に達し「吾、神と成れり!故に、皆から仰ぎ見られる者(立場)となれり!」と心中ひそかに思っているのでありましょう。カルト宗教化への道を一路驀進!付き従う人々は生活のための“イエスマン”と“お孫さま信仰”の信徒のみ!嗚呼!




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[1590] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (27)
遮那王 - 2015年12月27日 (日) 09時50分




●  私は学者です。覚者ではありません。!(誠にスミマセン!お許しを!)

 (平成22年3月29日『小閑雑感』)

<<これはいわゆる「悟り」とか「救い」とか「回心」とか「超越体験」などと呼ばれているもので、それが心の中で起こることは確かであるが、言葉による説明を超えているから現在意識で起こるのではなく、したがって潜在意識で起こる大きな出来事ということができる。>>



(講評)

私たち信徒は、開祖・谷口雅春先生から<「悟り」とは、五官・六感を超越した「実相覚」で以って「絶対実在を絶対認識(直接認識)」すること。「無の関門」を超えたこの境地に至れば“手の舞い足の踏む所を知らず”歓喜法悦の境地なり!>と聴きました。

開祖・谷口雅春先生はこの悟境の実際の偉大なる覚者であられたのでした。また、「廻心」とは360度の“観の転換”(心が“クラリ”と変わって、螺旋階段を360度飛躍上昇)をなすことであるとも教えて頂きました。かくして本当の救い(病・悩・苦からの解脱)が成就されるのであります。これが宗教の世界であり、信仰の道なのであります。

 然るにマサノブ君は、宗教上の「悟り・回心・救い・超越体験」を、自分の肉体頭脳知の世界で心理学的に説明しようとしているだけなのであります。その訳は、自分自身による「超越的体験=悟り=絶対実在の絶対的直接認識」が“無い”からなのであります。

だから、“隔靴掻痒”(かっかそうよう)のまわりくどい心理学的解説しか出来ないのであります。端的に言えば、砂糖の甘さは、嘗(な)めれば即座に解るのですが、そんな事は“はしたない”として、化学者は砂糖の甘さは研究室で化学分析によって追及するのが理性ある学者の姿勢であると研究を続けます。そして砂糖の甘さの実際を知らないで一生を過ごすのであります。

従って学者は「病・悩・苦」の現実的解決は出来ませんが、覚者は「病・悩・苦」の現実的解決を行なうのであります。学者は<「悟り」は潜在意識で起きる>と考えますが、覚者は<「無の関門」を超えて「悟り」を成就された「霊的覚醒者」>であり、心理学的にいえば、<「悟り」とは、潜在意識・深層意識を超越し、意識の釜の底をぶち抜いた超高次元の超意識の世界(境地)で起きるもの>ということが出来るのであります。

学者は、殊更に難解な言葉で理屈っぽく語りますが、覚者は、平易な分かりやすい日常の言葉で的を射た端的な言葉で語るのであります。“学者と金持ち、あとまわし(ですよ、三流学者・雅宣センセイ!!)”。




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[1598] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (28)
遮那王 - 2015年12月28日 (月) 08時15分




● 学者は、わかって分からず、覚者は、わからずして分かる!


 (平成22年3月28日『小閑雑感』)



<<宗教は、現在意識よりも潜在意識に深く関わっていると思われるから、これが不明の状態では、宗教活動の意味も解明されないのである。・・・(通常の論理的思考の中では意味をなさない対称的関係が)統合失調症の場合、覚醒時の頭の中で起こる。>>



(講評)

本当の純粋な宗教活動(悩める人々を救ってあげたいとの切なる思いからの活動)は、高次元の超越意識の世界から湧き起こって来るものであります。超越意識の世界まで突き抜けて宗教活動を展開していたのは開祖・谷口雅春先生の全盛の時代の生長の家であったのでした。しかし、組織が大きくなり、潜在意識の世界にある“数を追う結果主義”に次第にレベルダウンしてきたのであります。従って、正しい宗教および正しい宗教活動は、潜在意識の世界(名誉欲・支配欲・保身欲・金銭欲・自己顕示欲の世界)では決して解明されるものではありません。潜在意識そして更なる深き深層意識の世界を超えた超意識の世界(本当の神の子の世界)まで突き抜けて行って初めて真の宗教活動のことがわかるのであります。マサノブ君の思考レベルは全く中途半端な途中段階のもので合格点は差し上げられません。

 最近の医学用語である「統合失調症」とは、昔の言葉で言えば「癲癇(てんかん)・精神分裂病等」のことであります。これらの症状の原因は“憑依霊現象(一つの肉体が二つ以上の霊魂に支配されている状態)”によるものであります。だから、霊供養で治る場合が多いのであります。唯物学者・マサノブ君は<統合失調症の患者の頭の中では、対称的思考という逆転概念が起こっている(大意)>と、一般信徒には何の事かチンプンカンプンの病状説明をしています。そして思考はここでストップして、その対称的思考と云う逆転概念が“何故に起きるのか?”まで追求されていない。否(いな)むしろ出来ないのであります。唯物科学思考では出来ないからであります。根本の第一原因が唯物科学では分からないのですから、根本的治療法が分からず、従って極めて強い薬を使って症状の一時押さえしか出来ないわけであります。

しかし、唯物科学の垣根を越えた「心霊的思考」で考えれば実に簡単であって、患者の頭の中に複数の霊魂(迷霊)が同居しているのが第一原因であり、治療法はこの迷霊に真理を自覚して頂き霊界へお帰りいただく霊供養の実行であります。しかし、残念ながら此の事はマサノブ君を初め、唯物医学者たちにとっては理解できないことなのであります。故に、マサノブ君は宗教家の資質も資格も無い事が判るのであります。信徒の皆さん、眼を開きましょう!



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[1611] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (29)
遮那王 - 2015年12月29日 (火) 09時04分




● アッ、しまった!また間違ってしまった!


(平成22年4月24日『小閑雑感』)


<<火山の爆発や地震の勃発も、自然界の活動の一部でありますから、あえて言えば“自然な出来事”なのであります。・・・同じ自然の活動であっても、人間がそれぞれの立場から見て、“悪い”とか“善い”などと勝手に判断するのです。・・・ 昨今は、自然界の乱れが顕著になってきています。私は、火山の爆発や地震の勃発は人間の活動に原因があると言っているのではありません。それらは、当り前の自然現象です。>>


(参考)

 実は、これと同じことを平成20年2月13日マサノブ君は、「小閑雑感」の中で

<<いつか生長の家講習会で「天災も人間の心の反映か?」という質問が出たことがある。人間は、自分の尺度で自分に都合のよい解釈をして自然現象を「天災」などと呼ぶ。日本列島では地震が起こるのは、地質学上では“当たり前”で“自然なこと”である。それなのに“起こらない”と考えている人間が「災い」と呼ぶ。“地震は来ない”と考えて耐震設計をしない事は「人災」、ある場所へ“危険”を承知で行くのも「人災」を求めている。>>と、このように書いているのであります。



(講評)

マサノブ君は同じ主張をまたもや繰り返しました。今回の文章でマサノブ君は「アッ、しまった!また間違ってしまった!」ではなく、明らかに開祖・谷口雅春先生の説かれた真理は間違っていると宣言した確信犯で、まさしく“非・生長の家・マサノブ教”の「三界唯心所現」新解釈であります。このような人は最早、自称・法燈継承者でも総裁でもなくトットと出て行って外部で、憲法の保障している「宗教と信仰の自由」に則って“新宗教・マサノブ教”を創設していただきたい。

マサノブ君は心の奥底では、本気で霊界の存在や因果の法則を信じておられない。だから、人間死んだら何も残らないと思っているか,或いは“自分は前世で巨大な<徳>を積んだ人間だからこそ開祖・谷口雅春先生の孫として生まれて来て<仰ぎ見られる立場>に立っているのであり、自分には一切の因果律(原因結果の法則)は作用しないのだ!との最高の驕慢(きょうまん)の心境にいたっているのであります。

しかし、どのような人も、年老い肉体を捨てて霊界へ行かねばなりません。マサノブ君!あなたはそこで初めて「因果の法則」の真義を知り、人間界最大の“教組反逆罪”を無間地獄・無間煉獄の環境の中で最大の苦しみを以って償わねばならないのであります。それが嫌であるならば、即座に生長の家教団から辞去すべきであります!

 重ねて申し上げます。火山の爆発や地震の勃発といった自然現象も「三界唯心所現の理」に依るものであります。開祖・谷口雅春先生は次のように説かれております。

「生命の實相」第1巻・第4章<心の世界における運命の形成>

<<すべての事件は、物質の世界に現れてくる以前に念の世界で出来上がるのでありまして、念の世界で出来た通りが物質世界に映って来るのであります。>>(P.118)

<<念の世界で出来上がる事件も、宇宙に満ちている色々の生物の心の働きの組み合わせに従って時々刻々に作られて行くのであります。大きなあらすじの事件は、多くの「念」の働きを成立要素として細かい事件よりも早く多数の「念」の多数決で決まって行く。>>(P.118)




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[1622] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (30)
遮那王 - 2015年12月30日 (水) 10時40分




● 知らぬが仏の純子先生!

(平成22年2月28日『恵味な日々』)


<<都会生活を捨てて、森に行くということは、自分の欲望を捨てるということ・・・ 都会の生活は便利で、欲しいものは何でも手に入れることができ・・・人間の欲望を限りなく駆り立て、その結果として、現代の地球温暖化の問題を引き起こしました。・・・だれかが、どのような生活をすることにより、新しい文明を生み出していけるのかという、モデルを作らなくてはなりません。・・・そのような大きな理想を持って、私たちは森にいきます。自分の信仰が試される時でもあるわけです。自分のための信仰では、森に行くことなどできないでしょう。 神の御心にかなう生き方は何かを自分自身に問いかけ、肉体人間の欲望を捨てるという、難しいことではありますがその決意を、モデル社会を構築をすることにより、やがて本当は自分たちが望んでいた生活がここにあったのだと分かるようになるのではないかと思っています。>>



(講評)

唯物的思考が強いマサノブ・ジュンコ君は気が付いていないのですが、原宿本部の中でも霊的感覚の鋭敏な人たちも少しは残っております。その人たちは感じました。

「三代目・雅宣・純子夫妻は、唯物文明の欲望を捨てて、理想の自然との共生生活のモデル文明をつくるという崇高な目的をもって八ヶ岳の森のオフィスへ移転するのです、と言っていますが、心霊学的に視れば、明治神宮と東郷神社に囲(かこ)まれた神域(霊的結界)から閉め出されたのだ」。と、いうことであります。

欧米の世界蚕食の植民地侵略からこの日本を死力を尽くして護り抜いて来た祖先の尊い功績を考えず、日本人でありながら祖国日本を蔑(さげす)み貶(おとし)めるジパノフォビアとなった三代目・雅宣・純子夫婦は、開祖・谷口雅春先生の愛国の御著書を絶版処分し、愛国心は戦争に繋がるとして罪悪視し、日本国家と日本民族と日本精神を否定して日本を崩壊へと導く、祖国に弓引く存在(獅子身中の虫)であり、放逐すべき者であります。

日本民族守護神の高級神霊界に於いてこのことが話し合われ、現・教団は原宿の神域(霊的結界)に存在する資格なしとして、開祖・谷口雅春先生(住吉大神)の御承認を得て左翼主義者・三代目・雅宣・純子夫婦の放逐が既に決定されていたのであります。霊性開発のレベルが低い三代目・雅宣・純子両総裁はこのことが全然分かっていないのであります。将に,“知らぬが仏”であります。



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[1632] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (31)
遮那王 - 2015年12月31日 (木) 10時30分




● 小聖は山へ逃げ、大聖は都会(まち)で衆生済度する。!(平成22年4月15日『小閑雑感』)


<<私たちは「他からできるだけ奪わない」生き方をしたいと思う。が、都会生活はその選択肢をほとんど与えてくれない。また、欲望が渦巻き、それに応える手段が完備しているから、「奪わない生活」はむずかしい。そういう都会がいいのか、それとも不便ではあるが、自然との接点が多い“森の中”がいいのかと考えたとき、私たちは後者を選んだのである。抽象的な“魂の向上”ではなく、具体的な生き方による“魂の向上”を選んだ>>



(講評)

『小閑雑感』のこの文章を読む時、先ず頭に浮かぶ言葉は「小聖は山に隠れ、大聖は町に住む」という諺(ことわざ)であります。マサノブ君は将に小乗仏教的宗教家であります(本当は宗教家などとは呼べないのでありますが)。俗塵の欲望渦巻く大都会である東京の街に住み、衆生済度の大願成就の為にその身をローソクの如く焼け尽きるまで生長の家地上出現の目的(人類光明化と真理国家日本の実相顕現)達成に開祖・谷口雅春先生の如く身を捧げきるのが、いかに自称といえども法燈を継承した人の使命ではないでしょうか?

生長の家は、大乗仏教の神髄成就ではなかったのですか? マサノブ君は如何に衆生の「病・悩・苦」を救っても地球が人の住めない星になれば元も子も無し!まず地球環境の回復が第一と宣(のたま)う。しかし、考えても見られよ!サーキット競争レース・外国からの観光客誘致のためのジェット便の増発・高速道路無料化に伴う遠出外出渋滞による大量のCO2排出だけでも生長の家信徒のCO2削減努力などは実に簡単に帳消しにされてしまっている。ましてや、CO2大量排出の大気汚染国家・共産中国に対しては、雅宣氏は何も要請せず。全くの内輪だけのお山の大将であります。

だから、現・教団挙げての環境運動は実は、三代目・マサノブ君の自己顕示欲望に基づく個人的趣味の人生目標にしか過ぎない。完全な公私混同で全信徒がお孫さま信仰と美辞麗句による暗示に掛けられてしまっているのであります。そしてマサノブ君は『御教え』のレベルを小乗的な域に完全にレベルダウンせしめてしまったのであります。開祖・谷口雅春先生が始められた生長の家の指導者とは云えない完全な失格総裁であります。

 更に云えば、『生命の実相』の自伝篇を読めば、開祖・谷口雅春先生も青年時代「奪わない生活」について深刻に悩まれ思索追及された事が分かるのであります。同じようにマサノブ君も「奪わない生活」を考えていますが,“生命を賭(か)けた真剣な悩み”ではなかったため、山へ逃げる形の小乗的結論となったのであります。一方、開祖・谷口雅春先生は生命を賭けた真剣な求道の結果、大乗的悟りを成就され、さらに釈迦・キリストの説かれなかった生命体国家論「国家の成仏」まで説かれ、具体的な実践行動を指導されたのであります。




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[1650] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (32)
遮那王 - 2016年01月02日 (土) 09時20分




● 「自他一体」のこころは“ミラーニューロン細胞”の働き?!

(平成22年5月4日『小閑雑感』)


<< 私は、今回の講話の中で「ミラーニューロン」のことに触れた。これは、私たちの脳に存在する一群の細胞で、目の前にいる“相手”の感情をシミュレートするという特殊な役割をもっている。つまり、相手の感情を“鏡”(ミラー)のように映す機能をもっている。私は、この特殊な神経細胞群の存在は、人間が「自他一体」の実感を得る能力があること示す有力な証拠だと考える。この細胞群が人間において最も発達しているという事実は、人間の本質が他の動物のように「欲望を満たす」ことにあるのではなく、他者と「喜びを共有する」ことにある、と語っているような気がする。だからこのほうめんでの心理学や神経科学の発達は、宗教に関わる者として興味がつきない。>>



(講評)

 マサノブ君の上記文章はやはり唯物論であって間違っていることが分かるのである。つまり、<人間が「自他一体」の実感を持つのは、脳の中の「ミラーニューロン細胞」の働きによる>との解説は唯物論であります。

では、唯物論ではなく、『生命の實相』を基礎にして考えると――

(1)生命体としての真性人間の“こころ”が肉体人間の「ミラーニューロン細胞」として具象化し、“鏡”(ミラー)のように映す機能の働きによって相手のこころの感情をわれわれの心が受け取るのである。

(2)あくまでも、「こころ」が主であって、「ミラーニューロン細胞」は従であるのである。生命(こころ)が去った後の肉体(死体)は、「ミラーニューロン細胞」が存在しても(生理学的に健全であっても)“鏡”(ミラー)のように映す機能は働かない。また、睡眠中の肉体は、霊魂(こころ)が肉体を離れて霊界へ行っているのであるから「ミラーニューロン細胞」が健全に存在しても“鏡”(ミラー)のように映す機能は働かない。

(3)「ミラーニューロン細胞」というこの特殊な神経細胞群の存在は、人間において最も発達している、それ故に「自他一体」の実感を得る能力が人間において最も発達しているということは、「人間は神の最高の自己実現」である何よりの証拠の一つだと言える。


マサノブ君のこの文章は、いつもの通りの“生理学者・谷口雅宣教授”の教養講座であって、これを聞いて病・悩・苦がなくなったり霊的心境(悟り)が高くなるわけでもない。ましてや、その講義内容が間違いであるゆえ生長の家信徒にとっては“百害あって一利なし”である。将来、これが単行本となって講習会のテキストになって販売され、マサノブ君へは印税という金銭収入となるのであります。






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[1658] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (32)
遮那王 - 2016年01月03日 (日) 08時40分




● 信徒の皆様、私の誤りでした。スミマセン!雅宣拝



 地震は自然現象のひとつ?(『小閑雑感』・平成20年2月13日)

<<日本列島では地震が起こるのは、地質学上では「当たり前」で「自然なこと」である。それなのに「起こらない」と考えている人間が「災い」と呼ぶ。<地震は来ない>と考えて耐震設計をしない事は「人災」で、ある場所へ「危険」を承知で行くのも「人災」を求めている。>>


地震は自然現象であって人間の(心の)活動とは無関係!?(『小閑雑感』平成22年4月24日)

<<火山の爆発や地震の勃発も、自然界の活動の一部でありますから、あえて言えば“自然な出来事”なのであります。・・・同じ自然の活動であっても、人間がそれぞれの立場から見て、“悪い”とか“善い”などと勝手に判断するのです。・・・ 昨今は、自然界の乱れが顕著になってきています。私は、火山の爆発や地震の勃発は人間の活動に原因があると言っているのではありません。それらは、当り前の自然現象です。>>



(講評)は、下記の通り・・・但し、これは“春眠、暁を覚えず”――或る春の夜の夢・・・


<お詫びのことば>

「私は、上記二回にわたって“地震等の自然災害といわれるものは、人間の心とは関係のないものであると書きましたが、この間、『生命の實相』をたまたま開いた時、次のような開祖・谷口雅春先生の御文章が目に入りました。

<<地震などでも「念」の力が結集して物質を動かすのでありまして、人々の悪念が凝集すれば転変地変などが相継いで起こるようになるのであって、末法の世になれば天変地変が起こるのはそのためで、これは神が天変地変を起すのではない。悪念の集積が自壊しつつ、その反映として物質を自壊するのであります。>>(『生命の實相』第10巻霊界篇下巻P.130−131)

 このように書かれていますのに、わたしの『生命の實相』の読み方が、単なる間違い探しの拾い読みであったがために“地震は人間の念とは何ら関係のない自然現象である”と唯物論的な間違った書き方を致しました。自称の法燈継承者・総裁としてまことにお恥ずかしく信徒のみなさまに深くお詫びいたします。穴があったら入りたき思いです。お許し下されたく・・・平成○○年○月○○日、 自称の法燈継承者・総裁・谷口雅宣 拝」




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[1675] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (34)
遮那王 - 2016年01月04日 (月) 07時51分




● 「特攻隊」という戦法は現世を否定的に捉えて考えついた手段で、現世を犠牲にした自殺攻撃!?

