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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

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[2097] <再掲示> インターネット道場―― 「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 第3回
信徒連合 - 2016年02月09日 (火) 10時12分





<再掲示>


インターネット道場―― 


「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか)


 第3回




マサノブ君は、「生長の家ってどんな教え?」という本を書いています。これを読んでみますと、「マサノブ教ってどんな教え?」というタイトルが正確であります。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して、マサノブ君の個人的思想ーーーサヨク唯物現象論に基づく環境問題が中心のものーーーが「生長の家」の教えとして書かれているのであります。 最も重要な開祖・谷口雅春先生の大悟徹底(お悟り)や「生命的国家論」や真理の証し「体験談」、霊と霊界に関する事柄については全く書かれてはいないのであります。

「生長の家」の本当の『御教え』を知りたい人や真剣な求道を志す人たちにはマサノブ君の「今の教え」や「生長の家ってどんな教え?」は誤ったメッセージを送ることになっています。

また、本部公式サイトのインターネット講師による「生長の家」の普及宣伝を目的とする「インターネット・ポーサルサイト」では、マサノブ君は、全インターネット講師に『このブログは「生長の家」の真理普及のために開設しましたが、内容や発言は、すべて私本人の責任において書いています。 従って、私は「生長の家」を代表する者でもありませんし、私の発言が「生長の家」の見解ではありませんので、ご了承ください。』という一文を必ず掲載させております。誠に“奇々怪々”な文章であります。その結果として、本部公式サイトでありながら、殆んどのインターネット講師の真理普及のためのインターネット講座が、個人的な“私生活日記”の報告となってしまっています。

インターネットは全世界に公開されているものです。だから、開祖・谷口雅春先生が説かれた「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えしなければならないのでありますが、マサノブ君はその責任を放下してしまっているのであります。

そこで、本当の霊的真理を求めておられる御縁ある未信徒の人たちに正しい「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えする為に、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の根幹である部分を、何回でも何回でも繰り返して掲載して行く必要があります。この様な目的を以って、この「インタイーネット道場」を最初から再び<再掲示>させて頂きます。



******************


(「生長の家 今昔物語」の比較篇を転載)


(注)この比較篇が作られたのは、6年前の平成21年でした。当初の頃は「谷口雅宣先生」と敬称で書かれていました。しかし、平成28年の現在に於いては、“敬称”で呼ぶ値打ちのない人物と成り果てました。しかし、この転載文に於いては、原文どおりの「谷口雅宣先生」として転載いたします。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



 「聖典を読む時の心構え」



「今の教え」における聖典の読み方

第三代白鳩会総裁・谷口純子先生は、平成21年2月号理想世界誌の中で「教典と理性」と題して次のごとく説かれています。

・理性による解釈を行わない場合、その宗教は狂信的になり非現実的な行動に突き進むこともあれば、信者は教祖の言いなりになってしまう危険もある。

・世の中には宗教の教祖と呼ばれるような特別な人だけが素晴らしい神様のような存在であり・・・・その人によって著された教典や聖典は無謬だと思う。

・教典や聖典が文字どうり正しければ人間は考えることをしなくなる。また、教典や聖典はある時代に人間の言葉で書かれたものであるから、どうしても時代の影響を受けるし、表現されたことによる限定も受ける。つまり一つの枠に閉じ込められてしまうのである。

・だから、時代遅れになり現実の変化についてゆけなくなることもある。世界宗教といわれるものは延々と理性による教典解釈をしてきた歴史がある。

・教典や聖典は価値ある尊いものであるが、文字どうりの解釈には危険がともなう。



******************



「本当の生長の家の御教え」における生長の家聖典(生命の実相・その他、雅春先生の御著書)の読み方


開祖・谷口雅春先生は、生命の実相その他の御著書の中で大意次のように説かれています。 
 
・「生命の実相」を読むときの心構えは、「丁度、吸い取り紙が水やインクを素直にそのまま吸い取ってゆくような気持ちで読まねばなりません。」

・信徒の中で時々「生命の実相研究会」なるものを作って研究している人たちがいます。しかし、生命の実相の中身は神示が書かれているものですから、そのまま素直に読みとって自分の毎日の生活に実践することが大切なんでありますよ。

・仏典を論ずることと仏の教えを悟ることとは異なる。本当の悟りの世界へ飛び込もうと思うものは、語学や考証の世界を一躍して「久遠を流るるいのちとしての釈迦・キリスト」そのものの中へ飛び込まなければならないのです。
   
・真理は霊的に理会することが必要です。頭で真理を理会するということは、真理の周囲を堂々巡りして真理の外的な姿を知るに過ぎません。霊的に真理を理会するということは、「生命の実相」そのものに全身全霊をもって貫き入り力の本源をつかむ事、黙読する・朗読する・目で読み・声で読み・声のリズムの中に自分を溶かし込んで読む、そして静かに端坐して「神想観」を行じ、行じ終わって動き出すとき神(愛)の生活を活きる。かくする時、知恵と愛との揃った生活が実現する。「生命の実相」の全身全霊による反復熟読と「神想観」の実修によって運命をも修正・開拓できるのであります。 


