| [1350] インターネット道場ーーー光明思想家とマルキストとの対話ーーー 「絶対精神の問題」――特にマルクスの模写説を反駁す |
- 信徒連合 - 2015年12月02日 (水) 07時17分
インターネット道場
光明思想家とマルキストとの対話
絶対精神の問題――特にマルクスの模写説を反駁す
普遍する知性
(『解放への二つの道』P.159−162)
客:
私は宗教家が神などと云うことを口にするのをきいていると滑稽になってくるのです。よくあんな空々しいことを言って人を欺くものだと思うのです。
主:
神というものを何か人間的な姿をして神秘的服装をして天界から地上を見おろして人間の行動や心情を審判している者のように考えるから「そんな神はあるものか」ということになるのです。この宇宙の万物を見ると秩序整然たる法則がある。この「宇宙を貫く法則」を生長の家では「神」といっているのです。法則とは知性を持っている所のエネルギーであります。無茶苦茶でない、数学的な秩序で事物を動かす力ですから、「知性」である。
この知性あるエネルギーが宇宙にあってですね、宇宙のすべて現れているものをことごとく支配しているわけなのです。この「知性」が神なのです。この「知性」が宇宙のどこにでも充ち満ちておりますのは、すべて物質の組織構図が宇宙いたるところで、水素は水素、酸素は酸素と同じ構成をもっており、同じ作用をあらわすので説明されます。それは、アメリカへ行っても、日本でも、イギリスでも、どこでも皆同じであります。
だからこの「宇宙の知性」はどこにでもある、これは宇宙の絶対精神即ち神の叡智の現われだと見ることができるのです。宇宙に遍満し、宇宙を貫くところの知性――この絶対精神というものを認めずにはいられないわけなのである。これを神というのであります。
それでこの「絶対精神」という超越普遍的なものが存在し、その知性がこの宇宙を支配しておるわけで、すべてのものの基本構図が一様になっているのです。
大にしては、太陽系統は、太陽が真中にあって周囲に地球等の遊星が旋回している。中心に「陽」(発動性)があって「陰」(みずから発動的には輝かないこと)がその周囲をめぐっている――こういう形式になっている。小は原子に於いては陽電気エネルギーの中核性(原子核)が中心になって陰電子がその周囲をめぐっています。
ひとり家庭のみ例外と云うことはあり得ないですね。家庭に於いてはですね、家長というものが中心になって、その周囲に家族が囘(めぐ)っているというような、そういう根本構図になっているのであります。で、我々の肉体を構成している細胞というものも、やはり、真中に生命の発動性(陽)なる細胞核があって、周囲に受動性(陰)の原形質がとりまいている、だから細胞は細胞核を取り除くと死んでしまう。原子に於いてはこの中心体なる原子核を破壊したら、原子爆発が起こって原子の崩壊――すなわち原子が壊れてしまうのであります。
家庭に於いても中心者たる家長は「陽」(男性)であって、家長が死ぬと家族が分散してしまうのであります。家の制度は封建的であると言って、「家」を廃し「戸主」を廃したために、家族がバラバラにめいめい勝手気儘(かってきまま)に分散的な考えを持つようになったことは現在の日本で体験済みであります。
会社とか組合とかいうものでも、それが一個の有機体となるとやっぱり同じ構図になって中心ができてくるわけです。共産党にさえ書記長とか委員長とかいう中心がある。会社には会長とか社長いうものがある。 在団法人には理事長がいる。やっぱり中心はひとつでなくちゃいかんのです。
国でもやっぱり、それが有機体である限り国の生命の中心が一つでなければならないのです。これは一切の有機体を通じてあやまらざる基本構図なのであります。何ものも、その基本構図からはなれることは出来ない。それは宇宙精神又は絶対精神が規制した事物の根本的な「在り方」であるから、この基本構図から離れた時に、原子核を破壊された原子のように崩壊してしまうということになるのです。
この基本構図の上に色々の構図が配置されて、花なら五弁の花もあれば、四弁の花もあるし、複雑ないちいち数え切れない菊の花みたいなものもあるけれども、真中にやっぱり中心があるということは、否定出来ない万物のあり方であります。そこに宇宙の絶対精神の知性が定めた根本構図があるのです。
国も有機体である以上、一人の元首を必要とする
(『解放への二つの道』P.162−163)
宇宙の知性が、すべての有機体に「中心」の存在をみとめたとすると、やっぱり国にも一人の元首という中心がなければならんということは、当然のことであると私はおもうのです。そこで日本には天皇という中心がましまして、日本の国が崩壊しないで、敗戦の後ですら、とも角、存在を保つことが出来たのです。
日本人のなかにも天皇制の存在理由を否定して、アメリカは大統領でも、うまく行っているから日本大統領でも、宜しいという人がある。しかしアメリカが大統領で可(よ)いといって、日本もその通りに真似なければならぬというわけには行かぬのであります。日本には日本の歴史がありすべての存在は歴史を背負って立つところの歴史的存在である。
