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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

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[2142] インターネット道場―――体験実話特集 大聖師御講義『続々甘露の法雨』より(9)
信徒連合 - 2016年02月12日 (金) 10時40分




インターネット道場―――


体験実話特集 


大聖師御講義『続々甘露の法雨』より(9)





  白髪を防ぐための念じ方

 私の訳したニューソートの本に『苦難と恐怖の克服法』という本がありますが、その本に次のような話が載っております。
 アメリカに、ディヴァイン・サイエンスという生長の家とよく似たような宗教があって──モルガンという先生が教祖さんでしてが、その信者の或る婦人が、近ごろ白毛(しらが)が増えて、半白(はんぱく)ぐらいになって来たので、モルガン先生の処へ行って、
「先生どうぞ白髪の無くなる方法を教えて下さい」と教えを乞いました。

すると、モルガン先生は、
「それは心で白毛を念(おも)うから可(い)かんのだから、“白毛が無くなる”ように白毛のない姿を念じなさい」と教えて下さった。

それでこの婦人は一所懸命、3ヶ月程、「白毛は、無くなる、白毛は無くなる」と念じたのであります。こうして毎日「白毛は無くなる、白毛は無くなる」と念じて、3カ月程して鏡を見たら、頭髪全部が白毛になっていたのであります。そこでその婦人は、「なーんじゃ、想念もヘチマもあるか!モルガン先生に騙された」というわけで、モルガン先生に文句を言いに行ったのであります。

そしたらモルガン先生が、
「あんたどういうふうにいって念じたかんね」と問うもんですから、
「先生の言われたように“白毛は無くなる、白毛は無くなる”と毎日毎日念じたんです」と答えました。モルガン先生は、
「誰がそんなことを念じよと言ったんですか? 私が教えたのは白毛が無くなるように、既に黒髪がいっぱいある姿を念じなさいという意味だったんですよ」というわけなんですね。ふだんは、白毛を忘れているのに、わざわざそれを毎日おもいだして「白毛は無くなる、白毛は無くなる」とそういうことを念じたら想念に描かれた「白毛」が却って具象化して来るわけです。既に黒い髪の毛がある有り様をじーっと思い浮かべるようにしたら、黒い髪の毛が豊かになるというわけであります。




人類意識の個人意識に及ぼす影響

しかしながら、なかなか、そう簡単に結果があらわれないというのは、吾々は人類意識という人類の意識の波の中におりますから、多少その影響を受けないというわけにはいかないからであります。それは、“何歳になればどれ位白髪になる”とか、“どれ位禿頭になる”とかいう概念が人類全体にありまして、その人類全体の“意識の海”の波みたいな“心の波”を人類の集団意識(Group consciousness)とか人類意識(Race Consciousness)とか言うんですが、その中に吾々の個人個人の意識が泳いでいるわけです。だから吾々は全体の意識の波及を全然は受けないわけには行かないので、全然年齢が寄らないで、60歳になっても“18歳でございます”という様な顔にはなれないかも知れない。

多少は影響は受けるけれども、毅然として、“われ神の子だから決して老衰しないぞ”という気持ちを持たねばならぬ。しかし、“老衰しないぞ”なんて念じるのは、既に「老衰する」という事実を認めてそれに抵抗しているのだから、その効果は薄弱であります。むしろ、
「自分は神の子であって、永遠に若いのである」と若さそのままの想念(おもい)を念じ、そのような強力な念を起すことにすれば、想念の具象化の作用によって、食べて吸収した栄養素がその念(おも)いの通り配列される。これは自分の意志の力で栄養素を健康な姿に配列するんじゃないのです。吾々の食べた成分を我々自身の意志の力で、“この蛋白質は心臓の所に並べてやろう”とか“私は心臓弁膜病でちょっと弁が細くなってうまく血液の蓋が出来ないんだから弁を広くしてやろう。栄養分よ、そこへ行け行け”と言ったって、そういうわけにはいかないんです。それは意志の力ではどうにもならないんです。それは矢張り「想念」の力でないといかんのであります。だから「心の想い」というものが大切である。「想念」によって、自分の欲する状態が既にあるというすがたに於て想い浮べると、その姿が軈(やが)て現象(かたち)に現れてくるということになるわけであります。




