| [129] インターネット道場ーーー感激的体験記 ・ 吉田武利先生「今ここ道場」より・・・ |
- 信徒連合 - 2015年08月01日 (土) 08時07分
「今ここ道場」
元・本部講師 吉田武利先生著
息子さんの実相を観じ切った高野さんの話
もう1つ、この「観ずれば現われる」という、素晴らしい体験例で、これは練成会の体験ではありませんが、私が後年、本部講師を拝命してから秋田市にまいりました時、当時事務局長をやっておられた高野さん(のちに県連会長)の家にお邪魔しまして、コタツにあたりながら、息子さんの強さんの実相を拝み切った体験を高野さん御夫婦からこもごもに聞かせていただいたことがありました。
あまり素晴らしいのでテープに録音してとってありましたので紹介します。
高野: 子供の強がバタン、バタンと倒れるようになったのは5つの時からでした。それまでは何ともなかったのですが、病院に連れて行って診てもらったらてんかんで、今の医学では治る方法がないとのことで、私達夫婦はいっぺんに目の前が真暗になったのです。家に居なさいと言っても子供のことですから外に飛び出します。そうするとジャリの上に倒れる。そうすると、まだ頭が柔らかいですから、頭の前・後がわからぬくらい小ジャリが頭にめり込んで、当時は終戦後で薬もありません時でしたから、ピンセットでジャリを取出して、その痕を赤チンで消毒するというわけで、頭が真赤になってしまうありさまでした。
夫人: 私はもう毎日、目を真赤に泣きはらして、生きる希望もなにも失って泣いていました。それで『生命の実相』にふれまして、「肉体なし・病気なし」という今まで聞いたこともないことが書いてあるので、びっくりしまして、信ずることができませんでしたが、絶体絶命、希望を失ってしまって何も頼るものもありませんでしたので、ウソでも本当でもこの『生命の實相』に教えられておることをやって、やって、やり抜いて、それでも治らなかったらこの本はウソと言い切ることができるだろう。ともかくやり抜こうと思いまして、御本に「病気のことを考えてはいけない」と書いてありますから、そのことから始めましょうと、「病気のことは、もう考えまい」と思うのですが、すぐ私の眼の前で五分おきぐらいに倒れる子供を見て、病気のことを思うまいとしても、思ってしまうのです。
その時は「神想観をして實相を観よ」というので、「この子は病気本来なしである」と念じ、「健康にしたかったら健康のすがたを観よ」と書かれてあるのだから、「この子が7つになったら必ず皆んなと同じように元気に学校に行くことができるようになるのだ」──こう神想観をして、一所懸命その実相をねんじていたのです。
高野: 私も家内と同じように、やはりこの『生命の實相』の素晴らしさを知って、眼が開かれたとでも言いましょうか、とにかく今まで全然知らなかった世界──人間神の子であって完全円満である、しかも肉体なし! 病気なし! こんなことは学校でも、社会でも聞いたことがない、まるで目の前に稲妻がひらめいたような感じを受けました。ですから夫婦とも『生命の實相』に無我夢中になったのです。本当に有難かったと思います。
『生命の實相』が無かったら、──それから15年になりますが──こうして悦びを続けて、子供も健康に立派に育ってゆくという生活はなかったと思います。夜、2時、3時までも夫婦で『生命の實相』を読み続けまして、同時に『甘露の法雨』を坐ってやるだけでは足りず、寝ても起きても、私は会社に行く途中、家の玄関を開けて歩きながら『甘露の法雨』を暗記して、「或る日天使(てんのつかい)生長の家に来りて歌い給う……」とやり、そのうち会社の門に入る。一日の務めを終って会社の門を出る。また「これを握れば一点となり、これを開けば無窮となる。若しと思う者は忽(たちま)ち若返り、老いたりと思う者は忽ち老い朽つるも宜(無べ)なるかな……」とやって居りますと、玄関に着いて「ただいま」と帰ってくる。こういう生活が続いたのです。家内は家内で、お勝手で大根を刻みながら、あるいは洗濯をしながらやっていたようです。
こうして1年過ぎました時、子供の病気が気にかからなくなり、家の中が悦びに満たされました。特に私の気持を打ったのは『甘露の法雨』の中の、「神は人間の光源(ひかりのみなもと)にして人間は神より出でたる光なり。光の無き光源はなく、光源の無き光はなし。光と光源は一体なる如く人間と神とは一体なり」という素晴らしい言葉──「人間と神とは一体」である。
今まで想像もしなかったことで、神様は遠い遠い天のかなたにあるものであって、吾々の憧(あこが)れであり、自分達の希望ではあっても、到達は不可能であると思っていたのに「人間と神とは一体である」──ということを知ったとき、手の舞い、足の踏むところを知らずというか、病気のことなどアホらしくて考えていられますか、と家庭の中に子供の病気を忘れた悦びと笑いが起ったのです。こうして1年経ったとき、私はちょうど出張中でしたが『生命の実相』に書いてある自壊作用(ケミカライゼ―ション)が起ったわけです。
夫人: それこそもう、ひっきりなしの発作で、身体は伸びっきりに伸びて、ものすごい形相で発作が始ったのです。20分ぐらい発作を起こして5分位休む──これを繰返しまして2日間ぶっとうしに続きました。あまりのひどい発作のため、口はきけなくなり、足の皮はむける。御不浄に連れて行くこともできず、オシッコもウンコも垂れ流し、骨も何も丸くなってタコのようにクタクタになってしまったのです。
