| [1392] インターネット道場―――体験実話特集・平岡初枝先生「子供を見つめて」より(28) |
- 信徒連合 - 2015年12月04日 (金) 09時08分
インターネット道場―――
体験実話特集
平岡初枝先生「子供を見つめて」より(28)
念は形にあらわれる
人間の念は互いに感応する、言葉に出さなくとも、すがたにあらわさなくとも、時間空間を超越して感受し合うものであることは、さきにもいった通りであります。したがって、これを夫婦、親子、嫁姑という人間関係に応用してごらんになることは、すこぶる賢明なことであります。
<やさしい良い子だったのに>
宮坂千代さんは、長野県塩尻の方であります。私が松本市の講演会に行ったとき、念の感応についての体験を話して下さった方であります。まだ40を越したばかりの方ですが、夏は綿の打直しの外交をして、冬になると納豆を行商しているということでありました。宮坂さんは、こんなふうに話して下さいました。
「私には、子供が三人あります。長男は一昨年中学を卒業しました。せめて高等学校だけは卒業させたいと思っていましたが、当人は勉強をあまり好きませんし、それに成績もよくありませんので、進学をやめました。息子の希望通り、商人にすることにして、東京のある未亡人の経営していられるお店へ丁稚奉公にだしたのであります。息子は勉強はできなかったけれど、素直でおもいやりのある良い子だと思って育ててまいりました。近所に同級生で身体の弱い子がおりました。息子は、この子のために一年半の間、毎日学校の荷物をかついで往復したものでした。それに各自が月に一度ではありますが、給食用の野菜を一貫七百匁ずつ学校へ供出することになっているのです。息子は、この時も自分の荷物と野菜の上に、その子の分も重ねて運ぶことをおこたりませんでした。こんな優しい子供ですので、私は良い子だと思って育ててまいりました」
<悪いレッテルつけられて>
「ところが東京のお店では悪い子というレッテルをはられてしまって、二度も私は呼びつけられました。三度目には、まるで猫の子でも追い出すように『こんな子は連れかえってもらいたい』と、追い出されたのであります。
人間って悪いレッテルをはられると、何と悪くなるものでしょうか。年頃もわるかったせいもありましょうが、それっきり息子はすっかり悪くなってしまったのです。仕事は何もしないで、夜も昼も遊び回るのです。酒は飲む、煙草は吸う。お父さんが叱ると、すぐ組みついていって、さからうのです。それも、食事の席などで始めるのです。そうなると、チャブ台をひっくり返してあばれる、ガラガラ、パチーンと茶碗がこわれる。お汁も御飯も飛散する。小さい女の子は、泣いて逃げまわる。まるで家の中は、地獄です。こんなことをくり返していましたら、家にはまともな茶碗一つ、鉢一つなくなってしまいました。これじゃ缶詰のあき缶ででも御飯をたべなくちゃと、何度こわされた茶碗を眺めて泣いたことかしれません。
しかも、こんな騒ぎの後では必ずといってよいぐらい、私に向かって『金よこせ!』というのです。私は何を言う元気もなく、百円札の一枚か二枚を出してやると、そのまあ、取る時のにくにくしさったらありません。『チェッ』といって、しゃくりとるようにとるのです。そして、さっと遊びに行くというわけで、あの優しかった子供がこんなになってしまったのであります。私にしても父親にしても、腹が立つやらくやしいやら、涙のない日とてはなかったのであります」
<夕日を拝んで悟る>
「ある日、綿の外交のかえり道、大きな荷物を車につんでかえりました。まつ赤な夕日が山の端に沈もうとしていました。私は思わず足をとめて、夕日に向かって合掌いたしました。その時です、何とも言いようのない気持が、腹の底からつき上げてまいりました。
『そうだ! 神様、堪忍して下さい。一雄は、すばらしい神の子でございました。私は久しい間、現象の雨風によごれている一雄だけを眺めていて、実相は神の子であることを忘れておりました。かんにんして下さい、堪忍して下さい』と合掌していると、涙が止めどもなく頬を流れるのです。『あれほど、神の子は完全と教えていただいて、あれほど、観た通りにあらわれると生命の教育法で教えていただきながら、こんな間違いを起こして、神様すみません、すみません』と、それから一足一足、自分の腹に言いきかすように、『一雄は神の子、完全円満、一雄は神の子、完全円満』と言い続け、叫びつづけました。あけてもくれても、道をあるく時も、御飯の用意をしている時も、口の中で心の中で、それを叫び続けました」
「そんなことを始めて四日目の夕方、仕事から帰ってみると、お父さんと一雄のとっ組み合いが始まっているところでした。ドタン、バタン、怒鳴る声、相打つ音……しかし、私は落ちついていました。私は隣の室にはいって、瞑目合掌し、黙念を続けました。