 実業にも想念の力は応用できる

これは必ずしも肉体だけのことじゃないのであります。
これは、実業界のことでも同じであります。本人のお名前も会社の名称もここでは言いませんけれども、或る人が来て私にこういう話をされたんです。──

 その会社は、素晴しい会社で一流の会社なんでありますけれどもね、そこの社長さんがその会社の分派的な事業として大きな炭鉱を持っていらっしゃったんです。その炭鉱というのは従業員が5000人もおるところの大きな炭鉱なんですけれども、その炭鉱が、最近石炭が非常に値段が下ったりしました上に、段々掘って行くと、坑道の何かの都合で生産効率というものがあがらなくなったので、結局経費が余計かかって、毎年毎年赤字赤字が出て、結局その炭鉱を維持しておったら自分の本業である会社の方の負担にそれがなって来て、本業も一緒に潰れてしまうより仕方がない。それでその炭鉱を閉鎖して5000人を馘(くび)にするということになると、どうしても1億3,4000万円の退職慰労金というものを出さなければならないし、それは大変だし、もう二進(にっち)も三進(さっち)もいかないということになって来た訳なんですね。それを続けていると毎月の損害が甚だしいから、本事業の方へ喰い込んで来て、本社も倒れてしまう。それは炭鉱としては、設備とか諸種(いろいろ)の資産というものを計算してみたら1億5000万円程の値打はあるんですけれども、それだからとて、1億5000万円で誰か買ってくれと言ったって、損する炭鉱を誰が買おうというわけじゃないし、閉鎖しても損になるし、続けておっても損になるし、もう二進も三進もどうもいかんということになったわけであります。

 その時に、生長の家の誌友である其処の担当重役が神様に祈ったというわけです。そうすると神様は素晴しいですね。人間には出来んけれども神様には出来るというわけです。その担当重役は、“神様、誰にも損をかけないで此の事業を誰かに譲ことが出来ますように”と毎日一心不乱に祈りまして、“既にその願いは聞き届けられました、有難うございます”と、既にそれが実現している有様を想念に描いて感情の底の底までに感謝の念をみたして毎日毎日祈ったが、それでも祈りは聞かれなかった。

それで、到頭止むを得ず重役会議を開いて、
「あの炭鉱は閉山しよう。もう仕方がない」というので、そのように決議した。それで、その炭鉱を把んでおったところのその心をパッと其の時放したんです。──なんとかせんならんと思って把んどったんですけども──その時に心から放したんです。もう止めてしまうので、放すより仕方ない。そしたらその翌日、その炭鉱を買いに来たというのです。値段のことは知らんけれども相当の値段で買いに来た。「鉱員も設備も全部そっくりそれを引き取ろう」というので、鉱員も馘(くび)にしないで済んだ。それで大損害を続けておったところのその炭鉱がそっくり他の人の手に渡ったというんですよ。でそれを買った人はまたそれに1億5000万円の設備を加えたりしまして、そして現在(今)操業中で収益が上がるようになっているということであります。




  祈りのきかれる秘密

 そういうように、「祈り」というものは、「こうしなければならぬ」と心で把んでいる間は祈っても矢張りうまくいかんのですが、それを放した時に初めて、その祈りの今までの蓄積されたところの“想念”が力を顕すということになるんです。それで、“既にこの炭鉱は他の人が譲り受けて、そして立派にいくのであります。有難うございます。既に立派に都合よくいっているのであります”と祈っておりますと、そういう風に旨く解決がついたわけであります。