(平成21年9月28日『小閑雑感』)


<<「生命は不死」の教えは、「現世軽視」や「他人軽視」の考え方と直接、論理的につながってはいないのである。それがつながって見えるのは、なぜだろう? その理由は、現世を否定的にとらえるからだ。特に、目の前にいる“敵”が自分をはるかに凌駕する力をもっていると考える場合、現世軽視、現世否定の傾向が強まると思われる。自爆テロリストの場合は、敵が多く、汚辱したこの世界は否定すべきものだと考えて、テロ行為に走るのである。特別攻(撃)隊の場合も、戦局が日本に不利なことが明確になってから登場した戦法である。つまり、敵の力を思い知ってから、やむを得ないギリギリの戦法として採用された−−ということは、現世を否定的にとらえて考えついた手段なのだ。>>




(講評)

何故、斯くも三代目マサノブ君は性懲りもなく、同じ誤りの文章を書くのであろうか!(自称の)法燈継承者、総裁として大勢の信徒を導く指導者ではない事がよく現れた内容の文章であります。

(1)このような文章の内容は“宗教者”と称する者の書くものではありません。ものごとを常に冷たい目で批判的に見る“評論家”の書く文章と全く同じものであります。

(2)三代目マサノブ君は“ジパノフォビア”(日本人でありながら祖国・日本を蔑み貶める日本人ならざる日本人)であることを自ら証明しているのであります。

(3)歴史と云うものは、後世の者が後世の価値観でもって批判してはならないのであります。特に、戦争と云う大事件は因縁果の法則による国家と民族の積み重なった“業(ごう)の一大自壊現象であり、大東亜戦争はその上に宇宙の経綸による国家と民族の使命が付加されていたものであります。当時の日本人は其の“業(ごう)”の解消を一身に担い、宇宙の経綸としての日本国家・日本民族の使命をいのちを賭して完全に果たされたのであります。だから、後世現代に生きている我々は、大東亜戦争を戦われたわれわれの先祖の人達に対しては、只々感謝合掌のこころで対しなければならないのであります。三代目マサノブ君のような冷たい評論家的観察は日本人としては決して許されるものではないのであります。

(4)特攻隊に関する文章を書くときには、<特攻の母>といわれた「鳥浜とめ」さんの言葉を心に留めて書くことを忘れてはなりません。なにしろ、隊員の傍で、夫々の人柄に接し、肌で感じてきた人ですから、その語られた言葉は正鵠を射ているからであります。

「特攻隊で行かれた方は、将にこの時代に生まれて来ることを分かって生まれて来て、すべてを投げ打って日本の国の為に捧げて、将に神さまだった。だから優しかった。伝え方を間違えずに、あの子達のことを伝えて行かなくてはいけない。」

       < ちるために 咲いてくれたか 桜花 
                散るほど ものの 見事なりけり >

と、詠み観音像を知覧平和公園にある記念館に建立されたのであります。

 鳥浜とめさんの言葉の中で非常に大切なところは、
 ・ 将にこの時代に生まれて来ることを分かって生まれて
 ・ 将に神さまだった
 ・ 伝え方を間違えずに、あの子達のことを伝えて行かなくてはいけないという部分であり、この部分は将に『実相直視』の言葉であり、特攻の英霊の人達も鳥浜とめさんもいづれも高級霊の方々であったと拝察されるのであります。

< 『伝え方を間違えずに、あの子達のことを伝えて行かなくてはいけない』 >

この千金の重みのある言葉は、特に信徒にたいする影響力の大きな立場にあるマサノブ・ジュンコ君には、常に心に留めて頂かねばならない事であります。その為には、本当の<実相の叡智>が必要とされるのであります。個人的な浅はかな形而下的唯物的価値観を基準にして伝えてはならないのであります。

(5)「歴史は批判すべからず、然し、歴史からは学ばなければならない」のであります。

政治家は政治家の立場から、国防関係者は国防と戦略と戦術の立場から、教育者は教育者としての立場から、実業家は実業家としての立場からそれぞれ“学ぶ”ことがあるでしょう。しからば、生長の家は宗教者の立場として如何に“学ぶ”べきでありましょうか?そしてそれを如何に未来に生かして行くべきでありましょうか? 答は一つであります。それは、開祖・谷口雅春先生の『生命の實相哲学』・『唯神實相哲学』の真髄が先ず日本人全体の共通的価値観となるように運動を展開することであります。

日本人全体が新たなるマイナスの業(ごう)を作りださないように、善業を蓄積していくように、人間観・人生観を転換し、霊界の浄化を図って行くことであります。そのためには、宗教活動と共に政治的活動も為す事も必要となります。この様な方向に教団が進んでいくとき『天皇国・日本の実相顕現』が具体的となり、『真理国家・日本』の建設が着実に進められて行くのであります。




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[1687] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (35)
遮那王 - 2016年01月05日 (火) 08時51分




● 純子(自称)白鳩総裁は“理性”が大好き!?

(『白鳩』vol.2・平成22年5月号<日々わくわく“目を開けて信じる”>)

<<「盲目的信」の弱点は、現実の人間に完全を求めることである。今そこに完全があると信じることは、逆に言えば、それ以上の“完全”を認めないということだ。それは、相手の成長の可能性を否定し、「判断力」という自分の理性も否定している。>>



(講評)

 ジュンコ君のこの文章は、一般教養的な宗教評論家の文章としては、何ら問題はない。然し、普及誌『理想世界』平成21年2月号の“教典・聖典と理性”とを併せ読むとき、三代目の(白鳩会総裁の文章としては問題があるのであります。だから、(自称)白鳩総裁と呼ばざるを得ないのである。

聖典『生命の實相』等は盲目的に信じて読んではいけない。理性という物差しで計り(分析し)ながら読まないとイスラム原理主義者のような“狂信的信仰”となる。また、嘗て地上に生きて教えを説かれた開祖・谷口雅春先生を完全な人としてその言われたことを盲目的に信じるのは間違いである。(マサノブ君は“雅春先生も間違って説かれていたこともある。その間違いを訂正するのが私の役目”と発言!?)結局は、開祖・谷口雅春先生の御著書の絶版の正当化、そして開祖・谷口雅春先生の御存在を信徒の心から薄くして消していくというのがこの文章の隠された目的であります。

ジュンコ君は開祖・谷口雅春先生の聖典類の読み方を第三代目として信徒に説いたことがありましょうか? 一度もないどころか、常に“理性”とか“判断力”といった現代人受け言葉で、聖典『生命の實相』等を冷静な眼で読まねばならないと言っている。これは間違いであります。

ジュンコ君、君は一般の宗教評論家であってはならないのであります。あくまでも三代目・白鳩会総裁であるならば、まず何よりも聖典『生命の實相』の読み方を特に新しい信徒の人たちに説かなければ三代目・白鳩会総裁としては資格なしであります。君になり代わり、・・・

 『生命の實相』第4巻生命篇下巻(P.2)
<<ひとの生命の実相に穿ち入るにはこれを霊的に理会することが必要であります。頭で真理を理会するということは、真理の周囲をどうどう廻(めぐ)りして真理の外的なすがたを知るにすぎませんが、霊的に真理を理会するということは、「生命」の実相そのものに全身全霊をもってつらぬき入り力の本源をつかむことになります。全身全霊をもって、生命の実相につらぬき入るには、この書を頭で読もうとせず、全身全霊で読む、黙読する、朗読する。目で読み、声で読み、声のリズムの中に自分を溶かし込んで読む、そして静かに端座して「神想観」を行じ、行じ終って動き出すとき神(愛)の生活を生きる、かくするとき時、知恵と愛とのそろった生活が実現するのであります。>>

ジュンコ君!何処にも“理性”で読めとは書いてありません。また、『生命の実相』に書かれていることを“是々非々”と判断力を駆使して読めとは書かれていません。むしろ逆に,“頭(理性)”で理会しようと思うな、“肉体頭脳の判断力”を無にして全身全霊で以って“霊的に理会”せよ!と書かれているのであります。目的は我々一人一人の生命の“実相に穿ち入る”ことであります。『生命の實相』という教典を“肉体頭脳で研究”することではないからであります。



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[1698] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (36)
遮那王 - 2016年01月06日 (水) 07時27分




● 生長の家は何時の間に“二元論”にレベルダウンしたの?

(『白鳩』vol.2・平成22年5月号<日々わくわく“目を開けて信じる”>)

<<現実の人間の不完全さは認めつつ、その“本質”はすばらしいと信じるのである。「盲目に」ではなく、「目を開けて」信じる。>>



(講評)
ジュンコくんのこのご文章も、PHPのような一般教養雑誌の文章としては極めて理性的な現代社会の教養ある人たちに素直に受け入れられる感じの文章であります。

しかし、生長の家の嘗ては“神誌”とまで言われていた今の月刊“マガジン”である『白鳩』誌に指導者たるジュンコ(自称)白鳩総裁が書いた文章としては情けない文章であり、新しい信徒のみなさまを誤導するものであります。何処が「誤導」することになるのか?


(1)開祖・谷口雅春先生の『御教え』は完全完璧な「一元論」つまり「唯神實相論」であります。「実相独在」であります。故に、目に見えている現象は「本来無きもの」であります。実在論としての現象ナシ!であります。此れが開祖・谷口雅春先生が説かれた「唯神實相」という完全かつ完璧な「一元論」であります。しかるに、ジュンコ君は<不完全な現実人間>と<“本質”は素晴らしい実相人間>と、この二つを同時にある(実在している)と認めている。<“認めつつ”>の表現で証明されているのであります。二つのものが同時にある(実在)と認めること、これすなわち「二元論」であります。

しからば、ジュンコ君のこの部分の文章は<<現実の人間の不完全さは“本来無きもの”(現象ナシ)として完全否定して、実相人間の“本質”のすばらしさをのみ信ずるのである(実相の肯定)。>>と書かねばならないのであります。“みとめつつ”ではいけないのであります。指導者としては此処までの気付きと厳しさが求められているのである事をくれぐれも忘れないように・・・


(2)次に、ジュンコ君は“状況判断に基づく現象処理”のない単なる「観念論」だけを述べているにすぎないのであります。「人間の善性」を信じる強い信念と信じる努力が必要と言うだけで終っている。信念を持つ努力の次には実相顕現への過程・実相を現象化する過程に於ける状況判断に基づく現象処理の実際の行動が必要である。此れがなければ社民党的・共産党的机上の平和論(空論)となってしまうのであります。

“信じる”の次には“神想観によって導かれたる行動”が必要であります。アンデルセンの童話も<信念の行動化>の大切さを物語っているとも言えると思うのであります。開祖・谷口雅春先生も学校へ遅刻しそうになった二人の子供の行動、一人は「神様、学校に遅れませんように」とその場へ座り込んで祈った、もうひとりの子供は祈りながら走った、どちらが遅れなかったか?という簡単な譬えで説かれています。私たちの“生長の家本流復活運動”にしてもマサノブ君の実相を祈ることが一番大切と「実相顕現の祈り」だけに徹している人もあります。そして、マサノブ君の実相が顕われないのは自分の祈り方がまだまだ足りないからだと謙遜されます。

しかし、このような人は“状況判断に基づく現象処理”を間違っています。このことは『新講・甘露の法雨解釈』P.87に“日本の再軍備の問題”について開祖・谷口雅春先生は説かれています。次に引用させて頂きます。――


<<この事は日本の再軍備の問題でも同じ事であります。害虫にかける“消毒剤”はこの再軍備の“武器”みたいなものです。日本の国へ侵攻して来る敵があるとすれば、それは日本の国を冒しに来る害虫みたいなものです。その害虫に対してこちらが鉄砲だとか、大砲だとかミサイルとか、爆弾だとかいう武器を準備するという事は、消毒薬を害虫に対して準備するのと同じ事であります。
 だから実相世界の「一切の生物処を得て争うものなき」状態があらわれたなら、そんなものは要らん筈だと言えるのであります。しかし、現代の日本人が果たしてそれだけの精神的力量叉は高い心境に達しているかという事が問題なのです。

 即ち「凡(およ)そ此の世界は神の世界であって敵は無いのである」という事を、日本人の大多数が深く信じそれを実践する事が出来るかどうかというと、まだまだ遠しと言はねばなりません。それどころか内部闘争が年中行事で、定期的に春季闘争、夏季闘争、年末闘争、遵法闘争、職場闘争------と闘争心をかきたてておるのです。そのような闘争の心を持っておりながら、そしてそこには「類を以って集まる」という法則がありながら、国際的にだけ「敵は攻めて来ないのだ、戦争はないのだ」という事は出来ないのであります。

 実相の世界には戦争は無く、害虫もなく、平和であるけれども、その実相の状態をあらはすだけの平和な心境がなければ、害虫がやって来たときには消毒薬で防がねばならんと言うのと同じで、他国から攻めて来たときには防ぐだけの武器というものは備えて置かねばならんということになる訳です。これは“最高”の善ではないけれども、心境がまだ至らない時の防衛の為には必要な“第二の善”であると言うほかはない。その意味に於いて現代の日本国には自衛隊とか国防軍を、害虫に対する殺虫剤叉は消毒薬としてあらかじめ備えておかなければならないのは止むを得ないのであります。>>

 マサノブ君の「地球環境保護・炭素ゼロ・森の中のオフィス計画の実行」も状況判断の間違いに起因しておるのであります。

(1)「地球環境保護・炭素ゼロ・森の中のオフィス計画の実行」これらは宗教団体がその教団の総力を挙げて取り組むべき第一最大の課題ではないのであります。これらの運動はすべて“唯物価値観”からの対策であり左翼団体の思想と同じ線上にあるものであります。問題の根本原因(第一原因)の除去対策ではないのであります。

宗教団体の存在目的は、地球環境悪化をも含めた人類社会の病・悩・苦を、「現象顕現の法則」の不理解・誤用・悪用にあるとして人々の想念・価値観を正して意識(こころ)の世界から根本的悪因(第一原因)を除去することにあります。

人類社会の“迷妄”という風呂敷包みをほどいて今まで包まれて居た“実相”というすばらしい宝物を解放せしめることにあるのであります。政府等の行政機関や企業、そして個人としての国民は唯物的環境対策は協力すべき第一のものであります。

然し、宗教団体が教団の総力を挙げて第一になすべきものではない。環境対策活動は必要性の優先順位からいくと第四、第五のものである。これをマサノブ君は順序をまちがえて第一にしたのであります。状況的に見れば、地球環境問題は今日の人類社会にとっては最重要課題でしょう。然し、一方に於いて年間3万人以上に増え続ける自殺者・年間50万人は優にある人工中絶児・家庭崩壊・学校崩壊・統合失調症(心身症)等々は地球を取り巻く霊界の環境悪化、こちらの方こそが宗教者の第一優先の課題で教団の総力挙げて取り組まねばならぬ問題であります。ここにマサノブ君の“状況判断”のまちがいがあるのであります。


(2)「地球環境保護・炭素ゼロ・森の中のオフィス計画の実行」は唯物価値観の発想による対策であり運動であります。全世界の本当に熱心なマサノブ君の『今の教え』を信奉する信徒さんは3万人程度でしょう。これらの人々の努力によるCO2削減量は共産中国や発展途上国を中心にして増え続けるCO2排出量に比較すれば大海の一滴にしか過ぎません。これに貴重な聖使命会費等の浄財を充当するとは?これまたマサノブ君の状況判断の誤り以外の何物でもないのであります。


(3)以上のような指摘に対してマサノブ君が「私は状況判断を間違えてはおりません」と言うとおもいます。と、するならばマサノブ君の心の中には別の目的があって、その目的実現のための状況判断としての「地球環境保護・炭素ゼロ・森の中のオフィス計画の実行」であるということになります。

それは、申すまでも無く「世界的巨大財閥権力機構」である“欧米エシュタブリッシュメント”の金融および資源の世界一極支配体制(国家意識・民族意識をなくして世界統一国家意識・世界統一市民意識)構築への最大障害物であるところの天皇国・日本と中道愛国の真柱である本来の生長の家の実質的崩壊という観点に立っての“状況判断”であるからであります。

だからマサノブ君の環境運動にはご自分からの率先垂範という真剣さがみえないのであります。新幹線と在来線の乗り継ぎで行くべき福知山(京都第二教区)の講習会へ伊丹空港まではジェット機そこからは自動車(遠距離)で往復、休日には東京から山梨県の別荘までこれまたマイカーで往復、都内・近郊をもドライブする、電気自動車購入資力のある信徒に40万円の補助金を信徒の浄財から援助、教団全体の電気自動車購入台数は相当な数のため当然メーカーにとっては超優良顧客、従ってメーカーからのバックマージンも相当な金額が?・・・を考えれば判るのであります。

このような事実から考えるとマサノブ君は世俗的・現実的な抜群の“状況判断能力”をもつ人であることがわかるのであります。しかしまっとうな宗教者ではなく、般若湯を好む世渡りに長けた宗教者であります。



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[1717] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (37)
遮那王 - 2016年01月07日 (木) 11時51分




● “私としたことが、開祖先生の文字表現の深い心に気が
つきませんでした。スミマセン!”純子拝

(『理想世界』誌平成22年3月号、『白鳩』vol.2・平成22年5月号)


<<人に「親切をする」とか「愛を与える」などと考えると、聖人ではない自分にそんな立派なことはできない・・・(P.43)>>

<<それは、相手の成長の可能性を否定し、「判断力」という自分の理性も否定している。・・・(P.9)>>



(講評)

 今日の一般社会では「親切」と書きます。また、「成長」と書きます。しかし、『生命の實相』の中では開祖・谷口雅春先生は「親切」ではなく「深切」と常に書かれており、その理由をも説明されておられるのであります。すなわち、「しんせつ」とは、“深く切ない”という気持を表わす言葉であるから「深切」と書くべきが当然である。「親切」と書けばその文字の通り「親を切る」という意味になります。

 また、開祖・谷口雅春先生は「成長」という文字は『生命の實相』ではあまり使われず、「生長」が原則であります。「生長」の「生」は生命が縦に天に向かって真直ぐに無限に伸びていく意味であり「生きる」、「生まれる」、「生きている活気凛々の生命」の「生」であります。「長」は生命が横に長く延びる、生命の無限の展開を表わしているのであります。従って、「生長」とは生きている活気凛々の生命の無限の伸長と無限の展開、そしてその縦・横の十字交叉の一点が“永遠の今”であり、この“久遠の今”を生きるのが生長の家の生活であると云う事が判るのであります。「生長」と書かずに「成長」と書くと現象中心の有限の唯物的展開の言霊(ことだま)の響(ひびき)きとなり生命的実感は失われてしまいます。

 『生命の實相』を精読すれば、戦後教育を受けた人なら余計に「親切」ではなく「深切」が、「成長」ではなく「生長」が各所で使われていることがスグ気がつくはずであります。

また、その理由も『生命の實相』全巻を“海綿が水を吸い取る”がごとくに読めば自ずからわかるものであります。ジュンコ君はこういったことに気付かなかったのでしょうか?気が付いていても「深切」・「生長」を使うことは“原理主義”になるとはよもや考えては居たのではないとは思うのですが? 

