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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[170] 勝負あった!!―――またもや肩すかしハタキコミ! 学者マサノブ VS 異才トンチンカン
話題担当番記者 - 2015年08月06日 (木) 20時00分


学者マサノブ君、曰く―――

733 :曳馬野(=マサノブ総裁) :2015/08/06(木) 02:36:30 ID:PtMY/S2c
ですから質問に答えて頂かないと前に進みません。現象界から覗いた説明を聞いているのではありません。輪廻転生をしながら『霊の進化』を図ると云われる『個別霊』なるものは『どんなものですか?』と聞いているのです。一万年光の射さない洞窟であれ、たった一本のろうそくで明るくなり、闇は消えるというのが生長の家ではありませんか?『永遠の今』を生きるという事が本当にお分かりですか?永遠の今に『闇』があるのですか?本流派の方々は実相世界と云うことを頭に描きながら、結局は現象でしか生きられないのではないかと思います。闇は無い光のみ、なんてことは単なる気休め何でしょうか?この辺をハッキリさせる為に「輪廻転生する当体は何か」と聞いているのです。霊の進化有としますと、何時個別霊なるものが誕生したのでしょうか?トンチンカンさんと云う個別霊は何時低級霊として現象化したのでしょうか?霊の進化有として高級霊になると高級天体に移行するという事を雅春先生が言われるから、それでは高級霊になると地球を去るという事ですから、『地上天国実現』なんていう
言葉で信徒を釣ったのですか?と聞いたわけです。「輪廻転生する当体は何か」説明をお願いします。



異才・トンチンカン氏答えて曰く、――

737 :トンチンカン :2015/08/06(木) 10:47:38 ID:gJyKhqbg
『マサノブ教』では、≪信仰≫ではなく≪哲学的論究≫を要求する所でしょうか? マサノブ爺さんを代弁する『曳馬野爺さん』は、≪哲学的論究≫がお好きなだけなのですね・・・・谷口雅春先生の説かれた『御教え』を、そのままに ≪信仰≫ しているのです。こんな≪哲学的論究≫と言おうか ≪問答≫ を、一般の信徒がしているのですか? ハッキリ言って、頭が混乱して、痛くなるでけです・・・だから信徒が去っていくのではないのですか? 「輪廻転生する当体はこんなモノだ」・・と、説かれればイイではありませんか。トンチンカンは、≪哲学的論究≫をするほど 『人間智』 が優れていません!



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



<番記者の評価>



@ 今回もまた、トンチンカン氏は、その“異才”振りを炸裂させた。「トンチンカンは、≪哲学的論究≫をするほど 『人間智』 が優れていません!」と一応マサノブ君の肉体頭脳知を持ち上げて手を放した。有頂天のマサノブ君、堅い大地に落ち目を回したのだった! これも理屈好きという身から出たサビだ! 「霊的音痴」だからなのである。



A ≪哲学的論究≫が大好きな「曳馬野爺さん」と「マサノブ爺さん」とは一卵性双生児の如し。こんな文章は信徒なら書かないし書けない。だから、消去法で行くと、「マサノブ爺さん」=「曳馬野爺さん」という事になる。



B マサノブ君がトンチンカン氏に突きつけた質問の回答は、開祖・谷口雅春先生の御著書を熟読さえしていれば全部書いてある。そのことが解らないのは、マサノブ君が、一応教えの後継者を自負しているのだから、後継者としての第一の義務である「開祖・谷口雅春先生のすべての御著書の読破と繰り返しての熟読という後継者としての第一最大の義務を怠っているがためということになるのである。一応次のスレッド記事だけでも熟読したまえ!
http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=kimidouge&mode=res&log=88



C マサノブ君は、哲学的探究心はあっても、宗教家としての求道心はないことはハッキリ断言できる。哲学的論争を幾らしても、人間社会の病悩苦の救済は出来ない。哲学的論争を幾らしても、戦争はなくならないし、平和や調和は生じない。つまり世界から戦争は何時まで経ってもなくならないのである。
哲学的論争を幾らしても新しい病気は次々と発生し、倫理道徳心の向上は期待できず、物的方面からの社会福祉の国家財政の赤字は増える一方である。つまり、哲学的論争とか評論家とかニュース・コメンテーターがいくら論議を重ねても現象界の根本的改善は不可能である。なぜならば、唯神實相・實相独在・唯心所現という大宇宙の「真理」すなわち“公理”の上に立った建設的論議ではなく、實相不在・現象独在・環境や肉体と人間の想念(心)との非・相関性という唯物現象論の上に立った議論だからである。「今の教え」を始めたマサノブ君はこの様な理屈だけの哲学者・評論家・コメンテーターの一人に過ぎない。このことを自覚して、宗教・信仰・求道の道から足を払い給え! もはや、君は「生長の家」総裁を称する資格はないのである。なん度言ったら理解できるのであろうか? かれの肉体頭脳知(人間知)の理解力はこんなにも低かったのか?



