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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[3074] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第2回
信徒連合 - 2016年05月02日 (月) 08時27分



開祖・谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――

@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』

A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』

★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。

******************




<再掲載> 


インターネット道場


「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 


第2回



ある炭焼夫の信心 

 
( 後 編 )




月に祈る・・・

しかし何かを為さなければならない魂の要請が、私に、今降りて来た山の向こうのその人に向かって合掌させ、礼拝の姿をとらせたのです。今降りて来たばかりの山の上には、大きな満月の光がこの静まり返った深山幽谷に染み入るように降り注いでいました。

 その時フト思い出したことは、つい先日、父のことで尋ね歩いて、はじめて訪れた生長の家の集まりで、人間は皆例外なく善い人ばかりであると聞いた、その言葉でした。その時いただいた『甘露の法雨』が、私と生長の家の出会いだったのです。
 今まさに炭を盗まんとしている峰の向こうにいる方も、やはり善いひとなのだ!唯合掌して「ええ人だ、ええ人だ」と拝みつづけるのでした。善人にも悪人にも等しく降り注ぐ月の光は、峰の松も幽谷の木や草も、柿の木の下で祈っているわたしをも照らしていました。「この月の光よ、今まさに彼が重い荷を背負って、崖のふちを登っているであろうその足元を、粗相のないように照らして守ってあげて下さい」と、月に向かって祈っている私でした。もう、自分の大事な炭が盗まれることなど、眼中にありませんでした。

 やがてお月様の光が益々その光を増すと、私の身体の一つ一つの細胞にまで貫き透って、骨の髄、心の真底までも滲み込んで来るのでした。峰の松もこの谷間の草も木も全てを透明にして、生きとし生けるものすべてが、お月様の光で支えられているのでした。天の気と地の気を融和させて、草も木も私も、全ての人々をも生かしているところの光そのものでした。

 地球上のすべてのものを生かすために、月の水の全てを与えて、尚、支え生かしているところの慈悲の光――肉の眼では、月の表面のみを見て、ガサガサした潤いのない砂漠のようだと思うかも知れませんが、それは、恰も母親の手や顔が、乙女の瑞々しい柔らかい手や顔よりも、荒れ果てて皺だらけに見えても、その荒れ果てた手や皺には、多くの子供を育み育てて来た、大いなる神の愛と仏の慈悲の年輪が刻み込まれているのと似ています。その光は、全ての人の罪を許してまだ余りある、大いなる慈悲慈愛の光でした。

 その光の中で、唯私は合掌していればよかったのです。もう盗む人もいないし、「ええ人だ」と祈っている自分、「その人の足元が無事でありますように」と祈っている自分もありませんでした。ただお月様の光に照らされていればよかったのでした。古の人がよく月の歌をお読みになっていらっしゃいますが、皆んな秘められた力をもつ月の光を拝まれたのだと思うのです。

 翌朝、仕事場に来てみると、やはり炭がなくなっていました。さてどうするか、と思っていると、「彼が通ったと思しき道をたどれ」という催しに従って、その道をたどって行くことに致しました。きわだった険しい崖を登って平らな広い所に出て、それから先は道もよく、静かな下り坂になっているのですが、その崖を登って平らな所へ出たところに、炭は置き去りにされてありました。




彼の良心・・・

 そのことがあってから、彼は谷間の我が家へ、母の出す砂糖入りの茶を飲みに訪れて来なくなりました。その頃は、我が家だけが砂糖の配給の恩恵を受けていたらしく、村の人達は、この砂糖を母から分けていただくのを、何か宝物を頂くように貴重がっていました。彼が村の英雄的存在の一面を持ちながら、村人から煙たがられるのは、欲しいものは、他人のものも自分のものも見境がつかなくなり、余所の奥さんまで攫(さら)ってしまうようなことがあったからでしょうか?でも子供心に、余所の奥さんの方が彼に惚れるからいけないんだ、と思いました。

 良心は誰にでもあるものであって、彼は自分の良心が咎めているのでしょうか、谷間の我が家へ訪れて来なくなってから久しくなるにつれ、私達親子は、益々彼が気の毒に思えて来るのでした。そこで父と相談してこの件については一言も触れないで、私の仕事の行き届かないところを手助けして下さらないだろうか、というお願いの相談で、父の使いとして彼を呼びに出かけました。

 相撲で優勝したことのあるこの四国一力の強い大男が、病床の父や女子供の私達を前にして、小さく震えていました。父が丁寧に頼みの仕事の用件のみをお願いすると、今までの重荷をやっと降ろせたようにホッとして、子供のように喜んで引き受けてくれました。それどころか、それからというものは、奥さんや子供さんから小言を言われる位に、自分の仕事を放り出して、頼まれない仕事までやってくれるのです。

 村のお百姓さんから見れば、猫の額ほどに思えるような、小さな土地を開墾して作った私達の畑が、麦や穀物の刈り入れ時になると、彼は、山坂越えて、重いモーターの鉄の塊を担ぎ込んで、脱穀しにやって来てくれるのです。不自由しているものはないか、あれを持って行け、これをもって行け、牛を飼えと言っては、仔牛の世話をしてくれたり、蜜蜂を飼えといっては、蜜蜂の箱をかついで来て、蜜の採れる時期になると、箱から蜜を取り出してくれたりするのです。




峰の上の仁王様・・・

 或る時、私のいる谷間の仕事場に向かって、彼は山の上から私の名を呼ぶのでした。
「オーイ、文とっさんよーー」私には、休む暇など少しもなかったものですから、真夏の中天に日が差しかかっていても休まず仕事を続けて居りました。その山の上の岩に仁王立ちになって、彼は言うのでした。「夏の日は強うて体に毒じゃけんのー、せめて日中の二時間だけでも、木陰で休んでからやれよー」

 太くて柔らかい声は、仏の心が籠もっていました。その声は山々にこだまして谷間に響きわたり、この谷間全部が仏様に満ちていて、私は仏様に見守られ支えられているような有難さがこみ上げて来て、峰の上の仁王様をひとりでに拝みたくなるのでした。しかもこの方は炭焼きの名人でした。手取り足とり、この谷間の仕事場にしょっちゅう足を運んでは、まるで自分の窯のように見届け確かめて行くのでした。

 いつでしたか、母宛の手紙に、私たちが此処を去ったあと、谷間の家はすぐ毀され、開墾した畑には杉苗が植えられて、今は鬱蒼と生い茂り、私達がここに居たなど嘘のようで、石垣がわずかにそれを物語っていて、ここを通る度に涙がこぼれ落ちます、としたためてありました。私達家族が東京に帰って来られたのも、この方のお蔭であって、曲りなりにも私の信仰は、この人によって培われたのであります。




仏心をいただく・・・

 まことに神様を拝むということは、仏心をいただくことであって、その外のものを頂く為に神様を拝むのではなかったのです。病気を治して頂く為に、自分の欲をとげさして頂く為に、神様を拝むのではなかったのです。神様のみこころ通りになることが信心でありまして、信心すれば、お蔭はひとりでに出て来るものなのでした。「仏に着いて求めず、法に着いて求めず、衆に着いて求めず、斯くのごとくして吾礼拝する事を為す」。(終わり)


元・生長の家本部・神癒祈願部勤務
高見文敏氏・記


(今からずっと以前、月刊神誌「生長の家」に掲載せられしものです。)


(5)
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