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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[1589] インターネット道場―――体験実話特集・藤原敏之先生「全てを癒やす道」より(2)
信徒連合 - 2015年12月27日 (日) 09時40分




インターネット道場―――



体験実話特集


藤原敏之先生「全てを癒やす道」より(2)




真理は啞をも癒やす


(つづき)



 男が家庭に求めるものは……

私は「それごらん、その通り他人には言えない秘密を二人が心に秘めて、言ってはならんと思い続けていると、その思いが啞という姿になって現れているのですよ」と申上げたのであります。

「その啞の原因となった間違いを解けば、啞なぞはもともと無いのだから、すぐに、ものを言うようになりますよ。なるほど事情を聞けば腹が立つのも無理はない、恨むのも当然だと思いますが、物事は一方的に起るものではない、事件が発生するには必ず相手があってのことですよ。よく一人角力(ずもう)はとれないと言います。ご主人が酒場に入りびたって酒を呑んだことが善いとは言わない。悪いことに決まっている。また酒場の女と駆け落ちしたことも絶対に善くない。

しかし、お酒でも呑まずにおれないように仕向けていたものがあることに気が付きませんか。誰が女房や子供を捨てて生れ故郷を離れて暮らしたい者がありますか。そうでもしなければ生きてゆけないほど行き詰らせていたものがあったのですよ。

あなたはご主人が大工で腕も良くて、金儲けは人よりも勝れていたと言いましたが、そのご主人が一日働いてクタクタに疲れて帰って来た時に、喜んで出迎え、『お帰り。疲れたろうね。ご苦労さん、あなたが働いて下さるお蔭で私達はこうして楽に生活で来て有難い』と喜んでお礼の一言でも言ったことがあるかね。『何、男が働いて女房や子供を養うのは当り前や。もっと頑張って稼ぎを増やせ』と夫の尻を叩くことはあっても喜んだり感謝したことはないでしょう。『さあ疲れたろうね。一本付けたから、呑んでゆっくり眠って身体の疲れを癒しましょう』と気持のよいお酒の一本も呑ませたことがあるかね。恐らくないでしょう。

それではご主人は立つ瀬がないですよ。夫が外で働くのは趣味や道楽ではないのです。妻や子が幸せであるように、何とか喜ばせてやりたいと、ただそのことばかりを楽しみに頑張っているのですよ。妻を愛しておればなおさらのこと、妻の喜ぶ顔を見るだけで一日の疲れも、フッ飛んでしまうものだ。どんな苦労も苦にならないのだ。その期待に答えるどころか裏切って不平たらたら、膨れ面をしておられたのではどうにもやり切れなくなりますよ」と申しました。

 男はこんな時、つい魔がさすというか「ええい、一杯やって行こうか」ということになり、酒場に一歩入れば、喜んで見せたり、笑顔で迎えてくれる女性が待ち構えている。世の中の冷飯組や淋しさでやり切れない男達を迎えて虜にする商売の人達が到る所に網を張って待っている。家では一生懸命働いて疲れて帰って来ても“帰るのは当り前”となんの感激も喜びも表現しない無表情な妻にひきかえ、バーやキャバレーでは綺麗にお化粧し、着飾った女性が最高の笑顔で待っている。客が一歩入れば飛びついて来て、最高の喜びを表現する。後は至れりつくせりのサービスを惜しみなく与えてくれる。これでポーッとならない男はどうかしている。

ましてや家庭の中が暗く冷たい毎日をおくっていて、妻から愛情のひとかけらもないような男性にとっては、まるで水気のない砂漠で水にありついたようなものであり、陸にはねあげられた魚が水を得たようなものです。まるで石が坂道を転がり落ちるように、歯止めを掛ける理性も節度も失ってしまうのです。

 私も会社を定年退職する前は、よく地方の支社に出張しましたが、一応行事や会議が終ると、決まって支店長や次長が「部長、ちょっとお疲れ休めに一献(いっこん)差し上げたいから、お付き合いを」というわけで接待と称してバーやキャバレーに連れて行かれたものであります。私は元来お酒は一滴も呑まないし、仕事などでお客の接待などの時は、呑んだふりをして杯洗に流したり、特別製で銚子にお茶やサイダーを入れておいてもらって、それを呑んでお相手をしたものであります。

