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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

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[2025] インターネット道場―――体験実話特集・藤原敏之先生「あなたは必ず救われる」より(13)
 信徒連合 - 2016年02月02日 (火) 07時58分




インターネット道場―――


体験実話特集


藤原敏之先生「あなたは必ず救われる」より(13)




そのお母さんこそ観音様

 今から19年位前の話でありますが、私が京都におりました頃、京都府下は勿論、滋賀県や奈良県、大阪と各地を講演に廻らせて頂いておりました昭和27年の7月であります。奈良の平野初造先生のお宅の誌友会に頼まれてお話をしに行った時、話が終って帰ろうとしますと、平野先生が「藤原さん、今夜泊っていき」と言われますので、「帰る予定で来ましたので帰らせて貰います」と言いますと、「ええがな、朝一番で帰ったら同じやがな」と言われます。私は「どうしても帰ります」と言いますと、「そうか、そいじゃ仕様がない。一人だけ個人指導頼むわ」と申され、終電車ギリギリまでということで個人指導をすることに致しました。

 前にお座りになったのは、年の頃なら65,6かと思われる上品なお婆ちゃんが、「私はお蔭様で20年も前から生長の家に御縁を頂き、この通り健康で家庭も円満で何にもいうことのない幸せに暮らさせて頂いております。

先生にお尋ねしたいのはこの子のことでございます。この子は私の所の女中(お手伝い)ですのや。この子が大分前から鼻茸(はなたけ)ちゅう病気で医者にも診てもらいましたが、手術せんと治らんと申され、手術も鼻の軟骨が茸(きのこ)の様になって鼻の穴の中に下っているだけやから簡単な手術やと申されますが、この病気に罹ると手術して取っても、またすぐ軟骨が下って来て息が苦しくなり、何遍も手術せんといかんと申されます。手術して痛い目しても、また直ぐなるのでは困ると思って、出来ることなら痛い目せずに治してやりたいと思って連れて来てはお話を聞かせておりますが、どうしても治りません。是非先生の御指導を頂いて治してやりたいと思いまして、お願い申しました。どうぞよろしゅうお頼みします」と言われます。

一応問題点を説明してもらって私も分りましたが、何しろ時間がありません。簡単に分るように言ってあげなければなりませんので、要点だけをかいつまんでいいました。

 「ああ、それは簡単ですよ。お父さんお母さんに感謝しなさい。直ぐに治りますよ」と申しました。谷口先生は鼻に起る病気は鼻茸でも蓄膿症でも鼻炎でも全部親に反抗し、親を恨むとなる病気だとお教え頂いておりますので、そのようにお答えしたのです。

 ところがそのお婆ちゃんの言われるのには「先生、そのことならよう分っとるのです。来る先生、来る先生に全部指導を受け、どの先生も皆そう言われます。そのことならよう分っとります」と言われるから、“この時間のない時に引留めて一体何が聞きたいのか”と思いまして「そうですよ、それが法則なのですから誰が答えても同じですよ」と申しましと「実はこの子にはどうしても親に感謝出来ない深い事情があるのです。その感謝出来ないのをどうしたら感謝出来かということをお聞きしたいのです」と言われます。

私もやっと“ああそうか”と分り、「一体その感謝出来ない事情とは何ですか。そのことから聞かせて下さい」と言いますと、次のように話されました。

 この子は大阪の市岡というところで生まれ育ったのですが、小学校4年の時、あの港区方面の大空襲でこの子の家は丸焼けになり、この子のお母さんは焼夷弾がまともに当って即死したのです。お母さんに死なれ、丸焼けになって着のみ着のまま逃げて命だけは助かりましたが、お父さんと小さな妹とまだ赤ん坊の弟と4人で2階借りして何とか生活しているうちに終戦となり、弟も小さいし、お父さんも若いので、世話をする人があってお父さんが後妻をもらうことになり、一人男の子を連れた戦争未亡人の人が継母として来られたのです。

この継母が継母根性を出して、苛め抜いたと言うのです。意地悪されて苛められるのも随分辛い思いでしたか、一番苦しくて悲しかったことは、物を食べさせて貰えなかったことで、食うものを惜しんで食べさせないようにせられたそうであります。