『あれは嘘や。あれは、みんな嘘や。私の目のくるいです。一雄も神の子、お父さんも神の子、親と子は大仲よし、大調和している姿こそ神さまからいただいた本当のすがた、ありがとうございます、ありがとうございます』と。
そのうちに、どうやらチャンバラがおさまったので隣室へ行きますと、例によって金よこせが始まりました。その時、私は思わず言いました。 『一雄、いくらや』 『今日はちょっと大きいぞ、五百円』 私は財布の口を開けて千円札一枚をとり出して、わたしました。すると口のあたりにニッと笑いをただよわせた一雄は、 『こんなよけいはいらんのや』 というのです。それで私は、 『一雄よ、母さんは今、綿の仕事がいそがしいから、あんたの言うだけあげることができるけれど、冬になって納豆売りだけになったら、あんたの言うだけあげられないかもしれないの、だから、その時はかんにんしてね』と言いました。
ところが、いつもは金さえ手にしたら、すぐ外に飛び出す子が、その日は出ないで家にいるのです。そして、しばらくすると、傍に寄ってきました。 『母ちゃんは、明日はいそがしいのかい?』 『うん、明日は母ちゃんいそがしいの、松本から来てくれと言われているし、福島でも来て欲しいといっていられる。松本へ行けば福島へ行けないし、福島へ行けば、とても松本へ行く暇はないしで、母ちゃん困っているの』 『じゃ母ちゃん、僕明日は手伝ってやるよ。母ちゃんは、明日松本へ行ってこいよ。僕福島へ行ってやるよ』 『そう、一雄手伝ってくれるかい、ありがとう、ありがとう』
こんなことをいってくれたのであります。そして翌日は、朝早く飛びおきて福島へとんでくれたのです。帰ってきた時、どんなにうれしくて、子供に感謝したことでしょう。
『一雄よ、ありがとう、ありがとう。母ちゃん、こんなうれしいことはない。一雄、やっぱり東京から帰ってくれてよかった』 といっていたら、涙さえ出てきました。そして、その日も『母ちゃん、明日も行ってやるよ』と言ってくれて、これっきり元の一雄になったのであります。やさしい子であります。今は町の工場に通って、まじめに働いております。
生長の家のおかげです。真理って何てありがたいのでしょう。こんな深い真理を無学の私にも実行できるように、おしえて下さるんですもの」
これは、現代の精神科学のなかの精神感応の理論を徹底的に生活に活用されたわけで、こういう生き方こそ真の文化人にふさわしいと思うのであります。科学といっても物質科学だけが科学ではありません。精神現象も科学的に深く掘り下げられて、心の法則が究明されているのであります。それを賢明に生活に応用するのが、真に文化的な家庭を創りあげることなのであります。
宮坂さんは綿打ちの外交で生活を維持している田舎のおかみさんであります。だが、真理を応用することによって、手に負えない息子の不良性を解消してしまったのであります。小言をいったり心配することで子供がよくなるのではありません。真理を知ること、そして真理を実行にうつすことによってのみ、人生は光明化されるのであります。
観た通りにあらわれる
宮坂さんの話は、現代精神科学が発見した、念の感応を最高度に教育に生かした賢明な態度であることは、先にのべましたが、もう一つはっきりとつかんでいただきたいことがあります。それは、この人生は観た通りに現われるものだということであります。
<心のままに現われる世界>
ここで観るとは、この肉眼で見ることではなく、心の眼で観ずることであります。心の目で観じたものが、肉の目で見えるようになるのです。厳密に言うと、私たちが目に見ている姿、それは物だけでなく、人間関係においてはなおさら、まず心の目で見た通りのものが、形にもあらわれてくるのであります。お釈迦さまは、このことを唯心の所現とお教えになったのであります。
宮坂さんが、一雄は勉強こそきらいで、できないけれど、気のやさしい、いい子だと眺めている間は、一雄さんは良い子だったのであります。それが奉公に出て、何がきっかけだったのか……一雄は悪い子だというレッテルをはられた……このときから、一雄さんの悪への転落が始まったのです。これは、良いと信じてくれているものの前には、よいところだけを出したくなるのと同じ心理であります。そして いつの間にか、自分はわるい人間だ、自分はつまらない人間だと信じこむという順序になるのであります。
観た通りにあらわれるとは、このことです。そして、再び宮坂さんは一雄さんの本来神の子の実相をおもい続け、念じ続けて、ついに実相を拝み出されたということになるのであります。
一雄さんが勉強がきらいで勉強ができないというのも厳密にいうと、そう眺めるお母さんの心がそこにあり、そう見つめるお母さんの心がそれを育てたともいうことができるのです。お母さんや先生が「人間神の子勉強大好き」とおもい続け、叫びつづけたら、この現象をも訂正したはずであります。同じようなことで息子の朝寝を直したお母さん、勉強ぎらいな子を勉強ずきな子にさせたお母さんも、たくさんあるのです。大いに考えていただきたいとおもいます。
