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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

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[1334] インターネット道場ーーー光明思想家とマルキストとの対話「歴史的存在としての日本」
信徒連合 - 2015年12月01日 (火) 09時20分



インターネット道場


光明思想家とマルキストとの対話


歴史的存在としての日本

(『解放への二つの道』P.147−158)



客:

マルクスはこう云う風に言っているのです。「ヘーゲルにとっては思惟課程は内部現象に過ぎないのである。これに反して私の立場から見れば、観念世界なるものは、畢竟するに人類の脳髄の中で変更翻訳された物質世界にほかならないのである。吾々の精神とか認識とか言うものは人類の脳髄の中で外界の物質世界を観念的に模写したものに外ならない」と言っているのです。即ち模写説と云うのを採用しているのです。

エンゲルスは更にこれを説明して言っています「吾々は観念というものを、実在物(註・彼の言う実在とは現象に対する実在ではなく、存在するものはすべて物質のみだと云う立場から、物質のことを実在物と言っているのである)の模像と解釈する。観念があって実在物(物質)が出来るのではなくて、実在物があってそれが吾々の方に写ったものが即ち観念と称するものである。これを本末顛倒してヘーゲルは、頭で立っている。

つまり、我々は逆立ちしていたのをひっくり返して再び足で立った直立の地位に戻したのである。」つまり、人間の意識にコップと云う観念が出来るのは、コップと云う実在物があって、それが人間の脳髄に写ってコップと云う観念に翻訳される。人間の脳髄の中にコップと云う形が観念として描かれるのは外界のコップの実在物の模写であると言うのです。



主:

そう云うものの考え方が間違いであると云うことは、生理学や心理学が段々進歩して来た現在ではもうハッキリして来たことなのです。コップと云う外界のものが心で認められるのは、コップそのものの影が脳髄に写っているのではないにです。

人間の網膜は、丁度テレビのブラウン管に映っている姿のように、その姿そのものが映っているのではなくて、無数の濃淡ある点が写っているにすぎないのです。そこには色も何もない。ある周波数の電磁波の微小な強弱さまざまの刺激点が並んでいるだけである。その刺激を神経系統で脳髄中枢につたえられると、それが、ある色彩をもった或るかたちのものだ、と云う観念となって浮かび上がってくる。

これは決して外界の実物が映っているのではない。外界の実物はエネルギーの波動の集合体であり、そこから放射または反射されたエーテル波または電磁波が、それが、ただの「波動」として脳髄に映るのだったら、それは外界の実物を模写したことになるけれども、無数の波動の刺激点をそのまま「波動の刺激点」として模写せずに、ある観念としてそれが心に浮かび上がって来るのはその波動の刺戟を契機として人間の生命の内に内在する観念が内から浮び上がってくるのだと云うほかはない。

つまり人間の生命は、宇宙の普遍意識の一部がやどっているのだから、宇宙にある一切のものの観念を内に包蔵している。その内に包蔵する観念の中から、外界から来る刺激物の並び方に応じて、それに相応する観念を心に浮かび上がらせる。そして、外界のその事物をそこに見たと云う風に感ずるのですよ。マルキシズムは人間をただの写真機械のように考えているが、それは大変な間違いですよ。



客:

マルキシズムは唯物論に属してはいますけれども、同じ唯物論でも古い唯物論と異なって人間を一個の機械としては観ないのですよ。



主:

それでは、どう云う風に観るのですか。



客:

エンゲルス自身はこう言っています。「吾々の唯物論は古い唯物論と違う所が三つある。その一つは、従来は人間を甚だしく機械的な観方をしていた。人間を一個の機械と観察して生命ある有機体と見なかった。十八世紀の末に於いては、機械学は自然科学で以って完成されたに過ぎないものであるから、人間を生きたものとして見ないで、之を機械のように観察するという弊害があった。

吾々はこういう機械的な観方はしない。人間を生命ある有機体として吾々は見る。第二に、従来の古い唯物論は非弁証法的であったが吾々は弁証法的に物事を見る。あらゆるものを変化と発展との中に見て行く。

第三に、従来の人は人をただ抽象的に考えている。ローマの人間もギリシャの人間も十九世紀の初めのドイツの人間も皆引っくるめて人ということだけを彼らは問題にしているけれども、歴史の中の人間という者を彼らは考えていない。ローマの人とドイツの人とは非常に長い発展の歴史において皆異なる環境のなかにある。その意味に於いて、ローマの人と十九世紀のドイツ人とは同じ人間でありながら、歴史的変化の過程の中に住んでいるという意味に於いて非常に大きな違いがある。人を抽象的に考えるに止まって、歴史の中で生活して居る人間を考えなかったのが従来の唯物論の欠点であった」と言っています。



主:

その点はマルキシズムと生長の家とは非常によく似ている。人間も国家も、それを歴史的存在として把握する。本質に於いて平等の人間(神性・仏性)を把握し、現象に於いて差別をみとめる。