そんなわけで夜は宿で夕飯を済ませたらゆっくり休みたいと思っているのに、先方は部長の接待という名目でお酒を呑んで遊べるのでどんなに断っても承知せず、連れ出されたものであります。また私は家に最愛の妻がいて愛情と真心で喜んでつかえて貰える幸せ者だから、そんなところに全然興味がない。それどころが宿に着いても必ず家に電話をかけて妻の声を聞かないと眠れないぐらい妻を愛していましたから、他の女性のサービスなどいっこうに必要が無かったのであります。

家に電話するのも別に家内が恐ろしかったからではありません。電話を掛けると妻が喜ぶからであります。私は妻を愛していましたからどうして妻を喜ばせるかということ、それだけでありました。愛情が形に現れたら自然と相手を喜ばせたいという感情になるものであります。夫婦は一体であり一ッ生命でありますから互いに捧げ合い尽し合い助け合うことになるのであります。左と右の手は互いに別の存在のように見えますが、もともと一つにつながり、一体でありますから、お互いに求め合うということはなく助け合うことしかありません。

相手に困ったことはないか、もしも困ったことでもあればすぐに助けに行きます。寒い時など手が冷えてかじかんで来ると何も言わなくても互いに撫で合い摩り合いします。また、左の手の甲に蚊がとまると「ちょっと頼む」と言わなくとも右の手が、サッと行って蚊を叩き追うでしょう。かゆかったらかいてやります。このように形は互いに別でありながら、心は一つに繋がっているからであります。

 谷口雅春先生は「愛は自他一体の自覚である」とお教え下さいますが、愛があれば自分のことを忘れて相手の為に尽したい、何とかして相手を喜ばせたいという心が働くのであります。

 話はキャバレーのことに戻りますが、そんな訳でどなたが主賓かわからないままお付き合いしてキャバレーに行くと、綺麗どころがずらり並んで待ち構えております。一歩店に入ると、飛び付いて来る、ギュッと手を握って「マアよく来てくれたわね」というわけで身体を密着するようにして暗いボックスへ案内して、ありったけの表情と態度を示して喜んで見せるのであります。さすがに商売だけあって心得たものであります。男性の弱点をちゃんと掴んでいて、求めているものを惜みなく与えて満足させるのです。初対面なのに、「あんただれ」ではそっけないから親しみを増すため洋服の内ポケットあたりを気付かれないようにソッと見る。そしてネームを見て私が藤原だとわかると暫くして、「あんたフーさんと違いますか」と問いかけられ、ハッとすることがある。あれ、この人知っているのかなと、戸惑いすることさえあるくらいであります。

 人間の心の底で求めているものは、他人(ひと)から喜ばれるということであります。これが一番弱いところでもあります。ですから喜んでくれる者には益々喜ばせたくなるのであります。嬉しくなると何も惜しくなくなる。平常はケチな男でも、気持がよくなり、お金を与えて喜ぶ者にはお金が惜しくなくなり、思い切ってチップをはずむのであります。後になって「しまった、いいとこ出して張り切り過ぎた」と小遣いに不自由しなければならぬ羽目になるのであります。

 このように世間には色々な商売があって人の不足しているものを提供すれば、必ず繁昌するのが商売のコツであり、繁栄の原理・原則であります。家庭で愛情に飢え、喜びが不足していると必ずその不足するものを、補うために他に特別配慮を求めに出掛けるのであります。

これが夫の浮気の原因となることを、世の女性はよく心得る必要があります。夫を他の女性に取られたからといって夫を恨んだり、相手の女性を憎んだりすることは間違いであります。その前に反省し、どちらが被害者か見極めることが肝腎であります。

このように家庭で愛情に飢え、笑いと喜びが不足しておりますと、その不足を補うために補給基地を求めて、一歩家を出たら慰安所がそこら中に待ち構えております。このわなにかかったが最後、脱け出すことは難しくなります。男というものはある程度までは自制出来ますが、越えてはならぬ一線を越えてしまえば、今度は度胸が定まり、逆に強くなります。「矢でも鉄砲でも持って来い」というわけで、いったん三角関係になったり、奥さんが捨てられてからでは、遅いのであります。泣いてもわめいても取り返しがつかなくなります。一刻も早く内観し反省して危険信号の出ない先に、改めなければなりません。




 はじめから啞の子はいなかった!

