| [1839] インターネット道場―――もっと霊界の知識を持ち伝えよう。現象界の出来事は霊界でその雛形が刻々と出来上がりつつあり!(第十五回) |
- 信徒連合 - 2016年01月18日 (月) 07時35分
インターネット道場―――
もっと霊界の知識を持ち伝えよう。現象界の出来事は霊界でその雛形が刻々と出来上がりつつあり!
(第十五回)
輪廻転生について
<<生命は死を超えて前進する>>
(その1)
輪廻転生
(『別冊・真理<正死を越える道>P56−59』
<<「生まれ更り」即ち「輪廻転生」と云うことは、人間の個性命が肉体の死後も存在して、再び新しい肉体に生まれるという意味であります。輪廻転生を持って、魂または「固体精神」の進化の方法だと考えるのは東洋の宗教思想であって、何億という多数の人間同士の間に存在する現世の不平等の生活を解釈する最も合理的なそして最も理論的な説明の仕方だと云うことができるのであります。
この原理は、貧富の懸隔、文化の差異、能力の相異、肉体的に不利なものと完全なものとを生ずるその根元に遡って、精神的天賦(てんぶ)、徳性、及び霊的進境の相異の説明に適用されるのであります。
この説は、次の如き概念の上に築かれているのであります。即ち一個人、一身体の生命期間では生得の可能性及び精神的可能性を充分に発揮する機会が与えられるためには不十分であるから、神聖にして公正なる神の摂理は、各人の魂に自己の現世及び前世で学んでいないことがらを他の生命から学ぶ機会を与えるために、また別の環境にその魂を生まれ更って出て来させ給うのであります。
即ち政治、社会、経済、文化等の偶然的な環境条件のために個生命は、一生涯の期間中だけでは著しい進歩を遂げるために必要な経験を通過することが出来ない場合が多いのである。また幼少時代の師友関係、及びその環境条件に於ける経験は個々の魂に或る偏った習慣を与えるし、両親、牧師、教師等の無智のために、その人の魂は束縛されて、奴隷化され、自由な広い経験を得るたの機会ガ奪われることも多いのであります。だから人間の魂は、如何なる人でも、一生涯だけでは完全な発達の機会を与えられないから生まれ更って出ることによって、その不足せる発達を補うという説であります。
「生まれ更り」の学説は東洋の或る種の宗派が、人間の霊魂は時には動物に、又は昆虫にさえ生まれ更わることがあるなどと説くために、迷信的なものとして本来の価値以下に評価されているのであります。人間が動物や昆虫に生まれ更ると云うことは明らかに現代の生物学の原理に反しているのであります。然し「生まれ更わり」の学説の勝れている点は、精神的霊的進化を論理的に説明していることであります。
これをキリスト教の教義と対照するために、在来のキリスト教の教義と比較して見ますならば真に興味が深いのであります。キリスト教は、人間は一生涯を通じて如何に下劣で、無価値で、残酷で、堕落していましょうとも、死の直前に牧師によって罪を「赦され」、罪の懺悔と称する告白をなし、或いはイエスを救い主として受け容れて改宗するならば、たといそれから数時間或いは数分間後に死ぬとしても、新教に改宗した者ならば直ちに天国に、カトリック教に改宗したならば潔(きよ)めのために煉獄に行き、何れにしても神の恵みによって救われ、「神を見る」ことが出来、聖なる天使や聖人たちと交わる事が出来るのであると教えられているのであります。
すなわちキリスト教では人間は懺悔と教組の贖罪によってすくわれるのであって、霊的発達または生長によって救われるのではないことになっています。
このパラダイスへの易行道は、東洋に比し物質主義や功利主義がよく普及して居る西洋に於いて広く行なわれているのであります。この説明は極端であるかも知れないが、それは、「赦し」「神の恵み」による免罪等と一致していますし、キリストは「彼の名を信ずる」者が救われんがために、そして、この救いの体系を作るために生命を棄てたということになっているのであります。
代理者が贖罪(しょくざい)して救われると言う教義に比し、生まれ更りによって霊が徐々に進歩して救われる教義の方が論理的に道徳的に公平だということが出来るのであります。>>
心の法則は公正の秤(はかり)である
(『別冊・真理<正死を越える道>P.39−43』)
