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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

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[2080] インターネット道場―――体験実話特集 大聖師御講義『続々甘露の法雨』より(4)
信徒連合 - 2016年02月07日 (日) 09時00分




インターネット道場―――


体験実話特集 


大聖師御講義『続々甘露の法雨』より(4)





  原爆によるケロイドが治った実話

終戦の翌年、私は呉(くれ)のある高等女学校で講習会がありまして、その時に、あの広島の原子爆弾の被害を受けた平野みさ子さんと云う人が聴きに来ておられたんです。僕はその婦人を知らなかったので、何も気づかずに、講習を続けておったのです。それからその呉市の講習を終って、ずーっと九州を講習旅行で一巡して、その帰りに尾道の教化部へ寄ってそこで講習があった訳なんです。その講習会での体験談をいう時間になりますと、原爆のケロイド症と云うのですか、顔が凸凹の皮膚があかむけになったご婦人が立ちあがって体験談を話されました。

  私は平野みさ子と申します。皆さん、私は御覧の通り、こういう顔でございます。風呂敷を被(かぶ)ってでも歩かなければもうきまりが悪くって歩けないような斯ういう醜(みぐる)しい顔をしているのでございますけれども、しかし私は感謝で感謝で一杯でございますので、わざわざ私はこの尾道に講習会があるということを聞いて呉から上った者であります。

 実は呉の講習会の時に私は講習を聴きに行ったのです。広島の原爆の時に私は××町の何番地に住んでおって、その頃、建物疎開のために屋根へ上っておったのです。家を疎開して広場にして空襲で火災を起こした場合の延焼を防止する目的で家を崩す作業をする為に隣組の人と一緒に屋根へ上って、それで瓦をリレーで降ろしておったのであります。午前8時頃であったと思います。その時に、原爆を積んだB−29がやって来てピカドンとやったんですね。で屋根の上に登っていた人は爆風のために悉くハネ跳ばされて(注。爆風で飛ばされる位だからもう余程近い、それで放射能は無論受けているのであります)全部全滅した。私もはね飛ばされたけれども不思議に生きておったのです。

その時にはね飛ばされた時に何処かで手を打ちつけて、左の手の親指が挫(くじ)けて、そのままこれは動かなくなっておったのですが、その時分にパッと飛ばされると、跳び起きて、もう無我夢中で走り出しました。走っていると、原爆を受けた多くの人々が一緒になって走っているのであります。無我夢中で何処に逃げたら良いか判らんけれども、兎もかく走っている。そうすると手が、あの撃剣(げきけん)の時に籠手(こて)というものを腕にはめるでしょう。あの籠手みたいな恰好に、腕の皮膚がすっと籠手を抜いたように脱げて、赤むけの腕の先に籠手の形の皮膚があべこべにぶら下って走っている。それらの人の顔を見ると、紫色とも赤い色とも何とも言えない、あの海鼠(なまこ)の色みたいになって、こう膨(は)れあがった変な顔したのが、そんな腕をぶらさげて走っているんです。

そのうちに私の顔もプーッと膨(は)れて来て、そしてもうあんまり顔が膨れて来たので眼が埋まって見えんようになる位になったと思うと、気を失って私は倒れてしまったのです。

 それから9日間経ったのですが、わたしは死体収容所に放り込まれておって、もう死んだと認められておったのです。その死体収容所には、出来るだけ場所を取らないように、ずうっとうず高く死骸を積んであるんですが、そんな事は自分にはわからんのですけれども、私だけまだ心臓が動いているというので、別にひとりだけころがしてあったのです。ふと気が附くと医者が来てですね、医者が何やらいう声が聴こえるんです。それで水を飲みたいと思って、ものを言おうと思うけれど言えない。そこへ夫が来てくれたんです。あとできくと、夫は何遍も其処(そこ)へ捜しに来たんだそうですけれども、もう顔がすっかり変わってしまっているから、どれが誰だか訳が判らなかったんですね。

ところがわたしの髪の毛に、住所姓名がを書いた布切れが結び着けてあったんです。それはあの時分、いつ空襲で死ぬかも知れぬから死んだ時に住所姓名がわかるように町の人は着物の裏なんかに名前を書いた布を縫い附ける規則になっておったのですが、それを切り取って私の髪の毛に結び附けてあったのです。ほかの死骸は積み重ねておったけれども、私だけまだ脈があったもんですから、積み重ねずに、別に一つだけ死体収容所に転がしてあったんです。