私はこれこそケミカライゼーションである。真夜中の後には、もう夜明けが近づいている。これですっかり完全になるのである──と希望に満ちて夜も昼も『甘露の法雨』を読み続けました。
そのうち発作は段々静かになったのですが、口がきけなくなって、「アワ、アワ、アワ」なんてやっていました。だけど、 「強ちゃん、大丈夫だよ。神様は強ちゃんを完全につくりなおして下さったのだから、これで良くなるんだよ」と言って、毎日私は、また洗濯をしながら、雑巾をかけながら『甘露の法雨』を読み続けているうちに、1ヶ月たってからです。
寝ているものと思っていた子供が、 「お母さん、よろこんでください」なんて、私が風呂場で洗濯していたら、御不浄に一人で行って、歩いて来たのです。私はびっくりして、「歩けたの」と言ったら、「もうなおった」と言ったその顔は、とても嬉しそうでした。それっきり、二度と発作は起きませんでした。今は大学に行けるようになったのも、生長の家の御教えのおかげさまと、本当に有難く思っております。
高野: だから考えて見ますと、どうしてこういう奇蹟が起こるか、学問ではわからないと思うのですね。
夫人: 子供が病気になったとき、誰もが、こんなに身体や頭を打ち打ちしているから、かわいそうだが倒れるほうは治っても、馬鹿になってしまうだろう」と言っておりましたが、私はそうは思いませんでした。『生命の實相』を読みふけって、『肉体本来無し。神からすべてが来ている』と信じていましたから、たとえ、脳髄がダメになってしまおうと、何がダメになってしまおうと、必ず成績優秀で何でもできる立派な子になることができるんだと、神想観でそう思って、神の子の實相を念じ続けていましたが、その念じた通り、頭が良く成績優秀で高校を卒業して大学にゆけることができました。
高野: 私達の今日あるのは、ほんとうに生長の家のおかげで、私達の2番目の女の子が高校練成を受けて「使命行進曲」を覚えて帰ってきたのですが、あの歌を朝起きて小さな声で口ずさむと、モリモリと勇気が湧いてくるのですね。
人間何の目的ぞ 人生何の意義ありや この目的を知らずして 人と生れて甲斐ありや
この生甲斐! この悦び! この素晴らしさを知ったならば、なんの世の中の苦しみがあるでしょう!
我々は豊かに、楽しく、健康に暮らすよりほか仕方がないようにこの世の中ができているのだということを谷口先生は何十年間お説き下さっているのです。私達はこの御恩に報いるために粉骨砕身して日本實相顕現、世界の平和のため谷口先生の御旗なもとにやりたいものと堅く心に誓っております。家内ともども私達は、毎日のように生長の家の悦びを夫婦で語りつくせないのです。夜が更けてしまうのです。何という悦びでしょう!ありがとうございます。
まことにも、「生命の実相と申候(もうしそうろう)事は 此世界が此儘(このまま)神の国であり人間は其儘(そのまま)神の子なりと申すに候 観ずればそれが現わるるものに候 観ぜざれば現わるる事なし さればこそ心を静めて実相を観よと申すに御座候
現象に如何なる悪顕われ候とも何(いず)れも神の作り給える実在には無之候(これなくそうろう)間(あいだ)気にかけずに唯実相円満完全なる相(すがた)のみを観ずれば 結局は円満完全なる実相顕わるるものに有之候(これありそうろう)」
(『詳説神想観』25頁)であります。
高野さん御夫婦は、強さんの思いがけないすがたに地獄の底に突き落とされて、こんな因果な子供を育てるより、いっそ一家心中しようかと思い詰められたのでした。病院からも見放され一切の望みを断たれた絶体絶命のとき生長の家にふれて、そこで与えられたのが、「真剣に聖経をあげよ!」「病気の相(すがた)を見ず、健康な相をみよ!」 という公案でした。
高野さん御夫婦は、この二つの公案に全身全霊で取り組まれた。御主人は道を歩きながら、奥さんは洗濯をしながら聖経三昧。それから「健康の相(すがた)を観よ」というのですが、これが難しい。「強ちゃんは完全円満」と神想観するのですが、その最中に目の前で強さんがバタンと倒れる音がする。神想観どころではありません。しかし、これを真剣に続けて1年過ぎたら、今まで真黒だった家の中に、明るい笑い声がひびいてきた。
──ここが大切なところだと思います。 強さんの発作がなくなってから笑いが起って来たのではありません。それだけ真剣に行じているのに、発作はむしろ、ますます激しくなる。しかし、1年間神想観と聖経読誦を行じ続けているうちに強さんの発作を目の前に見ても、
“これは過去の業が本来の無に消え去る相(すがた)で、強ちゃんは、いま、このまま完全円満なんだ”と見る「信」が確立したのです。
一切の心の心配を神様にあずけ、神様に全托し、ただ「今」あることを悦ぶ心境になられたのです。
ちょっと現象的に良いことがあると「神様ありがとうございます」、ちょっと何か悪いことがあると「神様もきかなかった」── これでは神様を信じているのではなく、五官の現象を信じているに過ぎないと言わざるを得ません。 吾が子が2日間連続して、聞いただけでも身の毛のよだつような発作の中を、悦びいさんで聖経をあげ続けた、
その信仰──ここまで徹底してこそ、まことの信仰と思いました。
いろいろな難しい人間関係の問題の御相談を受けると、私は、よくこの高野さん御夫婦のテ―プをお聞かせします。すると、
「高野さん御夫婦が、お子さんの實相を拝み切られて治された──それに較べたら、私が子供を(夫を、妻を、……)拝むことは難しいことではありません。わかりました。しっかりやります」 と沢山の人が言われました。
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