また、深層心理分析学者は「親切」と無意識的に書くのは“親切=親を切る=教え親(開祖・谷口雅春先生)を切る”という心の表れと読み取るかも知れないのです。ともかく、教団の最高指導者の地位にある人としてはこの文字の使い方、必ず『深切』・『生長』であるべきことについても気を配って頂きたいものであります。(『生長の家』信徒行持要目第五――一切の人に物に行き届くべし)



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[1728] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (38)
遮那王 - 2016年01月08日 (金) 09時04分




● 「私は高校生の頃は“右翼少年”でした。今は“左
翼”に転向しました!雅宣拝」

(『小閑雑感』平成22年5月20日)

<<当時の私が新聞を発行する「出版部」というクラブにいて、高校生が読む紙面に「日本国憲法失効論」などを書く“右翼少年”であり、生長の家の高校生の集まりである生長の家高校生連盟(生高連)にも所属していた>>



(講評)

開祖・谷口雅春先生の愛国論は、先生のお悟り(「無」の関門を超えた絶対実在の絶対認識・“生命の実相”の直感把握)による「中道実相の愛国」であるのであります。マサノブ君は悟りのない、「無」の関門を超え得ない肉体頭脳知で考えるため、「中道実相」の愛国が分からないため、短絡的に「右翼」と見てしまうのであります。

このような魂のレベルのマサノブ君に幾ら話してもマサノブ君の今生における霊的体質から見て「中道実相」の深き霊的理解は不可能であります。そして現在のマサノブ君の『今の教え』は本質は左翼思想であります。しかし、生長の家の最高指導者がこの様な幼稚なレベルであれば、一番迷惑を受ける(真理の誤解を為す)のは信徒たちであります。

依って、開祖・谷口雅春先生の次の御文章の霊的真理が判るまで読んで読んで又読んで神想観を徹底してもらわねばなりません。此れが出来ない、読んで神想観をしても「中道実相の愛国の真意」が理解できないのであれば(自称)総裁の地位を返上してもらうのが真面目かつ純粋な求道心をもつ信徒のためにも必要であるのであります。



* 『無門関解釈』第六則「世尊拈花」の公案解釈P.70−72

<<大日本國體の尊厳無比、宇宙の実相と同体にして久遠無窮なる事実・・・大日本国家は因縁仮和合の国家ではない・・・私は『無』の門関を超えて、釈尊の指頭にある金波羅華が象徴する「実在」の荘厳無二組織完備の大日本国家を把握したのである>>


* 『驀進日本の心と力』P.133

<<金剛不壊の世界・蓮華蔵世界・・・私は此の世界を直接見たのである。直接触れたのである。絶対実在の絶対認識である。その絶対実在の世界は決して無常の『空』なる世界ではなく、金剛不壊にして、『実』なる世界なのである。>>


* 『生命の實相』第4巻生命篇下巻P.2

<<ひとの生命の実相に穿ち入るにはこれを霊的に理会することが必要であります。頭で真理を理会するということは、真理の周囲をどうどう廻(めぐ)りして真理の外的なすがたを知るにすぎませんが、霊的に真理を理会するということは、「生命」の実相そのものに全身全霊をもってつらぬき入り力の本源をつかむことになります。全身全霊をもって、生命の実相につらぬき入るには、この書を頭でよもうとせず、全身全霊で読む、黙読する、朗読する。目で読み、声で読み、声のリズムの中に自分を溶かし込んで読む、そして静かに端座して「神想観」を行じ、行じ終って動き出すとき神(愛)の生活を生きる、かくするとき時、知恵と愛とのそろった生活が実現するのであります。>>



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[1747] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (39)
遮那王 - 2016年01月09日 (土) 11時01分




● 「私は生長の家の教えを十分に理解しているつもりなんですが・・・?雅宣拝」




(『小閑雑感』平成22年5月23日)

<<表面上の類似点を見て、中身も同じだろうと考えると間違うことがあるのである。最近は「コトバの力」とか「心の法則」など、生長の家で昔から使っている言葉を正面に掲げた書物が出回っているようである。教えをしっかり理解したうえで研究される分はいいが、理解が不十分の場合、生長の家でないものを生長の家だと誤解する危険があることを留意されたい。>>



(講評)


 マサノブ君は、<<教えをしっかり理解したうえで研究される分はいいが、理解が不十分の場合、生長の家でないものを生長の家だと誤解する危険があることを留意されたい。>>と書いているのでありますが、このことが一番当てはまるのは、マサノブ君自身であります。ハッキリと申せばマサノブ君は開祖・谷口雅春先生の教えを充分に理解して真理なるものを深く把握しているとは到底おもわれないのであります。

マサノブ君の潜在意識内にある基本的価値観は戦後教育価値観であり、東京裁判史観・戦争贖罪意識・自虐史観であり、左翼唯物論の価値観であります。ただ、総裁としてはそれをカモフラージュするために言葉だけは「唯神実相」・「唯心所現」・「万教帰一」を使っているに過ぎないのであります。『無』の門関を超えることが出来ない単なる肉体頭脳知の思索のみによって『今の教え』を作り出したのであります。

 そして、マサノブ君は、『生命の實相』第33巻P.53の<<自ら変化しない宗教は形骸化して他の宗教にとって代わられる・・・みずから宗教改革しながら進んで行く宗教であってこそ永遠に生きることができる>>のところだけを金科玉条として、その前文の<<悟りそのものは表現形式の奥の奥に形を超えてある・・・説明の仕方は形ですから不断に変化しなければならない>>を無視して、更に“お孫さま”の立場を最大限に活用して真理そのものにまで変更を加え、“生長の家であるものを生長の家ではない”ものへと開祖・谷口雅春先生の御教えとは反対の主張をしているのであります。


その具体的な例の幾つかを次に挙げておきます。

(イ)開祖・谷口雅春先生の「日本国実相顕現」は、民族主義・国家主義・国粋主義思想である。(生命的国家論の否定)

(ロ)大東亜戦争は日本の始めた侵略戦争で「悪」、、それを阻止したのが連合国で「善」である。(東京裁判史観の肯定)

(ハ)特攻隊の人たちを“現世を犠牲にした自殺行為”と断定。(靖国神社の否定と無宗教の国立追悼墓地の暗黙的肯定)

(ニ)天照大御神さまの「天壌無窮の御神勅」を決して説かない。(日本國體の否定)

(ホ)ジュンコ君は「日本の皇室は女性の犠牲の上に成り立っている」と主張。(万世一系の霊的本質をジェンダーフリーの論点に置き換えた。両(自称)総裁共に御皇室を尊崇せず。)

(ヘ)日本神話を“一種の文学作品”となし、現代の「理性」から見て不合理として『古事記と現代の預言』を絶版処分。(左翼的歴史学者の立場) 
 
(ト)「不立文字」とは「真理は完全に文字化することはできない」という意味と説き、「文字化された開祖・谷口雅春先生の御文章は真理の全相を完全には説かれていない。真理の全相を説けるのは、現に生きている後継者の口から発する言葉こそ真理そのものなのだと説いています。(文字の中に生命あり・生命の中に文字あり、文字と生命と一体という開祖・谷口雅春先生の文章芸術の極致とそれによる病・悩・苦の奇跡的解決の事実を否定)

(リ)「万教帰一」を諸宗教の“共通点”の一致とのみ解釈し、世界宗教・イスラームに学ぶ事を強調(“「生命の実相の真理」を鍵として万教を紐解く”という最重要点を無視)

(ヌ)「理念」を説かず「理性」を強調、(最高の唯神実相哲学を唯物論哲学までレベルダウン)。たとえば、“川とは水の流れ”、“炎とは物質の高速度の化学的変化状態”、“地震は当たり前の自然現象”、“戦争とは人殺しのこと”,“日本の建国精神の一つはウソを言わぬこと”等々・・・

(ル)開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』を信奉し、マサノブ君の『今の教え』の“虚説”なる事を指摘する者を「原理主義者」として糾弾した。(“原理主義”思想の導入)

(ヲ)霊と霊界については“生長の家では判らない事になっている”と明言。(マサノブ君は「自分は霊と霊界については判らない」という“個人的見解”を生長の家としての“公的見解”に恣意的に置き換えた。この『置き換え』は随所に見受けられる。)

(ワ)『日本精神』と云う言葉は現代日本では“死語”になっている。使うべきではないと説いている。(歴史と伝統の否定)

(カ)信徒の奇跡的体験談を無視・軽視(生長の家の科学的宗教性を否定)

(ヨ)生長の家出現の意義と目的を説かない。(『生長の家』存在の根本を否定)。

その他、いろいろあるのであります。名前は『生長の家』であっても、その中味は換骨奪胎され全然“似て非なるもの”に置き換わってしまいました。これが三代目マサノブ君の『今の教え』の実態であります。


 ここで、繰り返し申し上げねばならぬことがあります。それは、本当の『御教え』の復活を願って活動する人を「マサノブ君の実相を見ないで批判ばかりしている」と受け取る信徒の人たちが特に“お孫さんは間違ったことを仰るはずがない”というお孫さん信仰者にとくに多いという事であります。

当、ブログの立場はこうであります、マサノブ君その人自身(実相)は素晴らしい円満完全な神の子さまでありますが、その説く『今の教え』の内容は、開祖・谷口雅春先生の『御教え』とは逆の間違った“虚説”が多いということであります。私たちはその“虚説”の誤りを正して開祖・谷口雅春先生の本来の正説に返そうとしているのであります。これをしなければ、“虚説”であるマサノブ君の『今の教え』が開祖・谷口雅春先生の『御教え』であると誤って信じる信徒さんが増えて行くばかりでありますから。

どうぞして目覚めてください。マサノブ君の“新説”や“虚説)”に惑わされてはなりません。開祖・谷口雅春先生の“真説(正説)”を信じて進むのが本当の生長の家信徒であります。どうぞして目覚めていただいて、一日も早く“真説(正説)”にもどしましょう!信徒の皆様、このことはシッカリと理解しておきましょう。再度、掲げます。


*「生命の實相」第14巻・倫理篇下巻 ・第4章< 和解の倫理>より

<<虚説を許さないことをもって、和解と寛容の徳が無いように思うのは間違いであります。また、虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。>>


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[1759] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (40)
遮那王 - 2016年01月10日 (日) 11時17分




● @ 「今日は休日、妻とドライブ・・・炭素ゼロなど考え
ません。楽しく!たのしく生きます!!」

(『小閑雑感』平成22年5月27日)


  A 「今日は休日、ドライブしてドラエもんパンを買いに・・・」

(『恵味な日々』平成22年5月27日)



<<今日は休日を利用して、妻とのドライブがてらに冬仕様から夏仕様にタイヤを交換した。「今ごろ?」と言われるかもしれないが、時間がとれずにいたからだ。その帰りがけに、20年ほど前に住んでいた世田谷・駒沢の地へ寄った。地下鉄の駒沢大学駅から歩いて7分ぐらいの所・・・>>

<<休日の今日は、車のタイヤをスノータイヤからノーマルタイヤに替えました。 ずっと交換しなくてはといっていましたが、忙しくてできませんでした。 今日はお天気もよかったので、代官山の車の店で交換してもらいました。そのあと、以前住んでいた世田谷区の駒沢の園芸店に行きました。その帰り道、駒沢に住んでいたころ、時々行ったパン屋さんの前を通りました。そこは、夫が子供を自転車に乗せて、ドラえもんパンを買うこともあったところです。 懐かしくて、「ドラえもんパン買おう」ということになりました。 車を止めるところがないので、私だけ降りて買いにいきました。>>



(講評)

 当、ブログでも再三再四申し上げました如く、開祖・谷口雅春先生は「私には別荘など必要ありません。私の欲しいのは“時間”だけです」また、「日本の国の現状を思う時、夜も充分に眠れません」そして「日本の国のためにならない生長の家(教団)なんて潰(つぶ)れてしまってもかまいません」と言われたのであります。これに較べて三代目マサ&ジュンの『小閑雑感』・『恵味な日々』の“今日は休日、山荘、ドライブ、映画、外食・・・”との表現について、信徒の皆様はどうおもわれましょうか?

この文章が単行本となって講習会でのテキストとなるのであります。『恵味な日々』では、上記の如き小学二、三年生のごとき日記の書き方であります。そして、普通の人なら毎日の食卓の写真などはやたらには公表しないのに何故ここまでする必要があるのでしょうか?朝食とお弁当(昼食)は紹介されておりますが、夕食の紹介は滅多にありません。(夕食はレストランで肉料理のために掲示できないのでは?と思っている信徒さんの声もあります。)

 マサノブ&ジュンコ君が率先垂範、本気で炭素ゼロ運動を進めるつもりならば“ドライブ”などと云う表現は慎むべきなのに、平気で堂々と書かれているその無神経さ!環境運動は個人的趣味のお遊びなのか!それも信徒の皆さんからの浄財をふんだんに使っての贅沢な三代目ぼんぼん夫婦のお遊びなのかと云う風にも受け取られています。

憂国の気持も、真剣な求道のこころも感じられず、平成大不況の中で病・悩・苦に喘いでいる人達への思いやりの気持もなく平然と自分たちのセレブ生活をわざわざ披露され続けるこの無神経さ!

いづれにしましても、天下の、嘗ては愛国の真柱とまで言われた吾ら生長の家の三代目の指導者が斯くの如き指導者であるとは、ホトホト落胆の極みであります。こういったことの積み重ねがあるから信徒から「更迭」の要求が出てくるのであります。<身から出た錆び>ですね!




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[1768] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (41)
遮那王 - 2016年01月11日 (月) 07時57分




● 「吾が辞書に“国難”と“憂国”なし、天下泰平!!雅宣
拝」

(『小閑雑感』平成22年6月4日)


<<バタバタと日本の政治の流れが変わり、鳩山氏の代りに管直人氏が民主党の総裁、そして第94代の日本の総理大臣となった。妻のブログを読まれた方は、私たちが山梨の山荘へ行ったことをご存じだろう。・・・ 山荘から東京へもどると、先月末に生長の家講習会へ行った青森から、田中道浩・教化部長の絵封筒が届いていた。田中教化部長は近ごろ、絵手紙と絵封筒に“開眼”され、生長の家の投稿サイト「ポスティングジョイ」にもレギュラーとして明るいメッセージを掲載されている。力強い「ねぷた祭」の絵柄が、講習会後の青森教区の“やる気”を表しているようで頼もしく感じた。・合掌である。>>



(講評)


マサノブ君は鳩山政権の誕生(当時)を歓迎したことはまだ記憶に新しいのであります。鳩山政権が行き詰まり、管政権にかわりました(平成22年当時)。生長の家総裁ならば常にこの国の現状と行く末について信徒の皆様に語り掛けねばなりません。

元々、生長の家の信徒の皆様は人並み以上の愛国心を持っているのですから総裁たる人はこれまた信徒以上の憂国の士でなければならず、現下の国難と言われる諸問題に対する『御教え』(真理)から見た指導を信徒の皆様に提示すべきが当たり前のことなのです。それが全然ない。・・・アッ!そうそう、スミマセン、うっかり致しておりました。

マサノブ君は開祖・谷口雅春先生とは正に正反対の左翼主義者がその実体であり、愛国心なんて時代遅れ、日本精神も死語となったというのが基本的スタンスでしたネ! だから、管新首相が「國體といふ言葉は、戦前の國體護持に象徴される『天皇主権』といふものをベースとした言葉なんです。」と以前言ったことなどその通りとおもっており、マサノブ君にとっては愛国陣営の言う国難などはどこにもない。むしろ、現代日本は“国家を超え、民族を超えた国際平和社会の実現、世界政府・世界市民への道を進んでいる。よろこばしい限りではないか!!と安心して『森の中のオフィス』計画の進行に思いを巡らしている。

だから志を同じくする(平成22年当時の)青森県教化部長からの“絵手紙と絵封筒”の到着をみて“やる気があって頼もしい!合掌”と絶賛拍手しているのであります。

正に「吾が辞書に“国難”と“憂国”なし、天下泰平!!」であります。愛国者の信徒の皆さま、開祖・谷口雅春先生の『生長の家』の看板をマサノブ君から何としてでもとり戻さなければ成りません。全国津々浦々から『本来の御教え復活へ!』の声を揚げてください。先ずはオマゴサマ信仰の人に『今の教え』の実体を知ってもらい、聖使命会費一時休止、講習会受講券拒否、疑問点はどんどんと教化部長・連合会長へ質問して行く事です。祈りながら行動しましょう!!




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[1780] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (42)
遮那王 - 2016年01月12日 (火) 08時08分




● マサノブ君、曰く“これは私への自戒ではない。信徒諸君へ贈る慈悲深き私からの「お言葉」と思いて受けよ!(ツウィッター『25日のことば』より)

<<「人の忠告を大切にする人が本当の指導者である。」忠告が「真実である」と感じる時、それに従う事は忠告者に従うのではなく神に従うのだと思え。人からの忠告に怒りを感じるのは自分を神の座に置くからである。>>



(講評)

マサノブ君は、自分の説く『今の教え』を信奉せず、開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』を信奉し、それに照らして『今の教え』に意見を述べ、諫言するものを“原理主義者”として教団の組織から追放して来たのであります。或いはまた、『小閑雑感』や『唐松模様』や『恵味な日々』に対して異なる意見を述べたり諫言する内容のコメントはすべて検閲して公表しません。自分の意見に同調する、賛同するコメントのみを公にしているのであります。

マサノブ君が「日時計主義」を生長の家の大切な信条の一つと考えて、上記ツウィター25日のコトバの如く、たとえそれが批判的な異見・諫言であっても「忠告」と捉えるべきであり、その答えを公開すべきであります。そうでなければ、<「神に従うのだと思え」>の言葉が宙に浮き上がってしまいます。

マサノブ君は、この論理が判らないほどに独裁専制教主となってしまったのでしょうか?また、彼は、“正説”と“虚説”の区別さえも判断できないのでしょうか?「生命の實相」第14巻・倫理篇下巻 ・第4章< 和解の倫理>を、果たしてシッカリと熟読したのでしょうか?

 マサノブ君は『今の教え』に対する忠告・諫言は現体制批判であるとして一切受け付けず、それらの忠告・諫言に耳を傾ける事なく総て一方的に門前払い・シャットアウトであります。原宿本部内はもちろんの事、『小閑雑感』・『唐松模様』・『恵味な日々』のような公開ブログは勿論のこと、

『ポスティイグ・ジョイ』に於いてもその<利用規約>第8条:「禁止事項」に於いて、<(14)宗教法人「生長の家」を批判するなど、その活動を妨げる団体や組織に所属している場合。また、それらの団体や組織が開設するサイトで投稿していたり、自らサイトを開設して当法人への批判や妨害活動をしている場合>と規定してあります。

愛を説き、赦しを説く宗教団体の規約としては妥当ではありません。この規約は、上記の「25日の言葉」の精神に相反するものであります。また、この様な規約を設けておかなければならぬほどに『今の教え』は自信がないのでしょうか?本当に自信を持って居れば批判や異見や諫言を大いに歓迎して正々堂々真正面から反論(“真理”から見ればこうなんですよ)すればよいのであります。それが出来ないから<批判封じの禁止規定>をマサノブ君は作ったのであります。

このように彼は、常に“衣の下の鎧が透けて見え”、言行不一致であり、一党独裁中国共産党国家や金王朝の北朝鮮と同じく完全な専制独裁教主なのであります。物言わぬ幹部の皆さん、お孫さま信仰の信徒の皆さん、開祖・谷口雅春先生の「世界の生長の家」はかくも情けない状態に落ちぶれたのでありますぞ!!



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[1792] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (43)
遮那王 - 2016年01月13日 (水) 07時21分




● 「信徒たちよ、毛利元就の三本の矢の故事を忘るること勿れ!但し、余は別じゃがな・・・」

(ツウィッター『16日のことば』より)


<<互いに助け合い向上しようというのが、私たちの自然な生き方である。私たちの中には、他の人を友として見たいという願いがある。この願いを隠すことなく勇気を持って表現する事でもっと自然な生き方が出来るのだ。>>



(講評)

マサノブ君が自分の義兄・実弟・実姉の人たちを開祖・谷口雅春先生の『御教え』を信奉し、『今の教え』を受け容れない“原理主義者”として教団から追放した事実は今や多くの信徒の知るところとなって来たのであります。彼は、自分の為したことなど忘れたかのように上記の如く<<「互いに助け合い向上しようというのが、私たちの自然な生き方である。私たちの中には、他の人を友として見たいという願いがある。」>>と信徒に説教している。

この様な自己矛盾の烈しい言動は普通の人間なら取れない筈なのであります。毛利元就の三本の矢の如く、第二代目・谷口清超先生亡き後は兄弟姉妹力を合わせて愛国の真柱としての生長の家を「国家の成仏」に向けて大きく貢献する方向へ導くべき責任が後継者としてのマサノブ君にはあるのであります。

それが全く逆の方向、即ち、兄弟姉妹を追放・絶縁し、生長の家教団を縮小・解体・消滅させる方向へと向かわせている事は明確な事実であり、この明白な事実に対して如何にマサノブ君は答えるでありましょうか?