この歴史的発展の中にある人間についてマルキシズムは次の如く言っていることは既に指摘した通りです。――
「吾々の唯物論は同じ唯物論の陣営に属していながら古い唯物論と違う所が三つある。
その一つは、従来は人間を甚だしく機械的な見方をしている。人間を一個の機械と観察して生命ある有機体と見なかった。十八世紀の末において機械学は自然科学で以って完成されたに過ぎないものであるから、人間を生きたものとして見ないで之を機械のように観察するという弊害があった。吾々はこういう機械的な見方はしない。人間を生きた生命ある有機体として吾々はみる。
第二に、従来の古い唯物論は非弁証法的であり形而上学的である。我々は弁証法的に物事をみる。あらゆるものを変化と発展との中に見てゆく。
第三に、従来の人は人をただ抽象的に考えている。ローマの人間もギリシャの人間も十九世紀の初めのドイツの人間も、皆ひっくるめて人ということだけを問題にしているけれども、歴史の中の人間というものを彼らは考えていない。ローマの人とドイツの人とは非常にながい発展の歴史において皆異なる環境のなかにある。その意味において、ローマとドイツの人間とは同じ人間でありながら歴史的変化の過程の中に住んでいるという意味で非常に大きな差異がある。」
歴史を無視した日本国は日本国ではない
(『解放への二つの道』P.163−164)
以上の如きマルキシズムの理論によりましても、人間というものは歴史的存在である。そして、現実の人間はすべて歴史的存在であって、ドイツ人はドイツ人としての過去の歴史を背負って、今此処にあるというのです。これを「弁証法的発展」とマルクスは謂(い)うのです。
歴史を無視した「弁証法的発展」はないのです。だからマルキシズムでも当然日本人の歴史を無視することはできない。日本人は日本人としての歴史を背負って今此処にあるのです。歴史を背負わない所の人間というものも国というものもないのである。吾々は此の「歴史的日本」というものを尊重しなければならない。
マルクスは生産手段の歴史的発展から来る経済組織の変化や、社会制度の変化を説いているが、マルクス自身は天皇に関しては何もいっていない。マルクスの経済学説を天皇制廃止の方へ持って行くのはソ連を祖国とする第五列の日本国を崩壊せしめる陰謀にのせられているのだと思うほかはない。
何故なら中心を破壊すれば、原子核を破壊されたとき原子が崩壊するように日本国も崩壊するから、其処をねらっているのだと考えざるを得ないのであります。
マルクスの「模写説」について
(『解放への二つの道』P.164−165)
マルキシズムはこの我々の精神というものが出来てくるのは、認める「自分」も認められる「外界」と共に物質であって、外界に物質的なある存在があるのを、それを内部に模写するのだ、それが内部に映って精神として現れるというので、「模写説」というものを取っているのです。
例えば湯呑みなら湯呑みというものが外界にある。それを見て、自分の心の中に湯呑みの形が描かれて、それが認められるというのは丁度、あちらにあるものがこちらに鏡があって、その形が内部に模写されて写るんだというのです。
物があって、精神がこれを認めるのじゃなくて、鏡のように外部のものが内部機構に写るから、ここに湯呑みがあると判るのである。物が先にあるからこそ写る。物がかったら、人間がいくらいたからとて、写りようがない。だから物が先にあって、精神の方は結果だと言うような考え方をするのです。所がこれは一寸無理な考え方だということは明らかです。
模写説の誤謬について
(『解放への二つの道』P.165−167)
何故なら、考えて見てください。吾々は決して「物」だけを心に思うのではないから、「物」が映って精神現象を生ずるとは言いがたい。
例えばですね。我々は絶対精神なら絶対精神と云うものを考える。これは外界にある「物」が映ったのではない、絶対精神というものは、そんな「物」が外界にある訳ではない。我々が心の中に思うものは、皆、外にある「物」が写って来て、模写してここに心のハタラキとしてあらわれるのだったら、「絶対精神」というものは外界の何処にあるか?またそれは外にある「物」ではない。それに肉眼で見える世界に物質としては存在しない。
それを我々が心に思い浮かべるということは、心のハタラキは決して外界にある物質を模写する計(ばか)りでないことを証明している。そうすると精神というものは物質の模写ではなく、独自のハタラキであって、独自に絶対精神という観念をも思い浮かべることが出来るのだといわなければならない。
だから、物が先にあって、それが写って心のハタラキになるという所の、マルクスの考え方は間違いである、ということになるのであります。