心の法則も自然の法則も生命のすべての分野に於いて「公正の原理」又は「償いの原理」が働いている事を明瞭に証明しているのであります。・・・「心の法則」によって起こる原因に対する結果は、道徳上の問題に於いて、人間が法理論的に行う人工的審判よりも完全であります。・・・人の行動の背後には如何なる潜在意識の強制力があるか第三者からは完全に知ることが出来ないのでありますから、他人をその行為の外見によって誤りなく審判する事は出来ないが、心の法則はこれらを自動的に審判して適当な応報をあたえるのであります。
もしあなたがすべての点に於いて或る悪人と全く同じ行動をするならば、あなたは法理論上からは悪人そのものであります。然し心の法則は決して行為の外見のみでは審判を下さない。心の法則はあらゆる場合に於いて完全に公正の応報を与え、自然に各人の道徳的進化を導いて行くようにするのであって、これを因果応報というのであって神が罰を与えるのではないのであります。
これを宗教的用語で述べれば、神は直接的意志をもって自然の法則や、道徳上の法則に背く者を罰するのではないのでありますが、法則としてあらわれて、法則に適った場合にはこうなる、法則に背いた場合にはこうなると自然に悟って、自己開発的に人間の自覚意識を高めようとしていられるのであります。
心の法則がその法則を破るものに苦しみを起こす働きをしないとすれば、その人は誤った道に行くこと(進化に逆行すること)が免疫性になって誤った道を進むがままに何時までも放置されることになるでありましょう。その結果は人類は宇宙の進化の法則に逆行し、人類は絶滅の危機に瀕(ひん)するでありましょう。ここに心の法則を教える者が出現して、法則を正しく用うる道を教え人類を絶滅から救う必要があるのであります。
業の流転と云うことから考えるならば法則に背いた為の業の刑罰は、法則に背くに至らしめた潜在意識内の欲望の惰力(業因)が根こそぎ引き抜かれて意識外に除かれた時に支払い済みとなるのであります。誤れる感情が起こるのは、欲望の背後から駆り立てる業の力――すなわち潜在意識内の念の惰力――であって、この悪に駆り立てる感情のエネルギーが精神科学的な認識即ち「悟り」によって中和されるか、苦痛によって帳消しされるまではその欲望は執拗に続くのであります。
欲望とはその目的に駆り立てる潜在意識的な業の惰力の事であります。水が自らの重さによって水平を求むるために落下する如く、感情の駆り立ては自らを堕落せしめることによって平衡を得ようとして、そこに色々の問題を起こし苦痛を与えるのであります。「悟り」はその落下の水力を合理的に調節して、善き目的のために使う水力電気の如きものであります>>。
償いの法則
(『別冊・真理<正死を越える道>P.70−74』)
<<「償いの法則」は全宇宙に行なわれているけれども、本能水準のものよりは人間の場合の方が、高度に顕われています。肉食獣には道徳的感覚がなく、凶猛残忍にたいする精神的報いがないように見えます。然し人間の場合には精神的道徳的法則に背く場合には、「償いの法則」が要求する代償を支払わなければならないようになっています。
キリストはたとえをもって「最後の一銭までも支払わなければならない」と教えています。この刑罰は、人格神が課するのではないのであります。これは釈尊の説教である業報の法則にも一致するのであって、誤ることなく、容赦することのない法則によって償いが要求されるのであります。・・・
高い世界の「償いの法則」は負債の支払いを要求するのであります。負債は魂の内にあるのであって、自分の魂がそれを支払わなければならないのであります。・・・それは体験によって魂がその前非を悟ると云う形式で支払わなければならないのであります。人間の法則や自然の法則の前ではそうは考えられないかも知れませんが、犯罪者の習慣や行為の性質からして、如何なる形式によるとも負債を生じた「生まれ更り」の世代中には到底完全には負債を支払う事はできないのであるから、不足の分は未来の「生まれ更り」の生涯において支払わなければならないのであります。
この不足分の「支払い」は自分勝手な宣告に従ってするのでもなければ、特殊な科料を支払うのでもない、それは自己の心と意識とが他人の権利に敏感になり、之を尊重するようになり、その結果己の欲せざる所を他に施さざる底の心境に達する如き経験によって支払われるのであります。>>
欲望は不滅の原動力である
(『別冊・真理<正死を越える道>P.43−46』)