 宇宙の唯一絶対の神様から開祖・谷口雅春先生に降ろされた数々の神示の中の一番最初の神示は『生長の家の食事』の神示(昭和五年十一月四日)であり、その冒頭は<<「聖書に吾らが祭壇にたいして供物を献ずるに当っては、先ず兄弟と仲直りしなければならないと云うことが書いてある。・・・>>となっているのであります。

マサノブ君は生長の家の最初の神示に対して反逆する行動を採ったわけでありますから、これ一つとっても開祖・谷口雅春先生の『御教え』を継承する資格は無くなっているのであります。

その上に、マサノブ君は自作自演の法燈継承劇を強行に演出し、開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎した似て非なる『今の教え』を肉体頭脳知で作り、独裁専制教主として教団全体に恐怖管理体制を敷き趣味と実益をかねた個人的人生目標である“森の中のオフィス”作りに150億円以上の信徒の浄財をつぎ込んでいるのが本当の実態なのであります。

そして、マサノブ君・ジュンコ君ともに平成時代の日本の大国難に対しては全くの無関心、“今日は休日なので山荘へドライブ、自然の中で開祖・谷口雅春先生の『御教え』とはあまり関係の無い理屈っぽい評論文を書き疲れたら、車で自然の中をドライブ、レストランで食事・・・”といったセレブ生活を送っているのであります。

 このようなマサ&ジュン夫婦に神示にある如く“兄弟と仲直りして力を合わせて現代日本の国難に対処して頂きたいと意見・諫言を言っても全く聞く耳はもちません。事、ここまで到れば、現代の国難を憂う信徒の採るべき道は唯一つ、聖使命会費の奉納の一時部停止と講習会受講券の購入拒否であります。現状ではいくら真心込めて浄財として奉納してもマサノブ君の独裁権限で本当の光明化資金として使われず、彼の個人的趣味や私有財産の積み増しに使われるばかりであります。




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[1802] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (44)
遮那王 - 2016年01月14日 (木) 10時08分




● 「わたしは、ヤッターマンなのよ!純子拝」

(平成22年6月15日『恵味な日々』より)


<<原稿の締切日が講習会と重なると、どうしても遅れてしまいます。私の場合は、大分早めに締め切りをセットされているようなので、時間的に余裕はあるようですが、やはり締め切りを過ぎると、気分は重いです。今日は何が何でもという気持で、一日原稿を書いていました。先ほどようやく送り、(ヤッター)という気分です。そんなわけで、朝食とお弁当の写真だけです。>>



(講評)

本当に、何をか況や!であります。ジュンコ君の生長の家・月刊誌への原稿を書いている態度は全く不真面目であると言わざるを得ないのであります。(ヤッター)と云う叫びの気分の背後にあるものは――

(1)彼女は「生長の家」の月刊誌は単なるマガジンではなくて「神誌」と誰言うとなく呼ばれていた“レベルの高い純宗教誌”であったという歴史的認識がないのであります。

(2)開祖・谷口雅春先生はその「神誌」のお原稿を書かれるときは、自心を無にして自らを神様からの言葉・思いが通過するパイプと認識してペンを走らせておられたのであります。このことへの認識など少しもなく自分の肉体頭脳の現在の価値観で考えた事を書いているのが三代目マサノブ・ジュンコ君たちの文章なのであります。だから、いつのまにか「神誌」という呼称が姿を消し、マサ&ジュン君たち自らが世間の常識感覚でとらえた“マガジン”と呼ぶものとなってしまったのであります。

(3)三代目マサ&ジュン君たちにとっての生長の家月刊マガジンの原稿書きは、「株式会社・生長の家」のサラリーマン社長・副社長の必ずこなさなければならない一つの“仕事”なのであります。昭和五年の「生長の家出現の精神」に基ずく“使命感”を感じた真剣な気持をもっての神様からのパイプの自覚に基ずく原稿書きではなく、毎月のこなすべき“ノルマ”としての原稿書きであります。

 ジュンコ君のこのような潜在意識内の無意識の作用によって“ヤッター”という無意識的叫びが沸きあがったのであると感ぜられるのであります。本当は<神様から私に与えられた使命を今日も十分に果たせますようにと祈りながら「神誌」のお原稿を書き上げる事が出来ました>という表現であって欲しいと思いますが、さにあらず。かかる気持で出来上がった文章でありますから、学者的解説文・左翼的評論文・誰でも書ける単なるエッセイとなり、宗教本来の使命たる人々の病・悩・苦の解決に役立つ内容からは大きくかけ離れたものとなってしまって行っているのであります。

これも無理のないことであって、両人とも恵まれた環境の中で育ち、錬成道場での真剣な下座の行の修業も十分でなく、誌友会場主になっての真剣な真理宣布活動の体験も戸別訪問伝道の体験もなく、さらに教化員(地方講師・本部講師)としての真剣な個人指導の体験を持たずに“お孫さまご夫妻”と云う七光りだけで三代目を自作自演して継承と称しているに過ぎない。従って、頭でっかちになるのは止むを得ない事であります。




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[1813] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (45)
遮那王 - 2016年01月15日 (金) 09時26分




● 私は、生長の家・総裁という“職業”に就いております?!

(平成22年6月18日『小閑雑感』より)


<<生長の家の講習会でも空路をよく使うが、行き先が東北、近畿、四国の場合、1時間前後のフライトが多く、離陸したと思ったらすぐに着陸……という感じで、機上でなかなかゆっくりできない。が、九州への往復は、比較的時間の余裕があるのだった。特に、帰路の便は往路と違い、旅先での仕事の準備の必要がなく、解放感に溢れているのだった。>>



(講評)

 上記のマサノブ君の文章の中で注意を引く言葉は,“旅先での仕事”という言葉遣いであります。これまで何回も申し上げましたように、三代目の彼は、講習会やこの場合の長崎の総本山へ大聖師・谷口雅春先生25年祭へ赴く時など、いつもそれは“旅行”であり“旅先での仕事”と表現し、そのような自覚で総裁の椅子に座っているのであります。

開祖・谷口雅春先生の如き“燃ゆるが如き使命感”< 見よ!自分の身体が燃え尽くすまで、蠟燭のようにみづからを焼きつつ人類の行くべき道を照射する。>ということなど微塵も持ってはいない事が分かるのであります。だから、講習会へ赴くことを“小旅行”、そこで講話をする事を“仕事”、その仕事を終えて東京へ帰るときにはヤレヤレということで“開放感に溢れる”気分になると大変正直に書いているのであります。

しかし、吾々信徒から見れば、この様な総裁は不適格者であって辞めて貰わねばならないと思うわけであります。「生長の家」の看板は三代目の彼にとっては“金の成る樹”であり、“打出の小鎚”でありますが・・・。

 誌友会場主が自宅を提供して毎月の誌友会を開く時、地方講師が其処へ行って真理のお話しをし病・悩・苦の相談に乗ってあげることなど、誰一人として“仕事”だと思っている人などおらないのであります。皆、開祖・谷口雅春先生と同じく燃えるが如き使命感をもって神様から与えられた使命を果たしてゆこうと思っているのであります。

マサノブ君の心のレベルは信徒以下であります。一日も早くマサノブ゙君には教団を退去して頂かねばなりません。日本国の大国難の今、全信徒の下からの力の結集が必要な時であります。






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[1823] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (46)
遮那王 - 2016年01月16日 (土) 08時08分




● 「教えの中心は180度反転させました。雅宣拝!」

(平成22年6月17日『小閑雑感』より)


<< 雅春大聖師が昇天されてからもう25年がたったかと思うと、感慨深いものがあります。25年と言えば四半世紀です。25歳だった人は50歳となり、50歳だった人は75歳です。当り前のことのようですが、ちょうど一世代分の時間が経過したと言えます。その間、時代は明らかに変化しているのであります。それにともなって生長の家の運動も変化してきていますが、その中でも教えの“中心”は変化せずにしっかりと引き継がれていることは、皆さんもよくご承知のことと思います>>



(講評)


 マサノブ君は何を以って教えの中心と考えているのであろうか?具体的説明はなく、ただ、日時計主義がそのひとつだと言っているだけであります。

 此の事から考えるとマサノブ君は、開祖・谷口雅春先生が説かれた「御教え(真理)」にも、永遠に変わらない中心部分と時代の変化に応じて変化して行かねばならない周縁部分の教え(真理)があると主張しているのであります。

彼は実相世界の中心帰一真理の具体的展開としての『天皇国日本の實相』という真理(教え)は周縁部分の教え(真理)であって戦後の日本には時代に合わない教え(真理)だから消去して、開祖・谷口雅春先生の国家、憲法、教団史に関して書かれている御著書は焚書とすると独裁的に決定して信徒が読まないようにしたのであります。

彼は次の諸点において実に後継者にあるまじき重大な誤りを犯されているのであります。

(1)宇宙には不変にして普遍なる唯一絶対の一つの真理があって、それが「一即多・多即一」の原理に随って具体的な真理となって展開している。その一つが『中心帰一の真理』であり、更に具体的に展開して『天皇国日本の實相と云う国家体制』となっているのであります。この日本の實相を世の中に知らしめ、地上に実現するのが「天皇国日本の実相顕現=真理国家・日本の建設」即ち「国家の成仏」なのであります。

そしてまた、全人類の心の迷いを去らしめて病・悩・苦を解消し唯神實相の生活価値観へ心の転換(廻心)をはかるのが「「人類光明化」即ち「個人の成仏」なのであります。その一つが「日時計主義の生活」なのであります。

このように「一即多・多即一」の原理を把握できていない人は現代科学の分析知によって中心とか周縁とかにスグ分析したがるのであります。

宗教や哲学の世界に於いて最も大切なものは分析能力ではなく、全体的直感(観)能力であります。残念ながらマサノブ君は分析的能力は優れておりますが、全体的直感(観)能力は劣っているので宗教団体のリーダーとしては不向きであり、学者・評論家の世界の方が向いている人なのであります。


(2)霊的直感能力が劣り、分析能力だけが頼りのマサノブ君は「人類光明化」と云う言葉は抽象的で具体性に乏しいとして「地球環境保護」と云う言葉に置き換え、「日本国實相顕現」と云う言葉もグローバリズム志向の21世紀では国家・民族を超えた「国際平和信仰」のほうが相応しい、と肉体頭脳の分析知で変更を決定したのであります。

彼は未だ「『無』の門」の手前の境涯であって,“日本国の實相”が霊的に悟得出来ていないのであります。開祖・谷口雅春先生の日本国の實相についての御開眼の御表現の言葉――

************

 開祖・谷口雅春先生「金波羅華天皇国日本の實相」に御開眼!
 <<大日本国体の尊厳無比、宇宙の実相と同体にして久遠無窮なる事実・・・大日本国家は因縁仮和合の国家ではない・・・私は『無』の門関を超えて、釈尊の指頭にある金波羅華が象徴する「実在」の荘厳無二組織完備の大日本国家を把握したのである>>(『無門関解釈』第六則「世尊拈花」の公案解釈P.70−72)
 
<<金剛不壊の世界・蓮華蔵世界・・・私は此の世界を直接見たのである。直接触れたのである。絶対実在の絶対認識である。その絶対実在の世界は決して無常の『空』なる世界ではなく、金剛不壊にして、『実』なる世界なのである。>>(『驀進日本の心と力』P.133)

************

 マサノブ君は開祖・谷口雅春先生の上記の御文章の霊的真義が摑めない為に唯物的・非現実的な机上の空論であるが、“耳あたり”だけは良い誰も反対しない左翼的ことば「世界平和」と「環境」に置き換えてしまったのであります。


(3)マサノブ君は、今生に於いては「『無』の関門」を超えることが出来ない霊的体質の人でありますから、『万教帰一』の真理についても、「世界の宗教は一つの神・真理から出てきており、従ってすべての宗教には共通するところがある」程度の解説に終わり、<『生命の實相・唯神實相の哲理>を以って各宗教の教典を“紐とく”事が出来ないのみならず、「<世界宗教・イスラム>に学ぶべし!」とまで言っているのであります。


マサノブ君は<教えの“中心”は変化せずにしっかりと引き継がれている>どころか<教えの“中心”を完全に入れ替えて左翼化した>のであります。このことを信徒に隠すために「日時計主義」だけを強調しているに過ぎないのであります。



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[1832] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (47)
遮那王 - 2016年01月17日 (日) 10時04分




● これが『マサノブ教団』の実態です!純子拝!

(平成22年6月25日『恵味な日々』より)

<< どんなに目立つ選手がいても、全体に力がなければ勝てないのは、何でも同じですね。>>



(講評)

マサノブ教団には目立つ選手が三種類あります。

(1)まず、会議や講習会へ出席を乞われ、仰ぎ見られる立場のマサノブ・ジュンコの専制独裁教主夫妻

(2)「壇上に第三代目・谷口雅宣・純子先生がお立ち遊ばされ、その金口より真理の説法を獅子吼される」と最大級の持ち上げ方をする教化部長や組織幹部の人たち

(3)「宗教界で初めて環境問題を提唱された先見の明ある第三代目・谷口雅宣先生!世界情勢を詳しく『小閑雑感』に解説して下さる第三代目・谷口雅宣先生!」と持ち上げるだけの地方講師の人達


 これらの目立つ選手たちのために教団内の実力ある有為の硬骨の人材は去り、愛国団体からは見向きも去れず完全に忘れ去られ、各界の有識者からも見棄てられ、公安関係者からは穏健な左翼団代に分類され、限りなく霊的レベルダウンを続け、信徒数を減少させ続けて行っているのが現教団(実質的には「雅宣教団」)の実態なのであります。

それに、洵に「不可思議なインターネット講師」と云う人達の存在があります。生長の家真理を広めるという目的を掲げながら、本部の公式ホームページでありながら、全員のインターネット講師が「私がここに書いていることは、本部の公式見解ではなく、あくまでも私個人の意見・見解ではございます。」と断り書きを付けております。そしてその掲載記事の内容たるや、生長の家の教えそのものを説いているものは少なく、個人的私生活日記・個人写真・個人の趣味の紹介・単純なエッセイが殆どで、現代日本の直面する国難ともいえるものに対する憂国の文章は一つも見当たりません。

一口で言えば“極めて幼稚な低レベルのお遊びブログ”であります。これは何故か?インターネット講師の掲載内容はすべてマサノブ君の左翼思想による厳重な検閲がなされているからであります。インターネット講師にすれば、この検閲に触れる内容を書けば身の破滅となります。インターネット講師の書く内容は『小閑雑感』・『恵味な日々』のレベルを超えてはいけないのです。この様なわけで、現在のマサノブ教団の全体的な霊的な力は弱体化し続けて行っているのであります。



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[1841] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (48)
遮那王 - 2016年01月18日 (月) 07時57分




● 「私は“霊的なこと”は、判りかねます。雅宣拝

<<(大分教区)講習会後には、旧日出(ひづ)藩の城跡である「暘谷城跡」という所へ寄った。前日は雨の予報だったのが、青空が出て、夏らしい強い日差しを浴びたが、日陰は涼しく、緑がまぶしかった。その時、妻が頭の上を指差して「おもしろい雲が出ている」と示したのを、写真に撮った。雲は不思議だ。上空の複雑な気流の違いで様々な模様を見せてくれるのだが、人間はその形を見て、入道だとか、イワシだとか、ヒツジだとか、いろいろ連想する。そういうイメージを掻き立ててくれる力をもっている。この時の私には、自分たちの頭の上だけ、他とは違うパターンの雲が浮かんでいるように思えた。秋に見えるイワシ雲より、さらに細かい綿毛のような、やさしい雲だった。谷口 雅宣>>



(講評)

 この写真の感想として気づいたこと

(1)この雲は上記のご文章にもありますように、<<自分たちの頭の上だけ、他とは違うパターンの雲が浮かんでいるように思えた。>>つまり、「三界唯心所現の理」に照らしますと三代目雅宣(自称)総裁の心境の現象化で何らかのメッセージが示されているものと思われます。(しかし、本人は此の事に少しも気付いてはおりません。)

(2)<<細かい綿毛のような、やさしい雲>>と表現されていますが、中央部分の雲は薄い綿のような二つの雲がくっついて空へ登って行っているようであります。このことは・・・?

(3)この雲の写真を大きく拡大してみて見ますと、右端の真中よりスグ下のところの薄い白い雲が見ようによっては、女性の顔に見えます。そして、その女性は腕に赤ん坊を抱いています。その赤ちゃんは両手をあげて前向きに抱かれているように見えます。

(4)さらに、真中の左の所のハッキリした白い小さな雲がありますが、これも子供の顔に見えます。両目、鼻、口が分かると思います。


 このような特徴から考えてこのマwサノブ君が撮影した写真は一種の“心霊写真”と考えられます。「心霊写真」の判読が出来る霊能者ならどのように判読されるでしょうか?じつに意味深長であります。

 マサノブ・ジュンコ両君にとっては“おもしろい形の雲”について、別の人の感想が<生長の家大論争>というブログに投稿がありましたのでご参考までに転載させていただきます。

************

タイトル:<本人は知らない大事件>

大分県講習会が終わった。相変わらずの旅行の帰りには、観光だ
 >>講習会後には、旧日出(ひじ)藩の城跡である「暘谷城跡」という所へ寄った<<
と書いておられる。そこでお二人の出会われた大自然からのメッセージが真っ蒼のお空に妙霊不可思議なる白雲だった。ご自分でブログにその写真を発表されているのだから、仕方が無い。しかしご自分達は何とも感じられていないのが可愛そうでならない。

総裁は写真をご自分の意志でブログにアップされたようだが、それはそうでは無い、潜在意識のなせる技であり、発表しなければならなくなったのだ。雅宣総裁の潜在意識の懺悔の働きか、この写真をよくよく見ると、入道雲の両端から霊雲が昇り何かを大いに訴えている広大な意識霊雲です。そしてその左中程には胎児のような幼子が両手を挙げて雲を見上げている総裁夫婦を見つめているではないですか。以前雅宣総裁が副総裁の時に「宇治の流産児供養塔にお参りしても、救われる場合もあればそうでない場合もある」と発言された。それ以後生長の家では流産児供養や流産児を出さない教えがほとんど説かれなくなった。霊界の流産児は谷口雅春先生に救われ天使となって喜んでおられたのだが、雅宣氏が総裁になられてからは、流産児の天使達は悲しみに包まれていました。そこで雅宣氏が空を見上げたその時妙霊雲が立ち昇りそれに誘発されて霊界で生長の家の転換に悲しんでいる流産児が訴えに出て来られたのだが残念、雅宣総裁には何にも気づかれなかったのです。さて流産児の天使達の次の手は如何に・・・・・


<高級霊界の流産児天使の皆様へ>

現象生長の家は仮の姿、仮の教団であります。又霊界に進まれた流産児の皆様は地上で何十年と生活している者よりも何段も霊的ステージの高い高級霊さまであります。どうか雅宣総裁と言う仮の姿に囚われず、麗々妙々素晴らしい実相世界を見つめて尚高き境地にお進み下さい。我々地上に置いても谷口雅春先生を崇敬する「天使のほほえみ」等の団体もあり流産児天使さまのお幸せとご供養を熱心にさせて頂いております。仮の姿の現生長の家教団はお忘れ下さい。 雅宣教は今や生長の家をかたる環境団体であり霊界とのつながりもございません。   合掌ありがとうございます。

************

 当、ブログの読者は如何お考えですか?マサノブ君は実質的には、雲の発生と形は水蒸気と大気の流れと温度の関係によって決まる人間の想念などとは何の関係もない単なる「自然現象」と考えているのであります。講習会では「三界唯心所現の理」を説きながら、現象世界は唯心所現ではなく、科学的自然現象だと心の底では深く信じているが故に、此の写真をみて霊的な意味など何も考えずに“おもしろい雲”と思って堂々と発表したのでありましょう。霊能力など持ち合わせていない末端信徒でさえスグに気付くことなのですのに何の気付きもなく、「自然現象としてのおもしろい雲」という認識では、決して宗教家とも云えないでしょうし、ましてや、偉大なる開祖・谷口雅春先生の生長の家の後継総裁としては不適格者であることが明瞭に証明されたのであります。


<ご参考までに>

昭和天皇御崩御の際、富士山頂から白鳥の形をした大きな白雲が発生

<<合掌、ありがとうございます。昭和64年1月7日、午後6時35分、昭和天皇陛下御崩御のニュースと同時に、富士山頂より俄かに白雲が湧き起こり、みるみるうちに白鳥の姿となって大空のかなたに天翔けりゆく様子を、全身がしびれるような感動で見送りました。(その巨大な白鳥の形状をした雲を道場職員がカメラに収めました。)>>(生長の家富士河口湖錬成道場・総務 鹿沼景揚先生記)




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[1854] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (49)
遮那王 - 2016年01月19日 (火) 08時14分




● 「私は“平凡”でしょうか?“非凡“でしょうか?それとも“○○”でしょうか?教えてください。雅宣拝!」

(平成22年7月2日『小閑雑感』より)


<<人間の食用になるキノコと有毒のキノコでは、いったいどちらが「平凡」で、どちらが「非凡」なのだろうか? 別の言葉でいえば、どちらが優れていて、どちらが劣っているのか? あるいは、「適者生存」の原則に即して、どちらがより進化をとげているのだろうか? この問いに対する答えは、結構むずかしいと思う。>>



(講評)

マサノブ君が『小閑雑感』(閑な時間にどうでも良い事柄を書く)に発表した上記の文章に対し、極めて適格な的を射た感想が「生長の家大論争」に投稿されていましたので転載させて頂きます。

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<<「食用キノコ」と「有毒キノコ」のどちらが「平凡」でどちらが「非凡」なのだろう?こんなことを 生長の家総裁 の立場で 問題化 しているのであります?!そして、「この問いに対する答えは、結構むずかしいと思う」..なんて 遊んで おられる。どこに、「生長の家」の教え、あるいは<宗教的真理>を感じることが出来るのでありましょうか?マサノブ教祖は「平凡」でしょうか、「非凡」でしょうか? それとも単なる「○○」でしょうか??  これこそを問いたいのであります!!>>

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まさに、何をか況や!人間の病・悩・苦からの救いとは何の関係もない「キノコの不思議」について想いを巡らす、そして思索してキーボードに向かい文章化しブログ転換する。まさに、『小閑雑感』ではなく『大閑雑感』・セレブ坊ちゃまの山荘でのお遊びに他ならず、やがてこの文章が講習会のテキストとして販売されることになるのであります。ここまで現・マサノブ教団のレベルは宗教本来の使命さえ忘れる所まで落ちたのであります。信徒の皆様の正直なご感想は・・・?




