| [1351] インターネット道場―――体験実話特集・平岡初枝先生「子供を見つめて」より(27) |
- 信徒連合 - 2015年12月02日 (水) 07時30分
インターネット道場―――
体験実話特集
平岡初枝先生「子供を見つめて」より(27)
<精神感応>
ではその言葉に出さないもの表情にあらわさないものが、どうして親から子に伝えられるのであるか、言葉にあらわさぬ前のもの、表情にあらわれぬさきのもの、それは想念であります。おもいであります。おもいは、そのまま波であります。念波というか、心が波を起こしているわけであります。
その波は私たちの内部にだけあるのではなくて、それがそのまま一個の放送局のように、外界に向かっても大きく放送されるわけであります。この音のない、形のない無言の放送が、何となくその人の雰囲気を形づくっているわけであります。
何にも言わないでいても、なんとなくあたたかい雰囲気をもっている人、何かひんやり冷たいものを感じさせる人、見るからに荒々しい感じの人、そうかと思うと柔らかい人、さては明るい人、暗い人など、人それぞれでいろいろありますが、みんなその人その人の心のなかにあるものが、あらわれているわけであります。
だから地上に30億の人がいるとすると、こうした心の波を放送する放送局も三十億あるということになるのであります。そして、その放送を受信する装置もまた一人一人がもっているというのですから、吾々の精神構造というものは、実に精妙きわまりないものだといわねばなりません。
人間の頭脳は、一個の想念ラジオセットとして8億球の真空管装置と12億の神経細胞を動員して、ちょっとした心の動きにも敏感に反応して、肉体の内外を支配し、その人の運命を左右していることになるのであります。
こうして、吾々の想念すなわち心の波は、以上のような仕掛けによってお互いに放送し、感受しあっているのですが、同時にラジオの波長がAKとBKとでは違っているように、30億からの心の放送局があるわけですが、波長によって引きつけたり相反撥したりするのであります。明るい心は明るい運命を引寄せ、暗い心は暗い運命を引寄せる、つまり類をもって集まるという波長共鳴の法則によって支配されるのであります。
大体親子とか夫婦とかは、同じ波長をもっているのですから、ものを言わなくとも、すがたにあらわさなくとも、すぐ感受し合うということになるのであります。
しかし、単に頭脳智によって感受し合うのではなく、いのちをもってふれ合う世界であり、宇宙のいのちは本来一つなのですから、何もある年齢にならねばわからないというものでもないのであります。頭脳智だけの問題だったら、赤ん坊はまだ脳髄の発達が幼稚ですから、周囲の雰囲気を感ずることなどはできないわけですが、そうではありません。どんなに幼い赤ちゃんでも、自分が好ましい愛情のなかにいるか、家族いがみ合いの不愉快な憎しみの雰囲気のなかにいるのか、からだ中で感じとるのであります。
手のかからない、おだやかに、いつもニコニコと笑っているような子供は、おだやかな夫婦、嫁姑の人間関係のなかで、こまやかな愛情で育くまれているのであります。夫婦が常に信じあえず、嫁姑の間では常にけわしい感情のやりとりをしているような家庭では、赤ん坊でもヒステリックにイライラと落ちつかないわけであります。
幼い子供をおもちのお母さんは、こうした観点から、もう一度子供さんを見なおして下さいませんか。今現われている子供のすがたは子供本来のすがだではなかった。自分の心がうつっていたのだと、おわかりいただけると思うのです。
先日もあるところで、そんな話をしていましたとき、一人のお母さんが膝を打って、次のようにおっしゃったこともあります。
「全く、おっしゃる通りです。実は、私の子供は今1年3ヵ月なのです。毎晩7時になると寝つく習慣がありまして、寝つくと2、3時間は私の手があくので、夕食後は一仕事できるのです。ところが先日、町内会が晩の七時半から催されるというので、出席することにしていたのです。その晩に限って、子供は7時になっても、大きな目をクルクルあけているのです。めったにしたことのない添寝までしてやるのに、『マンマ、マンマ』と、お乳をたたいて遊ぶのです。
『さあ、ネンネ、ネンネ』と、蒲団をかけて無理に寝かしつけようとすると泣き出す。どうにもならないので、『まぁ、この子は、まるで私の逃げ出すのを知ってるようですね』と笑ったのですが、今日のお話をきいていると、全く子供はわかっていたわけですね」
その座にいたお母さんたちが、みんな共鳴して、私にもこんな体験が……私にも、こんなことが……と話しだされたのでありました。
こうした念の感応については、よく知られているのですが、これを子供の教育や日常生活の上に応用する人が、まだまだ数少ないようであります。 かつてある有名な文士が亡くなられた後で、未亡人が「私の夫」という題で書いておられたことがありました……。
「私の夫は創作の原稿を書くときには、どうしても私が家にいなければ書けないというのです。それも、私がバタバタと掃除をしていたり、ガラガラと茶碗の音をたてたりしていては書けないというのです。それかといって、主人の机のそばにへばりついていたのでは、もちろんいけないのです。ちょうど隣の室ぐらいにいて、音もたてず、お裁縫などしていて、お茶と言われればお茶を、お水をといわれれば、お水を出してあげられるような状態が一番書きよいといいました」
創作というような最高度の頭脳労働、特にそうした人たちのデリケートな感受性が、要求する環境というものを興味深く味わったのであります。
ですから、お母さんが自分の子供をどう見ているか、どの程度に信じているかということは、口にさなくとも、すがたにあらわさなくとも、いかに微妙に子供の心にひびいて、学校の成績を左右するものであるかということが、わかってもらえると思うのであります。
朝の御飯が終わって、子供を送り出したお母さんが裁縫の手をゆるめて、あるいは洗濯のあい間に子供のことをおもいだして、さてどんなふうに考えていられるかは大きな問題であります。
「気の荒い子だから、友だちと喧嘩をしていなければよいが……」こんなことを考えたら、喧嘩をしたくなるように放送していられるのですから、この放送局の出先機関である息子さんは、ちょっとのことで苛立って、隣の友だちをなぐりたくなるということになるのであります。
もし、こんな放送をしていられた方がありましたら、これからは「○○は神の子完全円満、いつもニコニコ友だちと仲よくしている」と、仲よし放送を放送することに切りかえていただきたいのであります。勉強についても同じであります。
勉強ぎらいで困る、困ると放送していたのでは、いよいよ勉強ぎらいな子を作っていることになるのです。親が子供のことを考える時の第一条件は、子供を神の子円満完全と心の目で観、そう信じ切ることであることをわかっていただきたいとおもいます。
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