 子供にとって一番楽しいことは食べることであります。ましてや発育盛りの子供は食い気だけです。お夕飯になって飯台に食べるものが並べられていよいよこれから食べるという段になり、子供心に胸を躍らせるような思いで待っていると、決まって意地悪な継母は「ああ、そうそう、えらいことをした。うっかり忘れていた」と言っては、お使いを言いつけるのです。

お父さんが一言「いいじゃないか、食べてから行かせよ」と言ってくれたら食べられるのにと思って、お父さんの顔ばかり見ているけれども、お父さんはじっと下を向いて何も言って呉れない。母親はいいことにして、「早く早く、いって来てから食べたらいいじゃないか」と急き立て、口惜しいけれども仕方がなく、後を見い見い飛んで行くのであります。早く帰って来て食べようと息も切れる程走って帰って見ると、ちゃんと片付けてしまって手も届かない所に入れて鍵まで掛けてあり、どんなに泣いても頼んでも食べさせて貰えず、悔しくて悔しくて焼け跡の公園のベンチで一晩中泣いて明かしたことなどどれ位あったか知れないそうです。

そんな時など、死んだお母さんに「お母さん、なんで私を置いて死んだ。なんで私も一緒に連れて逝ってくれなんだ」と恨み事を言いながら泣いたというのであります。

 学校も出るか出ないで女中奉公に出され、給料だけは今でも先取りであります。これでも人間かと思うこともあります。鼻の病気は親に感謝しなければと思いますが、普段忘れていた親のことや、苛められた当時のことを思い出して感謝どころか身体中鳥肌が立つ程腹が立つのです。ちょっとでも楽しい思いや嬉しいことがあったら、そのことだけでも感謝出来ますが、母親が死んでから今日まで何一つ有難いことや嬉しいことがなく感謝しようにも感謝する材料が無いのです。どうしたらそのような親を感謝できるのでありましょう。そう言って泣き崩れる有様です。

 聞けば聞く程気の毒な話に思わず私も泣かされました。“ああ、そのような事情があったのか、可哀想に……”と思いますが、気の毒がって同情しただけでは、この子の苦しい病気は救われない。何としても救ってあげたいと心の底で祈りました。“神様この哀れな娘をどうかお救い下さい。私の口を通して最も適切な言葉を持って真理を伝えさせて下さい。この気の毒な娘の実相が顕れますように……”と心で祈りました。

 その時ふと言葉が出て来ました。「あなたは中学までは行ったの」と聞きますと「ハイ、行きました。でも後のお母さんに子供が出来て子守ばかりしていて、殆ど休んでばかりおりました。でも卒業したことにはなっています」と答えます。

「ああ、そう、学校は懐かしいかね」と申しますと「ハイ懐かしいです」と言いますので「先生を有難いと思っているかね」と聞きますと「ハイありがたいと思います」と答えるから「そう、それでは学校で皆から可愛がられ、先生から大事にさえたのかね」と聞きますと「いえいえ、可愛がられるどころか、大事にされるどころか、お友達のお付き合いもちょっともせず、勉強なんかしたことがありません。赤ん坊をおぶって学校へ往ったりするものですから、お友達のようにお掃除したりすることもちょっとも出来ませんから、皆から嫌われ、悪口を言われたこともあります。宿題も一遍もして行かないので罰で後に立たされたり、鞭で叩かれたこともあります」と答えるのです。

 「そうかね、それでも学校が懐かしいのは、先生が有難いと思うのは、友達が良くしてくれたからでも、先生が大事にしてくれたからでもなく、あなたが学校とは何をする所か、また何をしに行く所か知っていたからでしょう。お友達が悪口を言うのは、私がやるべきことをしないからだ。先生が叱って下さるのは、私が可愛いから叱って下さるのだと解っていたから意地悪せられたお友達も懐かしく思い、叱って下さった先生が有難いと感謝出来るのだよ。

人生もその通りで面白可笑しく過す為に来たのではないよ。魂が向上するための修行のためにあるのですよ。学校は遊びに行く所ではない。勉強して学力を身につけに行く所だと分ると、教室があることも机があることも、教科書があることも先生がいて下さることも、宿題があることも試験があることも皆有難いことになります。ところが学校は遊びに行く所だと間違った考えを持った子供は運動場だけなら良いのに、教室なんかなかったら、机もなかったら、教科書がなければ良いのに、先生なんか居なければ良いのに、宿題がなければ良いのに、試験がなければ楽しいのに……とかいって文句ばかり言いたくなるのです。