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[1870] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (50)
遮那王 - 2016年01月20日 (水) 07時51分




● 「私は“理念が現象に先立つ”! 此の事がどうしても分からないのです!雅宣拝!」

(平成22年7月4日『小閑雑感』より)

<<ここでキノコと人間とを比べるのは早急かもしれないが、最近の研究で興味あるものが報道されている。それは、人類も“進化”の途上にあることを示す研究だというのだ。7月2日付の『ニューヨーク・タイムズ』(電子版)によると、人類でもっとも最近起こった“進化”は、約3千年前に中国の漢人からチベット人が分化したことだとする研究・・・特に驚いたのがこの「HIF2a」という遺伝子で、漢人は9%にしかこれがないが、チベット人の87%がこれをもっているらしい。この遺伝子のおかげで、チベット人は高地にいても赤血球があまり増加しないという。 もしこれが“進化”だとした場合、チベット人は漢人より全体的に「優れている」のだろうか? そんなことはあるまい。もし優れている面があるとしたら、それは「高地にあって生活する能力」という一部だけである。ただしその反面、この遺伝的な適応があったおかげで、別の面ではハンディキャップが生まれているかもしれないのだ。全体としてどちらが優れているかは、誰にも分からないだろう。なぜなら、生存上の有利不利は、その人が棲む「環境」を無視しては決められないからだ。そして、環境は地域によって様々だから、比較して優劣を言うことはできないからだ。しかし、ここでも言えることは、上記のように漢人からチベット人が分化したことで、中国系の人類全体を1つのグループと考えれば、そのグループ全体の環境への適応能力は増加したのである。だから人類は、このようにして多様性を拡大することで、人類全体の生存能力を増大してきたということができるだろう。>>



(講評)

 マサノブ君の上記文章の要点は二つ在るとおもわれるのであります。

(1)人類(生物)の「進化」とは、環境に対する生存能力の増大のことをいう。

(2)チベット民族は漢民族から分化(枝分かれ)した。逆に云えば、チベット民族のルーツは漢民族である。(だから、チベットはシナの一部である事の正当化の根拠となる。)

 やはり、マサノブ君は“左翼唯物論学者先生”であることが再び立派に証明されたのであります。開祖・谷口雅春先生の「御教え」を正しく信徒に説き、時代に伝える人ではないことがこの7月4日の『小閑雑感』の文章によって証明されたのであります。

マサノブ君は、「進化」について、「民族」についての考え方が全て“唯物的・現象的観点”からのものであって、少しも“霊的観点”すなわち「生命の実相・唯神実相哲学」の観点からのものではないと云う事であります。生長の家最高指導者としてはこれでは困るのであります。以下「進化」と「民族」に関する開祖・谷口雅春先生の御著書から要点をまとめさせていただきます。



[T] 「進化」について

(1)霊魂の進化とは、現象世界(地上現象世界・幽界・霊界)に実相人間を顕現してゆく課程をいう。つまり、個生命がわが実相の一層自由な相を顕わして無限生長の道を歩んで行く事である。(『生命の実相』第9巻・P.102−103を参照)

(2)霊魂進化の課程を短縮するのは「念の浄化」であり、そのためには「実相」を悟ることが第一、物質欲に捉われない事が第二、そのためには、物質本来なしの真理を悟るのが第一である。(『生命の実相』第9巻・P.102−103を参照)

(3)地上に於ける霊魂進化の尺度とは
  *他に対する赦し、寛大と峻厳との必要を知る雅量
  *卑しき者、世に出でざるもの、弱きものに対する愛、社会的成功・名誉・地位等に対する無関心によって伴われる愛
  *哲学的思索の傾向、霊界の神秘を知らんとする熱望、その神秘に貫き入る努力
(『生命の実相』第9巻・P.120を参照)

(4)個生命(霊魂)の進化によって自我は薄くなり、しかし、益々個性的になる。霊魂が一生涯かけて獲得し、征服した全ては霊魂の個性をそれだけ明瞭かつ強大にする。個性は彼のみのものである。(『生命の実相』第9巻・P.135、『人間死んでも死なぬ』P341を参照)

(5)地球やその他の天体は人間の霊魂が修行し向上し、内在無限の神性をより多く発揮する場であると共に、より一層進化向上した霊魂の指導を受けて運命を修正して行くのである。(『生命の実相』第9巻・はしがきP.2参照)

(6)魚族、鳥族、象族等が「種」の進化の共通のものを代々受け継いで行くが如くには、人間は、種族全体が、個人の知的精神的発達を代々受け継いで行くことを証明する何物もないのであって、人間は、個々の霊魂が一人ひとり進化するのであります。(『別冊・真理P67−68参照)



<コメント・注>

『生命の実相』第9巻霊界篇・上巻には、「進化」という文字が数えてみますと151回ありました。数え落としもあると思いますがそれほどまでに「個性命(個々の霊魂)の進化(霊界を含めての現象世界に於ける実相顕現の過程=プロセス)」というものが重要なものである事がわかるわけであります。、「個性命(霊魂)の進化」に関しては、マサノブ君の『今の教え』では意識的に回避しているのであります。その理由は彼自身が左翼唯物論思想が基本でありますので、<霊と霊界>のことは、「自分には解からぬ(=信ぜず)」と講習会での信徒の質問に答えているのであります。



[U] 「民族」について

(1)国家というものの本質(本源)は「国家という理念」である。従って、日本と云う国は「日本国家なる理念」が顕現したものである。

(2)民族というものの本質(本源)は「民族という理念」である。従って、日本人・日本民族は「日本民族という理念」が顕現したものである。

(3)「理念は現象に先立つ・理念は現象化する」という哲理から考えるとき、<日本民族とは複数の渡来民族によって形成された「多民族国家」という今日の一般常識は唯物論の現象的観察としては頷けるかも知れませんが“理念の哲理”から観ますと“観方(みかた)”としては極く浅い不十分なものであります。

(4)「日本民族なる理念」が、「日本精神」なるものを霊魂としての各人の深層意識下に醸成していた人々を地球上の各地から引き寄せ現実の「日本民族」を形成してきたのであります。「日本民族なる理念」に心の深層(無意識の意識層)に於いて共鳴を感じた人々(霊魂)が同類親和という波長共鳴の宇宙法則の作用によって日本民族を形成し、かくの如き原理によって、外国人に生まれても日本に帰化し日本民族の一員となることに魂の歓びを感ずるのです。

(5)このように、日本人のこころの深層には、皆この「日本民族という理念」・「日本民族精神」・「日本精神=中心に帰一する心・大和の心・雅の心・清き明かき心等々」が存在しているのです。この一つの共通点によって、日本人は心の中で強く結ばれていて、「理念としての日本国家なるもの」・『日本の国家理念』が(無意識的であっても)理解出来ているのであります。ここから理論と理屈を超えた愛国の感情が出て来ているのであります。

(6)「日本民族精神」は、言葉を換えれば『神ながらの道』であり、この精神を心の最深奥(深層意識)に日本人が皆大切に保持して居るが故に、いつの時代でもお伊勢まいりも途絶えることなく、また、平成の今も、各家庭の宗派は異なってもお正月には神社へ初詣に出かけるのです。日本民族はその外面的なルーツを見れば渡来民族で、どこから来たのであろうか、何時ごろ渡来して来たのであろうか,と云った“ルーツ探求”に興味と関心を向ける人々も多くおりますが、それよりも形而上的な日本人・日本民族の最深層意識「日本精神=神ながらのみち」に注目すれば、自ずから日本民族は「霊的単一民族」である事が判るのであります。(付言しておきますれば、以上の事柄が理解できますと、国家護持のために生命を捧げた英霊の魂は皆、“神ながら”の方式に従って、靖国神社に祭祀されることを深層意識として望んでいることであり、靖国神社の国家祭祀は当然のことといえるのであります。)

(7)結論を纏めますと、「日本国の国家理念」が「日本民族の民族理念」として展開し        て、大宇宙の高級神霊界の摂理と経綸 によって、個生命としての霊魂の心の深奥部に「日本民族の理念」を植え付けられた人々を高級神霊界の眼に見えぬ摂理の糸が日本の国土へと引き寄せ手繰り寄せて出来あがったのが現実の日本民族であります。その目的とするところは、アインシュタイン博士やポール・リシャール博士の直観せる如く、この地上に実相の真理国家の映しをまず一つお手本として顕現せしめ、それを世界に敷衍する事であります。
(詳しくは開祖・谷口雅春先生の『第二青年の書』・『限りなく日本を愛す』をご精読下さい。)



<綜合コメント>

マサノブ君・ジュンコ君の僅か一ヶ月の『小閑雑感・恵味な日々』からこれだけの“語録”が出来たのであります。この「語録集」を読めば、マサノブ君は開祖・谷口雅春先生の「御教え」から如何に程遠い考え方をしている人であるか。一口で云えば、“左翼唯物論”をオブラートに柔らかく包んだ価値観を持っていると言う事が今やハッキリと浮かび上がったのであります。マサノブ君には開祖・谷口雅春先生の思想はないと考えた方が当っているのです。だから、『生命の實相』等は真剣には読まないのです。目的は生長の家を日本国家にとって有害無益な存在とし、日本人の心から国家意識・民族意識・日本精神(大和魂)を消して世界市民意識にして行こうとしているのであります。この様な人に開祖・谷口雅春先生のすばらしい「生長の家」は任せられません。全国の信徒のみなさま!

マサノブ君には即刻退陣していただき、新しい総裁・本当の法燈継承者先生の元に真の日本の国のためになる生長の家を再建いたしましょう!行動を起しましょう!



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[1877] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (51)
遮那王 - 2016年01月21日 (木) 08時21分



●  肩の荷を降ろす?開放感!

(平成22年7月15日『恵味な日々』)

<< 木曜日の休日でしたが、原稿があったのでずっと原稿書きをしていました。教修会が終わってから、すぐ原稿にかかり、ようやく今日の夕方メールで原稿を送りました。肩に重くのしかかっていた荷を、ようやく降ろして、久しぶりに解放感を味わっています。私は原稿を書くとき、まずテーマにそって心に浮かんできたことを、何でもどんどん書いていきます。それから、重複しているところや、表現があいまいなところ、論理が飛躍しているところなどを直していきます。 その過程で、自分がよく理解していないことが分かったり、あるいは疑問点などが出てくると、テーマに関連した本などを読んで確かめます。そんな作業があるので、一日で仕上げるというわけにはいきません。書いた原稿を、一日、二日と置くことにより、客観的に見ることが出来るようになり、独りよがりなところは変えていきます。それでも、難しいテーマの時には、混沌として深い霧の中にいるようなときもあります。そういう時は、霧が晴れることがあるのだろうかと思います。ですから、仕上がった時は、格別な解放感を味わうのです。>>



(講評)

 このようにして書き上がったジュンコ君エッセイ文が毎月の月刊誌(「神誌」ではない!)に掲載されるのであります。タイトルは“肩の荷を降ろす”であり、毎月の原稿書きは何か自分に課せられたノルマの達成責任としての仕事との感を受けるのであります。

そしてまた、<テーマにそって心に浮かんできたことを、何でもどんどん書いていきます。>とありますが、今までの月刊誌に発表された文章を拝見しても、人生の深刻な病・悩・苦の解決を求めて宗教の門を叩く人の存在など全く眼中に無いような一般主婦のエッセイ文のような文章内容であります。特に宇宙大生命(サムシング・グレート)の御意志によって開祖・谷口雅春先生を通じて地上に出現せしめられた『生長の家』の今一つの大きな目的は“国家の成仏”であったのであります。かつての民主党政権が招き寄せ進行せしめた種々の国難のことなどはジュンコ君には心に浮かばなかったのでしょうか?<国難というコトバで認めるから“国難”になっている。実相世界には国難などは無いのであるから、そのままで善い。そのままで善いのだ。非実在のものは自然消滅するのであるから。>としか思っていないのでしょうか?

国難の自然消滅は確かにそのままにして置けばなくなりましょう。ただし、それは日本人の日本国家・日本民族意識がなくなり共産中国に併呑されれば国難はなくなりましょうが、それは果たして宇宙大生命(サムシング・グレート)の御こころでありましょうか?開祖・谷口雅春先生の御教えでしょうか?断じて『否』であります。

<難しいテーマの時には、混沌として深い霧の中にいるようなときもあります。そういう時は、霧が晴れることがあるのだろうかと思います>と、ありますが、<そのようなときには暫し神想観をさせていただきます>とはどうして書けないのでしょうか?また、常に国家のこと、人類の病・悩・苦について宗教家として常日頃からこころを致しておれば、どんな難しいテーマでもそれに関連する開祖・谷口雅春先生の御著書の中の章句が先ず浮かんでくるはずであります。ジュンコ君には“宗教・信仰の導師”として、それに相応しい『生命の實相』に基づいた内容の文章を書かねば決して自称にしろ“白鳩会総裁”などとは呼べないのであります。そもそもマサノブ・ジュンコ君夫婦は信徒の浄財のお蔭で物質的には悩み無きセレブ生活を送っているわけですから、国家のことや末端国民のことなど平素から大してこころに止めていないのでありましょう。

<疑問点などが出てくると、テーマに関連した本などを読んで確かめます。>とありますが、関連した本の中には開祖・谷口雅春先生の『生命の實相』その他の御著書は入らないのでしょうか?それこそ「原理主義」に陥る危険性が大であるからなので開祖・谷口雅春先生のご本はあまり読まないことにしているのでありましょう。ましてや、近い将来、聖典『生命の實相』や聖経『甘露の法雨』は原宿教団からは消えてなくなるのでありましょうから。

 それにしても、私たち末端の信徒が読んでもマサノブ・ジュンコ君夫婦の文章には何の感銘も受けず、魂に響いてくる言葉や章句はまったくありません。深刻な人生苦など救われるわけもないのであります。どこにでもあるような学者・評論家・主婦の片手間エッセイの類であります。洵(まこと)に残念であります。<ここまで現在の「生長の家」の霊的レベルが落ちに落ちたとは!>。多くの正統派信徒達が魂を熱くして繰り返し読んだ『生命の實相』の御文章を二つ掲げさせて頂きます。


「生命の実相」第1巻P.15−16

<< ところが、埼玉県から霊眼によって、わたしが『生長の家』の原稿を書いている現場を透視した人があって、わたしが霊感によって書くということを客観的に証拠だてた人があります。それは埼玉県の笠原政好君であって、昭和6年6月1日付で報告が来ています。「 神想観を実修して、大虚無の境地に入っていた。ふと目に映じ出した、私の処から西南に当たる方向に先生の姿が髣髴(ほうふつ)として見える。実はまだ私は一度も先生のお顔を拝見したことはない。それが霊の性質かもしれないが確実に見える。さっきから先生は広間の片隅で穆々(ぼくぼく)しく机に向かっておなじみのペンを持って何かお考えを書いている。姿勢よく座し、しかとペンを握り十分に含ませたインク、あたりの光景は手に取るように見える。光明は先生の軀(からだ)から無限にも放出する。ちょっと弱そうな容貌、しかしその熱烈さ。『道』に奉ずるの御決心は一目瞭然である。生き生きしたペンはソロリソロリ走り出した。まだなん行とも書かぬうち先生は無我のうちにおかれ、またたくまにペンのスピードは前とはまるで変わってくる。走る走るあらっと思う間もなくぜんぜん先生とは違った人になっている。口元の締まった、あご髯(ひげ)の胸まで垂れ下がった、見るだに気高き霊人だ。あれ先生はどこにと、見詰めた。ああ先生は霊人の内に溶け込んでいるのだ。霊人は全支配権を握り、わき目もふらず書を進めてゆく。あれなんという、推敲(すいこう)もせずそしてペンの早さは目も及ばぬほどだ。まあ不思議なこと一体どこから来た方だろう。霊人の軀から神々しい霊光が放たれ付近は光明浄土と化した。静寂また静寂、付近はまだ霊人の占領地となっている。やがてペンははたと止み、霊人はどこにか姿を消してしまった。目的の文ができあがったらしい。後は先生の独座とかわった。やれやれ重荷でもおりた様子。籠の鳥が放たれたように急にのんびりして今書き終わった短文を精読している。精鋭な先生の視力はやたらに文字に引きずられてゆく。二回も三回も熟読してますます神秘の霊感に打たれている。『無理はない』渺漠(びょうばく)の領境に導かれるどころか独専霊人の書だ。数十分の間私は恍然としてこの光景につりこまれて、ひたすら現象のなり行きを見つめていた。先生はこれを整理してまた他の目的に向かってお働きになられた。(付言)、先月14日にも神想観実修のおり、目に映ったことがあり、昨夜も同然御動静を拝し、当夜はまたこんなに勝れた光景にまで出くわしました。政好は年若く、世の経験に乏しいものです。ですがすべてを政好の感性の所産と思し召しくださるな。私は初めて自分の偉大さを知る。
私は私の背後にもやはり常に私を操ってくださる方のいることを信ずる故に。頓首。(12月30日夜)」 >>



 「生命の実相」第25巻・教育実践篇上巻(布製携帯版P.104-106)

<<「生長の家」で説くところの宗教的真理は、多くの善き宗教の真髄をなしている宗教的真理と同じであり、むしろ多くの宗教の説く真理に開眼を与える底のものでありますが、何処が違うかと言うと文章によって一喝(いっかつ)を与える点であります。本を読めば病気が治るということも、文章による一喝によって、読者の生命の実相が開かれて心の病気が治る。肉体の病気の治るのも、この随伴的結果なのであります。

 <この生命の実相>というものは、今までは文字・言語のよく説くところではない。言詮不及(ごんせんふきゅう)・不立文字(ふりゅうもじ)であると言われていた。それを文字を立て・文章を立て・言葉の力によって生命の実相を悟らせるようにさせた所が、生長の家の独特なところであります。

 今までは、真理と言葉とが二つに分かれていて、言葉や文章は真理を完全に表わすものではない、と思われていた。ところが、生長の家では、言葉と真理・文章と実相とをピッタリ一致させた。

 古来、直接説法・以心伝心でないと悟ることも出来ない真理を、ただ文章を読むだけで悟れるように、文字の中に生命あり・生命の中に文字あり・文字と生命と一体と言うような域にまで達せしめ得たのだろうと思います。

 さればこそ、本を読むだけで直接参禅しても得られないような悟りに到達する人が多勢現われて来て、その影響の及ぼすところ肉体の病気も治り、境遇・環境まで変化してくるというようになって来たのであります。

 生長の家は、宗教としては今までの多数の宗教に対して敢えて別異を説くのではない。根本に於いて・真理に於いて同じことでありますけれども、その表現が今迄に見ないような強い迫力ある芸術になっている。

生長の家では、活字が道場である。文章が教化の師である。活字の印刷した新聞紙の行くところ、活字の印刷した小冊子の行くところ、其処が道場化して人を救うということになるのであります。>>


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[1888] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (52)
遮那王 - 2016年01月22日 (金) 09時53分



●  健全なる“生長の家・出会い系サイト”!!されど・・・?

