| [2090] インターネット道場―――体験実話特集 大聖師御講義『続々甘露の法雨』より(5) |
- 信徒連合 - 2016年02月08日 (月) 07時38分
インターネット道場―――
体験実話特集
大聖師御講義『続々甘露の法雨』より(5)
聞きたくない心は難聴の症状をつくる
これは度々皆さんに申し上げる体験談ですけれども、滋賀県の大津に野沢宗一という郵便局長がありまして、その人の御夫人が姑さんと仲が悪かった。そして姑さんの言うことを諾(き)かんもんだから終始小言を言われておったんですが、或る日のこと、姑さんが憤慨してお嫁さんの頬ぺたをピシャリと殴ったのでした。そしたらお嫁さんは殴られまいと思ってヒュッと体を躱(かわ)したんですね。その躱したのが却って悪かった、掌(てのひら)の見当が狂って耳の上を殴ったのです。そのはずみで鼓膜が破れて、それ以来お嫁さんの耳が聴こえなくなったのです。しかも、鼓膜が破れた方の耳が聴こえなくなるのなら何も不思議はないんですけれども、鼓膜の破れない方の耳も聴こえなくなったんです。これは変じゃないですか? もっとも極(ごく)側へ寄って、耳元で、電話口でものを言うように口を近づけて大声で話せば、聴えるんですけれども、もう一尺も離れてものを言うと聴こえないのでした。
この、聾(ろう)という病気は大変都合の好い病気でありまして、言いたいことは言い放題、他が弁解しようが、反対しようが、どうしようが、自分の言う事さえ言えばよいのであって、他(ひと)の言うことは聞いてやらないでもよいのでありますから、こんな便利な病気はない。肉体は“心の影”でありまして、この人は“姑さんの言うこと聞きたくない”と心に終始思っておったものですから、それで、耳の聴こえない病気になったわけであります。
つまり、これは自分の生命力自身が聴こえない病気を拵えて、姑からの小言に対して自己防衛した訳であります。それは姑が外から殴ったのでありますけれども、すべて外の物に当って怪我するということも、実は、その怪我しそうな処へ自分の身体を持って行ったということなんです──自分の身体は自分の自由なんですから。姑は嫁の頬辺(ほつぺた)を殴ろうとしたので、耳を殴ろうとしたんじゃなかった。耳を殴らせたのは彼女自身であったんです。
自分の心が災害をつくり出す
電車に轢(ひ)かれたとか、自動車で衝突したとか色いろ交通事故で怪我したり、死んだりする人がありますけれども、自分が選んで電車に轢かれる場所へ行ったら、その乗物に乗って恰度(ちょうど)衝突する時間に其処へ行くんですから、それは矢張り自分の潜在意識──現在意識では怪我しようと思わんかも知れないけれど──「潜在意識」という吾々の心深層に隠れておって生理作用を動かしておる「無意識の心」というものが、人間を災難に遭わせるところへ伴(つ)れてゆくということになるのであります。
骨の細胞も常に新陳代謝する
いつかリーダーズ・ダイジェストに「骨も生きている」という題で、骨の記事が載っておったのを読んだことがあります。吾々の骨と云うものは、石のように硬い唯の物質で、一ぺん出来たら、そのまま、家の柱が、その家の建っている限り、同じ物質として続いているのと同じように、幼い時からの骨が、そのまま老人になっても続いているのだと考えられ易いのでありますけれども、その説明によりますと、「終始骨の細胞も新陳代謝が行われて、古い細胞は死滅して運び出されて、新しい養分で出来た細胞で置き替えられているのである」とう説明がしてあったのでありますが
其の記事の終わりのところに、何でもニューヨークの長老教会の病院へ入院した奥さんの話が、書いてありましたが、アメリカでも嫁にとっては姑はニガ手であるらしい。その奥さんは、その日、姑さんが自分の家を訪問して来るというので、姑さんに小言を言われたらいかんと思いまして、応接室を綺麗に掃除して置きたいと考えて、埃(ほこり)叩きで掃除していたのですが、その時に床の敷物の絨毯(じゅうたん)の端に足先を躓(つまず)かせて引繰り返り、椅子でしたたか臑(すね)の骨を打って臑の骨が折れたのです。そして早速、長老教会の病院に担(かつ)ぎ込まれたので、折角訪問して来た姑に逢えなかったというのであります。これは一見、偶然の災難みたいなんです。
表面では、何も姑さんを排斥した訳でもない。それどころか姑さんが来るから綺麗に掃除しておかんならんと思って掃除していたんだけれども、これは現在意識即ち“表面の心”であって、潜在意識即ち“深層の心”では、姑さんに会いたくないという心があったから──病院へ入院したら会わずに済むのですから──潜在意識の巧みな演出によって、脚の骨を折って入院して姑さんを避けた訳だと精神分析医の解釈がそれには書いてありました。
父親が後妻を貰うのに抗議して骨折した女学生
