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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[1621] インターネット道場―――体験実話特集・藤原敏之先生「全てを癒やす道」より(5)
信徒連合 - 2015年12月30日 (水) 10時34分




インターネット道場―――


体験実話特集


藤原敏之先生「全てを癒やす道」より(5)




 処方箋を飲んで胆石が消えたおばあちゃん!

昔、長野県のあるおばあちゃんが胆石症という厄介な病気に罹り、切開手術を受けなければ治らないと宣告され、身体も衰弱しているので大手術に耐えられるかどうかわからない、というので大変困っていたところ、東京の大学病院に真鍋教授という立派な先生がおられて、この先生にかかればどんな難病でも必ず治しておらえると聞き、おばあちゃんは真鍋先生の診断を受けて、薬をもらって呑めば、たとえ死んでも本望だと思い切って、東京に行ったというのであります。

今と違って特急列車なんかなく、長い時間かかってやっと東京に着き、病院を訪ねて、念願の真鍋先生の丁寧な行届いた診察を受けました。先生から優しい言葉で、
「おばあちゃん、よく来たね。心配するなよ。私が一番よく効く薬を上げるから必ず良くなるよ」と聞かされ、おばあちゃんは涙を流して喜び、心勇んで家に帰り、薬だといって渡された封筒入りの紙を鋏で丁寧に切り刻んで薬土瓶に入れ、何時間も掛けて良く煎じて、言われた通り一週間分に分けて飲んだところが、手術しなければ絶対に治らないと宣告されていた胆石症がケロリと治ったのであります。

余りの嬉しさにおばあちゃんはじっとしておれず、また汽車に乗ってわざわざ真鍋先生に御礼を言うために東京に行ったのであります。真鍋先生は愛の深い先生で、忙しい中を会って下さり、「よかった。よかった」と一緒に喜んであげ、「おばあちゃん、あの薬飲みやすかったろう」とお尋ねになると、おばあちゃんは
「先生それだけはちょっと違います」と答えるので、先生は「そんなはずはないがな!」と言われましたが、おばあちゃんの説明を聞かれて大変驚いたと言うのであります。

 大学病院などでは診察した医者はたいてい処方箋といって薬の調合をするのに、何をどれだけ、何をどれだけという分量を書いた紙を渡します。その処方箋を薬局に持って行って薬を調合してもらうのですが、おばあちゃんは田舎者で薬と言えば草の葉根や木の根を煎じて飲むこと位しか知らないので封筒に入っているのがてっきり薬だと思い違いして、その処方箋を煎じて飲んだというのであります。さすがの真鍋先生もこれには驚いたといいます。この話は谷口雅春先生からお聞かせ頂いたお話であります。

 このように信じて飲めば、処方箋でも効くという事実によっても病気などというどうにもならないものであるという間違った信念によって病気はつくられるのであって、病気というものが本当にあるのではないということがわかるのであります。世の中には山の岩の間から湧き出でる水を、弘法大師が杖をお突きになったらそこから水が湧き出したといって、その水を飲むとどんな難病でもたちまち治ると宣伝して、お水をもらいに来る人のためにバスを運行させるほどの繁昌している所もあります。その水をもらって呑んで実際病気が治る人も沢山あるのです。

そしてまた、それを伝え聞いた人が遠い所からでもお水を頂きにやって来るのです。河原から格好の良い石を拾って来て、ほこらでも造り、しめ縄でも張って、恭しく礼拝して「この石を撫でたら盲の目が開く」「この石を撫でた手で脚をさすれば立たない脚が立つ」と宣伝すれば、それは信じた程度に応じて、盲の目が開き、いざりも立って歩けるようになるのであります。

 このように世間では科学や常識ではとても考えられないようなことが幾らでもあります。宗教でなくても催眠術や気合術等でも、科学常識ではどうしても理解できないことが事実存在するのです。石鎚山や大峰山に登って修行する行者の中にも、精神力によってどんなことでも出来ることを証明しております。一日中穴を掘って護摩(火)を焚いて、カッカッとしている火の上を素足で平気で歩いて、火傷もしないという火渡りの術というのもあります。

 このように考えてきますと、心によってどのようにも変化させることが出来るのであり、“何がどうでなくては……”とか“どうしなければ……”とかいうような特別の固定したことなどは何もないということがお解りになると思います。




 “現象このまま”と“実相そのまま”

現象界の出来事は、すべて心の影でありまして、心の通りに写るのです。心で思った通り、決めた通り、信じた通りになるのです。ですから本当に人間が幸福な、明るい生活を送るためには、絶対の神を発見し、信ずることが根本となるのであります。

生長の家の教えは唯神実相論でありまして、神は光であり、神の造り給うた世界は、光一元であり、善一元であり、光のほかは何も認めない教えであります。この光を、神を、見失わなければ暗は断じてない。暗とは光を見失い、光を見ない状態である、暗(不幸)は積極的にあるのではなく光の非在に過ぎないと教えられています。

例えば、昼間、雨戸を閉め切って「暗い、暗い」と言っているのは外が暗いのでなく、外はもともと明るいのでありますが、自分が雨戸を閉め切って光を入れないようにしているからです。自分が雨戸を開いた程度に従ってだんだん明るくなるのであります。ちょっと開けたらちょっと明るくなり、半分開けたら半分明るくなる。全開したら全部明るくなるのと同じであります。

神を認め信じた程度に従って、悪は退散するのであります。光を認め、雨戸を開けるのは自分自身であります。

 本来ないはずの暗(病気や不幸)は、すべて本当のことを知らない無明(まよい)であり、無明は、真理(本当のこと)を知らない結果、仮に現われている状態であります。暗は真実存在ではないから、光がくれば自然に消えるように、無明は本来ないから、真理を自覚し、真理を体得すれば、本来ない暗が光を当てると同時に消えるように、無明も消えることになるのであります。

病気も不幸もありもしない無明によって現れているのですから、どうしなくても勝手に消えるのであります。

 人間はとかく、真理だといえば真理に引っかかり、無明だときけば無明に引っかかり易いのでありますが、真理とは前にも述べましたように、絶対の法則ということであり、真実(本当)のことという意味であります。どうもしない、そのまま、ありのまま、本来のままという意味であります。このどうもしない、神につくられたままの、条件付きでない、如何なる引っかかりも、片寄りもない“そのまま”が幸福なのであります。

よく“そのまま”と“このまま”とを間違える方がありますが、“そのまま”は“このまま”ではありません。 “そのまま”は、相対的な条件を超えた、それ自身で完全円満欠くことなき神につくられたままの実相をいうのであり、“このまま”の方は現象になります。実相のままであれば、病気も不幸もないのです。この“そのまま”が幸福の正体であります。実相は、神そのものであり、幸福そのものであります。これが幸福の正体であり、自分自身の正体なのであります。

 実相の世界は、神のお造りになったままの世界ですから、神のお造りにならない不完全なものは一切ないのであります。このことを自覚するのを、“真理を覚る”というのであります。人間はそのままで幸福なのであります。この真理がくらまされている状態を、無明と仮に言うのであって、この無明も本来ないのでありますから、真理を覚り、光を掲げることによって本来無い暗が消えるように、無明は自ら消えるのであります。

無明が消える時、無明の影として現われた病気も不幸も消えるのです。現象界の出来事はすべて心の通りに写るのです。心で思った通り、決めた通り、信じた通りになるのであります。




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