(平成22年7月18日『ポスティング・ジョイ よろこび日記』)



<<コミュニティ名「よろこび日記」
☆宇治大祭での大オフ会開催のご案内☆
登録日:2010/07/18 登録者:ルレーヴさん 合掌 神の子の皆様、ありがとうございます
来月に開催されます宇治の大祭にて、大オフ会を開催致します
今回は、全国からjoyのメンバーがたくさん宇治に集結します
この機会に、バーチャルの世界だけでなく、リアルの世界で再会の喜びをおおいに楽しみませんか?また、新しい世界の楽しみが味わえると思います
開催については下記の通りです。
                    記
日時:2010年8月18日(水)18:00〜21:00(予定)
場所:宇治塔の島 全国有名盆踊り大会 会場後ろ辺り
参加:自由
盆踊りは、18:20〜21:00まで開催されてます
joyメンバーの何人かは、出場されますのでお楽しみに
当日は、joyメンバーだと解かるウチワやイラストポスターを持って会場でお待ちしてます
参加ご希望の方は、会場内では食べ物は販売してませんので、夕食は各自済まされてご参加下さいませ
また、お手製のウチワやjoyメンバーだと解かる物を持参されての参加もOK(オリジナルJOY作品のご参加楽しみにしてます)
JOYを参加検討中の方もOKです(この機会に、JOYで大活躍の皆さんの素晴らしさに触れる良い機会だと思いますし、素晴らしいご縁結びが出来ると思います)
塔の島を笑顔の光の輪で明るくしましょう
大祭期間中は、たくさんのjoyメンバーが奉仕参加されてますので各々で情報交換しあって、再会する事も出来ると思います
多くの皆様のご参加を心より楽しみにお待ちしております。お気軽にどうぞ、ご参加下さいませ。再拝>>
                                                                 
(講評)

 現・原宿教団本部のインターネット公式サイト「ポスティング・ジョイ」に上記のような投稿がありました。生長の家青年の真面目な“出会い系サイト”として拡大されて行く事は大変善いことだと思うのであります。しかし、一点だけ苦言を呈しますと、「ポスティング・ジョイ」の投稿には“生長の家の青年”としての情熱が全く無いのであります。開祖・谷口雅春先生の御著書から学んだ国家観・中道實相の愛国心・日本国家の現状を憂うるこころ・熱烈な求道心などが全然ないという点であります。マサノブ君は「侵略戦争論者」であり、「民主党の熱心な支持者で」あり、開祖・谷口雅春先生の御著書での教えを自分の人生観・国家観・世界観の真柱と信奉する人を「原理主義者」として排斥しているのであります。

この様なわけでありますから、現代の生長の家青年会は本来の「中道實相の愛国心」を涵養して「天皇国・日本の實相顕現と真理国家・日本の建設」に青春時代の暑き情熱を捧げた嘗ての生長の家・青年会の俤(おもかげ)は消え去って、一般世間のミーチャン・ハーチャンとおなじチッポケな私生活の幸せを求める趣味と教養の小市民的青年会と成り果て低落の道を進み、その行く先は、マサノブ君の隠された目的、「共産中国への属領・属国化」であるのであります。

現・生長の家青年全員に告ぐ!開祖・谷口雅春先生の次の御文章および「聖歌」を声高らかに 毎週の青年会の例会で唱和して頂きたいのであります。これでこそ「真性・生長の家」の青年なのであります。




「第二青年の書」第二十章<人類光明化運動の選士を讃えて>


<< 人類光明化運動の選士よ、神に選ばれたる若人よ。諸君は神武天皇建国の日本国に生まれたることを誇りとし、慶びとし、この誇りと慶びとを若き人たちに分かち、子々孫々に伝えることを名誉ある使命とするのである。

諸君は、天祖、彦火瓊々杵尊(ヒコホニニギノミコト)の天降りましてより、神武天皇に至るまで、約そ一百七十九万二千四百七十余年の古き伝統をもて建てられたる日本国に生まれたることを誇りよし、慶びとし、この誇りと慶びとを若き人たちに分かち、子々孫々に伝えることを使命とするのである。

彦火瓊々杵尊(ヒコホニニギノミコト)の天降りを歴史的事実にあらずと疎(うと)んじてはならないのである。諸君は天照大御神の御孫の天降りとは、天球すなわち大宇宙を照らし、それを光明化する理念の天降りであることを知るのである。理念は現実に先立つ、日本の現実はいまだ理念の完全さに達せずとも、宇宙を照らす大理想をもって天降り来たったことが日本民族の使命として斯くの如き神話を創造して代々相伝承して来たったことが尊いことを知るのである。

諸君は知る、天照大御神の孫の降臨とは、真子(まご)の降臨であることを。それは神意の伝承、「まことの理念」の伝承のことである。この尊き天意の伝承の下に日本国は肇(はじ)まったのである。・・・

神武天皇の大和国への困難なる御出動は此の神示に基くのである。その塩土老翁こそは、生長の家の人類光明化運動を起こしたまえる本尊、塩椎神(しおつちのかみ)、住吉大神であり給う。蓋(けだ)し、塩土老翁は常に、日本の重大事きたるときにあらわれて、国家の安泰のために導きたまうのである。

生長の家の信徒たる青年は、塩土老翁の分身分霊として、日本危急の場合に処して国を護らんがために、神縁ふかく、神意に導かれて引き寄せられたのである。まことにも諸君は祖国の危うき際に処して国を護らんがために神に選ばれたる選士であるのである。諸君よ、必ずその神縁を空しくすることなく、大神の召喚(しょうかん)に応(こた)えまつりて、祖国守護の第一線にわれらと倶(とも)に立たんかなである。・・・・

 佛人ポール・リシャルは『告ぐ!日本国』なる文章で日本国を次の如く讃えて日う。

「諸々の神に愛護せられたる国よ、諸々の神もまた汝に於いて互いに相和せり。異なれる神の宗教は、至る所に互いに相呪うを常とするに、独り汝の拡量なる奉仕のみは、互いに他を排する事を為さずして、却って相補全せしめたり。異なれる神の宗教とは何ぞ。一は神の内在を教え、自然の諸々の生命が躍動する空間に於いて、祖先が生動する時間に於いて、万種に通ずる一如を教うるもの、他は即ち神の超在を教え、時空を超越し、永遠の寂静裡に至上の祝福を司り、独一の中に万殊を蔵するを説くもの是なり。而して世界に於いて流血の汚れに染まず、『地に平和あれ』と宣伝するの権利を保有するものは、唯だ此等両個の宗教のみに非ずや・・・」、

諸君は、万国大和の使命を有する日本国に生まれたる事を誇りとすると共に、“万殊に通ずる一如”を把握し、“独一の中に万殊を蔵する”万教帰一の教え「生長の家」に来て、万国偕和(かいわ)の“理想世界”建設運動に参加できた事を光栄だと思わなければならないのである。

まことにも諸君の幸福と光栄とは、諸君が「個我」に捉われず、自己放棄によって全人類の願いに生きる事によって、自己拡大が行われたことである。真の民主主義は、「個我」を伸ばす事に懸命であるような自己中心主義ではないのである。戦後の多くの国民は、輸入された民主主義を穿(は)きちがいて、自己の利益追求主義と肉体的快楽追求主義とを民主主議だと考えて小我を自己放棄する事にとって得られる内的自我の“自己拡大”の真の魂の悦びを知らないのである。・・・諸君は既に自己中心主義の小我の殻を脱ぎ捨てて人間の“蛹(さなぎ)”状態から飛び出して全人類を平和ならしむる人類光明化運動の使徒として飛躍したのである。素晴らしいかな諸君!!




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[1900] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (53)
遮那王 - 2016年01月23日 (土) 12時10分




●  創世記第一章と第二章の霊感によらない“左脳的解釈”

(平成22年7月13日『小閑雑感』)

<<『創世記』の第1章の天地創造と第2章4節以降の物語は、互いに大きく食い違い、矛盾している。だから、聖書研究者の間では、これらの話は、それぞれ別の作者の手になるということが、大筋で合意されているのだ>>



(講評)

マサノブ君は、次の二つのことを主張しているのであります。
(1)創世記第一章と第二章とは矛盾したことが書かれている。
(2)創世記第一章と第二章とは作者が別である。

マサノブ君のこの様な考え方は一体『生命の實相』のどこに書かれているのでありましょうか?彼は全く『生命の實相』を真剣に読んでいない。“どこかに間違いはないか?”と欠陥探しの観察眼で拾い読みをしているのであります。創世記第一章は神(サムシング・グレート)による完全円満、至美至妙なる「真創造の実相世界」のことが描かれているのであり、創世記第二章は人間の「迷い(迷妄)の心による偽創造の現象世界」のことが描かれているのであって、このことは『生命の實相』第11巻を読んだ人ならば誰でも知っていることでありますのにマサノブ君は知らないが如くであります。

開祖・谷口雅春先生は明確に『生命の實相』第11巻P.56の2行目に<ここにわたしは一つの『迷い』の萌芽を発見するのであります。>と書かれているのであります。マサノブ君はこのような重要章句に心が止まらず、完全な左脳的批判の心で読んでいるのであります。だから、上記の如き<『創世記』の第1章の天地創造と第2章4節以降の物語は、互いに大きく食い違い、矛盾している。>という信徒以下のレベルの解釈しか出来ないのであります。

可愛そうなことには、マサノブ君は自分の文章が信徒以下のものであるとは決して思っていず、逆に博学多識であることを「小閑雑感」を通じて自己顕示しているのであります。彼は「迷い・迷妄・無明」のことなど全然解っていないのであります。マサノブ君は<聖書が『霊感』で書かれたこと。開祖・谷口雅春先生はそれを霊感で以ってその真意を解釈された>こととは考えず、<聖書は古き時代の人間の肉体頭脳知の創作物語であり、自分もまた優れた左脳で解釈する。それが“今の教え”である。>といっているのであります。こんなものは、本来の正しい『生長の家』の教えではないのであります。




創世記第一章と第二章の霊感によらない“左脳的解釈”(2)

(平成22年7月15日及び7月20日『小閑雑感』)

<<結論を先に言ってしまえば、『創世記』第1章は非対称性の原理が支配的であり、第2章はどちらかというと対称性の原理が色濃く出ている、というのが私の見方である。ただし、これはレヴィ=ストロース氏の『神話論』の内容とはあまり関係がない私独自の見解である。>>

<< 前回、本テーマで書いたときの結論は、『創世記』の第1章と第2章以降の記述の違いを分析すると、「第1章は非対称性の原理が支配的であるのに対して、第2章はどちらかというと対称性の原理が色濃く出ている」ということだった。このことは何を意味しているだろうか? 以前、「対称と非対称」や「“わかる”ということ」について本欄で書いたときに強調したことの1つは、人間の心の中では、現在意識が主として「非対称性原理」によって動いているのに対し、潜在意識は「対称性原理」を特徴とするということだった。そして、人間はこの双方を本来兼ね備えている。ということは、天地創造の物語としては、どちらにも立派な存在意義があるのである。言い直せば、天地創造について古代から2つの異なった言い伝えが併存し、双方が重視されてきたのは、双方ともに人間の心の要求に沿うものだったから、ということになるのではないだろうか。>>



(講評)

 マサノブ君は<<『創世記』第1章は非対称性の原理が支配的であり、第2章はどちらかというと対称性の原理が色濃く出ている、というのが私の見方・独自の見解である>>と書いているが、一般信徒の中で此処に書かれている事の意味を理解できる信徒が果たしているであろうか?

“非対称性の原理”だとか“対称性の原理”という日常聞き慣れないコトバを使って信徒を対象とした文章を書くこと自体がそもそも間違っているのであります。この様な言葉を使ってしか「創世記」の解釈が出来ないマサノブ君はどのような人物なのか?果たして生長の家の指導者(総裁)たりうる力があるのだろうか?答は断じて「否(NO)!」であります。詳しく云えば、――

(1)「宗教家」と自称して居るが、実態は理屈を好む“学者”・“評論家”である。

(2)そして、自分がいかに“博学多識”であるかを示そうとする自己顕示欲の旺盛な人間である。

(3)『聖書』のような霊的次元の高い聖典(教典)といえども所詮は人間の頭脳によって書かれた文学作品であって、霊感で書かれたとは認めない人である。

(4)完全に唯物二元論の価値観の人であって、“悟りの世界”については今生では到達不可能な霊的体質として誕生したひとである。だから、理屈の世界・左脳的思考の世界でしか生きられないひとである。

(5)“悟りの世界”に近づけない人であるから、霊的・宗教的なことを現代人に分かるような平易な言葉では解説できない。望む方が無理な人である。そこで自己満足・自己顕示の為に難解な言葉を使うことになるのである。

(6)この様な難解な、信仰の深化とは直接関係の無い文章の多い本を、講習会のテキストとしてマサノブ君は強引に信徒に買わそうとする。信徒が買い渋ると書籍中売り係は「寄付すると思って買って下さい!」と迫る。信徒は買っても読む気もしない。正に“寄付!”。喜ぶのは、販売冊数に応じたリベートを貰っている?教化部長と印税が入るマサノブ君だけである。






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[1912] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (54)
遮那王 - 2016年01月24日 (日) 10時14分



● リアルとバーチャル、ハテ何のことやら?バーチャルは“お孫さま信仰の婆ちゃん”か?!

(平成22年8月11−16日『小閑雑感』)


<<「ネット時代の運動を考える」・・・ 前回の本欄で考察したリアル組織とバーチャル組織の特徴を表−1にまとめてみた。言葉の使い方を前回から変えているところがあるが、本質的な意味は変わっていないと思う。リアル組織の外貌は実名的であるのに対し、バーチャル組織は匿名的である。リアル組織の位置は地理的であるのに対し、バーチャル組織は地理的には存在しない。リアル組織の構造は階層的だが、バーチャル組織のそれは非階層的であり、上下関係の意識が薄い。リアル組織の基盤は功利的だが、バーチャル組織の基盤は親和的である。リアル組織の結合は傾倒的(強く、深い)なのに比べ、バーチャル組織は非傾倒的(弱く、浅く)に結合している。>>



(講評)

<<或る宗教の開祖の言葉に「学者と金持ち後廻し」というお言葉があります。8月4日から11日まで6回シリーズで「生長の家原宿教養大学」で、夏季特別公開講座としてマサノブ君の“唯物的経営組織論”が公開されたのであります。ここでマサノブ教授は、持ち前の優れた?肉体頭脳による左脳思考で全国展開している現在の原宿教団の組織、すなわち「相愛会」・「白鳩会」・「青年会」という運動組織、さらに「地方講師会」・「教職員会」・「聖使命会」と言った“会”と名前の付いているものの内容と相互関係と意志伝達経路について分析し、さらに「ネット社会」の動きと関連させた“経営学的組織論”を展開して居るのであります。そして結論としては<ネット社会の運動はムツカシイ!>と言っているのであります。

この「組織論」はやがて『小閑雑感』シリーズに単行本化され、講習会のテキストとなり、本部講師・地方講師はマサノブ教授や教修会でその講義を受けた教化部長を通じて居眠りしながら聞かされることでありましょう。

 ここでも前・第56話の「非対称性・対象性」と同じく、マサノブ教授の使う「リアル」とか「バーチャル」といった博学を誇る?言葉を果たして末端の一般信徒が正確に理解できるでありましょうか?せいぜい“お孫さま信仰”の高齢者信徒の皆さんは、「さすがはオツムの優れたマサノブ大先生、わたしたち“バーチャン(=バーチャル)”のことを常に心に掛けて下さっている。まことにありがたいこと。だけど、“リアル”とは何のことだろう?焼肉の“レア”のことかしら、だけど大先生ご夫妻とも肉食はなさらない筈だけど・・・“ネット社会”とはその通りですわね、自然環境保護を人生目標としている大先生“防鳥ネット・防獣ネット”のこともよくご存知ですこと!」と思う人も少なくないでありましょう。

 開祖・谷口雅春先生は難しい哲学用語でも庶民の平易な日常言葉で説いておられます。(『西田哲学との比較に於ける人間論』(『人間死んでも死なぬ』P.332)。マサノブ君は逆に容易(やさしい)な内容の話でも難解な横文字で敢えて表現するのであり、読者のことなど考えずに博学多識を見せ付けているに過ぎないのであります。

 今回の6回シリーズ「ネット時代の運動」の読後感は、

(1)相変らずマサノブ君は宗教家ではなく、学者・評論家の道に適した人である。

(2)温かみの欠如したクールな文章である。冷たい人間性がそのまま滲み出ている。嘗て、新潟の大地震に遭遇し、被災信徒や教化部の安否を忘れて(一番心配したのは持ってきたノート・パソコンの安否!)いち早く東京に逃げ帰った「旅人の被災」なる文章と同じレベルである。

(3)「組織論」の展開は詳しく分析しているけれども肝心の「組織を動かす人達・活動する人達」の経営学で云うところの「モラール向上」詰まり“活動意欲(使命感)”を高揚していくことについては全く触れてはいない。従って、マサノブ君と云う人物は決して“宗教家”とは云えず、いつも自分は安全な場所にいて理屈だけを述べている無責任な評論家であると云えるのであります。

(4)このような博識博学文をいくら書いたとしても、病・悩・苦の救済には何の役にも立たない。だから、“学者と金持ち後廻し”(物的生活に恵まれ、せっぱ詰まった人生問題の体験無きが故に、霊的真理によって救われる道には程遠い)なのであります。

(5)この文章を読んだまともな信徒は生長の家の霊的レベルの低下を深く歎くばかりであります。そして“早く出て行って欲しい”というのが“本音”であります。



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[1925] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (55)
遮那王 - 2016年01月25日 (月) 08時22分



● 両軸体制の失敗と責任転嫁!

(平成22年8月11日『小閑雑感』)


<< 今後のネット上の活動しだいでは、「バーチャル組織の構成員がリアル組織へつながる可能性も拡大してくる」と書き、そういう運動が求められるとも言った。これは、従来の両軸体制下で「普及誌購読者を組織の会員へ導く」運動と似ている。しかし、この「バーチャルからリアルへ」と人を呼び込む活動には、細心の注意が必要だと思う。なぜなら、両軸体制での組織の会員の拡大は、うまくいかなかったからである。その理由はいくつも考えられるが、1つには、“会員化”することで組織の数値的な目標を達成しようと急ぐあまり、かえって会員化を嫌がる人が多く出てきたことが挙げられる。会員化の対象となった人々の中では、組織の会員になることで縛られるだけでなく、いろいろな義務を負わされるという一種の“恐怖感”が生まれたのではないか。これがすでに「階層的」で「傾倒的」なリアルの組織の中で起こったのだから、ましてや「非階層的」であり、「非傾倒的」であるバーチャルの組織においては、性急なリアル組織への呼び込みは、構成員の心に強い違和感や拒絶感を生み出すのではないだろうか。 このあたりが、ネット時代の運動の難しいところではないか、と思う。 
谷口雅宣 >>



(講評)

マサノブ君は自らが主導したと聞く「両軸体制」つまり、それまでは「神誌」と称されていた月刊誌を組織会員向けの「機関誌」と普及宣伝用の「普及誌」というマガジン(注・この時点で「神誌」の信徒間呼称は消えた)という「両軸」としたのだと私は理解して居るのであります。目的は「機関誌」は組織幹部向けの内容、「普及誌」は組織会員が10部、100部、1000部一括購入し近隣、知人等に広く贈呈して、其の中から組織信徒に結び付けていく教勢拡大策であったのであります。

この時点での普及誌の内容は信徒の実際の体験談で埋め尽くされ(奇跡的体験談も多い)生長の家の素晴らしさが遺憾なく知ることが出来、編集担当者のご努力は大変だったと思うのであります。と、同時にそれまで以上に「生長の家生命保険会社」と称されてもよい位に飽くなき「実績数字の上昇」が至上課題となって、虚偽数字作りの弊害も出始めたのであります。

夫婦が幹部の家庭では全部の「機関誌」が二人別々に二重に購読するように義務付けられ、講習会は信徒負担の“弁当券付き”となり、子供の通う学校名での聖使命会員づくり、ペットまでも聖使命会員に入れ実績数字とする。さては、2−3ヶ月の自腹を切っての聖使命会員実績作りへと生命保険の架空実績作りと同じやり方へとエスカレートして行ったのでした。

そして遂に、「聖使命会員にならねば神さまと直結できない。聖使命会員となれば救われる。一旦入った人は途中で辞めれば“罰(バチ)が当る」と言う幹部もあらわれ、総裁・副総裁・教化部長・組織幹部への(絶対的)中心帰一と言う事が強調されていったのであります。

講習会に於いても正午前の参加人数のピークだけに注目され、その結果手段を選ばない虚偽数字作り、即ち、会場周辺のホームレスに弁当券付き受講券をタダで渡して入場して貰ったり、近隣教区からの大型バスを使っての相互援助動員、組織幹部は一人で33枚から100枚以上の講習会受講券を購入し知り合いの信徒に頼んで入場時に2枚から10枚、20枚の受講券を受付箱に投入(関係者はお互いに暗黙の了解)、かくして作り出された虚偽数字をマサノブ君はその日の『小閑雑感』に発表、『聖使命新聞』も追随して虚偽数字を掲載し続けて現在に至る。この虚偽の実績数字が教化部長の成績評価となる。

このような“生命保険的実績数字作り中心の教勢拡大策”は息切れするのは当たり前で真の求道信徒は嫌気がさし第一線から離れ、組織幹部と云う肩書きだけに生き甲斐を感ずる名利を求める人の組織となって行ったのでした。