そして日本民族は日本民族として、日本国家は日本国家として非常に長い発展の歴史に於いて特異の発展をとげたのであるから、日本国家の統治形式とか、政治形態とかいうものも、他の外国と異なるのは当然であって、日本人は天皇を中心として、大家族的携帯をもって発展して来たのであって、日本も天皇制を廃して、大統領でもよいと云う人があるけれども、そのようなことは日本の非常に長い歴史を通して特異の発展をとげたその特殊性を無視するものであると思う。



客:

しかしマルクスはそんな特殊性と云うような固定観念をもってものを観ないのです。すべてのものを弁証法的に見る。弁証法的と云うのは、発展と変化の中に一つの原則がある。この原則は「肯定」が先に出て、「否定」が後の出て来る、その「否定」をあらたに「否定」するものが出て来て別の形態に発展すると云うので、一度獲得した特殊性と云うものを一定の観念形態としていつまでも持続するものとは見ない。だから国のあり方や、統治のあり方でも、更に発展し更に変化すべきものと見るのです。



主:

唯物論的に<もの>を観れば正にその通りとして観られる。なぜなら唯物論はすべてを物質の盲目的な無理想的な発展として観るのであるから、一定の理念の顕現のために、自己矛盾が生じて、現在の否定によって新しい形態が生ずるのだと云うことを知らないのです。

それを歴史的発展と云うけれども、それは物質がただの偶然的に運動して発展したのであると思っている。しかし物質はそれみづからでは動かない、与えられた運動量だけ、与えられた運動の方向に動くに過ぎないのです。

物質が歴史的発展をなし、それが生物となり、それが歴史的発展をして、日本民族となったり、ロシア民族となったりしたのは、偶然に物質が自動してそんな状態になり得る筈がない。それは内部に日本民族の理念があって、その理念のすがたに分子、原子、細胞等が配列せられるのである。

歴史的発展と云うのは、分子が偶然に外からそれに付着して、それが色々の形に発展して、チューリップならチューリップ種族となり、ダリヤならダリヤの種族となったのではない。内なる生命に特有な「理念」がある物質成分を占拠して、中からチューリップの花をチューリップたらしめ、ダリアの花をダリアたらしめるようにその成分の分子、原子等をならべたものであります。

そのためには秩序整然と、或る構造目的にならべる目的遺志と言うか、精神模型と言おうか、兎も角、そう云うものがなければならないのでありまして、それを抜きにして、ただ物質のみが精神なくして偶然に集合したために、同じ性質の鎚の中に埋めてある球根又は種子からあのような複雑な組織の美しい花の構造が、しかも、一定の姿にチューリップはチューリップと云う風に出来てくる筈はないではありませんか。



客:

しかしその精神と云うやつが、物質の化学作用の結果、放射能のように出て来る。そして、・・・・



主:

それでは、その君の物質というものは、ただの「物質」と云う概念に当てはまるものではない。「精神」というものがその内部に既にあるから、ある機会にその「精神」の働きと云うものが出て来たと云うことになるでしょう。



客:

そう言えば、結局そう云うことになりますけれども。



主:

物質は自主性のないところのひくい程度のものであり、精神は物質のように機械的な働きをしないで、もっと複雑な自主的な高級な働きをする、従って「低い」ものから「高い」ものが生まれる筈がない。併し高いものは低いものを造り出すことが出来る・・・



客:

待って下さい。この世界には「進化」と云う事実があります。すべてのものは「低い」ものから「高い」ものへと進化いたします。



主:

そうです。形あるものは簡単なものから複雑なものへと発展いたします。しかし家を建てるにしても、簡単な骨組みから複雑な内部構造へと作るのでありますが、物質が勝手に自動して自主的にそう並ぶことはできない。

簡単な物から複雑なものに進化するその働きをしているのは、建築家の心の働きである、「心」が「物質」に先立ち、「心」が「物質」の構造を左右するのです。

マルクスの『資本論』第三篇第五章第一節にも、「最も拙劣な建築士でも、もっとも優秀な蜜蜂よりも最初から優越している所以は、建築士は穴を蝋(ろう)で建築する以前にすでにそれを彼の頭の中で建築しているということである。労働過程の終わりには、その初めに当ってすでに労働者の表象のうちに、かくして、すでに観念的に存在していた一つの成果が出て来る」といっているのです。これで見るとマルクスは唯物論ではなく、唯心論または観念論と云うことにもなるでしょう。



客:

人間がこしらえた建築については「心」の中にまず形がつくられるというところまでは、たといマルクスの言ったところが唯心論または観念論でありましても、マルクスは、人間の心が出来るまでに天地があったと言っているのです。生長の家のように、人間がつくったものでないものまで、これを同じ性格をもつと考え、すべて形あるものは“心”が先でつくられていると世界全体に唯心論をおしひろげるのは間違いだと思います。

人間のつくったものは先ず心の中でつくられても、人間以前の世界全体は「物」が先にあったとマルクスは考えるのです。それが発展的に色々のものが生じて来た――これが弁証法的唯物論の世界観なのです。

