| [1588] インターネット道場ーーー「肉体は心の影」 |
- 信徒連合 - 2015年12月27日 (日) 09時21分
インターネット道場ーーー
肉体は心の影
(『神癒への道』P.156−163)
肉体は心の影だと申しますと、「影」だというならいろいろの色がある筈がない。全体が映画のように一様に暗い筈である。また影なら平面的のものである、こんなに立体的に触覚的に感じられる筈がないと、斯ういうように反駁される人もあるのですけれども、それは「影」と云う意味の取りようが間違っているのであります。
吾々が此の場合「影」というのはリフレクションという意味であります。反映と訳しますが、謂(い)わば映像であります。鏡の前に皆さんがお座りになって映っているのはリフレクション、映像であります。反射して映っている影であります。これは立体的でもあり、色彩も厚みもあります。念の反映が時間空間という、あの反射面(認識の形式)に、そこに映し出されているのであります。こうして念の映像にもやはり顔色も、血の色もあり、厚みもあるのであります。
又こういう人もあります。肉体は影なのだったら、現わしたり消したり、影絵のように出来る筈ではないか。ところが肉体は殺して毀(こわ)してしまったらもう再び出て来られないではないかという人がある。ユダヤ人もキリストにそう言いました。「あそこに見えるエルサレムの宮を打ち毀(こぼ)ったら直ぐには出来まい。物質は影だというけれど、影ならパッと出て来そうなものだけれども出て来る筈がないじゃないか。あのエルサレムの宮は四十六年間も掛かって出来たところの荘厳無比な宮である。あんな物を影だと言ったり、物質は念の影だと言うが、それならあの宮を毀してすぐ又其処にあらわして見せよ」とユダヤ人の学者が言ったのであります。
すると、キリストは、「君があの宮を毀せば三日の内に建てて見せよう」と素晴らしいことを言ったのであります。勿論それはあのエルサレムの宮の事を言ったのではなかったので、自分の体の事を言ったのでありました。「お前達は此の体を磔(はりつけ)にして、此の肉の宮を毀(こぼ)ったならば三日に建て替えて、三日後には復活して汝らの前に現れる」と言ったのであります。併しその意味がその当時のユダヤ人には分からなかったのです。分からなかったのでキリストはヨハネ伝第三章に於いて『風は己(おの)が好むところに吹いている。この風が皆さんには声がきこえるが、肌には触れるが、どこから何処へ吹いて行くかお前達に分かるか』と言っている。「空間的存在として、五官的存在として、風なら又触れるが、その風でさえもどこから起こってどこに行くということがお前達には分かるまい。況(いわ)んや此の人間の實相、無地間無空間の世界にいるところの實相の人間が、「人間のいのち」そのものが、どこからどこに行くということが分かるか。「人間のいのち」が何処(いずこ)より来り、何処へ行くかは眼に見えて示すことはできないではないか」と答えていられるのであります。
人間の生命は本当は何処より出でて、何処より来るというようなものではない。去って去る処なく、来たって来るところなく、生なく滅なきところの存在(大無量寿経)がいのちですから、どこから生まれ、どこに去るということもないのです。唯それが時間空間面に映像的にあらわれて見える場合に、どこから如何(どう)して生まれたというように空間的に展開し、時間的に持続して見えるのであります。
吾々は何時何処(いつどこ)に、何月何日に死ぬというような、あちらの世界からこっちの世界に来るというような存在ではない。本当はひろがりも何もなくして、ひろがりをあらわしている。吾々はそういう世界に住んでいるのでありますが、五官の眼で見たのでは分からない。だからイエスは「見ずして信ずる者は幸いだ」と言われたのであります。
信じ得る者は信ぜよ「信ずる者は永遠の生命をもつ」とイエスはまた言われた。肉体は心の影であるから生滅つねなきものであるが、わが實相は神の子、永遠に死なぬものなのだ。――斯う言ったのであります。
ところで、吾々の實相は無時間無空間の世界にいるとすると、何だか茫漠(ぼうばく)として捉えどころがない。吾々は実に頼りない存在だというような気がするという人がありますが、本当いうと、吾々は無時間無空間の世界にいるからこそ頼りがあるのであります。
時間空間の中にいるものは一つとして滅びないものはない。どんな美しい女でもどんな達者な角力士(すもうとり)でもやがては皺(しわ)が寄って滅びて死んでしまうのであります。どんな立派な宮殿を建てましても、大理石の宮殿でさえも、風化作用に依ってやがてはばらばらに崩壊してしまうのであります。時間空間面にある物は一つとして滅びないものはない。いくら黄金の家を建てても、黄金は風化作用じゃ滅びないかも知れないけれども、長い時間経過のうちには天体と天体とが衝突するとか、何らかの天変地変とかによって、やがて黄金の宮殿さえも姿を消してしまうのであります。
況やこんな肉体みたいなものは不断に変わっているのであって、昨日の肉体今日は既にないのであります。成分が既に変わっております。昨日借金して置いても今日はその借金を使うのは別のエネルギーが使っているというような肉体であります。そういうような肉体でありますから、結局時間空間の世界にある此の肉体が「自分」だと思っているとこれ位儚(はかな)い頼りないものはない。
ところが人間は、「肉体の奥に、物質の奥に霊妙極まりなき存在あり」と『甘露の法雨』に書かれております様に、肉眼には見えないけれども神の姿につくられているところの霊妙極まりなき体があるのです。