マサノブ君は<<会員化を嫌がる人が多く出てきたことが挙げられる。会員化の対象となった人々の中では、組織の会員になることで縛られるだけでなく、いろいろな義務を負わされるという一種の“恐怖感”が生まれたのではないか。これがすでに「階層的」で「傾倒的」なリアルの組織の中で起こった>>と毎年続く組織会員減少の原因を“自分以外のこと”に帰しておりますが、本当の原因は「結果数字追求型」(組織幹部のから視れば潜在的“恐怖感”)、平易に言えば「種々の奉納金の極大額追求」のマサノブ君の“お金大好き”な性格の然らしめるところにあるのであります。

これが「両軸体制」を失敗と見る第一の原因と筆者は組織内での実際体験からいえると思うのであります。これはマサノブ君自らの「恐怖管理体制」の責任転嫁なのであります。

 マサノブ君が「両軸体制」を失敗と見る第二の本当の原因は、彼自らの講習会での「講話内容そのもの」にあるのであります。“無の関門”を超えることが出来ない“悟り”なき辞書的解説だけの講話、信徒の奇跡的体験(真理の証し人)の話に全然関心を寄せない態度と姿勢(理由は、奇跡的体験談は“理性”に反する?)、学者・評論家的内容の講話、憂国・愛国の情なき講話、開祖・谷口雅春先生の隠蔽と否定に繋がる原理主義・原理主義者という“造語”による自らの『今の教え』への誘導、且つ、自らその独裁権によって決定したところの開祖・谷口雅春先生の御著書の“焚書(絶版処分)”と“坑儒(諫言の士の追放)”,そして“侵略戦争観”、・・・一言にまとめるとマサノブ君の「反日的学者の左翼思想」そのものが彼の言う「両軸体制」を失敗と見る第二の本当の原因なのであります。

マサノブ君の「反日的学者の左翼思想」そのものに最初に反撥して組織を去ったのは、良識を持つ相愛会員であり、次いで愛国心を否定され青年特有の若き情熱を奪われた青年会員であった。白鳩会員でも本来の御教えに対する筋金入りの白鳩会員は「日本皇室は女性の犠牲のうえに成り立ってきた」・「愛国心の先にあるものは“殺し合い”である」・「特攻隊は現世を否定した“自殺行為”」とマサノブ・ジュンコ君の文章が掲載された「普及誌」を教化部長に叩きつけて組織を去ったひとも多いのであります。

かくて有為の人たちが去った現・組織はいわゆる“お孫さま信仰”と“寄らば大樹の下での名利を求める支部長以上の幹部”を中心とするものとなり、年々教勢は縮小して行っているのであります。

 しかし、マサノブ君は、副総裁就任当初から、本心としては教勢は二分の一(半分)になっても可と考えていたと漏れ聞いております。この理由は、今の時点で考えれば、マサノブ君は平成現代の我が現代日本の大国難の意識無く、民主党政権の強力な支持者のジパノフォビア(日本人でありながら日本を蔑み貶める人)でありますから、(中道)愛国集団としての『生長の家』の解体と世界統一政府樹立(新世界秩序)への協力を至上命令としてその筋の世界的権力機構から課されているからであり、冷静な客観的観察からしても確かなことなのであります。だから、悠々として責任転嫁して憚(はばか)らず、彼にとっての長期プランは予定通りに進行しているのであります。




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[1936] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (56)
遮那王 - 2016年01月26日 (火) 10時01分




●  私の文章はすべて肉体左脳から搾り出す!雅宣拝

(平成22年8月13日『小閑雑感』)

<< このところ“左脳”を酷使して文章を書いてきたと感じたので、“右脳”の活動に専念することにした。・・・私は木工をした。山荘ができて9年ほどになるが、建てた当時に使い残した木材をいくつか取っておいたので、それを見ていると何か作りたくなったのだ。>>



(講評)

 マサノブ君は一面に於いて非常に無防備に自分を曝け出す人でもあります。ここにそれが現れているのであります。7月13日から26日にかけて、「聖書解釈・創世記の天地創造について」、さらに8月2日から11日にかけて「ネット社会(と今後)の運動」という「原宿教養大学」教授の彼にとっては大作?とも云える研究論文は彼の肉体の左脳細胞から搾(しぼ)り出されたものであることを正直に公表したことであります。まさにその通りであります。

 この様な左脳思考の文章からは一片の霊的感動も湧かず、従って、一般庶民の直面する自己人生の諸問題解決には全然役立たないのであります。自己の博学と多識を自己顕示せんがための文章に過ぎないのであります。直ちに宗教家と云うプロフィールを返上して、宗教学教授・宗教評論家と代えて貰わねばならないのであります。私たち信徒の望む文章は、開祖・谷口雅春先生の『生命の実相』の御文章のような、真理が文字化されて病・悩・苦を本来の『無』の世界に還帰せしめる霊的廻心を完遂させ得る迫力ある文章であります。

このような霊的迫力ある文章をマサノブ君が“総裁・自称法燈継承者”として書こうとおもっても書けないのは、「無の関門」を超えるに足る真剣な霊的試練の不足にあるのであります。否、寧ろ、この「『無』の関門」という言葉の重みなど彼にとっては理解できないのでありましょう!彼がもし、謙虚な人柄であるならば、自ら「私は未だ『無の関門』を超え得ておりません」と信徒に正直に述べて、開祖・谷口雅春先生の御著書をそのまま説けばよいのであります。

だけど、自己顕示欲大にして極めて驕慢(きょうまん)な彼は沽券(こけん)に拘わることとしてこれが出来ない。詰まるところ、左翼的唯物論の塊の“左脳”を酷使してしか書くことが出来ない。出来上がった文章は霊的レベルの観点からは不合格点であり、一般庶民の直面している病・悩・苦には何の役にも立たない文章となるのであります。せいぜいセレブ有閑婦人たちの教養本?(但し、内容は極めて難解)でしょうか! 吾々がマサノブ君に辞去を求める大きな根拠のひとつが此処にあるのであります。




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[1952] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (57)
遮那王 - 2016年01月27日 (水) 08時18分



● 或る本部講師の「終戦の日」の感想日記

平成22年8月15日『生長の家インターネット・ポータルサイト』)

<<お盆の季節となり、今朝の通勤電車は休日なみの乗客の少なさでした。私の職場である生長の家本部は、夏休みは入れ替わりで取ることになっていて、私はお盆でも出勤していますので、乗客の少ない通勤電車は大歓迎です。しかし今年は、高速道路の土日祝日無料化の影響で帰省ラッシュの渋滞が例年よりひどいようです。家族で出かけるときには便利な措置ですが、地球温暖化の現代においては時代に逆行する措置だと言わなければならないと思います。 ところでこの3年は、「今、日本はお盆休みだね」と話す程度の認識しかなかったので、お盆という言葉の響きも何か、心地よく感じます。そして、暑い中で聞こえてくるセミの鳴き声もこれまでは、「暑苦しいな」という感じだったのが、「これが聞こえるから夏らしく感じる」というものに変わりました。つまり、これまで当り前に感じていた季節の風物詩がとても新鮮に感じるのです。・・・>>



(講評)
 
マサノブ・ジュンコ君の8月15日の終戦の日に関連する事柄についての考え方は、

(1)大東亜戦争は日本が起した侵略戦争であって、日本は「悪」それを阻止した連合国は「善」。

(2)特攻隊の行動は、現世を否定した自殺行為に過ぎない。(従って、「英霊」とは言えず、靖国神社参拝はしない。)

(3)国家意識・民族意識・愛国心・日本精神はすべて戦争につながるものであるから、強調すべきでない。

(4)日本の国の素晴らしさを誇ることは、他国を見下すことになり、国際問題を引き起こす。

(5)戦争とは所詮は残酷な殺し合いでしかない。

(6)日本皇室は歴史上、女性の犠牲の上に立って存続されてきた。

この様な考え方で開祖・谷口雅春先生の御教えを真っ向から否定するものであるのであります。従って、8月15日の終戦の日に当たり、開祖・谷口雅春先生が常にお話されていた所の重要なこと即ち、

(イ)昭和天皇の御聖断について。

(ロ)田中静壹大将の手に持つ『甘露の法雨』の奇蹟によって日本国家東西分断の悲劇が防がれた事。

(ハ)田中静壹大将の原因不明の熱病による本土転任は視えざる摂理の導きであったこと。

(ニ)シチリー島上陸作戦に於けるハワイ日本人部隊の功績と『甘露の法雨』の奇蹟

此れ等のことに関しては、マサノブ・ジュンコ君は全く無視の態度で、夏休みをとって山梨県の山荘でノンビリと休養をとっていたのであります。

 インターネット本部講師も同様で、誰一人として此れ等の生長の家信徒として知っておかねばならぬ事柄を投稿記事として取り上げた人はおりません。その一例の内容が上記の引用記事であります。全国信徒の皆様、マサノブ・ジュンコ君が総裁として指導している現・教団の実態は開祖・谷口雅春先生の御教え(本来の正しい御教え)から完全に逸脱した祖国日本を自虐的にしか見ない左翼思想団体へと変貌してしまったのであります。

骨のあるインターネット講師なら<このブログは生長の家を広く伝える目的のものですが、その内容・発言に関してはすべて 私本人の責任において書かせて戴いております。私は生長の家の代表者ではありませんので、当ブログにおける 私の発言は、生長の家の公式な見解ではありません。>と全講師が断り書きをマサノブ君の命令によって付けているのですから、逆に個人的見解として開祖・谷口雅春先生の上記のようなお話を掲載して英霊の御霊様(みたまさま)への感謝の気持を表わしてもよいわけであります。しかし、誰一人としてその勇気を持っていないのは、マサノブ君の敷いている“北朝鮮型の恐怖管理体制”のためであります。言いたくても言えない。生活のためジッと我慢の子の状態の本部講師達のためにも私たちはマサノブ君の辞去を求め、一日も早く開祖・谷口雅春先生の本来の御教えの再興を果たすべく努力を続けなければならないのであります。光(正説)は必ず闇(虚説)を消すのであります。がんばりましょう!!




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[1961] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (58)
遮那王 - 2016年01月28日 (木) 09時46分




● 北朝鮮型・恐怖管理体制下の教団本部にも「言論の自由」と「表現の自由」は勿論ありません。

(平成22年8月16日『小閑雑感』)


<< 最近見た映画の中に『ザ・コーヴ』がある。これは、2009年度アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞などを受賞したアメリカ映画である。ご存じの読者も多いと思うが、そんな名誉ある映画を、日本では大手の映画館が上映をやめた。理由は、この映画が日本のイルカ漁を批判的に扱っていて、政治的に“右寄り”と言われる人たちに「反日的」というレッテルを貼られたからだ。そんな理由で映画館が上映を渋るのは、「言論の自由」「表現の自由」を標榜する民主主義国として恥ずかしいかぎりだ。が、幸いにも中小の映画館には気骨ある経営者がいたおかげで、この映画が何をどう言っているのかを知る機会を私に与えてくれたのである。結論を先に言ってしまえば、私はこれを見て知らなかったことをいろいろ知り、とても勉強になった。>>


 
(講評)

 マサノブ君は<「言論の自由」「表現の自由」を標榜する民主主義国として恥ずかしいかぎりだ。>と此処には書いておりますが、これが一番その通りに当てはまるのが、現・マサノブ教団ではないでしょうか? マサノブ君の「恐怖管理体制下」の教団に於いては、「言論の自由」「表現の自由」は全くないのであります。

その典型的な例が上記の終戦の日に関するインターネット本部講師達の例であります。本部講師たちが誰も終戦の日について、それに関する『甘露の法雨』の奇蹟について書かなかったのは、現・教団本部には言論と表現の自由が全くないからであります。それほどまでにマサノブ君の「北朝鮮型の恐怖管理体制」は浸透してしまったのであります。全く以ってマサノブ君は「独裁専制教主」となってしまったのであります。

人事権と給与査定権の二大特権を掌中に収め、此れを最大限に活用して諫言する者、反論するものを全員追放してしまい、現・教団には阿諛追従(あゆついしょう)型の人しか残っていないのであります。

<会議には臨席を乞われて出席し、皆から仰ぎ見られる立場である>と恥ずかしくも公言して憚(はばか)らず、<互いに助け合い向上しようというのが自然的な生き方である>と信徒には説教しながら、自分の義兄・実弟・姉たちを追放絶縁し、<人の忠告を大切にする人が本当の指導者である。忠告が「真実である」と感じる時、それに従う事は忠告者に従うのではなく神に従うのだと思え。人からの忠告に怒りを感じるのは自分を神の座に置くからである>と、これまた信徒に対して説教しながら、自分のことになると、人の忠告・諫言は“その考えは間違っている”と受け付けず、自分自身を神の座に置いてしまっているのであります。

独善と傲岸不遜(ごうがんふそん)のこの心が『小閑雑感』7月23日の山荘の自製本棚の前の写真の表情に表われていると思われるのであります。この様な実例の前でもまだマサノブ君は<「言論の自由」「表現の自由」を標榜する民主主義国として恥ずかしいかぎりだ。>と再度言う事ができるのでありましょうや!

 さらにマサノブ君はまたもや、自分が“左翼”だと確認したのであります。<この映画が日本のイルカ漁を批判的に扱っていて、政治的に“右寄り”と言われる人たちに「反日的」というレッテルを貼られたからだ>と書いており、マサノブ君の思考は「反日的」なのが“まともな価値観”であり、この左翼的価値観を基準にすると他国の反日的言動を正すことさえ“右翼”とするのであります。従って、マサノブ君は完全な“左翼思想者”であり、同時に、まぎれもなき“ジパノフォビア”(日本人でありながら日本を蔑み貶める言動を為す人)であることが証明されたのであります。

そして、結論的部分の文章は次の如く読み替えられるのであります。

<幸いにも生長の家信徒の中に気骨ある人々がいたおかげで、この「小閑雑感」が“お孫さま信仰”でないところの理性ある信徒の皆さんに何をどう評価されているのかを知る機会を私に与えてくれたのである。結論を先に言ってしまえば、私は開祖・谷口雅春先生の御教えについて知らなかったことをいろいろ知り、とても勉強になっている>。(ツブヤキ・・・だけど、わたしは「生長の家教団の解体」という“与えられた使命”を放棄するわけにはいかない。なにしろ私の命がかかっているのだから。このまま突き進むのみ!




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[1975] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (59)
遮那王 - 2016年01月29日 (金) 08時18分



● 「炭素ゼロ」運動は「自分の人生で他の人と変わった出来るだけ大きく見える足跡を残したい単なる形式に過ぎず、真剣な気持などはナイノデスヨ。あしからず、雅宣拝」

(平成22年8月18日『小閑雑感』)


<< お盆も終ったので、帰省先や行楽地から自動車で長時間かけて帰還した読者も多いだろう。私も16日、山梨の山荘から5時間半ほどかけて妻と帰宅した。途中で夕食のために休憩したので、ハンドルを握っていた時間は5時間もなかったが、それにしても長時間の交通渋滞には神経を鍛えられるものである。・・・私は、炎天下の交通渋滞の中でハンドルを握りながら、「車の天井にソーラーパネルの設置を義務づけたらいいのになぁ……」などと考えていた・・・。>>



(講評)

大勢の信徒の人たちは、“炭素ゼロ”運動を先頭に立って進めているマサノブ君の上記行動に対して大きな割り切れぬ疑問を感じない人はいないのであります。端的に言えば、東京の自宅と山梨県の別荘との間をマイカーでCO2を出しながら(電気自動車なら問題ありませんが)渋滞の中を長時間かけて移動すると云う事は、平素の主張とは反対の行動ではないのでしょうか?どうして電車に乗って山荘の最寄り駅まで行き、そこからタクシーなりを使わなかったのでしょうか?

教化部の早朝神想観を自粛させたり、30人以上の誌友会をこれまた人が大勢移動するとCO2を多く出すからと云う理由で30人以下に小規模化させる通達をだしたり、自分の講習会以外の大規模講演会を同様の理由で禁止したりしながら、自分自身のことになるとCO2のことなど考えない、このマサノブ君自身の余りにもヒドイ「言行不一致」を私たち信徒は如何に理解したらいいのでしょうか? 全く理解できないのであります。

我々、名も無き末端信徒でさえもこの様な許容限度を超した自らの言行不一致の行動は自粛し、言行不一致と誤解を与えることはやたらと公言しないのでありますが、マサノブ君は堂々と公開して皆から批判されても甜(てん)として恥じないのは神経のずぶとさか、裸の王様となり諫言の士が誰もいなくなったためか、まさに北朝鮮の将軍様と同一列に並んだのであります。どうぞして全国の“お孫さま信仰”の信徒の皆様、眼をシッカリと覚ましてください。

我が愛すべき人生の総てを賭けてバックボーンとして生きてきた誇るべき開祖・谷口雅春先生の御教えは消滅寸前の事態にいたっているのでありますぞ!「真の生長の家」復活の主役は末端信徒の真の覚醒と決起にあるのであります。!




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[1989] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (60)
遮那王 - 2016年01月30日 (土) 09時37分




● 「私は覚悟して“森の中へ”移住します!純子拝」

(平成22年8月20日『恵味な日々』)


<< 今週は月曜日の野菜の宅配をお休みしたので、野菜が品薄になりました。そこで、青山の自然食品のお店に買い物に行きました。ついでに書店にもより、本を二冊買いました。買った本は、「持続可能な社会をめざす 8人のライフスタイル」名倉幸次郎著(白水社)「自然農法 わら一本の革命}福岡正信(春秋社)私たちは炭素ゼロの生き方を目指し、森にも移転します。それは、今の社会の大きな流れの中では、一般的ではありません。
 多くの先輩がいますから、それらの人から学んで、私たちのスタイルを生み出していかなくてはと思います。福岡正信さんの本はまだ読んでいません。以前から興味があり、読んでみたいと思っていたら、書店に平積みされていたので、買いました。>> 



(講評)
 
マサノブ・ジュンコ君は<炭素ゼロ>の生活を目指し、自然との共生の率先垂範としていよいよ森の中での生活に入ると言っておりますが、全くの知識不足と準備不足としか言いようがありません。今まで経験しなかった事に取り組む場合には、トラファグラー海戦(1805年10月・スペイン対イギリス)を超える世界的超完全勝利を勝ち取った日露戦争・日本海大海戦時(明治38年5月27−28日)の日本の連合艦隊の秋山真之先任参謀の言葉「大事を行なうに当っては計画と訓練が95%、実行が5%」を忠実に守らなければならないのであります。

マサノブ・ジュンコ君の<私たちは炭素ゼロの生き方を目指し、森にも移転します。それは、今の社会の大きな流れの中では、一般的ではありません>の表現を見ると全くの準備不足が露呈されています。確実に計画が進んでいるのは、森の中に建てる建物の設計と建設会社の選定だけのようであります。しかし、移転してからの実際の自然との共生の<一般的>ではない過ごし方の計画と準備は<何しろ初めてのことなので(嘗ての村山首相)>全くの試行錯誤で進めて行くのでしょう。毎日の生活費に心配の無いセレブ階層の趣味とお遊びとしか言いようがありません。次の章句にそれが現れています。

(1)<野菜の宅配をお休みしたので、野菜が品薄になりました。そこで、青山の自然食品のお店に買い物に行きました>。

無(減)農薬有機肥料栽培の野菜類を毎日食卓に載せられるのは一部のセレブ余裕階層だけであります。なぜならば、スーパー価格よりは高値であるからです。


(2)<買った本は、「持続可能な社会をめざす 8人のライフスタイル」名倉幸次郎著(白水社)「自然農法 わら一本の革命}福岡正信(春秋社)、福岡正信さんの本はまだ読んでいません>。

自然農法家・福岡正信氏の『わら一本の革命』は昭和58年に出版されているのです。さらに福岡氏の『無T・神の革命(宗教篇)』・『無U・無の哲学(哲学篇)』・『無V・自然農法(実践篇)』・『自然に還る』、そして又、自然農法家・川口由一氏著『自然農から、農を超えて』・『妙なる畑に立ちて(自然農から生命の農へ)』、さらに、『フィンドホーンの奇蹟』(日本教文社刊)・『フィンドホーンの魔法』・『フィンドホーンへのいざない』・『フィンドホーンの花』等々を読みこなし、たとえ小規模であっても本格的に森のオフィスへ移る前に自らが土と接して自然農法・無農薬有機栽培を施行実践し、生命(いのち)の実感として「自然との共生」を体験する必要があるわけであります。今になって初めて本を買い読もうとは、余りにも遅きに失していると言わなければなりません。


(3)<多くの先輩がいますから、それらの人から学んで、私たちのスタイルを生み出していかなくてはと思います>。と、書かれ、“先輩の人たちから学ぶ”わけですが、ことはそう簡単なことではないのであります。マサノブ・ジュンコ君は次のような具体的なことがらをどの程度知っているのでしょうか?