或いはまた吾々は「正義」というものを思いうかべ、心に正義を愛する。これも外界にある「物」の模写でしょうか。「正義」というものは、一体外界の何処にあるか、何処にも「物質」の形としてはない。だから我々が「正義」の観念を心の中に思い浮かべても、これは決して「物」の模写ではない。
マルキシズムはこのように詭弁を弄して「心」を「物質の模写」だといおうとするのでありますけれども、決して吾々が心に思うものは必ずしも外界にある「物」が写ってくるのではないことは以上の説明で明らかであります。
それよりも、「絶対精神」とか「正義」とか、「純潔」とか「貞操」とかいうものは絶対精神の世界に先ずその原型があって、その絶対精神の一部が人間にやどって人間の霊となっているから、その絶対精神の中にある「正義」とか「純潔」とか「貞操」とかいうものが人間の霊におもいうかべられるということになるのです。
この絶対精神が神である。この神の生命がわれわれにやどっているから人間を「神の子」というんです。だからわれわれ人間のいのちの中には絶対精神の中にある所のすべてのものが此処に宿っているわけです。換言すれば神の有ちたまうすべてのものが人間のうちにやどっている。
だからこの絶対精神の表現であるところの自然界の一切の存在と、絶対精神(神)のいのちがやどっている人間とは本来一体であるから心が物を理解することができるのであります。
すでに絶対精神の中にある所のすべてのものが人間に宿っているのであるから、だから絶対精神の表現として出来た所の自然界の一切のものを人間はよく理解することができるのです。たとえばあの無辺の空間に輝く無数の星でも、われわれの精神の中にとらえてこれを理解し得るのはそのためであります。
すべての生物は神の子である
(『解放への二つの道』P.167−173)
絶対精神の表現であるところのものは人間だけじゃないのであります。従って厳密にいうと神の子というのは人間だけではない他の生物でも皆神の子であります。蜜蜂でもミミズでも、ナメクジでも蟻(あり)でも、皆、その生命は神から出て来ているから神の子である。
それなのに、人間だけを神の子だと仮にいうのは、人間は特に神の自己実現として、神の持ちたまえる全徳の最高の自己実現であるからです。他の生物は皆魚でも、蟲(むし)でも、獣でも、花でも、みな神の子ですけれども、これらは単なる被造物であって、神の全徳の表現ではなくて神の一部の御徳を表現しているにすぎません。
人間は単なる被造物たるにとどまらず創造主としての全徳を表現せる神の最高の自己実現として一切のものを創造する自主的力をもっているのであるから、これを特に「神の子」といって尊敬するのであります。
ところで、一切の存在は一元の神から来るのですから皆各々普遍の生命を宿しているのであって、従っていのちの世界で互いに連絡をしているのであります。身体は互いに別れ離れている。例えば此処に蜜蜂がおるとしますと、蜜蜂の身体は、花とは別れた存在である。そして蜜蜂の世界には、花の研究所というようなものは持っていないけれども、花の何処へ行ったならば、自分の好きな蜜があるのだということを知っているのであります。
併し、蜜蜂がそんなことを知っているのは偶然かもしれない。或るとき花へ行って見たら、蜜がその花の子房の底のところにあったというので、それで憶えているのかも知れない。しかし、花の方はどうかというと、これは、花には脳髄もないし考えるっていうような器官ももっていないし、蜜蜂研究所というのも備えていないのでありますけれど、花の生命は蜜蜂というものを研究しないでも蜜蜂というものが自分の花粉を配達してくれるだろうという事を知っている。
そして蜜蜂にその花粉を配達してくれるために何にも報酬をやらなかったならば、もう二度と花粉を配達してくれないかも知れない。そうすると、我々の子孫を絶やすということになるから、蜜蜂の好む所の食物をこしらえて、御馳走しようということを考える――考えるといっても脳髄で考えるんじゃない。そういういのちの響きが植物の内部に宿っていて、蜜蜂研究所というようなものがなくとも、蜜蜂は如何なる食物がお好きかを研究せずして知っている。考えずして知っている。
そして蜜蜂の好きなみつを拵えて待っているのであります。これは理論でなくて実際なのです。蜜蜂と花とは全然生命の種類段階が異なっており、からだも全然離れておっても、宇宙普遍の一つの生命が宿っているので互いに知り合っているのです。
蜜蜂が花の色を良く見分けるということは実験をして見ると判るのであります。例えば、色ガラスの上にお砂糖を盛って置く、最初赤いガラスの上にお砂糖を盛って置くと、砂糖を求めて蜜蜂がその赤ガラスの上の砂糖にやって来て食べる。これを繰り返しますと、その後青い色ガラスの方に砂糖を盛って、赤い色ガラスの方をカラッポにしていても、蜂は赤い色ガラスのところへ一応飛んで来て、お砂糖を探す様子をして、砂糖が無いことを確かめてから、青い色ガラスの砂糖の方へ飛んで行くのです。