それから、こういう実例もあるというのです。そのもう一つの実例は、或る女学生の話ですけれども、その女学生はラグビーをやっている時に骨を折って、自宅へ担ぎこまれたというのでありますが、その自宅へ担ぎ込まれた日は一体何の日であったかと云うと、自分のお父さんが(前のお母さんが死んだ後で)後妻──次の継母(ままはは)になる者──を迎える結婚式が始まるという日であったのです。その晩に結婚式があるという其の昼に、その女学生は骨を折って、そして自分の家へ担ぎ込まれた。そして家へ担ぎ込まれると同時に、其のお嬢さんが言った言葉は何であったかというと、 「私がこんなに酷(ひど)い怪我をしたんだから、よもやお父さんは今日結婚はしないだろう」と言ったというんです。思わず本音が出たんですね。彼女は自分の骨を折ることによって、父親が後妻を迎えることに抗議したのでありました。
このように、外傷によって骨を折るようなひどい災難は、一見外からやって来た災難みたいですけれども、じつは外から来る災難というものも、みな自分の“心の中”にある想念が災難のところへ引きずって行くのであります。だから、他(ひと)を排斥する心や、他と衝突する心や、人を憎む想念を持っておると、そういう災難の処へ引きつけられて行って、外から見たら災難と見えるけれども、実は皆な自分の心が災難を招いているんだということになるわけです。一切万事、わが心より出てわれに還るというわけです。
それで野沢宗一さんのお嫁さんの出来事に話を戻しますが、この様にこのお嫁さんが自分の耳を殴られて、難聴になったのも、「この難聴は姑が耳を殴った結果だ」と思っていたけれども、実はわざわざ姑の叩こうとする掌(てのひら)を避けるような恰好をして耳を叩いて貰って、鼓膜を破ってもらって、それによって、「姑が悪いんだ」という口実を拵えて、それで自分の耳を聴こえんようにしたのだと解釈できるのです。だからこそ、殴られない方の、もう一方の耳も聴こえないようになったのであります。
それは大変都合がいい病気なのです。姑が何を言ったって知らん顔をしておればいいし、文句言ったって知らん顔をしておればいいんです。そして、“このように私の耳を聴こえないようにしたのは、お前が悪いんだ。お前がこの耳を悪くしたんだから、お前の責任だ”と云う訳で、姑が何を言っても知らん顔をしとれる口実ができたわけなんです。
そのお嫁さんは、耳鼻咽喉科の医者へ一年ばかり通ったけれども、どうしても治らないのでした。治ったらまた姑の言う事を聴かねばならぬが、それがいやだから潜在意識が中から治さない。そしたら姑さんも然(さ)る者で、“お前、そんなに何時までも養生しても治らんなら実家へ帰れ、実家で養生して治ったら出て来い”ということになったんです。それで彼女は実家の方へ帰らしめられ、夫は郵便局に勤めているし、自分は実家へ帰って、しばらく夫婦別居の生活が続いておったのでした。
石川・京都電燈社長宅での誌友会
それは、私が東京へ移転して来まして初めて京都で誌友会があるから来てくれと言うので、東京から京都の誌友会へ行った時のことでした。京都では石川芳次郎さんという当時京都電燈の社長をしていらっしゃる人のお宅で誌友会があったんですが、その時に私から直接指導を受けたいというので、郵便局からは良人の野沢宗一君と、それから実家の方からはその嫁さんと、同じ時間に諜(しめ)し合せて、2人づれで誌友会にやって来られて、先ず良人が「先生、この耳はこうこう斯(こ)ういうわけで難聴になった」と説明され、またお嫁さん自身もその経過を説明して、
「どうしたら癒るのでしょうか」と問われたわけであります。それで私は、 「貴女はその姑を恨んでいるでしょう」と彼女の耳に口をつけるようにして言いました。すると、彼女は、 「恨んでいます」って言うんです。語をついで、 「姑が殴ったのやから聴こえんようになって、生まれもつかぬ身障者にせられたのですから恨まずにはおれません」と言われるのでした。これは常識的に言うと、恨みたくなるのは当然のことなんですけれども、私は彼女に言いました。
「しかしあんた、姑さんを恨んどったら、いつまでたっても、その耳は治らんですよ。恨んだり憎んだりしておったら、“姑がこうして悪いんだ”という証拠物件が必要になってくる。そして、姑に殴られた結果の“難聴”というものは、姑を悪く言うための証拠物件だからこれを治したら証拠がなくなる。“お前は姑に殴られて耳が悪くなったというけれども、どこも悪い箇所(とこ)ないじゃないか”と言われたら困るから、潜在意識が中から癒さないのですよ。それを治すためには、姑を恨まないどころか、感謝する心にならねばなりません。とも角、その姑さんが、あんたを殴ってくれたればこそ、あんたは生長の家にも触れて魂まで救われるということになったんですよ。そうでなかったら、今まで間違いの道を歩いておったのが何時までも改まらずに、魂が間違いの道を歩き続けておらんならんだったのを、それを、ね、姑さんが“そこが、間違いだ!”と殴ってくれたので、あんたは斯うして廻り廻って生長の家へ来て、耳を治して貰うだけでなく、魂まで救われることになったんだから、あんたは姑さんに感謝しなければならん。