(イ)福岡正信氏は公務員生活(横浜税関植物検査課・高知県農業試験場勤務)から帰農して自然農法一筋に生きた人ですが、最初は父親から受け継いだミカン山を自然農法に切り替えて枯らし全滅させたと告白されています。稲作を含めて「不耕起栽培」のノウハウを確立されるまでには、試行錯誤の長年月があるのです。知識・見学と実際の実践とは全然違うわけであります。

(ロ)オフィス仕事の一日当りの仕事量と農作業の一日当りの仕事量の効率比較には大きな隔たりがあります。自然との共生のためにはCO2を排出したり、土中の生物(蛙の子、みみず、小蟹、オケラ等々)を引き裂いて殺すことになる耕運機は使えません。鍬(くわ)を使っての人力作業となります。除草作業も自然破壊の有害な化学除草剤は使えないし、CO2を排出する草刈機も使えません。鎌・鍬・手による人力作業となります。完全無報酬奉仕のこまめな手作業の草取りがマサノブ・ジュンンコ君をはじめ全本部職員が最高の錬成科目として何年にもわたって黙々とつづけられるでしょうか?かと言って福岡氏流の不耕起栽培自然農法など最初から出来るわけではないのであります。

(ハ)オーナー農業やミカン狩り、芋ほり、いちご狩りに時たま都会から出てくるところの結果(収穫)だけしか見ていない人は「農業や果樹栽培は楽しくて素晴らしい」と簡単に考えるわけですが、収穫前の総ての作業、収穫後の片付け作業と翌期への準備作業等、都会の住人の目に止まらない色々な作業があるのであります。

(ニ)「森」へ入り、自然との共生の生活を率先してやって行くためには、生活必需食料品の無農薬有機栽培、自然農法栽培は絶対的に必要であります。これをマサノブ・ジュンコ君と本部職員が自ら本来の職務と並行してしなければ自然との共生生活の意味は無く、また、この実践部分をプロの農業者に任せて自分たちは森に移った本部の建物の中で原宿当時と同じデスクワーク中心で過ごしていれば、マサノブ君の唱える自然との共生生活は実践を伴わない、指令だけしかしない頭でっかちのプランにしか過ぎず多くの人の共鳴など受けることが出来ないのであります。そして正に、セレブの人たちによる自己満足的な範囲にしか過ぎないもので終ってしまうのであります。

 このように、末端信徒の眼から見てもマサノブ・ジュンコ君の「森の中のオフィス・自然との共生計画」はセレブ階層のお遊びプランに過ぎないことが明らかであります。そこで当然の疑問として次のようなことが考えられるのであります。

(T)このような不完全なぶっつけ本番の「森の中のオフィス」実現に向けて、150億円を超える信徒の浄財をマサノブ君の独裁権限のみで注ぎ込んでいいものなのでしょうか?高齢信徒は毎月のそれほど多くない年金収入から、子育て中の白鳩信徒の多くはパートやアルバイト収入から聖使命会費を奉納している事実をマサノブ・ジュンコ君をはじめ理事長、参議長以下の本部役員は片時も忘れてはならないのであります。然し、彼らはそんなことは少しも考えてはいないのではないでしょうか?

(U)どうしても、マサノブ君が「森の中のオフィス」を造りたいのであれば、総本山や宇治でも建設出来るのではないでしょうか?それを山梨県で土地を新たに購入して150億以上の建設費をかけて造るのは巨額のお金が動くその裏に隠されているものがあるのではないでしょうか?

(V)「環境保護」と「自然との共生」は果たして<生長の家の本来の第一順位の使命と目的>なのでしょうか?開祖・谷口雅春先生の御著書をシッカリと読めば答えは断じて「否」であるのではないのでしょうか?「環境保護」と「自然との共生」は<生長の家地上出現の使命>の重要度から言えば第五、第六番目のものではありませんか?

 それでは最後に<生長の家の本来の第一順位の使命と目的>の観点から考えて現代日本に於いて『生長の家』は何に対して総力を挙げて取り組むべきかを考えて見て結論づけを致したいと考えます。それは言うまでもなく「人類光明化」と「天皇国日本の実相顕現・真理国家の建設」でありますが開祖・谷口雅春先生は更に具体化して遺されているのであります。それは、総本山の神域の奥深い峰々に建てられた「七つの燈台」に刻み込まれている文字であります。すなわち、

*天孫降臨皇御国成就(てんそんこうりんすめみくにじょうじゅ)燈
*伊邪那岐文化成就(いざなぎぶんかじょうじゅ)燈
*伊邪那美文明成就(いざなみぶんめいじょうじゅ)燈
*三界萬霊悉皆實相開顕成仏(さんがいばんれいしっかいじっそうかいけんじょうぶつ)燈
*地上天国世界連邦成就(ちじょうてんごくせかいれんぽうじょうじゅ)燈
*萬物一元萬教帰一成就(ばんぶついちげんばんきょうきいつじょうじゅ)燈
*君民一体地上天国成就(くんみんいったいちじょうてんごくじょうじゅ)燈

 さらに、この目的成就の具体的目標としては、自主憲法制定(法の論理としては、占領行政基本法としての現憲法無効宣言・明治帝国憲法復元・新自主憲法制定の法手続きを同時点に於いて行なう)と新自主憲法に基づく新教育基本法の制定であります。この転換を日本国民相互間の軋轢(あつれき)と摩擦を出来るだけ少なくしてスムーズに事が運ぶためには、国民世論の価値観の善導が必須条件となるのであります。この役割を担う中心となるのが我が『生長の家』であります。すなわち、日本国の教育改革による日本国民の価値観の本当の「日本精神」への善導と復興であります。此れを目指しての「生長の家」学園の建設が必要となり、「森の中のオフィス」建設資金はこちらの方へ使われるべきであります。左翼思想家のマサノブ君は真っ向から反対でしょうから、以下、少し詳しく述べる事にいたします。

 8月7日の産経新聞に80歳の竹田ソノさんと云う人の次のような投書がありました。

<< 私と同じ世代は、子育てに失敗した世代だと思う。「子供に苦労させたくない」という思いが強すぎて、子供を駄目にしてしまった。先日もバスに乗っていると、数人の女子高校生が勢いよく乗り込んできて、どっかりと席に座り、大声でしゃべり始めた。次の停留所で危なっかしい足取りのお年寄りが乗ってきたが、だれ一人、目もくれない。そのお年よりはつらそうに、彼女たちの前に立ち続けていた。叱りつけようかと思ったが、近頃の若者を怒らせたら、何をするかわからない、と考えると何も出来なかった。私もだめな人間だった。このような子供達が育ったのは、親の責任だが、今の子供たちの親を育てた世代にも責任がある。私と同世代が子育てに失敗したから、子供を虐待し、命を奪い、自分を犠牲にしてでも子供を守ると言う事が出来なくなってしまったのだ。私の子供のころにあった「修身」の授業のように、道徳をしっかりと子供に教えなければならない。そうすれば、若者たちもきっとめざめてくれると思う。>>

 このような現代日本社会の状況が結果した原因は、言うまでもなく、戦後教育であり、戦後教育の基本的価値観は「侵略戦争観・戦争贖罪意識・自虐史観」一口に纏めると「東京裁判史観」であります。この国民的価値観の種を播いたのがG.H.Q (占領軍総司令部)であり、種(たね)の名前は“ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム”(日本民族弱体化政策)であり、その実践を担当したのが戦後直ちにG.H.Qによって刑務所から開放された共産主義者であったのであります。

彼らは、新しく制定された現憲法を武器として、教育現場(日教組)と労働界(総評)とそして出版(岩波書店他)・報道界(朝日・毎日・N.H.K )で着々と戦後教育を推し進め、同時並行して実施された3S政策と相乗して日本民族全体のの思想改革を実施し、こうして教育された生徒達が成人し、親となり子供を持ち、その子供が成人し子を持つ時代に入ったのが現代と云う時代であります。いうなれば、日本民族弱体化の種“ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム”が戦後60年の期間をかけて着実に育って、たわわな実をつけ、まさに収穫期となったのであります。

更に、深く考察すれば、G.H.Qの“ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム”(日本民族弱体化政策)の淵源を遡れば、日露戦争勝利後にアメリカで策定された日本を仮想敵国とする「オレンジ計画」、更に遡れば西欧諸国家による日本を含めた東洋地域の植民地化の長々期戦略であり、ザビエルの来日の時まで行くのであります。秀吉はこれを見抜きその後の我々の祖先は敢然と欧米からの植民地化戦略の荒波を跳ね返してきたのであります。さらに、ロシアの不凍港と温暖の地を求めての伝統的南下の国策、共産中国の嘗ての「清帝国」の版図を目標としての飽くなき膨張侵略の進行、この長々期の歴史の流れの冷静な分析の上に立てば、現代の大国難を切り抜け跳ね返して行くためには、現代の日本国民の価値観の教育による変格、つまり、本当の「日本精神」への善導と復興が最大の重要課題であることが理解されるのであります。

その方向に従っての社会的P Rと人財育成を担う中心が我が『生長の家』であり、此れこそが開祖・谷口雅春先生の御心に応えることでもあります。斯く考えるならば、マサノブ君の「炭素ゼロ」・「森の中のオフィス」計画は優先順位からすれば後位に位置付けられるものであり、150億円以上の浄財を投入すべきものではないのであります。長期的観点に立って最優先すべきは、日本国の教育改革による日本国民の価値観の本当の「日本精神」への善導と復興を目指しての「生長の家」学園の建設これであります。

このことが理解できないマサノブ・ジュンコ君は一日も早く教団から辞去し、外部でNPO法人「マサノブ環境の家」を立ち上げて自由に活動すべきであります。このまま総裁の椅子に座り続けることは許されないのであります。




Pass

[1999] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (61)
遮那王 - 2016年01月31日 (日) 11時35分




● 雅宣総裁は、みずから「今の教え」の誤りを指摘していた!

<<表面上の類似点を見て、中身も同じだろうと考えると間違うことがあるのである。最近は「コトバの力」とか「心の法則」など、生長の家で昔から使っている言葉を正面に掲げた書物が出回っているようである。教えをしっかり理解したうえで研究される分はいいが、理解が不十分の場合、生長の家でないものを生長の家だと誤解する危険があることを留意されたい。>>(『小閑雑感』平成22年5月23日)


**********


★  このことが一番当てはまるのは、三代目マサノブ君であります。

★  ハッキリと申せばマサノブ君は、開祖・谷口雅春先生の『御教え』を深く把握しているとは到底おもわれないのであります。

★  マサノブ君の潜在意識内にある基本的価値観は戦後教育価値観であり、東京裁判史観・戦争贖罪意識・自虐史観であり、左翼唯物論の価値観であります。

★ ただ、総裁としてはそれをカモフラージュするために言葉だけは「唯神実相」・「唯心所現」・「万教帰一」を使っているに過ぎないのであります。

★ 『無』の門関を超えることが出来ない単なる肉体頭脳知の思索のみによって『今の教え』を作り出したのであります。



<更なる解説>

* マサノブ君は、『生命の實相』第33巻P.53の<<自ら変化しない宗教は形骸化して他の宗教にとって代わられる・・・みずから宗教改革しながら進んで行く宗教であってこそ永遠に生きることができる>>のところだけを金科玉条として、

* その前文の<<悟りそのものは表現形式の奥の奥に形を超えてある・・・説明の仕方は形ですから不断に変化しなければならない>>を無視して、

* 更に“お孫さま”の立場を最大限に活用して真理そのものにまで変更を加え、“生長の家であるものを生長の家ではない”ものへと開祖・谷口雅春先生の御教えとは反対の主張を随所で展開しているのであります。


* その具体的な例の幾つかを次に挙させて頂きます。

(イ)開祖・谷口雅春先生の「日本国実相顕現」は、民族主義・国家主義・国粋主義思想である。(生命的国家論の否定)

(ロ)大東亜戦争は日本の始めた侵略戦争で「悪」、、それを阻止したのが連合国で「善」である。(東京裁判史観の肯定)

(ハ)特攻隊の人たちを“現世を犠牲にした自殺行為”と断定。(靖国神社の否定と無宗教の国立追悼墓地の暗黙的肯定)

(ニ)天照大御神さまの「天壌無窮の御神勅」を決して説かない。(日本國體の否定)

(ホ)ジュンコ君は「日本の皇室は女性の犠牲の上に成り立っている」と主張。(万世一系の霊的本質をジェンダーフリーの論点に置き換えた。二人ともに御皇室を尊崇せず。)

(ヘ)日本神話を“一種の文学作品”となし、現代の「理性」から見て不合理として『古事記と現代の預言』を絶版処分。(左翼的歴史学者の立場)  

(ト)「不立文字」とは「真理は完全に文字化することはできない」という意味と説き、「文字化された開祖・谷口雅春先生の御文章は真理の全相を完全には説かれていない。真理の全相を説けるのは、現に生きている後継者の口から発する言葉こそ真理そのものなのだ」と説いています。(文字の中に生命あり・生命の中に文字あり、文字と生命と一体という開祖・谷口雅春先生の文章芸術の極致とそれによる病・悩・苦の奇跡的解決の事実を否定)

(チ)「万教帰一」を諸宗教の“共通点”の一致とのみ解釈し、世界宗教・イスラームに学ぶ事を強調(“「生命の実相の真理」を鍵として万教を紐解く”という最重要点を無視)


(リ)霊的「理念」を説かず唯物科学的「理性」を強調、(最高の唯神実相哲学を唯物論哲学までレベルダウン)。たとえば、“川とは水の流れ”、“炎とは物質の高速度の化学的変化状態”、“地震は当たり前の自然現象”、“戦争とは人殺しのこと”,“日本の建国精神の一つはウソを言わぬこと”等々・・・

(ヌ)開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』を信奉し、マサノブ君の『今の教え』の“虚説”なる事を指摘する者を「原理主義者」とした。(“原理主義”思想の導入)

(ル)霊と霊界については“生長の家では判らない事になっている”と明言。(マサノブ君は「自分は霊と霊界については判らない」という“個人的見解”を生長の家としての“公的見解”に恣意的に置き換えた。この『置き換え』は随所に見受けられる。)

(ヲ)『日本精神』と云う言葉は現代日本では“死語”になっている。使うべきではないという。(歴史と伝統の否定)

(ワ)信徒の奇跡的体験談を無視・軽視(生長の家の科学的宗教性を否定)

(カ)生長の家出現の意義と目的を説かない。(『生長の家』存在の根本を否定)。

 その他、いろいろあるのであります。

* 名前は『生長の家』であっても、その中味は換骨奪胎され全然“似て非なるもの”に置き換わってしまいました。これが三代目マサノブ君の『今の教え』の実態であります。

 ここで、繰り返し申し上げねばならぬことがあります。

* それは、本当の『御教え』の復活を願って活動する人を「マサノブ総裁
の実相を見ないで批判ばかりしている」と受け取る信徒の人たちが、特に“お孫さんは間違ったことを仰るはずがない”というお孫さん信仰者に特に多いという事であります。
 
*「本流復活」推進者の立場はこうであります。

* マサノブ君その人自身(実相)は素晴らしい円満完全な神の子さまでありますが、その説いている『今の教え』の内容は、開祖・谷口雅春先生の『御教え』とは逆の間違った“虚説”が多いということであります。

* 私たちはその“虚説”の誤りを正して開祖・谷口雅春先生の本来の正説に返そうとしているのであります。

* これをしなければ、“虚説”であるマサノブ君の『今の教え』が開祖・谷口雅春先生の『御教え』であると誤って信じる信徒さんが増えて行くばかりでありますから。
 
* 現教団の信徒の皆様、どうぞして目覚めてください。マサノブ君の“今の教え(虚説)”に惑わされてはなりません。知らずしらずのうちにみなさんは洗脳され、日本國實相顕現とは逆の「左翼思想」の普及のマサノブ君の手伝いをさせられているのでありますよ!!

* 開祖・谷口雅春先生の“真説(正説)”を信じて進むのが本当の生長の家信徒であります。
 どうぞして目覚めていただいて、一日も早く“真説(正説)”にもどしましょう!
 信徒の皆様、このことはシッカリと理解しておきましょう。再度、掲げます。

*「生命の實相」第14巻・倫理篇下巻 ・第4章< 和解の倫理>より

<<虚説を許さないことをもって、和解と寛容の徳が無いように思うのは間違いであります。また、虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。>> 


Pass

[2015] 「遥かなる追憶」第二部 マサ&ジュンの、反・『御教え』語録 (62)
遮那王 - 2016年02月01日 (月) 07時53分




● 吾が辞書に“国難”と“憂国”なし、天下泰平!

<<今日は休日を利用して、妻とのドライブがてらに冬仕様から夏仕様にタイヤを交換した。その帰りがけに、20年ほど前に住んでいた世田谷・駒沢の地へ寄った。地下鉄の駒沢大学駅から歩いて7分ぐらいの所・・・>>(『小閑雑感』平成22年5月27日)

<<休日の今日は、車のタイヤを 代官山の車の店で交換してもらいました。そのあと、以前住んでいた世田谷区の駒沢の園芸店に行きました。その帰り道、駒沢に住んでいたころ、時々行ったパン屋さんの前を通り 懐かしくて、「ドラえもんパン買おう」ということになり買いにいきました。>>(『恵味な日々』平成22年5月27日)



************



<講評>

★ “今日は休日、山荘、ドライブ、映画、外食・・・このような小学生のごとき日記の文章が単行本となって講習会でのテキストとなる! 

★ ”環境運動は個人的趣味のお遊びなのか!それも浄財をふんだんに使っての贅沢な三代目ぼんぼん夫婦のお遊びなのか?

★ 憂国の気持も、真剣な求道のこころも感じられず、平成大不況の中で病・悩・苦に喘いでいる人達への思いやりの気持もなく平然と自分たちのセレブ生活をわざわざ披露し続けるこの無神経さ!


*************


<追加説明>

* 開祖・谷口雅春先生は「私には別荘など必要ありません。私の欲しいのは“時間”だけです」また、「日本の国の現状を思う時、夜も充分に眠れません」そして「日本の国のためにならない生長の家(教団)なんて潰(つぶ)れてしまってもかまいません」と言われたのであります。

* これに較べてマサノブ・ジュンコ君の『小閑雑感』・『恵味な日々』の“今日は休日、山荘、ドライブ、映画、外食・・・”との表現について、信徒の皆様はどうおもわれましょうか?この文章が単行本となって講習会でのテキストとなるのであります。

* 『恵味な日々』では、上記の如き小学二、三年生のごとき日記の書き方であります。

* そして、普通の人なら毎日の食卓の写真などはやたらには公表しないのに何故ここまでする必要があるのでしょうか?
 
* 朝食とお弁当(昼食)は紹介されておりますが、夕食の紹介は滅多にありません。(夕食はレストランで肉料理のために掲示できないのでは?と思っている信徒さんの声もあり)

* マサノブ・ジュンコ君が率先垂範、本気で炭素ゼロ運動を進めるつもりならば“ドライブ”などと云う表現は慎むべきなのに、逆に平気で堂々と書かれているその無神経さ!
「今日は休日、妻とドライブ・・・炭素ゼロなど考えません。楽しく!たのしく生きています!!雅宣拝」(『小閑雑感』平成22年5月27日)としか受け取れません。

*「今日は休日、ドライブしてドラエもんパンを買いに・・・純子拝」(『恵味な日々』平成22年5月27日)天下泰平そのもの、まことに幼稚な白鳩会総裁ではありませんか!

* 環境運動は個人的趣味のお遊びなのか!それも信徒の皆さんからの浄財をふんだんに使っての贅沢な三代目ぼんぼん夫婦のお遊びなのかと云う風にも受け取られてしまいます。

* 憂国の気持も、真剣な求道のこころも感じられず、平成大不況の中で病・悩・苦に喘いでいる人達への思いやりの気持もなく平然と自分たちのセレブ生活をわざわざ披露し続けるこの無神経さ!

* いづれにしましても、天下の、嘗(かつ)ては愛国の真柱(しんばしら)とまで言われた吾ら生長の家の三代目の指導者が斯くの如き指導者であるとは、ホトホト大いなる落胆の極みであります。こういった意味からも即座の退去独立をもとめます。こころある信徒の皆さんから“破門”を申し渡される前に・・・




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