きめた通りになる世界
<兄嫁の嘆き>
さて毎週土曜日の午後7時頃から9時頃まで、高岡市伏木の町で話しあっていた頃のことです。私は土曜日の晩は、集まりが終わると泊めてもらいますので、あけの朝のことです。朝食をいただいていると、まだうら若い婦人が、目をまつ赤に泣きはらしてこられたのであります。
「先生、私は昨夜は一睡もせずに、一晩中、泣いて泣いて泣き明かしました。 実は私には一人の義弟があります。秋雄と言います。夫の弟であります。この子が18歳の商業学校四年生の時でした。品行不良で退校処分を受けたのでありますが、それっきり手のつけられない不良になってしまったのです。喧嘩はする、脅迫はする、伏木の町に喧嘩があれば、秋雄がはいっていないことはないぐらいでした。こんなわけで、警察の厄介にはなる、新聞の種にはなるで、家のものまでが肩身のせまい思いをしていました。
世間からは、秋雄の不良がなおらないのは母親がいないからだといわれると、兄嫁である私はつらいのです。お姑さんは、秋雄の幼い頃に亡くなられたのです。お舅さんは、こんな子供がいるにもかかわらず、朝からでもお酒がほしいのです。秋雄は仕事をみつけてやっても、ひと月と続いたことはありません。遊んでばっかりいて、家の目ぼしいものは、みんな持ち出して、お金に替えてしまうのです。雨降りに持って出た傘も、雨が晴れると酒代になってしまいます。2、3日前にも、秋雄は私の夫のオーバーを着て出かけましたが、売りとばしてしまいました。先生、私たちの身分では、この寒空にオーバーをなくしたら、とても大変なことなのです。
それを思い、あれを思いしていたら、昨夜はとうとう一睡もできずに泣き明かしたのです。先生、どうしたらよろしいでしょうか、おしえて下さい」 こう言って、改めて泣かれたのですが、その時どういうわけか、強い言葉が私の口をついて出たのです。
<悪い子はいない>
「奥さん、悪い子なんてこの世に絶対いないんですよ。みんな神の子というのは、この世に悪い子は一人もいないということなんですよ。秋雄さんも神の子です。神様のおつくりになったものに間違いのあろうはずはありません。大体、あなたは神様のおつくりになったものにケチをつけて、悪い子だから善い子にしようなどという了見がまちがっている。秋雄さんをなおすことを考えるよりも、あなた自身が改めるのですよ。秋雄さんを善い子ときめること、そして秋雄さんをよい子として待遇すること、これがあなたに与えられたつとめなんですよ。自分のつとめの方をあと回しにして、相手が悪いわるいと認めて、それをなおそうなおそうとしているのですから、そんな本末転倒した願いがきかれるものでは絶対ないのです……」
それから小一時間ほど、こんな話をくり返しまき返し話したわけであります。つまり、あなたの想念を変えなさい……秋雄は悪い奴じゃ悪い奴じゃと思う代わりに、嘘にでもいいから、秋雄はいい子じゃと思い変えねばならない、という話をしたのです。
その奥さんは、わかったような、わからんような顔で、涙だけ流して帰りました。人ごとともおもえず、その後姿に私は合掌しながら、「神様、あの婦人の上に神の栄光あらしめ給え」と祈ったことでありました。
<善い子ときめたら>
つぎの土曜日にも、その奥さんは集まりに出てこられました。はじめから、明るい顔をして、うれしそうな素ぶりなので、こんどは私の方がびっくりしました。
「先生、ありがとうございます。先週、私は帰りの道で、何となく秋雄は善い子ときめたのです。『秋雄は善い子ときめた』と思ったら、感激で足が前へ出なくなりました。おもわず道のまん中で立ちどまって、『秋雄は善い子ときめた、秋雄は善い子ときめた』と、くり返しくり返し心で叫びつづけていると涙さえ出てきたのです。そしたら、胸に板を立てたようになっていたものが、グーッと下って、楽になったのであります。本当におかしいぐらい楽になったのです。先生救われたという感じが、あれなんでしょうね。秋雄が、もう変わったというのでもないのに、『秋雄は善い子ときめた』と、腹の底からそう思っただけで、本当に救われたという気持になったのです。そして、目の前が明るくなり、足が軽くなって、いそいそと家へ帰ったのです。
家へ帰ってみると、秋雄は遊びに行っておりませんでしたし、お父さんは酒をのみながら、例によって口小言です。『秋雄の奴、またどこへ行ったか』といっていられるのです。でも、気の軽くなった私は、おもわず、『お父さん、きっとすぐ帰りますよ』と言ったものです。本当に間もなく、秋雄は帰って来たのです。私は、『ほんに言葉は神なりって、このことやな。嘘にでも善い言葉を使わにゃならんな』とおもいました。そして、秋雄が帰った時に出させてもらった言葉は、私の口から出たのではあるが、神様が言わせて下さったのだと思いました」
