| [1300] インターネット道場ーーー光明思想家とマルキストとの対話 「弁証法と観念論」 |
- 信徒連合 - 2015年11月29日 (日) 10時14分
<インターネット道場>
光明思想家とマルキストとの対話
弁証法と観念論(『解放への二つの道』P.119−128)
客:
生長の家は一種の観念論だと思いますが、神という絶対精神の主体というようなものを認め、實相と言う絶対実在というような永遠不動の世界などというものを認める。そんなものは私の考えでは、事物の本当のすがたをとらえていない。此の世界は弁証法的世界であり、永遠不動の世界などというものは結局存在しない。真に存在するものは唯物質として客観的に存在する世界だけである。
そして、この物質として客観的に存在する世界は、決して永遠不動の世界ではない。すべての事物は発展変化の過程の中にある。これが真実の存在である。この事物を発展変化の過程に於いて観察し、それを捉えたのがマルクスの唯物弁証法である。私はこれが唯一の真理であると思っています。
生長の家で説く「實相」というような、永遠不動の完全世界などは人間の唯の空想にすぎない。そんなものは存在の真実を捉えていないと思うのです。
主:
あなたは自分の考えだけでなかなかハッキリ割り切っておられますが、生長の家も「存在」を発展変化の過程として認めることは、マルキシズムと異ならないのです。しかしその場合の「存在」と云う語(ことば)の意味は五官の感覚に触れる「現象的存在」のことであります。
「生長の家七つの光明宣言」の第二条には、<吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ、個人に宿る生命も不死なりと信ず。>というように「発展変化の過程」だということを「生命顕現の法則は無限生長の道なり」というふうに表現してあるのであります。つまり「生長」ということは、それ自身のうちにそれを否定して一層発展せるものを生ずることであり、その発展せるものをも更に否定して、尚一層発展するものを生ずることでありまして、たしかに生長の家の哲学は弁証法的哲学であります。マルクスは人間の歴史さえも、経済制度の歴史さえも此の発展流動の中にあって、一時と雖も同一の所に止まっていないものだと観る。そしてそれを存在のすべてであると観る「現象存在のすべてを発展流動のもの」として観る点は生長の家も全く同じであるが、マルキシズムはその「流動せる無常なる現象存在」だけを存在のすべてであるとして、その奥に「生命」とか「精神」とか「心」とかいうものを認めないが、生長の家はその「流動発展の現象的存在」の奥に「生命」というものをみとめる。
事物が「流動発展」するのは、その奥に「無限に完全な生命の實相」(ほんとのすがた)というものの内部的圧力があるからであり、事物の現在を否定する「自己矛盾」が生まれて来るのは、現象的事物はそれ自身で存在しているのではなく、その奥にある「無限に完全なるもの」(即ち生命の實相)の顕現であるから、現象的に一時的には完全と見える如何なる現象でも「無限に完全なる實相」の顕現としては不足しているから、中から現在の顕現を否定して、尚一層完全なる顕現を押し出そうとするのです。
だからこの現象世界は永遠に発展流動の形をとるのであります。これを生長の家では「吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ」と言っているのであります。マルキシズムでは、生命とか精神とかいうものを単なる物質の作用として見て、事物の背後にある「絶対存在」として見ないから、何故、事物が発展流動の形式をとって顕現して来るかという其の「何故」が説明がつかない。すべての顕現としての存在が「自己否定」を含むのは「無限に完全なる實相」がその奥に存在するからだという根拠からのみそれを説明し得るのです。だからマルクスの唯物論に合理的根拠を与え得るのはむしろ生長の家だといわなければならないのです。
客:
その「無限に完全なる實相」というのは「神」とでもいうものにあたるのですか。
主:
そうです。「神」と言っても、「真如」と言っても、法性と言っても實相といっても好い。ヘーゲルにいわせれば「絶対精神」というような超越的な存在です。
客:
そういうそれ自身「物質」でなくて、永遠に完全なるものが存在するというのが、それが観念論である。この観念論を打ち破ったのがフォイエルバッハである。