 私の良人は、私の髪に結んであるところの名前札によって、それを私だと知ると、
 「これは私の家内です。これ、なんとか注射でもしてくれませんか、手当てしてくれませんか」
と言って医者に頼みますと医者が
 「いやそれ、もう死んどるだろう」
「いや、まだ息があるですよ」
 と医者と良人が問答しているのが聴こえてくるんですよ。
 「そんなら一寸手当しようか」と医者は言うのですが、何も薬があるわけではない。あとで聞いてみますと、食塩注射かなんかして呉れまして、それから良人は私を自分の家へ連れて行って介抱してくれました。そして3カ月程たったんです。

 で、少し身体が動くようになりましたので、初めて鏡をかしてもらって自分の顔を見ました。すると私の顔は何とも言えない凸凹のあかむけの、もう恐しい形相をしておって、“ああ、私はあの時救(たす)けられないで、死んでおったらよかったのに!”とこう思って、“夫が要らん事をして私を助けたから、私は一生涯この面(つら)をさげて他人(ひと)前に恥をさらして生きんならん”と思いまして、夫を恨むようになったのです。

 しかし、まあ、段々体力は回復しましたが、顔のケロイドの、この見苦しいひきつりは御覧の通りに恢復しません。そして、手が、原爆ではねとばされた時に打撲傷を受けた此の腕が自由にならない。そして拇指(おやゆび)は曲ったままに不随で伸ばすことができない状態であったのです。ところが呉市の高等女学校で講演会があるというので、誰かに誘われて生長の家の話を聴きに行きましたら先生の仰言るには、
 “夫婦互いに拝み合いをしなければいかん、夫は妻に妻は夫に互いに感謝し合わなければいかん。左の手は、左の片腕になるのは夫である。妻は右の片腕、それがお互いに合掌して拝み合い、そして有難うございますと感謝をするようにならなければいかん”
 ということでありましてですね。本当に夫婦の調和したところには悪い事は起らないのであるというような真理の話を聞いておりますと、わたしの心の内に“ああ今まで夫を恨んでおった、ああ済まなかったなあ”と云う気持ちが起って来たのでした。

 “世間には、私なんかより余程綺麗な婦人が沢山余っているんだ。こんないやらしい顔をしている女を、生かしてまで矢張り奥さんにして置こうと思わなくたって、どんな女でも私より皆綺麗な人ばかりなのに、それなのに、こんな私を何とか修繕して妻に使ってやろうと考え下さって、他の者から見たなら、もう見苦しゅうて側へも寄れないような私を、それをこんなにまで愛して看護して下さって、ここまで治して下さった。それはもう夫の無限の愛であった。それなのに私は夫を恨んでおったのは私の間違いだったのだ。ああ済まなかった、済まなかった、夫よ許して下さい、赦して下さい、済みません、済みませんと、こんな私なのに、私を愛して下さいまして、有難うございます、有難うございます”

 こう考えますと、感謝の念で一杯になって私は高等女学校の門を講習を終って出たのでした。その時に一寸なにかに触れそうになったので、左の手をひょっと引っ込めようとして動かした。と今迄こうして動かなかった其の腕がひょっと動いたのでした。だけども、その時は、たいしてそれを気にも止めなかった──講習のお蔭で治ったとも思わなかったのです。気がつかなかったのです。

 4時に講習が終りましたので、5時前に自宅へ着いて、私は晩御飯の支度をしようと思いまして、ちょうどその頃、莢(さや)のついた蚕豆(そらまめ)の出さかる時分でございましたので、それを買って来て、蚕豆の莢をこうやって剥いとったんです。そこへ夫が帰って来ました。この左の手の拇指(おやゆび)はもう絶対に曲ったまま動かないで蚕豆なんかむける筈がなかったのですが、こうやって剥いているのを夫は見つけたんです。