姑さんを宥(ゆる)すどころか、さらに感謝して、『有難うございます。姑(おかあ)さん、あなた様のお蔭で私は生長の家に触れて、魂までも救われることになりましたのであります。有難うございます』と感謝するようにしなさい」このように私は指導して上げたのであります。
それから1週間程しましたら、その耳が治りましたと云う礼状が来たんです。後で聞いてみますと、耳が治った結果、婚家へ帰って来いということになりまして、彼女は実家から嫁入先へ帰って行った。嫁入先へ帰ると、暫くの間は、家の中へ入ると一寸耳が遠くなる、そして外へ出ると能(よ)く聴こえるということであったんです。それはまだ多少姑のいうこと聴きたくない心が残っておって、姑さんの顔を見ると胸糞(むなくそ)が悪いというところがあったからでしょう。それを反省して、その“聴きたくない“心を棄て、努めて感謝の心を振(ふる)い起して姑を拝むようにしていますと、すっかり良く聴こえるようになったのであります。
難産もわが心の影
ところでその奥さんは姑さんに苛(いじ)められている時分に妊娠していてお産ををしたんですが、もう姑さんに苛められるから、もうこの家を出ようか出よまいかなんて色々考えておった時分なんですが、その時は大変難産で、産気(さんけ)づいてから2昼夜位、もう苦しんで苦しんで、どうしても生れないので医者を呼んで来て鉗子(かんし)で挟んで引きずり出したと云うのです。どうしてそういうようにお産が苦しかったかというと、それは矢張り自分の心の影なんですね。“この家を出ようか、出よまいか。出よまいか、出ようか”と、とつおいつ心が途惑(とまど)っていたんですね。そうすると赤ん坊も“ここから出ようか出よまいか、出よまいか出ようか”と、途惑っていたわけで「肉体は心の影」という法則は、このような所にもあらわれて来る訳ですよ。そしたら「出よ!」と、鉗子で把(つか)んで引張り出された。
それと同じことで、姑さんからも、「出よ! 実家へ帰れ!」と言われて、摑(つか)み出されたわけであります。肉体も境遇も心の影ですから、矢張り同じ形に現われてくるわけであります。
先天性股関節の脱臼も“心の影”
さて、その生れた赤ん坊が誕生過ぎて歩き出したんですが、歩き出したのを見ると跛(びっこ)を引いて歩くんです。“おやっ、おかしいな、この子供の脚はどうしているのか”と思って寝かして両脚を揃えて並べてみると、一方の脚が長い、もう一方が短いということがわかった。“これは変だ”というわけで医者に行って診(み)せると、一方の脚はこれは股関節の先天性脱臼というので、生れる時に鉗子で把(つか)んで引張り出した時に、赤ん坊の骨盤の関節に、大腿(だいたい)骨が嵌(はま)っていたのが、脱臼したので、一方の脚がこれだけ長いというのでした。
「これは入りませんか」と訊(き)くと、 「これはもう脱臼してから1年も経つから、脱臼のあとへ肉が巻いとるから押し込むと言うわけにいかん。それにここの肉を抉(えぐ)り取って入れるのも、こんな幼い子供にそんな大手術をするわけにはいかん。まあ年頃になったら手術をして脱臼を嵌(はめ)られんこともないから、待った方がよいでしょう」
「そんなら年頃になったら本当に治りますか?」 「そんな事は請負(うけお)えませんね」と言うのでした。 なにしろ、一方の脚が斯(こ)んなに脱臼しておりますと、もう一方の脚に不平等な力が入って其の脚だけが発達して、他方の脚は発達が鈍いから、不揃いの脚になってしまうのです。それで、成長後手術をしてもどうも完全に治るとは断言できないという訳だったんです。
ことろが、そのお嫁さんが、姑を拝む心になりました時に、また嫁入り先へ帰って来いということになって、嫁というものが在るべき処に帰って来て。元のところへ納まることになったのです。
脱け出す心が無くなると、脱臼が治る
そして彼女が嫁入先へ再び帰って来ての或る日のこと、その子供が歩くのを見ておると跛(びっこ)を引かないで真直ぐに歩いているんです。「おやっ! これは治ったかも知れない」と思ってその子供を寝かして両脚を揃えて見ると両方の脚がちゃんと長さが揃っている。股関節の先天性脱臼が治ってしまったという訳です。
それは「嵌(はま)るべき処」へ嵌らずに、出とった心が、元の嫁入先へ帰って、嵌るべき所へ嵌った心のあらわれですね。その奥さんは、婚家先から実家へ帰されていて、「嵌るべき所」におらなかった。それが、嵌るべき所に嵌ったのは、結局心が調和して嵌ったのであります。婚家先から実家へ追い出されるのは、心が、もう既に、嵌るべき所にシックリ嵌らない心をしておったからそうなった訳なんですが、その心の状態が肉体的にも形に現れて、股関節が脱臼していたんですね。それが、嵌るべきところに嵌る心になった時に、脱臼も治り、婚家先へもシックリ嵌ることになったという訳であります。
まことに肉体も境遇も“心の影”であるという法則は、こういうように、ハッキリ実証されるわけであります。
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