仏典ではこれを「無極の体」といっております。時空に限定せられることなき体であります。時間空間以前の存在でありますから、それは五官の眼で見る形がないのでありますけれども、本当いうと空間がなくても形があるのです。それが「無極の体」であります。
皆さんが目を瞑(つむ)って「富士山」を思い浮かべてご覧なさい。そうすると皆さんの眼球は直径一寸位の大きさしかありませんけれども、まだまだ大きな富士山が目の中に浮ぶのであります。すると心のなかに浮ぶ富士山は、一寸の中に一万何千尺が入る。即ち此の心の中の「富士山」は一寸の中にも入れば、一万何千尺でもある。寸法があって無い。空間を超えた大きさであります。空間のない世界にも、このように大きさを超越した形があるのであります。
本当のところは、空間のない世界にあるところの形こそ、本当に永遠の「今」に於ける實相の形なのであります。空間のある世界にあるものは砕けるのです。肉体も砕ける。大理石の宮殿も砕ける。ところが空間のない世界に於ける形は永遠に砕けないところの形なのであります。實相の世界に於いて「神の像(すがた)につくられたる人間」というのは、此の永遠に砕けないところの理念の「人間」なのであります。
この「神の像(すがた)なる人間」「真の人間なるもの」「人間の理念」こそ本当の人間であります。真性の人間は『甘露の法雨』に書いてあるところの、五官を絶したところの人間、金剛不壊の人間であって、砕けない人間なのであります。4+4=8という数学上の理念(数理)は砕けない不滅の理念であるのと同じように、「人間なる理念」「真実の人間」は砕けないのであります。
理念こそ人間であって、肉体は唯、その「影」に過ぎない。しかも時々、妄念によって雲がかかる影にすぎない。その滅びない「理念人間」<神の肖像(にすがた)>が、時間空間のレンズによって五官の世界に映し出されて来ているのが、現在の肉体の人間であります。それは間断なくフィルム(念の波)が交替することに依って活動写真の様に出ているのであって、一人の人間だと思っても、いくらでも念々に「継起する念」が廻転して、斯ういう風に見えているのであります。
その念の回転を仏教では「業力(ごうりき)」と申します。肉体は業力で回転している。その奥にそれをあらわしめている光明燦然(さんぜん)たる「實相の生命」があるのです。この實相生命の現象界への投影として血液なら血液が間断なく交替して、そして細胞の中で養分が交替して、そして斯ういう形に見えているのです。
然しそれが實相生命の完全な投影であれば健康な肉体があらわれるのですが、吾々の念が「實相の念」でなく「妄念」である場合には不完全な姿があらわれてまいります。いずれにせよ、現象の姿は変化交替の姿であって若し変化交替しなかったならば、現象界はあらわれないのであります。
この常に変化交替する奥に、変わらないところの本当に完全なる人間の姿があるのであります。この本当に完全なる姿の人間を自覚することが、メタフィジカル・ヒーリングの先行条件になるのであります。
『人生必ず勝つ』の本に書いてありますが、人間の肉体はあのガスの火の譬(たとえ)みたいなものであります。ガスの火をぽっと点(つ)けると、一定の形をして何時間でも燃えているのであります。そうすると同じ恰好(かっこう)して燃えているから、そのガスの火は何時(いつ)も同じガスの火が燃えているかのように思われるのですけれども、前のガスは燃え尽きて、あとは次のガスが来るから同じ形をして燃えているのであります。ガスの焔の姿は同じ形ですけれども、その中味は同じものでないのであって、別のガスが燃えているのであります。此の肉体も同じ恰好をしているから同じ形の同じ人間であろうかと思うとそうではないのであって、別の養分が循環してこんな恰好に現れているのであります。
どうしてこんな同じ恰好に現れて出て来るかというと、ガスの出口の形の設計によって、其のガスの吹き出す形が決ってしまっておって、そしてガスの火が燃えるときそれが同じ形に持続して現れて出るようになっているのであります。そこで其のガスの火口じゃ誰が拵えたかというと設計かが拵えた。斯ういう恰好にしたら斯ういう風にガスの焔が噴き出すようになるというので、それは設計家の心の中に拵えたその形に何時でもなっているのであります。
詰まりガスの火の形はガス<そのもの>でないのであって設計家のこころの中にある。それと同じく人間の形は肉体そのものの中にあるのじゃないのであって、人間を設計した神さまの心の中にある。その心的存在即ち「理念の人間」が本当の人間であって、「人間」とは神様の心に描かれたところの姿なのであります。
即ち「理念」でありますから、人間は砕けようがないのです。即ち永遠不滅の人間であって、釈迦が涅槃経(ねはんぎょう)で説いた、仏身、法身、金剛不壊身、非雑食身(ひぞうじきしん)であって、決して食べ物をこね上げて造ったものではないのであります。
しかし、その實相身、法身は五官の方からは見えない。五官の方から見えるのは、そこから映し出された影の方ばかりである。影の方は映画のようになって、養分が交替して見えているのであるから、やがて交替が止まれば死んでしまうということになっているのであります。そういうわけでわれわれの本当のいのちというものは死なないものである。永遠の存在であると云う事を釈迦もイエスも言ったのであります。
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