 人生も同じく修行するための人生学校ですから、いろいろの問題がある所です。その人の魂の程度に従って、いろいろ一人一人違った問題が与えられるのです。学校でも中学は中学なりに、高校は高校らしい問題が与えられるのと同じです。『困った、どうしよう』と逃れることばかり考えるのは、人生の正しい目的を知らないからです。

人生は学校であり、修行の場であると分ればどんな問題が現れても驚くことも、あわてることもないのです。あなたは人一倍魂が高いから、だから普通の人よりも難しい問題が与えられたのです。学校にも教科書や先生が必要な如く、人生にも魂を磨いて下さる相手が必要であって、その修行の相手に、人も嫌がる継母の役を引き受けて下さったのが、継ぎ母としてのお母さんだよ。お母さんが世間並みの物の分ったお母さんで『今時中学だけではいけない、あなたも高校に行きなさい』と高校に進学していたら、今あなたはお友達と同じように高校に通って毎日楽しく遊んだり、お茶を飲みに行ったり、映画を見に行ったりしているでしょう。その方が楽しいかもしれないけれども魂の方はちょっとも向上しないよ。

女中奉公にも出ないでしょう。苦労もしないでしょう。『天は人に二物を与えず』と昔からいっているが、人間は何の苦労もなく、面白く暮らしている時など真剣に考えることも道を求めることもしないのですよ。精神の方は怠けるばかりで、何か困難に直面したら直ぐにへこたれてしまう弱い人間になり、自信のない人間になり、不安な生活をしなければならないですよ。

 あなたがそんな苦しい悲しい人生を経験しているのはあなたの魂が高い証拠ですよ。もう一通り修行を経て、今最後の仕上げであり、大学の卒業論文を書いているようなものですよ。その相手をして下さるのがお母さんであり、お母さんは観世音菩薩でありますよ。観世音菩薩は三十三身に身を変じて衆生を利益し給うとお経には示されている。

そのお蔭であなたは生長の家の御家庭に縁があって奉公が出来、毎回こうして真理の座に出ることが出来、14や15歳で泣きながら真理のお話を聴くことが出来のではありませんか。そのお母さんこそ観音様です。その大恩ある観音様を恨むとは何事ですか。何故感謝しないのですか」と申しました。

 身じろぎもせず息を殺すようにして一心に聴いていた娘さんが、ハーと長い長い返事と共に「そういう意味で感謝するのですか」と言いました。「そうだよ」と申しますと、わっとその場に泣き伏してしまったのであります。暫くワイワイと泣くばかりでありました。私は時計を見ると時間が無いので、そのまま帰宅したのでありますが、その翌月8月に再び平野先生のお宅の誌友会に招かれて行ってみると、その娘さんがニコニコしながら「先生お蔭様で鼻茸が治りました」と言ってお礼を言われたのであります。




 影は影である

 このように人生は神様からの尊い御使命であると同時に、自己の魂の向上のための道場でもありますから、何でも「ありがとう」と感謝して受け取ることが肝腎なのであります。生長の家では「天地一切のものに感謝せよ」との教えでありまして、都合のいいものだけや、良くしてくれるものだけに感謝するのであれば楽でありますが、そうではなく最も都合の悪いものや、自分を苦しめるものにまで感謝せよというのでありますから、ちょっと難しいのであります。

 以上が生長の家の御教えの根本であるところの縦の真理であり、実相直視、本当のことを観ることによってどんな難問題でも立ちどころに解決する根本原理であります。これを抜きにして現象だけを処理し解決しようとすることは、夢の中で夢を無くそうと努力するようなものでありまして、正しい解決法ではないのであります。

 宗教の救いは無い現象を無くすのではなく、実相を現すことによってもともと無い現象が消えて行くのであります。それは元々無い暗を無くしようと努力することではなく光をもって来ることによって、在るかのごとく現れていた暗が自然に無くなるのと同じであります。救いが現実に現れないのは、実相と現象、実体と影の関係を明確にしないで混同するからであります。影は影であると分るとき、何が現れても心配が無くなるのであります。




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