主:
打ち破ったと思ったのがフォイエルバッハであって、本当は打ち破られてやしない。
客:
兎も角、フォイエルバッハは千八百四十一年『キリスト教本質論』というのを発表して、神というものは結局人間の反映である。人間が自分が要求するものを自分を土台として造り出したものであって、人間から超越した神というものが存在するのではない。だから神は人間の反映である。神は人間以上のものではなくて、人間が造ったものが即ち神であるということを主張して、ヘーゲルの説いた「絶対精神」を否定しようとしたのです。
マルキシズムはこのフォイエルバッハの「絶対精神の否定」を採用したのです。マルクスの協力者であったエンゲルスは、このフォイエルバッハの論文を読んで狂喜した。そしてこう言っているのです。
「総ての哲学、特に近代哲学の根本的大問題は思惟(しい)と実在との関係如何の問題である。即ち精神と自然と何れが根本的な問題か、それに対する答弁が色々あるに従って哲学者達は二、三の陣営に分裂した。精神と自然の中(うち)、精神こそ根源的であると主張した人々、それらが観念論の陣営を形成した。他方、自然を以って根元的だと考えた哲学者達は唯物論の諸派に属する--------」
まあ、こんな風に説いているのですから、観念論と唯物論とは両立しない。神というものは、一つの「精神」的存在であるが、そんな「精神」というものが先ず初めにあったのではなく、人間という自然界の物質的存在が先ず初めにあって、その人間が神というものを脳髄のはたらきで考え出したのである。脳髄という自然的存在、物質的存在が先ずあって、それから精神が生じ、その精神が神をつくり出したのだと説くのです。
主:
そう、そう。そのマルキシズムによると大体、精神というようなものは、それ自身では存在しない。精神というものは脳髄という物質から出て来たものである。こういうものの考え方をするのですね。大体、生長の家と逆であります。
それで精神というものは、大体脳髄から出て来るのじゃないか。その「精神」が<もと>になって、自然が生まれるという筈がない。脳髄というものを叩き壊したら、えらそうに「精神」だなんて言っていても、もう精神は出なくなる、想念の力だなんて言ったって、麻酔剤を注射したら心の思いが出て来なくなるじゃないか。だから脳髄という物質がもとであって、そしてこういう想念というものが出て来るのである、とこういうように説明して、我々の説く非唯物論――唯物論でない所の哲学体系を攻撃しようとするのであります。
私が非唯物論というのは、必ずしも観念論でも唯心論でもない、それらを包括しているところの唯物論でないところの哲学をひっくるめて謂うのですが、マルクス主義者はそういう唯心的傾向の哲学を攻撃しようとする。ここに彼らが大いなる誤謬をしているのは、唯心論とか観念論とかいう場合の「心」とか「観念」とかいうものを脳髄の所産としての精神として誤解していることです。
彼らは脳髄所産の心が物質を創造することは出来ないと言うのです。吾々が唯心論を説くのは、そんな脳髄から出て来る心で自然界の万物がつくられるというのではない。そんな馬鹿なことは、反駁する必要もない自明の理である。
唯心論という場合の「心」は脳髄から出て来る心ではなくて、脳髄をも造った「心」です。脳髄は「つくられたもの」であり、道具に過ぎない。脳髄そのものは考えない。脳髄が考えるんだったら脳髄の呼称が原因でなく他の病気で死んだのは、例えば心臓マヒで死んだ人は、脳髄はちゃんと健康で残っているからそれが何か考えたり、言ったりしなくちゃならないのでありますが、脳髄に故障がなくとも、霊魂がその人間から去ったら、もうその脳髄は考えないのである。そうすると脳髄自身が考えるということは、間違いである。脳髄は一個のラジオ・セットである。と生長の家で説いている。
そして、吾々の霊魂というものが、その背後に居るアナウンサーであって、そのラジオ・セットに吹き込む、或いは放送すると、そこから、そのエネルギーの震動が無数の配線を伝わって、身体の各所にいろいろの働きというものとなって、現れて来るのである。実に微妙な化学作用を起す電気的装置になっているものが肉体である。