<<「魂」はある環境の中へ入って生活するが、その環境に入ってくる前に、その環境が地獄だと信じていても、極楽だと信じていても、其れがために環境は変化しないのであります。刑務所を極楽世界と言いきかせられてから、その刑務所に入れられても、その刑務所が極楽世界にはならないのであります。それと同じく死後の世界の状態について理論を立てたり思案を巡らしたり、お経にこう書いてあると言って見ても、吾々が死んで来世に生まれ行く前に来世に関して何を教えられていたにせよ、そのために来世の性質は変化するものではないのであります。
次のことだけは間違いない。即ち来世が若しあるならば来世は現世と同様に無限創造者(即ち神)によって“霊”を材料として創造されたのであると云うことであります。
従ってそこは、それぞれの人々の魂の次なる段階の生活に完全に適していると云うことであります。そして、そこには現世と同じように「心の法則」があてはまる。そこは因果応報の世界であって、現世で心の法則によって魂を訓練して来た者は、来世に於いても心の法則を適正に使用してよき環境をあらわし得るに違いないのであります。
とは云うものの、我々は生きている間の心の環境との相関関係について知る所を基礎として死後の状態について推測するしか仕方がないのであります。我々は一都市の中でも、一国家内でも、その住む人の心境によってあらゆる程度の幸福とあらゆる程度の悲惨が存在することを知っているのであります。
即ち同じ都市や事務所にも富める者と貧しき者、善人と悪人、賢者と愚者とが共に住んでいるのであります。しかも同じ場所にいながらそれぞれの人々は自己の能力や心境や趣味や欲望に相応した水準に落ち着く。この能力や心境や趣味や欲望やはすべて現世に生まれ出て一代のうちに得たものばかりではないと結論することは合理的であります。
人は皆その人独自の一定の方向、一定の活動および一定の経験へと引きずられ駆り立てられて行く不可知の傾向を持っているのであります。これは環境からのみ与えられたものでないのは一卵性双生児でもその個性が異なることによって証明されます。この種の衝動ないし推進力は、ある程度前世の経験から受け継ぐのでありますが、現世でこれを発達させたり、等閑に付して退歩させたり、努力して改善したり、誤用したりすることが出来るのであります。
このことは現世に於いて吾々が実際生活をいとなんでいる経験によって明らかなことであります。来世に於いても同じ或いは似たような過程が起こるものと結論するのは理に適っているのであります。現代の心霊学では、人間の死後直ちに魂の行く霊界は、やはりその通りであることを霊界通信によって知らされているのであります。(レスター著『霊界の妻は語る』参照)
尤(もっと)もこれはどこにでも霊媒があって、それを証明し得るというような問題ではない。現在の人間進化の段階では、普通人はこれについて実地に又は客観的に知ることは不可能であります。死後の彼方に存在する状況を霊覚によって確かに知っているという人もあるけれども、それは主観的に知るだけなので、科学的に適用される法廷で受け容れられるような現実的な証拠を提出することは極めて特殊の場合のほかは難しいのであります。
すべての人が「死」と云うものは肉体の活動を停止することだと云う証拠を受け入れるのと同じように、「死」は「来世への移行」であると云うことを受け容れるためには人間の最高の直観が必要なのであります、>>
因果応報と魂の教育
(『別冊・真理<正死を越える道>P.75−77)
<<因果応報と云っても、ある意味から云えば、魂の教育と名付けてもよいのであります。古い宗教では、此の教育中の状態を煉獄と称し、未来の如何なる時にも避けることが出来ないと説いたのであります。「罪」の値は永遠であると説くことは明らかに公正を欠いています。
何故なら、罪の値が永遠であると云うことは、有限の知性しか以っていない人間が有限の罪を犯したそのむくいとして無限の罰を課せられ、しかも無限の知恵と知識を有するものの権威によってその宣告がなされると云うのは原因と結果との割合が不均衡であるからであります。・・・
科学的見地から精神的宗教的原理を引き出すことを目的とする場合は独断は許されないのであります。私たちは、人間の「生まれ更わり」説が普遍的に万人の認むる証拠によって証明し得られるものであるとは言おうとするのではない、それは余りにも疑問が多く、未知の要素が多いからであります。
然しキリスト教会の独断を信ずる者は天国に住居が与えられ、信じない者は永遠の刑罰が与えられると云うような「教会キリスト教」の教えに較べるならば「生まれ更り」説は、論理と常識に合致していると云うことが出来るのであります。>>
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