さて、元に戻りますが、この啞の子供のおばあちゃんとお母さんに次のように申しました。
 「あなたが感謝もせず喜びもせずにいて主人が酒場に毎晩足を運ぶようになったのは、あなたにも大きな責任がありますよ。それをお詫びもせずに、泣いて謝っているご主人をよくも追い返しましたね。寂しい思いをさせ、可愛い子供の顔も見られないような、知らぬ他国の旅の空で暮さなければならないようにしたのは誰の仕業ですか、それを『すみません』と一言の断りもせず、その上泣いて謝っているご主人を叩きだすようなことがよく出来ましたね」と諭してあげました。

 はじめのうちは、“捨てられて死ぬるほどの思いをしたのは自分(こちら)の方ではないか”というような顔つきで聴いておられました。しかし、やはり人間の本性は神の子であり、仏性が宿っているのであります。

じっと私の顔を見つめながら聴いていたおばあちゃんの眼に、だんだんとキラキラ光るものが感じられ、ポロッと一つ、玉の露が落ちたそのとたんに「わーッ」と大きな声とともにその場に泣き伏してしまったのであります。「ああ、そうでごわんしたな。今の今まで私が悪いなどと思ったことは一度だってありませんでした。主人が、病気になり女に捨てられたのは、罰が当ったのだと思って、可哀相だとも気の毒だとも思ったことはありませんでした」と言って肩をゆすって大声でウッウ、ウッウと泣かれたのであります。「お父ちゃん勘忍して、私が間違っていた」と心から詫びられたのであります。

 私は娘さんの方にも「あなたもあなたじゃないか、よくも一緒になってお父さんを追い出したね。お父さんがいて下さらなかったら、あなたはこの地上に誕生することは出来なかったはずですよ。人間として生れ夫を授かり、子供まで授かったのは、誰のお蔭ですか。お父さんがいて下さったからじゃありませんか。それをよくも一緒になって悪口雑言を吐いて追い出しましたね。おこるだけおこり、口汚く罵(ののし)っても、『親子は親子。お母さん、憎いのは憎いけど折角帰って来たのだから、赦してあげたらどうでしょう』と一言いえなかったかね。そうすれば死ななくてもすんだのではないかね」と話しておりますと、だんだん頭が下って来て、ついに大声で泣き出されたのであります。

お祖母ちゃんは、頭の毛はザンギリにして、着ているものは軍服のようなもので(当時はみんなそんなものを着ていましたが)、声もしわがれ声で、男と間違えるような声であり、はじめ私は男の人かと思った位であります。随分と気の強そうなお祖母ちゃんでありましたが、勝気な人が折れると、逆にまた激しいのであります。娘さんの方も母親に似て、気の強そうな人でありましたが、二人で畳に伏せって、おいおいと大声で泣かれるので、私も暫く二人を合掌して拝んでおりました。これが本当の姿だ。悪い人などおらないのだと実相を拝んでおりました。

 そのうちに、部屋の外の廊下で一人でコトコト遊んでおりました啞の子供がスーッと障子を開けて入って来るなり、「ばば、ばば」と言い出したのであります。伏せって泣いていた二人が急に顔を上げて「ありゃ、この子が何か言ったのと違うか」と言っておりますから、私は「当り前や、はじめからちゃんと言っていたのや、それをあなた達が心の底で言ってはならん、言ってはならんと押し止めていただけや」と申しますと、お祖母ちゃんは子供の飛びついて、じっと抱きしめて、「おばあちゃんが間違っていて、ものを言われんめに合わせた。こらえてくれ、こらえてくれ」とお泣きになるのであります。

お母さんの方も泣いて喜び、それっきり啞が治ってしまったのであります。そして普通の小学校に行かれるようになりました。それからというもの、私の家の二階が道場になっておりましたが、毎週の日曜講演会には必ず二人で来られるようになりました。このように本来神のお造りになったままの世界に、神の子に、啞も盲もいないのであります。あるように見えるのが間違いであります。昼間は絶対に暗は無いのに目を閉じて光を見ないようにして勝手に暗くしているようなものであります。あくまでも悪いものがあってそれが善くなってゆくというのではなく、悪や不完全は本来ないからこそ、真理(本当のこと)が自覚されたとき勝手に消えるのであります。




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