| [1335] インターネット道場―――体験実話特集・平岡初枝先生「子供を見つめて」より(26) |
- 信徒連合 - 2015年12月01日 (火) 10時18分
インターネット道場―――
体験実話特集
平岡初枝先生「子供を見つめて」より(26)
思い合うこころ
―― 念は感応する ――
愛は思いやる
本当の愛情は相手の立場になって物事を考えて処理してやることであります。これは言葉にするとたったこれだけのことですが、さて実際にはなかなかむつかしいことなのです。なぜなら、相手の立場に立つ限り、自己の立場をすてねばならないからです。島中さんの場合をとってみましょう。
<優秀校に入学したが>
島中さんには一男さんという息子さんが一人います。今はもう大学を卒業して富山市内で就職していられますが、高校1年の時の話です。一男さんは小学校中学校とも非常に成績がよく、級の首位を占めていられました。特に書き方が優れていて、その年の書初め展覧会には県下一の成績で入賞して、知事賞になったのです。したがって子供の成績については、両親とも一度も心配されたことはなかったのです。
ところが高校へはいられた。富山中部高校といって、富山県では最も優秀で、毎年東大はじめ早稲田などの一流大学への入学生を何人か送っている、地方では、みんなののぞんでいる高校なのです。一男さんはこの高校の入学にもパスするし、両親には喜びだけがあったわけです。
ところで、話は一男さんの高校1年の第一学期の父兄会の時から始まります。一学期の試験も終わって、父兄会の通知を受けられたお母さんは、何思うこともなく学校へ行かれました。あんたの子供はよくできる、性格も素直でよい子だと過去9ヵ年間、いつの時も言われてきたお母さんは、父兄会はむしろたのしい日ぐらいの気持で行かれたのです。
受持の先生は成績簿をくっておられたが、吐き出すように言われたそうです。 「ああ島中さんですか、困りましたな、お宅は進学の希望でしょう、それには、こんな成績では困ります。なるほど一男君は、読み方や書き方はできる、しかし進学には何といっても、英語、数学、社会などが一番大事です。一男君はその大事なものが、まずいときている」
お母さんの胸はにえくり返るようだったといわれました。「まあ、かわいそうに、あんなに毎日勉強しているのにできなかったのかしら」こう思ったら身も世もないおもいになったといわれました。先生は、母親の気持にはおかまいなく、悪いところばっかり並べたてられた。この先生の前でだけは涙を見せまいと気張ったが、校門を出てから家へ帰るまで、本当に親でなければ分からない気持で泣き泣き帰ったといわれたのです。
<思い合う母子>
そして、家の玄関をはいろうとすると、うちに一男さんのけはいがする。ああ一男がいたのかと、もう一度玄関を出て涙をふいたといわれるのです。私があの先生の言葉をきいて、こんな悲しいおもいになった、この思いをどうして子供にまでさせられようかと思って、玄関を出て涙をふき、一所懸命さりげなく装って、再び玄関の戸を開けられたというのです。
一男さんが、とび出してきて、迎えました。 「お母さんお帰り、成績が悪いと言われたでしょう」 もう高校生ですから、自分の成績の良い悪いぐらいは、とうにわかっているわけです。お母さんはあっさりと答えました。 「そうね、あまりよくないといっていられたよ、頑張りなさいよ……」 「お母さん、心配しなくていいよ、まかせとかれ、まかせとかれ」 一男さんは胸をたたいて、お母さんに笑い顔さえ見せたというのです。まかせとかれとは、富山の方言で、まかしておきなさい、ということです。
まことにも母親が子供の気持になってやると、子供もまた親の気持になって、お互いにかばい合うのです。このかばい合う気持が本当の親子の愛情であり、この愛情の中に本当の美しいものが育って行くのであります。
しかし、世の中には、これと反対な現象が多すぎるのです。お母さんたちのなかには、先生から一つ注意されると二つに、二つ注意されると三つ、四つにして子供を責める人さえあるのです。なかには、ふだん子供が勉強しないうっぷんを、今だとばかり目に角立ててあたり散らすお母さんさえあるのであります。その結果については、すでに述べたことでもおわかりのこととおもいます。
島中さんの話はつづきます…… 「私は子供にはさりげない言葉、さりげない表情を見せてはいましたが、このことがあって以来、心の中では常に子供の成績を気にしている母になってしまいました。今度の成績はどうであったろう、今度の試験に良い点がとれたかしらと、何となくオドオドしている母になってしまいました」そのうち12月になって、二学期の試験も終わったのです。学校から成績表を送ってくる頃であろうと思うのに、なかなか送ってこないのです。その学校では、成績表は子供には持たせないで郵便で送ってくるのです。ところが、もうとっくに来ていたのに、その郵便物は一男さんの手に渡っていたのです。一男さんは、それを親に見せないような子ではないが、ただ出しにくくって出しおくれたらしいのです。
<成績表に三拝する父>
ある日、夕食の終わった後で、一男さんが、その成績表をもって来た時の光景を、お母さんは次のように語られたのです。
「ある夕方、一男は成績表のはいった封筒をもってまいりました。『お父さん成績表が来ました』と差し出した手がブルプルとふるえているのです。お父さんは受取って『ありがとうございます、ありがとうございます』と三度押しいただかれました。それからあけて見て、『フーム、フーム』とうなっていられる。これだけを見ていて、私は全部わかりました。子供はブルブルふるえ出している。お父さんは、よかったのう、ともおっしゃらない。また、成績がわるかったのだな、と胸がこみ上げてきましだ。
でも、その時に私はかつて先生がいって下さった言葉を思い出しました.それは――子供にだけテストがあるのではない、お母さんたちにもテストがある。子供が期待に添うだけの成績を挙げ得た時はよいとして、できが思わく通りでなかった時に、 お母さんがどんな顔をして、どんな声を出すか、これが親のテストだ――とおっしゃって下さった言葉を思い出したのです。そうだ、今が私のテストだ、と腹をきめました。