 「おいっ、お前、その手動いているじゃないか」とこう言われた時に、わたしは、自分の左の腕も左の拇指も動いているのに気がついて初めてびっくりしたのです。
 “あっそうだ、これはあの講習を受けたんで治ったのだ。私の心が変ったんだ。夫を恨んでおったのを夫に感謝する心が起ったので治ったのだ”と気がついたのです。谷口先生は「左の手は夫を表すんだ」と仰言いました。その左の手がこうなったまま動かなくなっていた。それは、夫を私の恨む心で抑えていたからだとわかりました。それがこのように自由に動くようになって、拇指もよく動いて蚕豆の莢を剥いて晩御飯のおかずの支度ができるというのは、私は夫を恨んでいた心が消えて感謝の心に変ったからなんです。

私がこんな原爆の被害を受けたのも、ひとつには、私の心が悪かったんだ、済まなかった、済まなかった。この真理を知らして下さって、この腕と指とを完全に治して下さった谷口先生にお礼を申し上げたい。九州の講演会からの帰りに、先生は尾道に来られるから、御礼を言いましょうと思いまして当り前ならこんな所へやって来られない見苦しい顔をしておりますのですけれども、感激でもう一杯でございますから感謝をしに来たんです。

 平野みさ子さんの体験談はこれで終わりました。聴講生一同、あまりに迫真的な体験談なので、水を打ったように鎮(しず)まり返って聞いていました。

 その体験談が終って、私は立ち上がって先刻の、新宿の親分に硫酸をかけられた女将さんの話をして、当りまえならズル剥けになって引きつった見苦しい禿の顔になる筈の硫酸で焼けた皮膚がキレイに治ったのは、それは相手を憎まないで、相手を赦してあげ寧ろ相手の幸福のために祈ってあげたという様なそういう天地一切のものに和解する気持になった時に、傷痕(しょうこん)がキレイに治ってしまったので、これは“肉体は心の影”という教えの実例であると説明して、平野みさ子さんに、
 「だから貴女のそのケロイド症の変な赤むけの顔もあなたがすべてを赦して感謝の気持ちになったら、治りますよ」と言った訳であります。

 それから3カ月程して、私は広島県の安芸美津町という所で講習会を催したのでした。その時に彼地(あそこ)の生長の家の幹部のお方のお宅に泊めて頂いたら、その時に僕のお給仕に来た御婦人が2人か3人あったんですが、大体まあ、僕が講習に行きますと。お給仕に来る人はなるべく先生に見苦しい感じの悪い顔の人は近付けないと云う幹部の人の御配慮かどうか知りませんが、兎も角美貌の人を選んで僕に給仕をさせると云うような習慣になっているらしいのですが、ところが、その時にその平野みさ子さんが選ばれてお給仕に来られた。で、見ると、その赤むけの顔が治っているのでした。もっとも、私の教えを受けてたった3ヶ月ですから完全には未だ治っていないんですが、一間程離れた距離から見ると、もう殆ど皮膚の凸凹が判らない位なんです。まあ側へ寄ってよくよく見れば、少し痕(あばた)みたいだなあと、こう思えるんですけども、それはもう一間も離れて見たら殆ど判らん位にキレイに治ってしまっておったのであります。




 相手を恕(ゆる)したら病気が治る

この事実は何を語るかと言いますと、人から害を受けて、そして相手が自分に害を加えた事に対して恨み憎しみをもっていると、その被害の傷又は結果が中々治らないということをあらわしているのです。それは何故であるかと言うと、“彼奴(あいつ)が悪い”という宣告を下す為には“彼奴はこういう害を加えたんだ”という“証拠物件”を大切に保存しなければならないのであります。それなのに、その傷がキレイに治ってしまっていたら“彼が害を与えたことは何も証拠がないじゃないか”ということになるですから、相手を恨んで、憎んで攻撃してやりたくて相手が悪いという事を宣告するためには、その傷又は被害情況はどうしても大切な証拠物件だから、その受けた害、すなわち証拠物件を消してしまってはならない。従って、その人の潜在意識が其の被害情況をあとかたもなく治すということをしないのです。

だから、人から害を受けた時には、害を与えた人を恨んではならない。恨んだり憎んだりしたら、いつまでも、その被害情況が消えないということになるのであります。これは大切なことであります。病気になっている人は、よく自分の心境を反省してみて、誰かを恨んだり憎んだりしていたら、その人を赦すことが、病気を治すことになります。




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