   
<注釈コメント>

・宗教の門をたたく人は、今自分が直面している「病・悩・苦」の現実的解決を求めています。単に宗教的知識や宗教的教養を求める人は宗教学者や宗教的評論家の書物だけで充分であります。

・真剣に「病・悩・苦」からの救いを求めている人であれば、現代の科学的合理性ともいえる「理性」だけで冷ややかに「生命の実相」その他の雅春先生の御著書を読んでいるだけでは実際問題として救われるものではありません。

・救われるためには本当に自分の心を空っぽにして、つまり今までの世間常識や科学的合理性を捨てて「生命の実相」という聖典を読めば、その聖典のなかに書かれている人類救済の真理である神の言葉が自分の潜在意識へ直接スーツと入り、心的革命が起こり、この意識革命の心の反映として現実の「病・悩・苦」が消えてゆくのです。常識の世界を超えた「奇蹟」が出現します。

・谷口雅春先生の「生命の実相」その他の御著書(聖典全般)を全相的に自己を無にしてしっかりと音読・精読・霊読を反復して行くと、知らずしらずのうちに「無の関門」を透過して本当の悟り・正しき般若の叡智・深き深き霊的悟境へと導かれてゆくのであります。狂信的になるなどの心配はありません。

・「理性」を強調してゆきますと「理屈」となり、「道」とならず「学」となります。冷淡な冷ややか過ぎる、愛と慈悲少なき人間となります。総合智が育たずに分析知の方が発達してゆき、<悟り>の世界から離れてゆきます。深き本当の叡智ある宗教から、単なる宗教的教養学となり、そのぶん霊的レベルの下降を来たすことになります。「理性」と一口に言ってもその内容の幅・深浅があることを忘れてはなりません。

・「理性」という批評的鑑識眼では、谷口雅春先生の時代に起こった実に数多くの「奇蹟」を説明することは出来ません。「百尺竿頭進一歩」「一躍超入実相世界」「絶対実在の絶対認識」「無の関門」「実相世界の実在」「神の実在」「先祖供養・個別霊供養・水子供養」「霊界の存在と輪廻転生」「過去世・現世・未来世にまたがる因果律」などは説明できません。

・故に「今の教え」の聖典の読み方は間違っていると言えるのであります。



********************

   

 生長の家「今昔物語」の読み方


この物語を最初からここまで読み継いで来られた信徒の皆様方――特に開祖・谷口雅春先生の御昇天後に入信された人々、そして古参の信徒の人でありましても「生命の実相」その他の雅春先生の御著書を深く読み込んでおられない信徒の人々の中には、次のような感想を持たれた人々も多いと思います。

「この<生長の家今昔物語>なるものは、正式に第三代法灯継承をされている谷口雅宣先生を大きく批判し、その御人格を冒涜する内容となっている。これは信徒としての礼を失した誠に無礼千万な態度ではないのか!!」

確かに、表面上はそのように感じられる内容であります。然しながら、開祖・谷口雅春先生は私たち信徒に次のように教えて頂いているのであります。


<「生命の実相」第14巻 倫理篇下巻 第4章 和解の倫理>

・われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、虚説に対して和解してはならないのであります。虚説に和解したら実相をくらますことになります。実相をくらませば、みずから迷うことになるのであります。

・異端・盲説・妄念・妄想は、<本来無い説>―虚説―でありますから、その実相をみれば「本来ない」ことが判るわけでありますから、本来ないもの「虚説」に和解することは絶対に出来ないのであります。光は闇と和解することは出来ない。光が近ずけば闇は消えるほかはない。それと同じく、真説は虚説に近ずけば虚説を消す働きをする。

・虚説を許さないことをもって、和解と寛容の徳が無いように思うのは間違いであります。また、虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。


さらに、谷口雅春先生は「生命の実相」第14巻・第4章「和解の倫理」の中で

・要は、<天地一切のものと和解せよ>との生長の家の第一最大の誡命(いましめ)は、「天地一切のものの実相と和解せよ」ということであって、仮想や虚説にたいしては「サタンよ去れ!」と排撃すべきなのであります。釈迦もキリストも同じような態度で虚説を駁撃せられたのであります。

・虚説に対してはあくまでも戦い、人に対してはどこまでも実相を見て許す。どうか皆さんも虚説に対しては和解することなく、どこまでも「サタンよ去れ!」の態度で進んでいただきたく、人間に対してはその表面の<包み>(罪)をみないで、その罪なき完全な実相を見てその罪を赦す(その罪を見て<無い>と見て捨てる)ことにしたいのであります。


<注釈コメント>

・この今昔物語の内容は、第三代目・谷口雅宣先生の御人格、即ち神の子なる実相を攻撃したり冒涜しているものではありません。谷口雅宣先生の神の子としての実相は、誠に素晴らしいもので全人類の他のすべての人々と同様に使命と役割を果して霊魂進化の階梯を登りつつあられるのであります。

・然しながら現段階における谷口雅宣先生の「今の教え」なるものは、開祖・谷口雅春先生の御教えの内容とは似て非なるもので、換骨奪胎されたものになっているが故に明らかに<虚説>といえるものであります。従って、谷口雅春先生の御教えの内容である<真説>でもって<虚説>をその本来の無に還帰して消滅せしめなければなりません。

以上で冒頭の疑問点は氷解できたのであります。











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