 それと同じような実例を前にも幾らも話したことがありますが、次に挙げるのは貸家を求める実例でありまして、こんな話があります。




  こうして彼は貸家を見出した

 家を求めても家が得られないという人がありました。その人が、今住んでいる家は“今月中に明渡してくれ”と言われておりますが、明渡すためには他の新しい借家を見つけなければならない。今いる家は神想観をして与えられた家だから、今度だって与えられる筈だと思って、それで一所懸命“既に与えられまして有難うございます、私の引越していく先はの家は与えられております、有難うございます、有難うございます”と念じたけれども、一向に家が見つからない。もういよいよ1週間程したら明け渡す日が来るのに、明け渡してしまったら行く家がない──ということになっておって、それで友人の信者に相談して、
 「この前は、祈ったら早速と効(き)かれて此の家が与えられたのに、今度はどうして与えられないんだろう?」と言ったら、その友人の信者が、
 「あんたはその、“家々”と言って家がまだ与えられない事を心に把んで、それに引っかかっているから、それで願いが効かれないんですよ。その『家が見つからぬ』と心に把んでいる念を放しなさい! そして“既に願いが効かれたんだから”というので愉快な楽しい気持になって、明日は家族中でピクニックにでも行きなさい。既に効かれたんだから、もう楽しいつもりで遠足に出掛けなさい」とこう言われた。

その人は“成る程そうか”と思って、家の事は忘れることにして、弁当を拵えて家族みんなでピクニックに出掛けることにしたのであります。その途(みち)すがら、附近に川があったんですが、川の上流の方へ、山手の方へ、遡(さかのぼ)ってズンズン歩いて行きましたら、暫く行くと、“貸家”という札が眼についたというのですね。それでその家を管理人に開けて貰って、中を見ると、“こういう家が欲しい”と心に描いた通りの間取りのそういう家があって、早速それを借りることが出来たという体験談があるのですね。

 そういうように、現象を心に把んでいる間は既に与えられておっても、その「心の把み」によって、与えられている恵みの通路が塞がれていて出て来ない。けれども放したときに、その与えられたものが出て来る。この実例でも分かりますが、もしこの家族が、心が現象をつかんで、一所懸命に家を捜し廻っとったら、ピクニックに行かないから、其処に、いくら家があって“貸家”の札が貼ってあっても、其処を通らないから、そういう家が空いているということがわからない。ところが、心の現象の不完全を把む心を放してしまったとき、心が把みから放れて自由自在になるから、丁度適当な方へ向いて行きたくなったわけであります。摑(つかま)っとったら、適当な方へ行きたいと思ったって、これで引張られておるから何処へも行けない、ところが、放したら、何処へでも行けるでしょう。そしたら神の導きが入って来て、神の導く通りにこう行けば、そしたら良い処へ行けるということになるわけであります。

 祈りがきかれるのはそういう心境を通してであります。先天性の痣(あざ)でも、心に把んで聖経『甘露の法雨』を読んで、“この痣が治りますように”と祈っている間は治らなかったんですが、現象をつかむ心を放して、唯感謝の心で聖経『甘露の法雨』を読んだら、痣が消えてしまっておったと同じ原理であります。皆そういう式にお蔭が得られる。全て悪いものは「無」いんですからね、「無い」のに把んでいる間は現象としてはあるんです。「無いのにアル」というのはおかしいけれども、自分の心で把んどる間は──現象界は皆、心の生産物でありますから、現象の不完全さを心で把んでいる間は、それが現象としてあるんです。だから、心でそれを放してしまって、そして真理の光をパーッと照らしたら、不完全なものは皆“念の影”に過ぎないのですから、光に遭うと影はシューッと消えてしまうことになるのであります。

更に、実相の光を遮るものなく、受けるためには、感謝の念を起すことが大切であります。神示には「感謝の念の中(うち)にこそわが姿を見、わが救いを受けるであろう」と示されています。




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