「どんな言葉ですか」
「なんでもないのです。『ああ秋雄さん、お帰り。お腹がすいたやろ、御飯おあがり、お汁ぬくめてあげようか』と、さらさらとこれだけいったのです。
ところが先生、秋雄はこれだけの、愛のこもった言葉がほしかったのだということがわかりました。それからは、秋雄の私を見る目が、まるで変わったのです。私は可愛くてかわいくて、今まで何でこれだけの優しい言葉をかけてやることができなかったろうと、悔まれてくやまれてならないのです。でも、本当のところ、どうしてもそれだけの言葉が出なかったのです。
たまには『お母さんがいないのや、私なと優しい言葉をかけてやらないで、誰がかけてやる。秋雄は明けても暮れても、家族からも世間からも悪い奴や、わるい奴やとにらまれている。今日こそ顔を見たら、こうも言ってやろう、ああもいってやろう』と考えたことはどれだけあったか知れません。
でも、顔を見たとたんにグッとのどがつまって、考えていたことが一つも出なくなるだけでなく、つい嫌なことの一つも言わずにはいられなくなってしまったのです。
ところが『秋雄は善い子ときめた』と、わけもわからずにきめたとたんに、私の胸が楽になり、善いことを言おうとも悪いことを言うまいとも考えないのに、スラスラと相手の喜ぶ言葉が出たのであります。そして、相手が喜ぶ言葉を出したら、相手の態度も変わって、穏やかになるのですから本当に不思議なものです。先生、本当に善い子だときめることですね。真理とは、私たちの小さな頭で考えている理屈じゃないということを本当に解らせてもらいました。
今夜も、中学一年生の私の息子の行雄が、『お母さん、叔父ちゃん(秋雄のこと)が映画につれて行ってやるというけど、どうしょう』というのです。秋雄などと遊んではいけないと、毛虫のように排撃していたものですから、聞きにきたわけなのです。それで私は『ああいいよ、いいよ。おじさんと一緒に映画見ておいで』と気持よく答えてやったら、二人ともいそいそと出て行ったのであります。先生、私は救われました。うれしくて一句できました。『わがうれい神にゆだねて身はかるし』先生、お笑い下さいませ、ありがとうございました」
<変われば変わるもの>
それから約一ヵ月を経て、また報告にきて下さいました。 「先生、ありがとうございます。あの秋雄が、いくら職をさがしてやっても一ヵ月と続いたことはなかったのですが、今度は自分から職をさがして、鳴出の発電所の工事人夫として働きに行きました。本当に、悪い子なんてありませんでした。私が悪かったのです、可愛くて、かわいくて……」もう涙を出していられました。そして、それから一ヵ月後に、青木さんは、また皆の前で言われました。
「先生、ありがとうございました。2、3日前、秋雄から手紙が来ました。私の名宛で手紙をくれたのです。あけて見ると、中から千円札が一枚出ました。そしてその中に、元気で働いているということと、○○という飲屋に借金があるから、この千円札ではらってほしいこと、まだ○○にも借金があるが、それは来月分の月給がはいったら必ず送るから、待ってもらうようにたのんでほしいことなどが書いてありました。本当に、悪い子は、ありませんでした……」
人間の運命をきめるもの≠ニいう章で、私たちの潜在意識の底深くおもいつめているもの、すなわち信念が現象界にあらわれるのだということを説きましたが、それは自分自身に対してのみではないのであります。それは自分の夫に対しても、子供に対しても、嫁や姑についても同じことであります。人間は神の子ですから、一人一人は絶対悪いものはいないのです。それが夫の立場から妻として眺めた時、あるいは親の立場から、子としての理想像を描きながら眺めた時、どうも喜べなかったり、腹立たしかったりするのです。
すなわち一人一人として眺めた時には悪いものはいないが、そこに利害関係が生まれてくると、なかなか思うようではない。つまり良いとか悪いとかいうのは、厳密には人間関係にあるのです。夫婦という人間関係、嫁姑という人間関係、親子という人間関係あるいは社会的には資本家と労働者という人間関係、上役と下役という関係、先生と生徒という関係、売手と買手という人間関係、その他いろいろありますが、その人間関係がうまくいっているか、いないかという問題になるのです。つまり人と人との間の問題なのであります。一人一人としては悪いものはいないが、この間がうまくゆくか、ゆかないかが、勝負であります。それで「人間」つまり人の間と書いてある通り、このあいだをうまくやるのが人間なのです。
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