しかしその電気装置は誰がつくったかというと、物質が自然にかたまってこのような複雑な装置が出来るということはとてもあり得ない。それを設計しつくる何者かがなければならない。物質それ自身にはそんな知性はないとすると、脳髄その他の肉体組織に先立って、それを作った「心」と云うものがなければならない。そこに唯心論の根拠がある。
主:
さて、「心」が脳髄というラジオ・セットを作ったとしてもいくらそのラジオ・セットが立派でもアナウンサーがおらなくなったら、もう何もものを言わんという事になるわけであります。だからそのアナウンサーが問題なのですよ。そのアナウンサーが吾々の「霊魂」である。霊魂が全然抜け出してしまったら、脳髄はものを言わんし、ものを考えないということになる。
もっとも簡単な例を引くと、脳髄というものは、あのプリズム――三角ガラスみたいなものですね。それに太陽の光線が来ると、それから七色の虹が出てきて、そしていろいろ赤・橙(だいだい)・黄・緑・青・藍・紫というふうに七色に別れて来る。これは太陽の光線そのものではなく、太陽の光線の第二次的発現である。脳髄から出て来る所謂、精神現象と云うものは、意識の第一次的発現ではなくて、脳髄というプリズムを通しての第二次的発現なのです。そんな第二次的精神現象が宇宙の本源である筈はない。
マルキシズムでは精神そのものと精神現象とを混同して立論している。「心」といっても、「心」という用語には、いろいろの使い方がある。心というものは、脳髄から出て来たものであるから、万物は「こころ」によって発生したと説く「唯心論」は間違いだなどと言ったら、これはもう無茶な話ですよ。
我々が、唯心論なんていう場合には、そういう精神現象としての「心」を説いているのでもなければ、更に人間の霊魂というような「個別的心」を説いているのでもない、更にそれ以前の普遍的心ですよ。個別的な「心」よりももっと大きい大生命、普遍的な絶対精神というようなものがそれが具象化して、そしてすべてのものになって現れて来たというのですよ。
最近の物理学が、だんだんと進歩して来て、もう物質というものは分解してしまうとエネルギーに還元してしまう、物質と見えているものはエネルギーの一形式に過ぎないということがわかって来ますと、昔のような唯物論を称(とな)えることはもう既に滑稽(こっけい)になって来たわけです。
フォイエルバッハが唯物論を説いた頃は、常識的に言ってこの物質というものは、ある一定の形をしている塊みたいに考えられておった。小さいものでも分子とか原子とかいうものであって、何らかの三次元的、縦横厚み的な大きさ、小さいにせよ粒子的なものである。それが微粒子でどんなに小さいにしても、ある大きさを持っておって、それが固まって物質となって出ていると考えたのですけれど、所が物質の崩壊、核分裂の実験、吾々の知っている手近な例では原子爆弾の実験によって物質というものは、必ずしも粒子ではない、それは唯エネルギーの変形に過ぎないのだという、謂わば汎エネルギー説とでもいうものが、出て来たわけであります。
すべてのものはエネルギーの変形である。而も、そのエネルギーが単にただ知性なき力として、出鱈目にどちらへでも勝手に偶然的に動くエネルギーであるかというと、そうではないのであって、ある目的意識というかある志向性を持っているエネルギーだということがわかったのであります。そのエネルギーの中には内在する一つの構図を持っている。その構図は数学的秩序で成り立っている。すべてのものはエネルギーの変形であるが、そのエネルギーは、内部に或る一定の構図をもっている。
例えば、原子なら原子としてそのエネルギーが形を現す場合には原子核というものが真中にあって、その周囲に電子がこう回転しているというような構図がある。その構図が素粒子と素粒子との間にある真空の中に既にあって素粒子と素粒子との存在の位置をささえている。この真空の中にある知性――これが宇宙本源のエネルギーであって、万物をそのあるべき姿に支えている力であるわけなんですよ。
これは仏教では「真空妙有」という。複雑なる内部構図の設計が真空の中にある知性の内にある。これを理念という。万物は理念の内部圧力によって流動発展して行くのであってマルキシズムが万物を流動発展の過程として捉えたのはよいが、何故それが流動発展するかの説明がマルキシズムではつかない。その説明がつくのが生長の家の實相哲学だということになるのです。
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