お父さんは見おわると、もう一度『ありがとうございます、ありがとうございます』と押しいただいてから私の方へ廻して下さいました。私も『ありがとうございます』と押しいただいたが、開けて見ると一学期より又ドンと落ちているのです。しかし、私はもう腹がきまっていたから、ニコニコ笑いを含んで、『いいよ、いいよ。この次頑張ったら大丈夫。さあ、仏壇の下の引出しに入れておきなさい』といいました。子供は大きなため息を一つついて、その場を立ったのです。
その場はどうにか頑張り通しましたが、それから後の私は、子供の成績について一層気にかけるみじめな母になってしまったのです」
<南無阿弥陀仏>
「そして、4、5日前のことです(話は2月7日頃)。先生も御承知のように、私の家はふだんあの6畳の茶の間にくらしているのです。その日も夕飯のすんだあと、主人は炬燵で新聞を見ていましたが、10時もすぎたら眠くなったらしく、グーグーいびきをかいてねておりました。私もつくろいものなどしていましたが、眠くなって炬燵の上に頭をつけてねていました……
ひょっと気がついて目をあけて見ると、時計はもう12時をさしています。坊やはと見ると、もう火の気のなくなった火鉢のそばの机によりかかって一所懸命、私のわからない英語の稽古をしているではありませんか。
私は思わず『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、ありがとうございます』と御念仏を称えて子供を拝みました。その声に主人も目をさまして、『南無阿弥陀仏……』と御念仏を称えだしました。 そしたら、子供がびっくりして『かあちゃん、どうした。かあちゃん、どうした』というのです。
その時私は、 『坊や、あんたようこそ、お父さんもお母さんも寝ているのに勉強してくれている。勉強くらいどうでもよいのよ。勉強ぐらいどうだっていいのよ。平岡先生が、いつも言って下さるじゃないの。人間にはみんな使命があるのだって。坊やに大学へはいらねばならぬ使命があるなら、神様は必ず大学へはいれるようにして下さるし、大学へはいらなくともよい使命があるなら、坊やのようなよい子には、神様は必ずよい道をあけて下さる。坊や、勉強ぐらいどうだってよいのよ。お母さんは今まで坊やをおがんでいたと思っていたが、まるで間違っていた。坊やの成績を拝んだり、坊やの順番を拝んだりしていたことにやっと気がついたの。坊やかんにんして、かんにんしてちょうだい』と合掌とともに泣きくずれてしまいました。
すると先生、大きなあの子が『お母ちゃーん』と、これまた私の手をとって泣いてくれたのです。 こんなことがあってから、子供の成績について常に不安焦燥をどうすることもできなかった私の胸が、スーッと晴れて、楽になったのであります。おまかせということが、何やらわかって楽になってしまいました。先生、ありがとうございます」 尊い話ではありませんか。
次に会ったのは、その学年もすぎた四月半ばだったかと思います。島中さんはニコニコうれしそうにして、話されたのです。 「先生、ありがとうございます。このまえは、息子の成績について、ご心配をかけましてすみませんでした。あの子の二学期の成績が一学期よりドンと落ちましたのは、全く私の責任でした。言葉に言わなくとも表情に出さなくとも、心に起こしている波は、そのまま相手に伝わるのだということを、こんどこそ本当に分からせてもらったのです。
私が子供の成績を思うたびに、『どうだったろう、出来たかしら、出来なかったのではあるまいか』とたえず心に不安の波を起こしていたのが悪かったのです。それが相手に伝わって、子供の心も常にイライラと不安だったために、できるはずの問題も間違ったりしたのだと分かりました。その証拠に、あの2月初めの居眠り事件のあとは……そうだ、子供は神の子だ、使命は神から来るのだ、おまかせしましょう、親じゃ親じゃといっているけれど、髪の毛一本植えつけてやれる私でもあるまいに……と本当に腹の底から信じきってまかせきって、ただ私は家のなかを明るくする自分の仕事、それこそ私の使命だけを一所懸命にやりましょうと思ったあの日から、楽になってしまったのです。
そしたら、どうでしょう。三学期の成績は思いもかけずズーッと良くなったのであります。先生のおっしゃる通り、信じてまかせることの偉大さを、よく分からせてもらいました。ありがとうございます、ありがとうございます」と合掌して下さったのであります。
<この親にしてこの子あり>
島中さんの話には、おしえられるものがたくさんあります。その最も大きなものは、その時その場で、常に子供の立ち場、子供の気持になってやるという態度であります。親の感情や親の都合というものをかなぐり捨てて、相手の気持を生かし、相手を傷つけまいとする努力、これこそ本当の愛というものであります。本当の愛は自分を捨てて、相手を生かすのであります。
お父さんが、子供から成績表を受取ると、「ありがとうございます」と三度もおしいただかれたことも、実に尊い態度だと思います。よくても悪くても、一学期間頑張った総決算です。親がこうした態度で受取ったなら、子供も一所懸命にならずにいられるものではありません。
次に学ばねばならないことは、親の気持が、そのまま子供に反映するという事実です。言葉でいつたのでもなければ、表情であらわしたのでもないのに、ただ母親が心で不安におもっているだけで、子供もイライラしていたのだという事実です。母親が安心した心境になった時に、子供の成績が上がったという事実です。
お母さんが子供の本性を信じて、大安心の境地でまかせていられると、その時子供の実相があらわれるのであります。実相とは大自然から約束された本来の面目であります。勉強をしたい願い、両親を喜ばせたい心、すなわち仏性というか神性というか、それが伸びのびと発揮せられるのであります。
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