それで、なる程、蜂は、色の区別が判るんだということが判るのであります。所が花の生命は蜜蜂がどんな色彩を好んで引きつけられるかということを、知っているからこそ、それに適する色彩の花を咲かすのです。
たとえば菫(すみれ)の花が菫色の振動を出すのには一万分の3.7ミリの振動数の波動を出さなければ菫色に感じないのであるというようなことを、そういう物理学の研究所も何もないけれども、花のいのち自身は普遍的叡智が宿っていてちゃんと知っている。それで、ちゃんと菫色の振動数を出して、蜂をいざなうということを知っているのです。
そういうように、花のいのちと蜂のいのちとは、皆もう互いに連絡があり互いに生命の底では理解し合っているのであります。これは一例を以って蜂と花との関係を申し上げただけでありますが、森羅万象悉くたがいにそういう連絡関係がある。「人の造った建築物などは心で設計して造られたと云うのは正しいけれども、天地万物まで神の心が造ったと推(お)しひろめて説くのは間違いだ」と左翼の人は言いますが、これで観ると、すべてのものに神の普遍的叡智が宿っていることはあきらかであります。
花と蜜蜂との間にさえこういう関係があるのですから、いわんや生命の高度に発達した人間と人間との精神交感、精神の感応というものは、これ又素晴らしいものであるのは当然のことであります。
ある日、NHKのラジオ放送のあさの訪問の時間をきいておりましたら、和田アナウンサーが、ある美術評論家を訪問して対談を しておりましたが、そのはなしの中にこんな話がありました。
それは子供が絵を描く場合に、親の心の通りの絵を描くというのであります。幼い子供が描いた絵を見ると、「オヤ昨夜この子の親は夫婦喧嘩をしたんだな」と判るくらいにその絵に夫婦喧嘩があらわれるのであります。
親が夫婦喧嘩をした日、又は翌日に、その子供が描いた絵というものは、薄暗い、黒っぽい陰気臭い、黒と青との色彩の多い絵を描くというのであります。それからクリスマスが近づいて来た時とか誕生日の祝いの前とかいう時になると、子供は黄色の色彩の多い黄金色輝くような、非常に明るい色彩の絵を描くというのであります。
子供の描いた絵にすらもその親の精神というものが斯うして子供に実に良く現れると云う事は重大なことであります。形の世界は、心の世界を模写するという事であります。絵にすらも親の心の状態があらわれるとすると、子供の健康状態に親の精神状態があらわれ、親夫婦の心境のよい時に子供が健康となり、親夫婦が互いに嫉妬や利益関係で争うというような時に子供が病気になり、それを宗教の先生に指摘され、反省して心をかえた結果、その心の反映として子供の病気が治る実例があるのは少しも不思議ではないのであります。
これなどは「心」が「形」に先行し、「形」の方が「精神」を模写したという実例であって、親の精神を子供が絵に模写したり、健康状態に模写したということになるわけであります。だから子供に心持ちのよい絵を描かせようと思えば、「良い絵を描け」といわないでも親の心持の良い時には、心持の良い絵を描くわけであります。絵を描くというのは、それは人間の手が動くのだけれども、手は意識的に動くんだけれども、意識的の奥に無意識に動いているものがある。気が付かないで動いているものがある。その無意識の世界に於いて、蜜蜂と花のいのちとはつながり、子供の精神状態が親の精神状態につながり、無意識界に動いている所の親の精神によって子供の意識的動作も無意識動作も左右されることになるのであります。
これが判ってまいりますと、親の心の状態が、子供に病気を起すとか、子供を健康ならしめるというような問題も、それによって、科学的に理論づけられるのであります。これが深層心理学の研究課題であります。
我々の内臓を支配し、血行を支配しているというものは、心の深層にある無意識の世界であります。吾々は意識的に内蔵を動かしはしないけれども、無意識即ち気が付かん心で生理作用をつかさどっているのであります。此の気が付かん心に、親の精神の波が波及して来て、内蔵を無線操縦して病気を起したり子供の意識的にあらわれる色彩の選択作用に影響を与えて暗い絵を描かせたりするのであります。
だから、子供は親の心の鏡であると言われるのは当然のことであります。従って子供を良くしようと思ったならば、親がよくならなければならない。これらの事を更に拡張して考えれば世界の平和でも心の問題であって、先ず世界各国の首脳者の精神が互いに愛念を持ち合って、互いに好意を持つようにすることから始まらなければならない。その意味に於いて、最近ジュネーブであった世界四巨頭会談でどんな具体的な内容ある決定が行なわれなかったにしても、世界の大国の四巨頭の精神が平和な気持で、友好親愛な交歓が行なわれたと云うことは、「心は形に先行する」と云う原理から、世界に平和を一歩進めたということになるのだと歓ばずにはいられないのであります。
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