「心」は人間の頭脳のはたらきであって、人間以外には存在しません。まだ人間が地上にあらわれてこなかった時代にも、宇宙は存在していましたし、それらが形をもっていたことも疑いありません。すべて形あるものは、「心」が先で出来上がっているとすると、人間以外に「心」があり、全宇宙はこの「心」の産物だということになってしまいます。



主:

そうです。全宇宙は、此の普遍的「心」の産物であり、その普遍的な心(叡智)を神と呼ぶのです。この宇宙の大なる系統がその微細なる原子構造に至るまで秩序整然と数学的秩序によって化合したり分解したり運動したりすること、そして数学的秩序と云うものは知性の輝きでありますから、この宇宙全体は神と云う叡智者によってつくられているほかはないのです。



客:

それはあまりに人間のありかたを大自然に押し付けるのだと思います。自然は自然であり、人間は人間であると思います。誤謬は特殊なものをつかまえて一般的にし、部分のありかたを、全体のありかたに押しひろげる処にあると思います。



主:

自然と人間とが別々のものではなく、自然に対する人間の理解が正しい連関をもっていればこそ、言いかえると、自然の中の「知性」と、人間の中の「知性」とが本来「一つのものであるあらこそ、自然の中にある「知性」即ち「法則」をば、人間の中にある「知性」が見出してそれを理解し、意味づけ応用できるのではありませんか。



客:

それは、そうですけれども--------先生の詩ですか、聖経『天使の言葉』と云うのがありますね。あの中にベートーヴェンの耳が晩年に聾(つんぼ)になったけれども「心の耳開けたれば、心の耳はピアノの鍵盤に触るるに従いてその妙なる奏曲を分別し得たるなり」とありますが、あれなども、特殊の例をもって全般に当て嵌めようとした行き過ぎではありませんか。

ここで注目すべきことは彼の聾(つんぼ)が晩年に起こったのであって、聾になる前にその肉体の耳で、音楽の勉強を充分しておいたからこそ、聾になってからも、頭の中で音楽を想像して記録したり作曲したりすることが出来たのでしょう。若し生まれつきのの聾だったら音楽の作曲は出来ません。これをもって「心の耳できく」などと云うことは行き過ぎだと思います。



主:

音楽を勉強していないでも突然ピアノでプッチニーの名曲を弾奏しだしたというような実例が『生命の實相』第五巻にありますよ。それから日本にも「天華(てんげ)」と云う宗教の教組渡辺薫美氏は習わぬ名曲を自由にピアノで弾いた。心は肉体を道具として使うけれども道具が欠損したりすると、肉体の条件を超えて働くことがある。近頃では聾唖(ろうあ)学校の生徒が足の裏で音楽をきいてダンスすることができる。

あなたは心は肉体の頭脳からでる産物だと思われていますか、肉体はどこまでも心の道具である。あなたは、肉体がなくなったら、もう「自分」と考える人間はなくなると考えていますか。



客:

無論私は人間は肉体であって、心は肉体の脳髄のハタラキである。脳髄を灰にしてしまったら自覚している人間は何にもないと考えています。



主:

そう云う人は『生命の實相』の第五巻か、唯今『白鳩』誌に連載中の「幽冥の境を超えて、仲の好い夫婦の物語」と云う実話を読んでごらんなさい。人間の肉体が死んでから人間の心の働きが存在すると云うことがよくわかります。



客:

そんなことが有るものか知ら。あるとしたら、ビキニの灰のように、超原子爆弾の形は破壊してしまっても、その放射能が到る処に姿をあらわすと云うようなものですかな。



主:

そう云う機械的なハタラキの継続ではなくて、高等な精神的能力が、肉体脳髄の知らないようなことでも知る精神的能力が続いているのですよ。それが人間の霊魂であって、その霊魂が或る機会に母親の胎内にやどって、人体を構造するのです。

だから一々の霊魂はすべて個性が異なる。人間が肉体一代で終ってしまうもので、環境の物質的条件で心の性格や能力が定まるのだったら一卵性双生児のように卵も一つで同じ胎内に宿って生まれ、同じ家庭で育った双生児(ふたご)は、その生育、生長、生活の環境条件は全く同一であるから、同じ性格や能力をもっていなければならないのに、各々異なる能力や性格をもっているのはどうしてでしょうか。

即ち同一物質的条件でも異なる能力や性格が出てくるのは、精神が物質を支配するのであるからであり、その同一物質的条件を支配する「心」又は「たましい」が異なるからだと言うことができるのであります。

つまり、「歴史」と云うものが「心」の中に存在し、それが環境条件を利用しながらそれを現実の世界に表現して行こうとするのが「生命」なのであります。

日本人の心の中には、他国民にはないところの特殊の「歴史」が存在して、それが現実的な日本の歴史として、生々発展実現して行くのであって、日本を愛せよと言うことは、この吾々日本民族の心の中にあるところの、他国民にはないところの、特殊の歴史を尊重して、それを尚一層尊きものに完成して行くことなのであります。



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