D 「曳馬野=マサノブ君」に告ぐ! 君たちは哲学的議論を通じて霊的真理を悟ろう(否、理解しよう)としている。しかし、哲学的探究だけでは決して「無の関門」を超えることは出来ない。「無の関門」を超えて『實相そのもの・實相世界』に直接相見えるためには、先ず「實相の心」を出して求道しなければならないのである。その途中では哲学的探究するのもよい。その時には「それは何故か?それは何故か?・・・」と突き詰めて最後まで行くと、どうしても哲学的(議論理屈的)探究だけではどうしても超えられない最後の一線に到達する。その最後のこちら(議論理屈)の頂上から向こう側(絶対真理)の頂上へ跳び越すためには、その間の千尋の谷を飛ばねばならぬ。そのためには、唯物論に根ざした理論理屈の荷物をすべて投げ棄て、本当の自己の生命そのものひとつになって「一躍超入實相世界」を果さねばならないのであります。

このことを具体的に言うならば、「神想観」の修行の継続と「ただ、ハイハイ左様でございますという素直な気持」で以って、大覚者である開祖・谷口雅春先生の御著書を読み続けることであります。そうすれば、その読む人の求道の霊的機縁が熟した時に、丁度「片栗粉が透明になる瞬間」が訪れ、自己の實相が悟れるわけであります。



E 我々「生長の家」信徒は議論理屈に達者になるために信仰しているのではない。信仰者の最後の絶対的目的は、自己生命そのもので以って、「久遠を流るるいのち」を直接体得する事であります。
最後に、開祖・谷口雅春先生の「久遠を流るるいのち」の御文章を掲げます。



「生命の実相」第27巻・久遠仏性篇上巻・第7章より抜粋・引用させて頂きます。


<< 語学や考証を超えて―――

  私はここに、本当の釈迦は二千五百年前、地上に生まれて王宮を出家して迦耶城を去ること遠からぬ道場に座りて阿耨多羅三藐三菩提を成じた如き『肉体』でないことを宣言する。それは私が宣言するだけではなく法華経の『如来壽量品』にちゃんと宣言してあるのだけれども、法華経は大乗経典であり、大乗経典は釈迦是を説かずと言うような、<さとり>には何の関係もない考証的仏教学者があるから私が茲に改めてそれを宣言する必要があるのである。斯く法華経に従って、本当の釈迦牟尼如来は浄飯王の太子ゴータマの如き肉体人間ではないのであって『久遠を流るるいのち』であることを知るとき、吾等は到るところに『仏教』即ち『<ほとけ>の説教』を見出すことが出来るのである。・・・何処にでも身を現じて法を説き給うのが釈迦なのである。だから法を説くとき阿難も釈迦であり、達磨も釈迦であり、賢首も、空海も、道元も、最澄も、親鸞も悉くみな釈迦なのである。親鸞などに到っては・・・彼の<さとり>は語学を超えて却って『久遠を流るる<いのち>』を把んだのである。・・・言葉や語学にこだわり過ぎて、この文字は梵語では本来何を意味するのだなどと言う事を考証するほど、凡そさとりに遠いものはないのである。



ほとけは何処—―――

現代仏教が揮はないのは碩学は図書館に籠もってシミとなり、凡僧は寺院に籠もって死骸にお経を誦げるのを商売として、直接『久遠を流るるいのち』そのものなる釈迦に触れ、釈迦の<さとり>を直接生きようとする人が少ないからである。・・・『久遠を流るるいのち』なる釈迦は・・・ユダヤに於いても、日本に於いても、アメリカに於いても、イギリスに於いても常住久遠に説法してい給うのである。『久遠を流るるいのち』なる釈迦は、或いはイエスと現れて法を説き、或いはマホメットと現れて法を説き、或いはエマースンと現れて法を説き、さらに黒住教、今光教、天理教、扶桑教、ニュー・ソート、クリスチャン・サイエンスと現れて法を説いても一向差し支えがないのである。釈迦がその『肉口』を以って法を説かなければ、それは仏教でないというならば、地上いづこにか仏教あらんや・・・では吾等は何処に本当の仏教を探し求めたら好いであろうか。仏教とは『釈迦の肉口の教え』であると考えている限りに於いては、そんなものは地上の何処にもないのである。しかし仏教とは『久遠を流るるいのち』と一つなるところの釈迦、『常に此処に在りて滅せず・・・余国に衆生の恭敬信楽する者あらば、我復た彼の中に於いて、為に無上の法を説く』ところの釈迦――斯くの如く変貌自在、どこの国にでも恭敬以って真理を知らんと志す衆生のために出現して来て法を説く釈迦――この釈迦の教えが『仏教』であると言うならば、仏教は到るところにあるのである。 



わたしは喇叭(らっぱ)――――

 伊藤道海禅師が『生命の實相』を読んで見て、『言々すべて仏の教えである』と雑誌『宇宙』で評したのは当然のことなのである。『仏とは久遠を流るるいのち』の表現なのである。私は始めから『私は生長の家の教組ではない。私は諸君と共に「生長の家」の教えを聴聞してひたすら、其の如くい生きんと努力せる一人の求道者に過ぎない・・』・・・・

 私は釈迦・キリストがそうであったろうところの『久遠を流るるいのち』に触れん事をつとめ、斯くつとめつつ、『久遠を流るるいにち』の啓示を『生命の実相』に書き止めたのであるだから『生命の實相』の本当の著者は谷口と言う、何時にか生まれて何時かは死滅し了まうような儚い人間が書いたのではない。その著者は『久遠を流るるいのち』である。私はただ『久遠を流るるいのち』の流出口となったに過ぎないのである。

 私と同じく、『久遠を流るるいのち』の喇叭口となったものは、いづれも仏の教えを語るものである。仏の教える真理は『生長の家』が独占するものでもなければ既成仏教が独占するものでもないのである。キリストの聖書は既に『久遠常在の釈迦』の言葉なのである。またかのカーライルが『汝の運命を征服する武器は念(こころ)である。・・・念ずればその結果は必然に現れる』と言った時に、カーライルは既に仏の教えを語ったのである。何故なら、それは『三界は唯心の所現』であることを説き、この世界は因縁所生の世界であることを説破しているからである。彼はこれを説いたとき『久遠を流るるいのち』に触れてその喇叭口となったのである。換言すれば、カーライルが斯く真理を説いた時、常住久遠の釈迦牟尼仏が『余国に衆生のために無上の法を説いた』のである。また見よ、エマースンが『聖者と天才とが世界に投げた思想は世界を変化する』と説いたとき、彼もまた三界唯心の真理を説いて、常在久遠の釈迦の歌口となったのである。・・・


 斯くの如く観じ来るときには、ユダヤにも英国にも米国にも『久遠常在の釈迦』は既に仏教を説き給うたのである。仏教とは、茲に見よ、彼処に見よ、と言うが如く堂塔迦藍や書庫の中には存在しないのである。また釈迦と言う名前の肉体が喋ったことならば何でも仏教だと思うことも間違いである肉体の釈迦の言でも、悟らないで喋っていた時の言葉は仏教ではない。竜樹菩薩の作でも、曇鸞大師の作でも、カーライルでも、エマースンでも『久遠を流るるいのち』に触れて真理が語られる時には、それが仏の教えなのである・・・


 しかし、それが仮令、仏の教えであっても、ラジオの受信機が異なる毎に、その音声に一種の癖をもっているように、その真髄は仏の教えであっても、その悉くが、(その雑音までもが)仏の教えである訳はない。ニュー・ソートの著者に於いても、物質無を説いているのもあれば、物質有として汎神論を説いているのもある。仏教に於いても、真言宗も、天台宗も、禅宗も、浄土宗も、真宗も、日蓮宗も、その何れもが仏の教えであるには相違ないが、その悉くが(その雑音までもが)仏の教えである訳はない。吾々は唯その中から『久遠を流るるいのち』を見出し、それに触れ、それに合流すれば好いのである。



萬教ただ一つの<いのち>の流れ

・・・生長の家のように全ての経典の真髄を示して万教の全一すべき真髄を明らかにするには、ニューソートを篩にかけると共に、他の宗教をも篩にかけて、そこに『久遠を生きるいのち』の純金を冶金し出さねばならないのである。>>



D 「トンチンカン」氏は異才である。私が以上縷々述べ来ったことの究極の一点を下記の如き言葉で端的にまとめた。この才能たるや普通ではない。「マサノブ君」=「曳馬野君」は、理屈で武装した大刀を大上段から振り下ろしたのは好いが、相手が悪かった。ヒョイと身をかわされ、大刀は空を切り、勢い余ってタタラを踏み地面に這いつくばったのである。


異才・「トンチンカン」し、曰く、――

<< 『マサノブ教』では、≪信仰≫ではなく≪哲学的論究≫を要求する所でしょうか? マサノブ爺さんを代弁する『曳馬野爺さん』は、≪哲学的論究≫がお好きなだけなのですね・・・・(私たち信徒は谷口雅春先生の説かれた『御教え』を、そのままに ≪信仰≫ しているのです。>>



繰り返します!

本当の「生長の家」信徒とは、――

谷口雅春先生の説かれた『御教え』を、そのままに ≪信仰≫ している者であります。





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